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文書術: 読みこなし、書きこなす (中公新書 2073) 新書 – 2010/9/1
工藤 順一
(著)
- ISBN-104121020731
- ISBN-13978-4121020734
- 出版社中央公論新社
- 発売日2010/9/1
- 言語日本語
- 本の長さ180ページ
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2010/9/1)
- 発売日 : 2010/9/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 180ページ
- ISBN-10 : 4121020731
- ISBN-13 : 978-4121020734
- Amazon 売れ筋ランキング: - 92,035位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2013年4月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とても丁寧に梱包していただき、発送も迅速で、ありがたかったです。おかげで本もすぐに読めました。
2019年3月11日に日本でレビュー済み
このタイトルに惹かれ、読もう読もうと思って何年経ったでしょう。 床に積み上がった新書を整理しながら、ようやくページをめくりました。 レビューを拝見すると賛否混淆のようですね。 なんとなく分かります。 いままで新書中心に読んできた経験(つたない)によると、首をタテに振る場面と横に振る場面が、たいていの場合混じります。 それを、いかに”いいとこどり”するかが読書のあり方かなぁ、と思います。 ★5つがいくつも並ぶような評判は、偏った思想を偏った読み方をしているから、という場合も往々にしてありますよね。 さて本書はどうだったか。
書き言葉の論理を、いくつかの側面から斬りこんで解明する章立てのようですね。 前半は、ずいぶんと首をタテに振っていました。 「情報を共有していない他者へ正確に伝えるための書き言葉」というコミュニケーション、対話、情報伝達の基本がいろいろな側面で解説されます。 この「他者へ伝達する道具」が言語を意味づける重要ポイントであることを思い出させてくれます。 それを、具体・抽象、演繹・帰納、直接・間接、等々の哲学的、論理的な側面で補強する解説内容、といっていいかと思います。
ただ、章立てが、やや緩慢な感じも否めませんね。 考えるとはどういうことか、型(文章の)とはなにか、という章は、そのページ数だけでは語り切れない大きなテーマだと思います。 解説内容の巧拙ということより、読んでいて、欲求不満気味になりました、もっと聴きたいのに、、、と。 本書で語ろうとする「文書」の対象が明確にされていないのが要因か、と思います。 文書、といっても、仕事上の依頼メールや報告書、学術論文、顧客向けの解説、エッセイ、小論文、対外的な解説書、等々、いろいろあります。 おそらく本書は、説明文、報告分、小論文など、ある相応に論理を明快にすべき”文章”のことを想定していると思われます。
響いた段落を引くならば、以下の2点を挙げたいと思います。
まずは、第3章の「考えるとはどういうことか」の”リセット”の解説。 発想を客観視して文章化するために必要なのが”思考という収束”、というわけです。 ここで、まず、今までの思考習慣や文脈を断ち切る、という第一段階が必要とされる、というのです。 これは、最近耳にすることの多い「アンラーニング(学習棄却)」ということでしょう。 メタ認知力といってもいいかもしれません。 考えた結果を言語化することが、書く、という手段であるなら、そこに”考える”ことの意味が必然的に浮き彫りにされますね。
もうひとつは、考えるための12の道具(p64)です。 これも、最近耳にすることの多い”問題意識”を高めて考えるための具体的な思考実験アイテムです。 何をどう書いて”伝えるか”の整理に役立つアイディアとして参考になります。
さらに、第4章「型とは何か」では、筆者は”起承転結”に否定的です。 同感です。 論理的な文書術としては、序論・本論・結論か、それを少し変形した、問題提起・意見提示・論拠・まとめ、という構成が基本だと思います。
全部で180頁、という、やや短めな紙幅で、これだけの内容をまとめるのには、多少ムリがあるかな、と思いました。 もう少し対象とする文書を絞って、具体的に読者を導くような章立てだったらよかったのかなぁ、と感じ、★一つマイナスした次第です。
書き言葉の論理を、いくつかの側面から斬りこんで解明する章立てのようですね。 前半は、ずいぶんと首をタテに振っていました。 「情報を共有していない他者へ正確に伝えるための書き言葉」というコミュニケーション、対話、情報伝達の基本がいろいろな側面で解説されます。 この「他者へ伝達する道具」が言語を意味づける重要ポイントであることを思い出させてくれます。 それを、具体・抽象、演繹・帰納、直接・間接、等々の哲学的、論理的な側面で補強する解説内容、といっていいかと思います。
ただ、章立てが、やや緩慢な感じも否めませんね。 考えるとはどういうことか、型(文章の)とはなにか、という章は、そのページ数だけでは語り切れない大きなテーマだと思います。 解説内容の巧拙ということより、読んでいて、欲求不満気味になりました、もっと聴きたいのに、、、と。 本書で語ろうとする「文書」の対象が明確にされていないのが要因か、と思います。 文書、といっても、仕事上の依頼メールや報告書、学術論文、顧客向けの解説、エッセイ、小論文、対外的な解説書、等々、いろいろあります。 おそらく本書は、説明文、報告分、小論文など、ある相応に論理を明快にすべき”文章”のことを想定していると思われます。
響いた段落を引くならば、以下の2点を挙げたいと思います。
まずは、第3章の「考えるとはどういうことか」の”リセット”の解説。 発想を客観視して文章化するために必要なのが”思考という収束”、というわけです。 ここで、まず、今までの思考習慣や文脈を断ち切る、という第一段階が必要とされる、というのです。 これは、最近耳にすることの多い「アンラーニング(学習棄却)」ということでしょう。 メタ認知力といってもいいかもしれません。 考えた結果を言語化することが、書く、という手段であるなら、そこに”考える”ことの意味が必然的に浮き彫りにされますね。
もうひとつは、考えるための12の道具(p64)です。 これも、最近耳にすることの多い”問題意識”を高めて考えるための具体的な思考実験アイテムです。 何をどう書いて”伝えるか”の整理に役立つアイディアとして参考になります。
さらに、第4章「型とは何か」では、筆者は”起承転結”に否定的です。 同感です。 論理的な文書術としては、序論・本論・結論か、それを少し変形した、問題提起・意見提示・論拠・まとめ、という構成が基本だと思います。
全部で180頁、という、やや短めな紙幅で、これだけの内容をまとめるのには、多少ムリがあるかな、と思いました。 もう少し対象とする文書を絞って、具体的に読者を導くような章立てだったらよかったのかなぁ、と感じ、★一つマイナスした次第です。
2013年4月1日に日本でレビュー済み
一般に「文書」というと、公文書や古文書、あるいは職場で仕事に伴って作られる記録類のことを指すと思うのですが、本書では「文書」を「文章を書く」と定義しています(p.ii)。一般的な文書では、文を書くことだけでなく、そのレイアウトや管理など、保存や利用までが重要な「文書術」となると思いますが、本書ではいま書いたような定義をしていますので、単なる「作文術」となっています。なので、最後まで読んでも、なぜ、わざわざ「文書術」などという大袈裟なタイトルをつけたのかわかりませんでした。
著者は、小学生に作文を教える塾を経営している方だそうです。作文の訓練法として、塾で教えているという「コボちゃん作文」というユニークなメソッドが紹介されています。4コマ漫画を読み、その面白さを文章で表現するというものだそうです。例として、魚の絵を書いた子どもが祖父母にその絵を見せたところ、「あまりおいしそうなサカナじゃないわね」と笑われたので、絵に本物の魚をこすり付け、魚の臭いをつけてしまう、というマンガが上げられています。最後のコマは、絵が壁に貼ってあり、ネコやハエが集まってきている、というものです。
生徒の作例では、オチは、「その結果、絵からはサカナのにおいがして、壁に貼ったら、ネコやハエが狙うようなものになった」と説明されています。これに対する、著者のコメントは、「結論が別の言葉になってしまう」というものですが、私には何がどう「別の言葉」になったのかわかりませんでした。私の頭が悪いのでしょうか。
さらに、著者の模範解答は、「その結果、絵からはいかにもおいしそうなにおいがして、壁に絵を貼ったら、ネコやハエが寄ってきて、コボちゃんにはその絵はいかにもおいしそうに見えるのだった」となっています(p.30)。絵を見るかぎり、絵から「おいしそうなにおい」がするようにはとても思えません。ハエが寄ってきている食べ物の絵を「おいしそう」という感性は、私にはありません。
マンガから子どもが絵にこすり付けた魚が生魚か焼き魚かわかりません。しかし、いずれにしてもこのマンガのオチは、“「おいしそう」ってそういうことじゃないよね(笑)”ということだと思います。それは最後のコマで、絵を不思議そうにながめているのが、祖父であることからも想像できます。祖父母が言った「おいしそう」と、子どもが考えた「おいしそう」がずれていて、だから、祖父には子どもの意図が読み取れず、不思議な顔をしたわけです(このあたりは、別の解釈もありえます)。ですから、絵を書いた子ども(コボちゃん)がそれを見て「おいしそう」と思っているかどうかは、このマンガからは読み取れないし、このマンガを読むうえで、そこはまったく問題になりません。模範解答は、そこを外しているばかりか、「いかにもおいしそう」という言葉を1文のなかで2度使用しており、極めて稚拙な文章になっています。
こんなことが塾で教えられていることかと思うと、ちょっと信じられい気持ちになったのですが、そこで上で書いた生徒作例へのコメントを思い出しました。意味不明だった「別の言葉になってしまう」というあれです。もし、無難なものに思えた生徒作例が実は模範解答で、めちゃくちゃに思えた模範解答が本来の生徒作例だとしたら、「別の言葉になってしまう」の意味もいくぶんかは通るように思えました(それでもやや意味不明ですが)。
もう一つ例を挙げましょう。第4章の「段落」について解説している部分です。一つの段落には、「一つのこと」を書きましょう、ということが書かれているなかに、唐突に「はじめに、このマンガの主題を考え、それを二項対立のタイトルで表します。その後、マンガの主題を一文にまとめたキーセンテンスを考えます。あとは、それを詳しく書いていきます」という段落が紛れ込んでいます。そこではあくまで段落の話がなされおり、マンガの話は少しも出ていません。この段落は、第2章のマンガ作文の解説で「二項対立」の話をしている部分があるのですが、おそらくそこでの一段落がこちらに紛れてしまったものでしょう。「段落」の説明で、雑音は省きましょうという話をしながら、一段落が丸々雑音というのは、まるで狙いすましたかのようなギャグですが、本書にお金を払った者としては、極めて不快でした。
もう少し続けると、新聞コラムの「起承転結」文は、小中学生のお手本にはならない、という主旨のことを述べたあとの著者の文章が、典型的な起承転結文だったのでうんざりしました。著者によれば、起承転結文というのは、印象的な始まり方をして、だんだん結論に近づくもののようですが、作文では、結論→理由という順序が分かりやすくていいのだそうです。
その話の直後の節の始まりが、「岡田淳という児童文学の作品に『ようこそ、おまけの時間に』(偕成社)があります。昼のサイレンが鳴る学校で、主人公の少年が一人、級友たちがみなイバラのつるに縛られて死んだように眠っていることに気づき、ナイフでイバラを切り裂き、次第に級友たちも解放していていくというお話です」という始まり方をします(p.134、「岡田淳という児童文学の作品」という言い方は、「児童文学《者》の作品」の間違いでしょうね)。実に印象的な始まり方をしています(笑)。次の段落では、「ヘルドとハインの実験」の話になります。これは簡単にいうと、能動的な動きを封じられて育てられた猫は、自由に動けるようになっても環境を認識できないというものです。岡田氏の作品とのつながりも、結論もまだ見えません。引用文を2つ挟んで、次に「教室のたたずまい」の話に飛びます。
その後の展開も踏まえると、筆者は、要するに、現在の教室は、能動性をうばうので、寺子屋みたいにめいめいが自由な方向を向き学習できる空間が良い、ということを言いたのだと思いますが、そこに辿りつくまでに2ページ半かかりました。起承転結文はお手本にしないほうが良いという筆者の主張と矛盾しないのでしょうか。
ちなみに、その直後には、「木下是雄は『日本人の言語環境を考える』(晶文社)には「受動型教育から発信型教育へ」という論文が収録されていますが、そこでは、発信型教育を次のようなものだとしています」という文章がありますが(p.139 )、「木下是雄は『…』には…」という文章は、どういう文章構造なんでしょうね。まあ、これも間違いなんでしょう。10頁と空けずに誤字・脱字・誤植を繰り出してくる感覚には脱帽です。
これらの例からわかるのは、いわゆる普通の意味での「文書」を作成し、「文書」を管理するということがおざなりになっているということではないでしょうか。それにしても、文章の書き方教えますと言いながら、ここまで誤字が多く、破綻した本を作れるのはすごいと思いました。著者も編集者も本を作るということを舐めてるのでしょうね。残念です。「文書術」というタイトルは、とりあえずさっさと返上したほうが良いように思いました。塾がこうでないことを祈ります。
全体的に信用できないので評価は1にしたいところですが、人によっては部分的には使えることもあるかもしれないので2にしました。私が読んだのは初版なので、重版があれば改善されているかもしれません。しかし、このような本を一度世に出してしまった以上、私自身は、この著者への不信感を消せないと思います。
著者は、小学生に作文を教える塾を経営している方だそうです。作文の訓練法として、塾で教えているという「コボちゃん作文」というユニークなメソッドが紹介されています。4コマ漫画を読み、その面白さを文章で表現するというものだそうです。例として、魚の絵を書いた子どもが祖父母にその絵を見せたところ、「あまりおいしそうなサカナじゃないわね」と笑われたので、絵に本物の魚をこすり付け、魚の臭いをつけてしまう、というマンガが上げられています。最後のコマは、絵が壁に貼ってあり、ネコやハエが集まってきている、というものです。
生徒の作例では、オチは、「その結果、絵からはサカナのにおいがして、壁に貼ったら、ネコやハエが狙うようなものになった」と説明されています。これに対する、著者のコメントは、「結論が別の言葉になってしまう」というものですが、私には何がどう「別の言葉」になったのかわかりませんでした。私の頭が悪いのでしょうか。
さらに、著者の模範解答は、「その結果、絵からはいかにもおいしそうなにおいがして、壁に絵を貼ったら、ネコやハエが寄ってきて、コボちゃんにはその絵はいかにもおいしそうに見えるのだった」となっています(p.30)。絵を見るかぎり、絵から「おいしそうなにおい」がするようにはとても思えません。ハエが寄ってきている食べ物の絵を「おいしそう」という感性は、私にはありません。
マンガから子どもが絵にこすり付けた魚が生魚か焼き魚かわかりません。しかし、いずれにしてもこのマンガのオチは、“「おいしそう」ってそういうことじゃないよね(笑)”ということだと思います。それは最後のコマで、絵を不思議そうにながめているのが、祖父であることからも想像できます。祖父母が言った「おいしそう」と、子どもが考えた「おいしそう」がずれていて、だから、祖父には子どもの意図が読み取れず、不思議な顔をしたわけです(このあたりは、別の解釈もありえます)。ですから、絵を書いた子ども(コボちゃん)がそれを見て「おいしそう」と思っているかどうかは、このマンガからは読み取れないし、このマンガを読むうえで、そこはまったく問題になりません。模範解答は、そこを外しているばかりか、「いかにもおいしそう」という言葉を1文のなかで2度使用しており、極めて稚拙な文章になっています。
こんなことが塾で教えられていることかと思うと、ちょっと信じられい気持ちになったのですが、そこで上で書いた生徒作例へのコメントを思い出しました。意味不明だった「別の言葉になってしまう」というあれです。もし、無難なものに思えた生徒作例が実は模範解答で、めちゃくちゃに思えた模範解答が本来の生徒作例だとしたら、「別の言葉になってしまう」の意味もいくぶんかは通るように思えました(それでもやや意味不明ですが)。
もう一つ例を挙げましょう。第4章の「段落」について解説している部分です。一つの段落には、「一つのこと」を書きましょう、ということが書かれているなかに、唐突に「はじめに、このマンガの主題を考え、それを二項対立のタイトルで表します。その後、マンガの主題を一文にまとめたキーセンテンスを考えます。あとは、それを詳しく書いていきます」という段落が紛れ込んでいます。そこではあくまで段落の話がなされおり、マンガの話は少しも出ていません。この段落は、第2章のマンガ作文の解説で「二項対立」の話をしている部分があるのですが、おそらくそこでの一段落がこちらに紛れてしまったものでしょう。「段落」の説明で、雑音は省きましょうという話をしながら、一段落が丸々雑音というのは、まるで狙いすましたかのようなギャグですが、本書にお金を払った者としては、極めて不快でした。
もう少し続けると、新聞コラムの「起承転結」文は、小中学生のお手本にはならない、という主旨のことを述べたあとの著者の文章が、典型的な起承転結文だったのでうんざりしました。著者によれば、起承転結文というのは、印象的な始まり方をして、だんだん結論に近づくもののようですが、作文では、結論→理由という順序が分かりやすくていいのだそうです。
その話の直後の節の始まりが、「岡田淳という児童文学の作品に『ようこそ、おまけの時間に』(偕成社)があります。昼のサイレンが鳴る学校で、主人公の少年が一人、級友たちがみなイバラのつるに縛られて死んだように眠っていることに気づき、ナイフでイバラを切り裂き、次第に級友たちも解放していていくというお話です」という始まり方をします(p.134、「岡田淳という児童文学の作品」という言い方は、「児童文学《者》の作品」の間違いでしょうね)。実に印象的な始まり方をしています(笑)。次の段落では、「ヘルドとハインの実験」の話になります。これは簡単にいうと、能動的な動きを封じられて育てられた猫は、自由に動けるようになっても環境を認識できないというものです。岡田氏の作品とのつながりも、結論もまだ見えません。引用文を2つ挟んで、次に「教室のたたずまい」の話に飛びます。
その後の展開も踏まえると、筆者は、要するに、現在の教室は、能動性をうばうので、寺子屋みたいにめいめいが自由な方向を向き学習できる空間が良い、ということを言いたのだと思いますが、そこに辿りつくまでに2ページ半かかりました。起承転結文はお手本にしないほうが良いという筆者の主張と矛盾しないのでしょうか。
ちなみに、その直後には、「木下是雄は『日本人の言語環境を考える』(晶文社)には「受動型教育から発信型教育へ」という論文が収録されていますが、そこでは、発信型教育を次のようなものだとしています」という文章がありますが(p.139 )、「木下是雄は『…』には…」という文章は、どういう文章構造なんでしょうね。まあ、これも間違いなんでしょう。10頁と空けずに誤字・脱字・誤植を繰り出してくる感覚には脱帽です。
これらの例からわかるのは、いわゆる普通の意味での「文書」を作成し、「文書」を管理するということがおざなりになっているということではないでしょうか。それにしても、文章の書き方教えますと言いながら、ここまで誤字が多く、破綻した本を作れるのはすごいと思いました。著者も編集者も本を作るということを舐めてるのでしょうね。残念です。「文書術」というタイトルは、とりあえずさっさと返上したほうが良いように思いました。塾がこうでないことを祈ります。
全体的に信用できないので評価は1にしたいところですが、人によっては部分的には使えることもあるかもしれないので2にしました。私が読んだのは初版なので、重版があれば改善されているかもしれません。しかし、このような本を一度世に出してしまった以上、私自身は、この著者への不信感を消せないと思います。
2010年9月27日に日本でレビュー済み
本書を一言で言うと「文書を書くための練習帳」ではないでしょうか。
まずはじめに「話し言葉と書き言葉」の違いを説明し、そのあと書くためのヒントとして「観察・分類・比較の方法」、「書くために考える方法」が説明してあり、それに準じた練習問題が用意されています。著者は小中学校で教諭であり、練習問題も子供用に準備したものですが、なかなか歯ごたえがあります。これらをこなすことで文書の書き方が一通りマスターできると思います。
実際、文書を書くことが求められている人には参考になる本だと思います。
まずはじめに「話し言葉と書き言葉」の違いを説明し、そのあと書くためのヒントとして「観察・分類・比較の方法」、「書くために考える方法」が説明してあり、それに準じた練習問題が用意されています。著者は小中学校で教諭であり、練習問題も子供用に準備したものですが、なかなか歯ごたえがあります。これらをこなすことで文書の書き方が一通りマスターできると思います。
実際、文書を書くことが求められている人には参考になる本だと思います。