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芭蕉: 「かるみ」の境地へ (中公新書 2048) 新書 – 2010/3/1
田中 善信
(著)
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- 本の長さ325ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2010/3/1
- ISBN-104121020480
- ISBN-13978-4121020482
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2010/3/1)
- 発売日 : 2010/3/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 325ページ
- ISBN-10 : 4121020480
- ISBN-13 : 978-4121020482
- Amazon 売れ筋ランキング: - 526,011位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,140位中公新書
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年1月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「おくのほそ道」を芭蕉の趣味であると言ってのける、田中先生には驚嘆したが、同時に芭蕉の奥の深い事に目覚めさせられた感満載の著書。こりゃ〜何度も何度も再読を要する本であると思う。「禅」と「写真」をやってきた人間として芭蕉を調べようとこの本に出逢ったが、とんでもない本に出逢ってしまった。
2022年12月29日に日本でレビュー済み
芭蕉の人物像を期待して読み始めたが、全ての議論が著者の推測に基づいてなされている。「~と考えてよいだろう」「~と思われる」という記述のオンパレードにうんざりして途中で頓挫した。著者と感性が合わないと難しいと思う。レビューの評価が高いが何故なのかよくわからない。
2011年8月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
芭蕉の入門書は数多いが、芭蕉の伝記的紹介として本書は非常に良くできている。
派手さはないが、淡々と芭蕉の人生を(その俳風の変遷と共に)追っていて好感がもてる。
冒頭のプロローグ(俳諧とは何か)なども、分量にしてわずか20頁ほどの文章であるが、簡にして要を得た初期俳諧史の概説になっている。
芭蕉の人生を概観する上で本書が重視するのは、(研究者の間ではもはや常識なのかもしれないが)仏頂和尚との出会いである。
仏頂和尚は臨済宗の僧侶で、鹿島にある根本寺の住職だった。彼は、鹿島神宮と根本寺の訴訟問題で江戸に滞在していた時期があった。
長く見積もっても2年に満たない交流ではあるが、この仏頂との出会いによって芭蕉は「禅」に触発され、また『荘子』のような教典に深く傾倒するようになったという。
この経験を経て、芭蕉はいわゆる「蕉風」を確立していくことになるのだ。
禅宗においては、詩文によって自身の「悟りの境地」を示したり、あるいは詩文そのものを「悟り」を得るための修行の場とみなす、ということがある。いわゆる、「五山文学」的な世界である。
芭蕉の俳諧に対する態度も、確かにこれと似たものがあるように思える。彼には、俳諧を通じて到達しようとした、ある「境地」があったのだ。
もちろんそれは「仏の教え」や「悟り」ではなくて、「誠」や「造化」といった「この世界の本質、本来のあり方」であったり、また西行や宗祇ら先人が到達した詩的世界だったのだが。
また、芭蕉は俳諧の理念として「わび」や「かるみ」といった語を用いていたが、それは「面白おかしさ」を本質とする当時の俳諧の通念とは明らかに異質なものだった(俳諧は本来「誹諧連歌」と呼ばれ、誹諧とは「滑稽」という意味だ)。
いってみれば、「ことばの遊戯」にすぎなかった俳諧というジャンルに、禅的な「奥行き」を持ち込み、芸術化したのが芭蕉なのである。
ある意味では「詩歌の歴史をねじ曲げてしまった」ともいえるが、その問題についてはここで論じるべきではないだろう。
派手さはないが、淡々と芭蕉の人生を(その俳風の変遷と共に)追っていて好感がもてる。
冒頭のプロローグ(俳諧とは何か)なども、分量にしてわずか20頁ほどの文章であるが、簡にして要を得た初期俳諧史の概説になっている。
芭蕉の人生を概観する上で本書が重視するのは、(研究者の間ではもはや常識なのかもしれないが)仏頂和尚との出会いである。
仏頂和尚は臨済宗の僧侶で、鹿島にある根本寺の住職だった。彼は、鹿島神宮と根本寺の訴訟問題で江戸に滞在していた時期があった。
長く見積もっても2年に満たない交流ではあるが、この仏頂との出会いによって芭蕉は「禅」に触発され、また『荘子』のような教典に深く傾倒するようになったという。
この経験を経て、芭蕉はいわゆる「蕉風」を確立していくことになるのだ。
禅宗においては、詩文によって自身の「悟りの境地」を示したり、あるいは詩文そのものを「悟り」を得るための修行の場とみなす、ということがある。いわゆる、「五山文学」的な世界である。
芭蕉の俳諧に対する態度も、確かにこれと似たものがあるように思える。彼には、俳諧を通じて到達しようとした、ある「境地」があったのだ。
もちろんそれは「仏の教え」や「悟り」ではなくて、「誠」や「造化」といった「この世界の本質、本来のあり方」であったり、また西行や宗祇ら先人が到達した詩的世界だったのだが。
また、芭蕉は俳諧の理念として「わび」や「かるみ」といった語を用いていたが、それは「面白おかしさ」を本質とする当時の俳諧の通念とは明らかに異質なものだった(俳諧は本来「誹諧連歌」と呼ばれ、誹諧とは「滑稽」という意味だ)。
いってみれば、「ことばの遊戯」にすぎなかった俳諧というジャンルに、禅的な「奥行き」を持ち込み、芸術化したのが芭蕉なのである。
ある意味では「詩歌の歴史をねじ曲げてしまった」ともいえるが、その問題についてはここで論じるべきではないだろう。