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鳥羽伏見の戦い: 幕府の命運を決した四日間 (中公新書 2040) 新書 – 2010/1/25
野口 武彦
(著)
- ISBN-104121020405
- ISBN-13978-4121020406
- 出版社中央公論新社
- 発売日2010/1/25
- 言語日本語
- 寸法11 x 1.5 x 17.5 cm
- 本の長さ328ページ
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2010/1/25)
- 発売日 : 2010/1/25
- 言語 : 日本語
- 新書 : 328ページ
- ISBN-10 : 4121020405
- ISBN-13 : 978-4121020406
- 寸法 : 11 x 1.5 x 17.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 96,070位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年4月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
鳥羽伏見の戦いの実像をリアルに詳細に語る良書。千両堤の戦いの厳しさには息を呑みました。
2012年9月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中学校の日本史授業から、「鳥羽伏見の戦い」といえば旧態依然の幕府軍が
西洋式装備で整えられた薩長軍に敗れ去った、と教え込まれたものでした。
事実は随分と異なっていたことを段々と知るのでしたが、
なかなかまとまった本がなくて歴史の霧の中の世界でした。
その曖昧にされた歴史的事実を詳らかにしてくれる貴重な著作がこの本です。
かなりマニアックな記述、特に幕府軍がフランスから入手したと言われる
シャスポー銃という元込式銃に関する歴史学における議論への一石は、
かなり綿密であり興味深く思いました。
また装備でも劣らず、兵員数では遥かに薩摩軍を凌駕していた幕府軍の敗因、
それは部隊移動、指揮系統、各部隊の連携、連絡の杜撰さ、何よりも指揮官の資質
といったソフト系の不備でありました。
この有様では戦国時代でも惨敗していたでしょう。
大阪城から逃走する徳川慶喜の様子、特に開陽丸での異様な様子にも驚かされます。
惜しむらくは、この戦争で決定的な重要性を持った砲戦の両軍の有様、相違点が
あまり記述からは理解できなかった点があります。
更に、この戦争に深く関わった幕府軍の指揮官、目付らの数奇な戦後、
函館まで転戦したもの、校長先生になったもの、隠居し姿を消したもの、
それぞれの戦後も知りたかった、そう思った次第です。
西洋式装備で整えられた薩長軍に敗れ去った、と教え込まれたものでした。
事実は随分と異なっていたことを段々と知るのでしたが、
なかなかまとまった本がなくて歴史の霧の中の世界でした。
その曖昧にされた歴史的事実を詳らかにしてくれる貴重な著作がこの本です。
かなりマニアックな記述、特に幕府軍がフランスから入手したと言われる
シャスポー銃という元込式銃に関する歴史学における議論への一石は、
かなり綿密であり興味深く思いました。
また装備でも劣らず、兵員数では遥かに薩摩軍を凌駕していた幕府軍の敗因、
それは部隊移動、指揮系統、各部隊の連携、連絡の杜撰さ、何よりも指揮官の資質
といったソフト系の不備でありました。
この有様では戦国時代でも惨敗していたでしょう。
大阪城から逃走する徳川慶喜の様子、特に開陽丸での異様な様子にも驚かされます。
惜しむらくは、この戦争で決定的な重要性を持った砲戦の両軍の有様、相違点が
あまり記述からは理解できなかった点があります。
更に、この戦争に深く関わった幕府軍の指揮官、目付らの数奇な戦後、
函館まで転戦したもの、校長先生になったもの、隠居し姿を消したもの、
それぞれの戦後も知りたかった、そう思った次第です。
2021年5月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
鳥羽伏見の戦いについて、NET検索しても多くの本を読んでもなかなか解消できなかった疑問点がこの一冊ですっきり解消しました。
特に、「幕府の精鋭部隊である伝習隊が、ナポレオン3世から寄贈されたシャスポー銃(この時点では、薩長軍がまだ装備できていない最も先進的な後装施条銃(連射能力が薩長軍の銃の4倍速い))をこの戦いを含む実戦で使用したか否か」については賛否両論あって、調べれば調べるほどどちらが本当なのかわかりませんでしたが、この作者はわざわざ1章割いた中で「シャスポー銃が実戦使用された痕跡を≪立証≫」しており、示された膨大な論拠にはとても説得力があります。しかも、この立証結果は、2018年11月21日に最新の史料に基づいて放映されたNHK「歴史秘話ヒストリア『鳥羽伏見の戦い 明治維新150年目の真実』」とも合致していますので信ぴょう性は高いと思います。
このことは、ややもすれば「旧幕府正規軍(歩兵隊や伝習隊など)は新政府軍よりも旧式の銃を使っていたことが敗因である」という言説が散見される中にあって、「そうではなくて、旧幕府正規軍が『兵器の性能』と『兵の数』ともに圧倒的に優位であったにもかかわらず惨敗したのだ」、「そういう信じがたい結果になったのは、それ相応の理由が存在するからなのであって、したがって旧幕府軍は負けるべくして負けたのだ」という厳然とした史実を知ることができるという意味において、とても貴重な情報だと思います。
ただ、欲を言えば、「この当時、シャスポー銃の教則本は翻訳できていなかった(作者も教則本は明治9年の翻訳本が存在すると認めている)から、根本的に装弾方法が異なるシャスポー銃を伝習隊が教則本なしに調練できていたはずがない。前装施条銃段階の教則本準用では技術的に無理がある」という説に対する反証ができていない点は残念。今後、「伝習隊はどうやってシャスポー銃兵制を調練したのか」という疑問点に答えてくれることを願っています。
また、伏見方面(伏見奉行所周辺)の戦いで、開戦後敵陣に切り込もうとする会津兵と新選組は、実際に薩長軍とどのように戦ったのか(①銃を持たない新選組はただ無抵抗なまま突撃を繰り返したのか、②会津藩砲兵隊長・林権助は敵の銃撃に対して、本当に犠牲的な槍入れ突撃を多用したのか、③薩長軍の使用銃は、銃剣つきのままでは装弾できない前装施条銃(エンフィールド銃)なのにどうやって装弾し連射することができたのか(それを可能にした兵の配置はどういうものなのか)など)についても、細かい隊の配列、歩兵の動作、双方の距離までとてもわかりやすく、長年の疑問がすっきりと解消しました。この本で説明されている内容は、厳密な時代考証がなされているであろうNHK大河ドラマ「八重の桜(2013年)」における同シーンとほぼ合致しますから、これも信ぴょう性は高いと思います。
この史実は、①海外で同時期に展開されたアメリカ南北戦争(1861~65年)、普墺戦争(1866年)などを通じて短期間に革命的進化を遂げた「小銃」の知識とそれに呼応した兵制(いずれもその優劣が戦いの勝敗(あるいは国家の存亡)に直結した)をリアルタイムかつ統制的に実現できた新政府軍、②知識と兵制をリアルタイムかつ新政府軍以上のレベルで実現できたにもかかわらず、過信と油断そして統制力のなさによってうまく運用できなかった旧幕府正規軍、③幕府軍の主力部隊でありながら、そもそも知識と兵制が革命的進化に全くついていけてなかった会津藩(新選組を含む)、④そういう中にあって、知識と兵制が万全であったがゆえに、局地的には相応の戦果をあげたものの、全体の戦局を転換させるまでには至らなかった伝習隊と桑名藩、という4層構造で鳥羽伏見の戦いを理解することができる、という意味においてとても貴重だと思います。
また、史実の歪曲改ざんが明白な「徳川慶喜公伝(渋沢栄一編)」について徹底批判されている点も賞賛に値します。
結論的にこの本は、時系列的にわかりやすい文章でまとめられている上、官軍贔屓でも会津贔屓でもなく公正かつ客観的で、他の本ではわかりづらい「肝心かなめの部分」に十分すぎるほど焦点をあてた素晴らしい本だと思います。
特に、「幕府の精鋭部隊である伝習隊が、ナポレオン3世から寄贈されたシャスポー銃(この時点では、薩長軍がまだ装備できていない最も先進的な後装施条銃(連射能力が薩長軍の銃の4倍速い))をこの戦いを含む実戦で使用したか否か」については賛否両論あって、調べれば調べるほどどちらが本当なのかわかりませんでしたが、この作者はわざわざ1章割いた中で「シャスポー銃が実戦使用された痕跡を≪立証≫」しており、示された膨大な論拠にはとても説得力があります。しかも、この立証結果は、2018年11月21日に最新の史料に基づいて放映されたNHK「歴史秘話ヒストリア『鳥羽伏見の戦い 明治維新150年目の真実』」とも合致していますので信ぴょう性は高いと思います。
このことは、ややもすれば「旧幕府正規軍(歩兵隊や伝習隊など)は新政府軍よりも旧式の銃を使っていたことが敗因である」という言説が散見される中にあって、「そうではなくて、旧幕府正規軍が『兵器の性能』と『兵の数』ともに圧倒的に優位であったにもかかわらず惨敗したのだ」、「そういう信じがたい結果になったのは、それ相応の理由が存在するからなのであって、したがって旧幕府軍は負けるべくして負けたのだ」という厳然とした史実を知ることができるという意味において、とても貴重な情報だと思います。
ただ、欲を言えば、「この当時、シャスポー銃の教則本は翻訳できていなかった(作者も教則本は明治9年の翻訳本が存在すると認めている)から、根本的に装弾方法が異なるシャスポー銃を伝習隊が教則本なしに調練できていたはずがない。前装施条銃段階の教則本準用では技術的に無理がある」という説に対する反証ができていない点は残念。今後、「伝習隊はどうやってシャスポー銃兵制を調練したのか」という疑問点に答えてくれることを願っています。
また、伏見方面(伏見奉行所周辺)の戦いで、開戦後敵陣に切り込もうとする会津兵と新選組は、実際に薩長軍とどのように戦ったのか(①銃を持たない新選組はただ無抵抗なまま突撃を繰り返したのか、②会津藩砲兵隊長・林権助は敵の銃撃に対して、本当に犠牲的な槍入れ突撃を多用したのか、③薩長軍の使用銃は、銃剣つきのままでは装弾できない前装施条銃(エンフィールド銃)なのにどうやって装弾し連射することができたのか(それを可能にした兵の配置はどういうものなのか)など)についても、細かい隊の配列、歩兵の動作、双方の距離までとてもわかりやすく、長年の疑問がすっきりと解消しました。この本で説明されている内容は、厳密な時代考証がなされているであろうNHK大河ドラマ「八重の桜(2013年)」における同シーンとほぼ合致しますから、これも信ぴょう性は高いと思います。
この史実は、①海外で同時期に展開されたアメリカ南北戦争(1861~65年)、普墺戦争(1866年)などを通じて短期間に革命的進化を遂げた「小銃」の知識とそれに呼応した兵制(いずれもその優劣が戦いの勝敗(あるいは国家の存亡)に直結した)をリアルタイムかつ統制的に実現できた新政府軍、②知識と兵制をリアルタイムかつ新政府軍以上のレベルで実現できたにもかかわらず、過信と油断そして統制力のなさによってうまく運用できなかった旧幕府正規軍、③幕府軍の主力部隊でありながら、そもそも知識と兵制が革命的進化に全くついていけてなかった会津藩(新選組を含む)、④そういう中にあって、知識と兵制が万全であったがゆえに、局地的には相応の戦果をあげたものの、全体の戦局を転換させるまでには至らなかった伝習隊と桑名藩、という4層構造で鳥羽伏見の戦いを理解することができる、という意味においてとても貴重だと思います。
また、史実の歪曲改ざんが明白な「徳川慶喜公伝(渋沢栄一編)」について徹底批判されている点も賞賛に値します。
結論的にこの本は、時系列的にわかりやすい文章でまとめられている上、官軍贔屓でも会津贔屓でもなく公正かつ客観的で、他の本ではわかりづらい「肝心かなめの部分」に十分すぎるほど焦点をあてた素晴らしい本だと思います。
2010年1月31日に日本でレビュー済み
野口氏の幕末シリーズの最終章であるが、あまりにも枝葉にこだわりすぎるのと、勧善懲悪的で袋小路に入りすぎており、あまり評価できない。戦犯を徳川慶喜全てに負わせているが、
昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談 (東洋文庫 (76))
での慶喜の動きや、三田村鳶魚の史料を強引に解釈しすぎており、読者に誤解を生じかねない。
又、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に於ける重大な史実である、西郷よりの江戸かく乱中止命令について無視しており、野口氏の解釈に一部苦しい言い訳が書かれている。幕府歩兵が使用したというシャスポー銃についても、強引すぎる。
作中で細かいことに拘る野口氏であるが、薩摩藩野津兄弟を取り違える場面があるなど、細かいミスが意外と目立つ。一次史料を引用しても、牽強付会な解釈が多する、爆風で未成年の兵士の性器が露出している史料で未成年の死を哀れんでいる文章を「薩摩の衆道」と強引すぎる解釈には辟易する。
全体的に見て、鳥羽伏見の政治状況で福井藩の役割など、大筋な政治的解釈と、兵器の優劣が勝敗を決したわけではないという考察には合意するが、細かいところに拘る神経質すぎる解釈はあまり承諾しかねない。アウトロー的視点の限界であろう。
付記
野口氏はif論に拘っているが、歴史にはif論は存在しない。結果論から出る結論から根拠は存在しないと同時に、妄想論でしかない。
又、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に於ける重大な史実である、西郷よりの江戸かく乱中止命令について無視しており、野口氏の解釈に一部苦しい言い訳が書かれている。幕府歩兵が使用したというシャスポー銃についても、強引すぎる。
作中で細かいことに拘る野口氏であるが、薩摩藩野津兄弟を取り違える場面があるなど、細かいミスが意外と目立つ。一次史料を引用しても、牽強付会な解釈が多する、爆風で未成年の兵士の性器が露出している史料で未成年の死を哀れんでいる文章を「薩摩の衆道」と強引すぎる解釈には辟易する。
全体的に見て、鳥羽伏見の政治状況で福井藩の役割など、大筋な政治的解釈と、兵器の優劣が勝敗を決したわけではないという考察には合意するが、細かいところに拘る神経質すぎる解釈はあまり承諾しかねない。アウトロー的視点の限界であろう。
付記
野口氏はif論に拘っているが、歴史にはif論は存在しない。結果論から出る結論から根拠は存在しないと同時に、妄想論でしかない。
2020年3月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
慶應4(1868)年正月3日より6日迄の4日間、洛南鳥羽・伏見で戦われた一戦は、傾きかけていた徳川家の命運を決した、まさに天下分け目の戦いであった。両軍合わせて2万余が激突し、新政府軍に約100、旧幕府軍に約290人の戦死者が出た。
幕末史の最終局面は、慶應3(1867)年10月14日、将軍徳川慶喜が大政奉還を建白した事より動き出す。そして12月9日の小御所会議迄の55日間、水面下で激しい権力闘争が繰り広げられた。慶喜の狙いは、武力討伐を回避する為に、政権・将軍職を手放して時間を稼ぎ、徳川の勢力を盛り返し、自ら手放した幕府に代わる新しい政体を構想する事であり、それは英国に範を取った上下院議会で、自らその首班につけると考えた。
慶喜・松平容保・定敬が不参加の内に12月8日の朝議では毛利父子及び、三条実美、岩倉具視等追放蟄居された公卿の復権が認められ、薩摩藩兵が御所に入り諸門を固める。翌12月9日、即参内した岩倉が奏上し、親王・諸臣を前に王政復古の大号令が発せられた。摂政・関白・征夷大将軍・京都守護職といった旧官職は全廃され、新たに総裁・議定・参与が置かれ、公武合体派の公卿は全て参内禁止とされた。その儘夜は小御所会議が開かれ、徳川慶喜の官位と領地の返納が決められた。
12月12日、慶喜は旗本5000、会津藩兵3000余、桑名藩兵を率いて二条城を退去し大坂城に入る。新政府は大坂に退去した慶喜を追って資金援助を乞いに来る程困窮していた。17日、続々と勢力を増す大坂城は、慶喜の名義で「挙正退奸の表」を奏上。岩倉具視・三条実美以下も慶喜の参内と議定職参加に傾き始める。
ところが23日の薩摩藩士伊牟田尚平による江戸城西ノ丸放火など、度重なる薩摩藩の挑発に、庄内藩以下幕府主戦派は25日朝、薩摩藩邸焼討ちを決行。薩摩藩士49人が戦死。残党は薩摩軍艦で江戸を脱出した。西郷は元日に報を受けた。幕府側は此の勝利に勢い付き、大目付滝川播磨守具挙(ともたか)以下が28日大坂城に入城し、主戦派が実権を握る。越前藩士中根雪江は、徳川氏復権が成功しかかっていたのに水泡に帰したことを「形勢一変、もっぱら伐薩除姦の兵事に及び、内府公といえども如何ともなし給うべからざるに至りしなりとぞ。天、徳川氏に祚(さいわい)せず。嗚呼。」(丁卯日記)と書き残している。
慶応四年(1868)正月2日、兵庫湾にて幕府艦隊と、薩摩海軍が交戦。1月4日の阿波沖海戦まで戦闘が続き、幕府艦隊が勝利する。そして大坂城主戦派の将兵1万5千は元日に慶喜の名義で発された「討薩の表」を掲げて北上を開始し、2日中に淀まで進出。伏見では奉行所を最前線に薩摩藩兵と睨み合いの形勢となった。
1月3日(戦闘第1日)、鳥羽街道の幕府軍は新式の後装シャスポー銃装備の伝習隊を先頭に進軍。旗本は全て銃兵に再編成していたが、殆ど役に立たず最後まで戦闘に参加していない。新政府軍は緒戦では薩摩藩・長州藩のみで、装備も前装エンフィールド銃である。砲兵は質量ともに両軍拮抗していた。上鳥羽村で両軍は通す、通さないの小競り合いを続け、午後4時頃、薩摩藩士椎原小弥太隊が発砲し開戦。銃に装弾さえしていなかった幕府軍は不意を突かれ大損害を出し混乱した。幕府軍は見廻組、桑名藩砲兵隊が前線で敗勢を喰い止め反撃に移る。後方の幕府歩兵隊も鳥羽街道東側の田畑に散開し、油小路・竹田街道の薩摩藩兵と交戦。夜になって薩摩藩は追撃せず、付近の民家の火焔を背にした幕府軍を狙撃して、幕府軍の7度の反撃を撃退した。
伏見では陸軍奉行竹中丹後守重固以下が鳥羽方面の砲声を聞いて開戦。御香宮の薩摩砲兵隊が有利な位置から攻撃し、新選組・遊撃隊の白兵戦を阻止、市街戦では長州藩兵が民家に放火しつつ前進。夜9時頃、伏見奉行所は新政府軍が占領し、残置された幕府軍負傷兵は残らず薩摩藩兵に斬首された。幕府軍は高瀬川左岸・堀川右岸地区に集結した。林権助以下会津藩砲兵隊も奮戦し(林権助は負傷後退、大坂城で死去)、新選組も永倉新八以下が幾度も突撃したが敵わず、白井五郎太夫の大砲隊(131名)は間道から京都市内にあと一歩の位置まで前進したが、後続部隊が無い為後退(逸機①)。
大坂城に敗報が届くと、慶喜は途端に自分は避戦の方針なのに将士が勝手に暴発した、という態度を取り始める。ただし強硬派とされる将士も、洛中に入る迄戦闘には及ばないものと楽観していた為、装弾せずに開戦する無様な態を晒した。一方御所では、大兵力の幕軍を怖れ、後難を恐れ西郷・大久保を蛇蝎の如くに接していた公卿達は、夜になって捷報が達するや、掌を返して祝賀に殺到した。前線では終夜散発的に戦闘が続いていた。
1月4日(戦闘第2日)、戦場には北からの強風が吹き荒れ、終日逆風の幕軍には極めて不利に作用した。午前6時、下鳥羽の幕軍が前進開始。違う部隊が昨日と同じ街道を直進する戦法を取った為に、集中砲火を浴び損害を蒙る。薩摩藩兵が反撃に移り、歩兵奉行並佐久間近江守信久、歩兵頭窪田備前守鎮章が狙撃され戦死。幕軍は南へ後退し、富ノ森陣地の南で会津藩槍隊の伏兵が薩長軍を撃ち破り一時的に陣地を回復したが、竹中重固は追撃せず、薩長軍に立ち直る時間を与えた(逸機②)。鳥羽街道上には幕軍兵士の死体が無数に転がり、薩摩兵は負傷して莚などを被っている幕兵を見つけ次第、斬り殺して回った。
一方、伏見では終日戦闘が無かったが、竹中の作戦指導がない為、戦意に乏しい一部の歩兵が勝手に退却する。薩長軍は激戦の鳥羽方面に兵力を振り向け、極めて手薄になっていたが、幕軍は宇治から桃山の背後を衝くなど効果的な作戦を立案したものの実行せず、鳥羽へ兵力を分派し、伏見を放棄した事で此の方面の勝機を逃した(逸機③)。
1月5日(戦闘第3日)
早朝、征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王は東寺本陣より、錦旗二旒を携えて前線視察に出る。その行程は鳥羽街道から淀近くまで進み、伏見の戦跡を巡視して暮迄に東寺へ戻るもので、僅かな巡行ながら、官軍将兵を士気高揚させる効果は絶大であった。ただし巷説に言われるように幕軍に直接見える位置までは進出しておらず、噂として幕軍に広がり、その最も衝撃を受けた者は慶喜であった。此の日の戦闘は、午前7時頃、鳥羽街道富ノ森陣地の攻防で始まる。激戦の末、陣地とその後方の納所陣地も官軍に突破され、幕軍は淀まで後退した。伏見街道では、淀小橋東1kmの千両松で両軍が交戦し、激戦の末、此方も淀へ後退した。午後2時頃、淀城に後退した幕軍は、淀藩より入城を拒否され、背後に迫る官軍の為に、橋本関門まで更に退却して防衛線を構築し、進出した官軍は淀城に入城した。慶喜は相次ぐ敗報を受け、上下将士を大広間に集め、徹底抗戦を命じる演説を行い、幕軍は再び奮い立って反攻を誓った。
1月6日(戦闘第4日)
幕軍最後の拠点橋本関門は天王山と、石清水八幡宮(男山)に挟まれた天嶮であった。早朝より激戦となり、官軍は攻めあぐねた。此の時、見廻組佐々木只三郎が重傷(後戦死)。午前11時頃、淀川対岸の山崎関門守備の津藩藤堂家が官軍に寝返り、橋本関門の味方陣地を砲撃。桑名藩・生駒藩・小浜藩の各砲兵は此れに砲撃、官軍を前に幕軍同士の砲撃戦となる。ただし、津藩は当初幕軍に味方する予定であったが、山崎街道への兵力派遣の依頼を塚原但馬守が怠り、その間長州藩より勅命をたてに離反を迫られ、止む無く官軍に付いたという経緯がある。幕軍の手落ちであった(逸機④)。奮戦していた八幡・橋本の幕軍は総崩れとなり、午後4時頃、総督大河内正質・竹中重固・滝川具挙らが枚方へ退却、態勢を立て直そうと謀るが、幕軍は大坂・宇治・奈良方面へ潰乱敗走した為、大坂城へ総退却となった。午後9時頃、慶喜以下、老中酒井忠惇・老中板倉勝静・外国総奉行山口直毅・大目付戸川伊豆守忠愛・目付榎本対馬守道章・医師戸塚文海・外国奉行支配組頭高畠五郎・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬らは大坂城を落ち、予て手配していた米海軍の砲艦イロクォイに乗艦し、夜を明かした。
1月7日、午前4時より米砲艦より幕府軍艦開陽へ慶喜一行の移乗が始まり、1日を経過した8日午前8時過ぎ帰東の命令を発し、夜大坂湾を後にした。途中嵐を受け、10日18:40、浦賀港に投錨、翌11日午前8時、品川沖に到着し、12日、江戸城に帰還した。慶喜にとっては文久3(1863)年10月の上洛以来、4年余ぶりの江戸である。大坂城に残された幕軍は主に紀伊路へ落ち、海路江戸へ退却。兵力・弾薬・兵糧何れも十分あり、数ヶ月を耐え得る事も可能であった強固な巨大城塞である大坂城籠城を放棄した。官軍が大坂城を攻めあぐねる間に数ヶ月が経てば中立諸藩の動きはどうなるやも知れず、幕軍は自ら戦場離脱を選択する(逸機⑤)。大坂城は近在の市民や諸般の兵の略奪されるが儘となり、1月9日、長州藩兵の大坂城明け渡し交渉中に出火し、大坂城は全焼した。
鳥羽伏見の戦いでは、官軍112人(薩摩72、長州38、土佐2)、幕軍278人(幕臣100、会津123、桑名11、大垣10、浜田5、新選組29)の両軍合計390人以上が戦死している。幕軍の敗因には諸説あるが、著者の云うには、元々慶喜の上洛は政界復帰を目指す高等政略であり、その手段として軽装上洛か、開戦も辞さない率兵上洛かの二者択一が可能だった。しかし現実には大軍を進発させる威力上洛とも言うべき中途半端な策を採り、慶喜は会津・桑名藩や旗本主戦派の独断専行を阻止しようとしなかった。其処には勝手にやらせておけば自分に責任が所在せず、上手くいけば政界復帰という慶喜の都合の良い算段があった。前線の幕軍指揮官達にも圧倒的優勢を恃み、薩長軍から戦端を開くと予想だにせず、最前線部隊が装弾さえしていない有様だった。
戦闘が開始されてもまだ慶喜は愚図愚図と政治的解決に固執し、戦闘完遂に意識を変換せず、現地軍への指導が無い為、幕軍の戦術は稚拙で、全軍を官軍の火力正面である一本道の街道に集中させ続ける愚挙に終始し、その大兵力を分散して京都を衝く策を採らなかった。予備兵力は大坂城に十分あったが、残置した儘使用しなかった。幕軍は千篇一律に正面攻撃のみを繰り返してその都度撃破され、大坂城まで退却するが、慶喜の敵前逃亡が士気を崩壊させ、幕軍の潰乱東帰の引き金になった。万全の備えを持っていた城塞に籠城していれば、兵力・物資・軍資金全てを欠く官軍は非常な難渋を強いられ、日和見諸藩が幕府方に付く政治的な大逆転が有り得ない事では無かった。
東帰した慶喜は、1月17日に静寛院宮に面会し朝廷への赦免工作を依頼し、同月内に3度、江戸城内でフランス公使ロッシュと会談している。幕臣は蹇々諤々で意見も纏まらず、遂に2月12日、上野寛永寺に閉居して恭順に転じた。慶喜当時32歳。15日、有栖川宮熾仁親王率いる東征軍が御所を出発。歴史は戊辰戦争へと進む。
幕末史の最終局面は、慶應3(1867)年10月14日、将軍徳川慶喜が大政奉還を建白した事より動き出す。そして12月9日の小御所会議迄の55日間、水面下で激しい権力闘争が繰り広げられた。慶喜の狙いは、武力討伐を回避する為に、政権・将軍職を手放して時間を稼ぎ、徳川の勢力を盛り返し、自ら手放した幕府に代わる新しい政体を構想する事であり、それは英国に範を取った上下院議会で、自らその首班につけると考えた。
慶喜・松平容保・定敬が不参加の内に12月8日の朝議では毛利父子及び、三条実美、岩倉具視等追放蟄居された公卿の復権が認められ、薩摩藩兵が御所に入り諸門を固める。翌12月9日、即参内した岩倉が奏上し、親王・諸臣を前に王政復古の大号令が発せられた。摂政・関白・征夷大将軍・京都守護職といった旧官職は全廃され、新たに総裁・議定・参与が置かれ、公武合体派の公卿は全て参内禁止とされた。その儘夜は小御所会議が開かれ、徳川慶喜の官位と領地の返納が決められた。
12月12日、慶喜は旗本5000、会津藩兵3000余、桑名藩兵を率いて二条城を退去し大坂城に入る。新政府は大坂に退去した慶喜を追って資金援助を乞いに来る程困窮していた。17日、続々と勢力を増す大坂城は、慶喜の名義で「挙正退奸の表」を奏上。岩倉具視・三条実美以下も慶喜の参内と議定職参加に傾き始める。
ところが23日の薩摩藩士伊牟田尚平による江戸城西ノ丸放火など、度重なる薩摩藩の挑発に、庄内藩以下幕府主戦派は25日朝、薩摩藩邸焼討ちを決行。薩摩藩士49人が戦死。残党は薩摩軍艦で江戸を脱出した。西郷は元日に報を受けた。幕府側は此の勝利に勢い付き、大目付滝川播磨守具挙(ともたか)以下が28日大坂城に入城し、主戦派が実権を握る。越前藩士中根雪江は、徳川氏復権が成功しかかっていたのに水泡に帰したことを「形勢一変、もっぱら伐薩除姦の兵事に及び、内府公といえども如何ともなし給うべからざるに至りしなりとぞ。天、徳川氏に祚(さいわい)せず。嗚呼。」(丁卯日記)と書き残している。
慶応四年(1868)正月2日、兵庫湾にて幕府艦隊と、薩摩海軍が交戦。1月4日の阿波沖海戦まで戦闘が続き、幕府艦隊が勝利する。そして大坂城主戦派の将兵1万5千は元日に慶喜の名義で発された「討薩の表」を掲げて北上を開始し、2日中に淀まで進出。伏見では奉行所を最前線に薩摩藩兵と睨み合いの形勢となった。
1月3日(戦闘第1日)、鳥羽街道の幕府軍は新式の後装シャスポー銃装備の伝習隊を先頭に進軍。旗本は全て銃兵に再編成していたが、殆ど役に立たず最後まで戦闘に参加していない。新政府軍は緒戦では薩摩藩・長州藩のみで、装備も前装エンフィールド銃である。砲兵は質量ともに両軍拮抗していた。上鳥羽村で両軍は通す、通さないの小競り合いを続け、午後4時頃、薩摩藩士椎原小弥太隊が発砲し開戦。銃に装弾さえしていなかった幕府軍は不意を突かれ大損害を出し混乱した。幕府軍は見廻組、桑名藩砲兵隊が前線で敗勢を喰い止め反撃に移る。後方の幕府歩兵隊も鳥羽街道東側の田畑に散開し、油小路・竹田街道の薩摩藩兵と交戦。夜になって薩摩藩は追撃せず、付近の民家の火焔を背にした幕府軍を狙撃して、幕府軍の7度の反撃を撃退した。
伏見では陸軍奉行竹中丹後守重固以下が鳥羽方面の砲声を聞いて開戦。御香宮の薩摩砲兵隊が有利な位置から攻撃し、新選組・遊撃隊の白兵戦を阻止、市街戦では長州藩兵が民家に放火しつつ前進。夜9時頃、伏見奉行所は新政府軍が占領し、残置された幕府軍負傷兵は残らず薩摩藩兵に斬首された。幕府軍は高瀬川左岸・堀川右岸地区に集結した。林権助以下会津藩砲兵隊も奮戦し(林権助は負傷後退、大坂城で死去)、新選組も永倉新八以下が幾度も突撃したが敵わず、白井五郎太夫の大砲隊(131名)は間道から京都市内にあと一歩の位置まで前進したが、後続部隊が無い為後退(逸機①)。
大坂城に敗報が届くと、慶喜は途端に自分は避戦の方針なのに将士が勝手に暴発した、という態度を取り始める。ただし強硬派とされる将士も、洛中に入る迄戦闘には及ばないものと楽観していた為、装弾せずに開戦する無様な態を晒した。一方御所では、大兵力の幕軍を怖れ、後難を恐れ西郷・大久保を蛇蝎の如くに接していた公卿達は、夜になって捷報が達するや、掌を返して祝賀に殺到した。前線では終夜散発的に戦闘が続いていた。
1月4日(戦闘第2日)、戦場には北からの強風が吹き荒れ、終日逆風の幕軍には極めて不利に作用した。午前6時、下鳥羽の幕軍が前進開始。違う部隊が昨日と同じ街道を直進する戦法を取った為に、集中砲火を浴び損害を蒙る。薩摩藩兵が反撃に移り、歩兵奉行並佐久間近江守信久、歩兵頭窪田備前守鎮章が狙撃され戦死。幕軍は南へ後退し、富ノ森陣地の南で会津藩槍隊の伏兵が薩長軍を撃ち破り一時的に陣地を回復したが、竹中重固は追撃せず、薩長軍に立ち直る時間を与えた(逸機②)。鳥羽街道上には幕軍兵士の死体が無数に転がり、薩摩兵は負傷して莚などを被っている幕兵を見つけ次第、斬り殺して回った。
一方、伏見では終日戦闘が無かったが、竹中の作戦指導がない為、戦意に乏しい一部の歩兵が勝手に退却する。薩長軍は激戦の鳥羽方面に兵力を振り向け、極めて手薄になっていたが、幕軍は宇治から桃山の背後を衝くなど効果的な作戦を立案したものの実行せず、鳥羽へ兵力を分派し、伏見を放棄した事で此の方面の勝機を逃した(逸機③)。
1月5日(戦闘第3日)
早朝、征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王は東寺本陣より、錦旗二旒を携えて前線視察に出る。その行程は鳥羽街道から淀近くまで進み、伏見の戦跡を巡視して暮迄に東寺へ戻るもので、僅かな巡行ながら、官軍将兵を士気高揚させる効果は絶大であった。ただし巷説に言われるように幕軍に直接見える位置までは進出しておらず、噂として幕軍に広がり、その最も衝撃を受けた者は慶喜であった。此の日の戦闘は、午前7時頃、鳥羽街道富ノ森陣地の攻防で始まる。激戦の末、陣地とその後方の納所陣地も官軍に突破され、幕軍は淀まで後退した。伏見街道では、淀小橋東1kmの千両松で両軍が交戦し、激戦の末、此方も淀へ後退した。午後2時頃、淀城に後退した幕軍は、淀藩より入城を拒否され、背後に迫る官軍の為に、橋本関門まで更に退却して防衛線を構築し、進出した官軍は淀城に入城した。慶喜は相次ぐ敗報を受け、上下将士を大広間に集め、徹底抗戦を命じる演説を行い、幕軍は再び奮い立って反攻を誓った。
1月6日(戦闘第4日)
幕軍最後の拠点橋本関門は天王山と、石清水八幡宮(男山)に挟まれた天嶮であった。早朝より激戦となり、官軍は攻めあぐねた。此の時、見廻組佐々木只三郎が重傷(後戦死)。午前11時頃、淀川対岸の山崎関門守備の津藩藤堂家が官軍に寝返り、橋本関門の味方陣地を砲撃。桑名藩・生駒藩・小浜藩の各砲兵は此れに砲撃、官軍を前に幕軍同士の砲撃戦となる。ただし、津藩は当初幕軍に味方する予定であったが、山崎街道への兵力派遣の依頼を塚原但馬守が怠り、その間長州藩より勅命をたてに離反を迫られ、止む無く官軍に付いたという経緯がある。幕軍の手落ちであった(逸機④)。奮戦していた八幡・橋本の幕軍は総崩れとなり、午後4時頃、総督大河内正質・竹中重固・滝川具挙らが枚方へ退却、態勢を立て直そうと謀るが、幕軍は大坂・宇治・奈良方面へ潰乱敗走した為、大坂城へ総退却となった。午後9時頃、慶喜以下、老中酒井忠惇・老中板倉勝静・外国総奉行山口直毅・大目付戸川伊豆守忠愛・目付榎本対馬守道章・医師戸塚文海・外国奉行支配組頭高畠五郎・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬らは大坂城を落ち、予て手配していた米海軍の砲艦イロクォイに乗艦し、夜を明かした。
1月7日、午前4時より米砲艦より幕府軍艦開陽へ慶喜一行の移乗が始まり、1日を経過した8日午前8時過ぎ帰東の命令を発し、夜大坂湾を後にした。途中嵐を受け、10日18:40、浦賀港に投錨、翌11日午前8時、品川沖に到着し、12日、江戸城に帰還した。慶喜にとっては文久3(1863)年10月の上洛以来、4年余ぶりの江戸である。大坂城に残された幕軍は主に紀伊路へ落ち、海路江戸へ退却。兵力・弾薬・兵糧何れも十分あり、数ヶ月を耐え得る事も可能であった強固な巨大城塞である大坂城籠城を放棄した。官軍が大坂城を攻めあぐねる間に数ヶ月が経てば中立諸藩の動きはどうなるやも知れず、幕軍は自ら戦場離脱を選択する(逸機⑤)。大坂城は近在の市民や諸般の兵の略奪されるが儘となり、1月9日、長州藩兵の大坂城明け渡し交渉中に出火し、大坂城は全焼した。
鳥羽伏見の戦いでは、官軍112人(薩摩72、長州38、土佐2)、幕軍278人(幕臣100、会津123、桑名11、大垣10、浜田5、新選組29)の両軍合計390人以上が戦死している。幕軍の敗因には諸説あるが、著者の云うには、元々慶喜の上洛は政界復帰を目指す高等政略であり、その手段として軽装上洛か、開戦も辞さない率兵上洛かの二者択一が可能だった。しかし現実には大軍を進発させる威力上洛とも言うべき中途半端な策を採り、慶喜は会津・桑名藩や旗本主戦派の独断専行を阻止しようとしなかった。其処には勝手にやらせておけば自分に責任が所在せず、上手くいけば政界復帰という慶喜の都合の良い算段があった。前線の幕軍指揮官達にも圧倒的優勢を恃み、薩長軍から戦端を開くと予想だにせず、最前線部隊が装弾さえしていない有様だった。
戦闘が開始されてもまだ慶喜は愚図愚図と政治的解決に固執し、戦闘完遂に意識を変換せず、現地軍への指導が無い為、幕軍の戦術は稚拙で、全軍を官軍の火力正面である一本道の街道に集中させ続ける愚挙に終始し、その大兵力を分散して京都を衝く策を採らなかった。予備兵力は大坂城に十分あったが、残置した儘使用しなかった。幕軍は千篇一律に正面攻撃のみを繰り返してその都度撃破され、大坂城まで退却するが、慶喜の敵前逃亡が士気を崩壊させ、幕軍の潰乱東帰の引き金になった。万全の備えを持っていた城塞に籠城していれば、兵力・物資・軍資金全てを欠く官軍は非常な難渋を強いられ、日和見諸藩が幕府方に付く政治的な大逆転が有り得ない事では無かった。
東帰した慶喜は、1月17日に静寛院宮に面会し朝廷への赦免工作を依頼し、同月内に3度、江戸城内でフランス公使ロッシュと会談している。幕臣は蹇々諤々で意見も纏まらず、遂に2月12日、上野寛永寺に閉居して恭順に転じた。慶喜当時32歳。15日、有栖川宮熾仁親王率いる東征軍が御所を出発。歴史は戊辰戦争へと進む。