ひと頃に比べてフランス文学も流行らなくなった(?)感があるが,愛好者,読者,研究者は一定数いるわけで,研究は脈々と引き継がれている。
非常に内容の濃いフランス文学解説書だ。新書だと思って軽い内容だと思ったらとんでもない。何度も繰り返し読まないとすぐには理解できないし(少なくとも私には),繰り返し読むに値する内容である。私にとっては篠沢教授の「フランス文学講座」と並ぶ座右の書だ。本書のテーマは「見る」,「まなざし」,「視座」。この視点でフランス文学を俯瞰し,代表作を論じている。これだけの内容を新書で読めることを感謝しよう。
塚本先生有難うございました。
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フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書 2148) 新書 – 2012/1/24
塚本 昌則
(著)
'物語を〈見る〉とは、どういうことか。ルソーからボードレール、プルーストまで…書き手と読み手をつなぐイメージを探る十二章。
- 本の長さ240ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2012/1/24
- ISBN-104121021487
- ISBN-13978-4121021489
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2012/1/24)
- 発売日 : 2012/1/24
- 言語 : 日本語
- 新書 : 240ページ
- ISBN-10 : 4121021487
- ISBN-13 : 978-4121021489
- Amazon 売れ筋ランキング: - 700,614位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年6月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2014年8月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
フランス文学を知るには、
まず、これを読んで正解!
そう思わせてくれる文献でした。
まず、これを読んで正解!
そう思わせてくれる文献でした。
2016年3月30日に日本でレビュー済み
内面性の叙述を近代文学の特性とみる立場からの、近代フランス文学論。ルソーによって発見された「自我」が、その後、フランス文学の歴史の中でどのような運命をたどったのかを論じる。テーマは興味深いが、読みにくい。だが、本文中に、先行研究への言及が多く、本書を読んだ後で、何を読むべきかが分かり、フランス文学科の初心者には有益だろう。
2013年6月1日に日本でレビュー済み
「『身を置く』という姿勢、その姿勢をイメージ性の強力な発生装置とする文学には、形成期、
解体期、そして〈再生期〉(括弧がつくのは同じ形で復活するわけではないため)がはっきり
存在する。それは19世紀前半のロマン主義文学によって発展し、19世紀中盤のリアリズム
文学以降、さまざまな角度から切り崩され、20世紀にはそのままの形では通用しなくなる。
この流れに従って、本書第1部では、まず18世紀から19世紀にかけてのロマン主義の
作家たちの作品を読みながら、イメージの発生装置として、〈主観〉というフレームがどの
ように創られていったかを検討する。……第2部では、19世紀後半の文学に焦点をあて、
ある主観を通して見るという姿勢が小説の技法として定着することで、逆にさまざまな
解体の試みの対象となることを見てゆく。それは主観的な眼差しが、異界への扉として
機能しなくなってゆく過程でもある。
第3部では、『近代市民主義小説』の時代が終わり、前衛と後衛が交錯しながら別の道を
模索しはじめた20世紀文学における、ある独特の〈視覚装置〉の生成について、紙幅の
許す範囲で検討してみたい」。
「形成期」において提示されるのは文学史的 コペルニクス的転回 、例えば J-J.ルソー は
「社会に通用している価値規範を括弧でくくり、自分の経験だけを唯一の権威と考える、
新しい個人の姿を明確に示して」みせ、 スタンダール は「結晶作用」という仕方に従って、
「自己の内部により深く降りて」いった。
対して「解体期」が暴露するのは、 E.レヴィナス の夢物語を嘲笑うように、「無限」など
持ちえず、「全体性」に隷属する他ない人間のありよう。 ボードレール は「群衆」の中に、
「自己が増殖したかのような世界に陶酔感をおぼえる瞬間があったとしても、その後では
自己は蒸発し、自分が唯一の存在だと思いこんでいる他の人びとと区別がつかなくな」って
しまう姿を見出し、 E.ゾラ に至っては「時代」「環境」「遺伝」という変数に従属する関数と
して人間を的確に再定義してみせた。
「〈再生期〉」はいわば、モダンによってネタバレし切った世界から目を逸らす作法としての
ポストモダン的な非自明性の告発。「全体性」が人間を隈なく反映してしまうこの当たり前に
あえて気づかぬふりをして「個別学」の提唱者たらんとする ロラン・バルト は写真の中に宿る
「それは=かつて=あった」を通じて時間論のずらしを試みる。「写真は、過去から未来に
むかって直線的に流れるだけでなく、現在から過去へとむかう時間を生みだす」。
なんて具合に、結果として本書が一貫して行っている作業というのは、イメージ云々を
めぐるディスクールよりもむしろ、フランス文学をサンプルにとった近現代思想入門。
とはいっても、我田引水の力技で議論の枠に押し込んだという印象はなく、時系列を
辿って読解を施していったら、自然と話が合流してしまった、というのがその印象。
疑問はないではない。例えば M.プルースト が「写真を固定された像ではなく、想像力の
躍動できる空間にする」とき、そこで行われていることが「ザルツブルクの小枝」と一体
何が違うというのか、私にはまるで意味不明。例えばJ.デリダが「脱構築」を説くとき、
彼が真に述べていることは構築の非自明性と構築の不可欠性。ポストモダン(笑)が
あえて近代に気づかぬふりを決め込んだ上で、少しでもまともなことを語ろうとすれば、
結局近代の貧相な焼き直しに終始する他ないように、プルーストの「〈再生期〉」もまた、
近代の何ら新味なきコピー・アンド・ペーストというその範疇を逸脱するものではない。
「主観」の発見とて18世紀を待つまでもなく、 セルバンテス が騎士道物語と社会通念の
交わり得ぬ衝突として明確に打ち出したモチーフ。
スタンダールを筆頭に、取り上げられた作品のことごとくが私好みのラインナップだった
というその一点だけで、既に個人的には楽しくてたまらなかった一冊。
別に際立って目新しい観察が横たわるでもないが、ソリッドにまとまったテキスト。
解体期、そして〈再生期〉(括弧がつくのは同じ形で復活するわけではないため)がはっきり
存在する。それは19世紀前半のロマン主義文学によって発展し、19世紀中盤のリアリズム
文学以降、さまざまな角度から切り崩され、20世紀にはそのままの形では通用しなくなる。
この流れに従って、本書第1部では、まず18世紀から19世紀にかけてのロマン主義の
作家たちの作品を読みながら、イメージの発生装置として、〈主観〉というフレームがどの
ように創られていったかを検討する。……第2部では、19世紀後半の文学に焦点をあて、
ある主観を通して見るという姿勢が小説の技法として定着することで、逆にさまざまな
解体の試みの対象となることを見てゆく。それは主観的な眼差しが、異界への扉として
機能しなくなってゆく過程でもある。
第3部では、『近代市民主義小説』の時代が終わり、前衛と後衛が交錯しながら別の道を
模索しはじめた20世紀文学における、ある独特の〈視覚装置〉の生成について、紙幅の
許す範囲で検討してみたい」。
「形成期」において提示されるのは文学史的 コペルニクス的転回 、例えば J-J.ルソー は
「社会に通用している価値規範を括弧でくくり、自分の経験だけを唯一の権威と考える、
新しい個人の姿を明確に示して」みせ、 スタンダール は「結晶作用」という仕方に従って、
「自己の内部により深く降りて」いった。
対して「解体期」が暴露するのは、 E.レヴィナス の夢物語を嘲笑うように、「無限」など
持ちえず、「全体性」に隷属する他ない人間のありよう。 ボードレール は「群衆」の中に、
「自己が増殖したかのような世界に陶酔感をおぼえる瞬間があったとしても、その後では
自己は蒸発し、自分が唯一の存在だと思いこんでいる他の人びとと区別がつかなくな」って
しまう姿を見出し、 E.ゾラ に至っては「時代」「環境」「遺伝」という変数に従属する関数と
して人間を的確に再定義してみせた。
「〈再生期〉」はいわば、モダンによってネタバレし切った世界から目を逸らす作法としての
ポストモダン的な非自明性の告発。「全体性」が人間を隈なく反映してしまうこの当たり前に
あえて気づかぬふりをして「個別学」の提唱者たらんとする ロラン・バルト は写真の中に宿る
「それは=かつて=あった」を通じて時間論のずらしを試みる。「写真は、過去から未来に
むかって直線的に流れるだけでなく、現在から過去へとむかう時間を生みだす」。
なんて具合に、結果として本書が一貫して行っている作業というのは、イメージ云々を
めぐるディスクールよりもむしろ、フランス文学をサンプルにとった近現代思想入門。
とはいっても、我田引水の力技で議論の枠に押し込んだという印象はなく、時系列を
辿って読解を施していったら、自然と話が合流してしまった、というのがその印象。
疑問はないではない。例えば M.プルースト が「写真を固定された像ではなく、想像力の
躍動できる空間にする」とき、そこで行われていることが「ザルツブルクの小枝」と一体
何が違うというのか、私にはまるで意味不明。例えばJ.デリダが「脱構築」を説くとき、
彼が真に述べていることは構築の非自明性と構築の不可欠性。ポストモダン(笑)が
あえて近代に気づかぬふりを決め込んだ上で、少しでもまともなことを語ろうとすれば、
結局近代の貧相な焼き直しに終始する他ないように、プルーストの「〈再生期〉」もまた、
近代の何ら新味なきコピー・アンド・ペーストというその範疇を逸脱するものではない。
「主観」の発見とて18世紀を待つまでもなく、 セルバンテス が騎士道物語と社会通念の
交わり得ぬ衝突として明確に打ち出したモチーフ。
スタンダールを筆頭に、取り上げられた作品のことごとくが私好みのラインナップだった
というその一点だけで、既に個人的には楽しくてたまらなかった一冊。
別に際立って目新しい観察が横たわるでもないが、ソリッドにまとまったテキスト。
2012年2月11日に日本でレビュー済み
フランス近代文学の「まなざし」をめぐるエッセイ。各章ごとに
一人の作家を取り上げ、主人公が世界に投げかける視線が、19〜20
世紀の間にいかに変容していったかを考察している。
弾丸の飛び交う戦場で、主人公ファブリスの視野がとらえる飛び散る土や
泥にたまる血を、ありのままにとらえるスタンダールのまなざし。舞台のうえ
ではなく、観客の側を見つめ、そこに階層や職業といった「個」をはく奪
された人間の生理的反応を読み取るゾラのまなざし。ブレてピンボケした
糸杉の写真に、撮影者であり今は亡き妻の呼吸の痕跡を読み取ろうとする
(写真は星明りのもとで15分露出して撮影したものであるため、喘息の妻が
胸元で固定したときのかすかなブレが、写真上のボケとなって表れたのだ!)、
ジャック・ルボーのまなざし。
そのありようは多種多様だ。だが、20世紀にかけての大きな流れとして、焦点は
「世界をどのように見るか」から「見るという行為は何か」というメタ・フィ
ジカルな方向へと発展してきたことが、本書を読むとわかる(ヴァレリーはその
典型だろう)。こうした「まなざし」を解体する行為の行き着く果てにあるのは、
もはや何も書くことができない「文学の終焉」にほかならない。
まなざしとは、つまりは作家の世界観のことであり、本書はフランス近代文学の
入門書にもなっている。引用が豊富な点もいい。主に12人の作家が取り上げら
れているが、やはり素晴らしいと感じるのはネルヴァルとプルーストだ。特に
プルーストの世界観の独創性や圧倒的な豊かさは、このごく短い1つの章では到底
説明しきれない。プルーストの研究者である著者の、新たな作品を待ちたい。
一人の作家を取り上げ、主人公が世界に投げかける視線が、19〜20
世紀の間にいかに変容していったかを考察している。
弾丸の飛び交う戦場で、主人公ファブリスの視野がとらえる飛び散る土や
泥にたまる血を、ありのままにとらえるスタンダールのまなざし。舞台のうえ
ではなく、観客の側を見つめ、そこに階層や職業といった「個」をはく奪
された人間の生理的反応を読み取るゾラのまなざし。ブレてピンボケした
糸杉の写真に、撮影者であり今は亡き妻の呼吸の痕跡を読み取ろうとする
(写真は星明りのもとで15分露出して撮影したものであるため、喘息の妻が
胸元で固定したときのかすかなブレが、写真上のボケとなって表れたのだ!)、
ジャック・ルボーのまなざし。
そのありようは多種多様だ。だが、20世紀にかけての大きな流れとして、焦点は
「世界をどのように見るか」から「見るという行為は何か」というメタ・フィ
ジカルな方向へと発展してきたことが、本書を読むとわかる(ヴァレリーはその
典型だろう)。こうした「まなざし」を解体する行為の行き着く果てにあるのは、
もはや何も書くことができない「文学の終焉」にほかならない。
まなざしとは、つまりは作家の世界観のことであり、本書はフランス近代文学の
入門書にもなっている。引用が豊富な点もいい。主に12人の作家が取り上げら
れているが、やはり素晴らしいと感じるのはネルヴァルとプルーストだ。特に
プルーストの世界観の独創性や圧倒的な豊かさは、このごく短い1つの章では到底
説明しきれない。プルーストの研究者である著者の、新たな作品を待ちたい。
2012年1月28日に日本でレビュー済み
題名からは、フランス文学の全体像を扱っているように思えるが、内容は、フランスの近代文学の中で、”個人”がどのように扱われているか、が中心のテーマになっている。
題名に、もう少し、そうした配慮をしても良かったのではないか。
あとがきによれば、この本の構想は、写真を語る言葉が何を表現するのか、ということに対する関心からはじまったという。
それを表現しているのが、第'V部なのだが、それまでの第'U部とのつながりから見ると、明らかに、唐突で、つながっていない感じがする。
作者の構想はわかなくはないが、今ひとつまとまりに欠いた、私的なフランス文学講義になってしまった。
題名に、もう少し、そうした配慮をしても良かったのではないか。
あとがきによれば、この本の構想は、写真を語る言葉が何を表現するのか、ということに対する関心からはじまったという。
それを表現しているのが、第'V部なのだが、それまでの第'U部とのつながりから見ると、明らかに、唐突で、つながっていない感じがする。
作者の構想はわかなくはないが、今ひとつまとまりに欠いた、私的なフランス文学講義になってしまった。
2012年10月5日に日本でレビュー済み
氏の著作を読むのは始めてでしたが、スタンダールの「パルムの僧院」と平行してホメロスの戦闘シーンを引用したりと、伝統的な「比較文学」的アプローチが所々に現れるのが面白かったです。また、個人的には「近代文学の前提」のような議論(「ありふれた個人の生活をいかに興味深いものをして提示できるかという問題(仏文においては、フランス革命以前は存在しなかった)」(「はじめに」、p.5)や、「ある主観を通して見えてくるものを語り、人間の持つさまざまな感情の変化を通して何事かを語る...」(同じく「はじめに」、p.6−7)などの、氏が授業の冒頭に生徒に提示しているであろう発想の転換を促すような箇所を特に興味深く読みました。
英語圏の「文学理論」ものはまだ日本語に翻訳されたり、翻訳されないまでも紹介されたりが多いかと思うんですが、フランス語で出版されたものはやはり距離があるように思います。なので、氏が巻末で紹介されているような作品群が邦訳されたらなあと思いました(William Marx氏の"L'adieu a la litterature: histoire d'une devalorisation" や Antoine Compagnon氏の"La litterature: pour quoi faire?"など)。上記以外には改まった「まとめの言葉」、のようなものは無いので、紹介されている個々の作品を読んだことがあるか、またはこの本をガイドとしてこれからそれらの作品にあたる計画のある読者以外には物足りないかもしれませんが、廉価で秀逸な近代フランス文学論が聞けるという点でおすすめの本です。
英語圏の「文学理論」ものはまだ日本語に翻訳されたり、翻訳されないまでも紹介されたりが多いかと思うんですが、フランス語で出版されたものはやはり距離があるように思います。なので、氏が巻末で紹介されているような作品群が邦訳されたらなあと思いました(William Marx氏の"L'adieu a la litterature: histoire d'une devalorisation" や Antoine Compagnon氏の"La litterature: pour quoi faire?"など)。上記以外には改まった「まとめの言葉」、のようなものは無いので、紹介されている個々の作品を読んだことがあるか、またはこの本をガイドとしてこれからそれらの作品にあたる計画のある読者以外には物足りないかもしれませんが、廉価で秀逸な近代フランス文学論が聞けるという点でおすすめの本です。
2013年3月24日に日本でレビュー済み
本書は1959年生まれの文学博士が2012年に刊行した、「長期の19世紀」のフランス文学史である。本書の第一の特徴は、文学の内容よりも、著者の眼差しの在り方に重点を置いている点である。なぜなら市民革命後、著名な人物ではなく普通の庶民の物語が主流になった結果、多数の読者を吸引するために、主観の設定の仕方が重要になったためである。そのため本書は第二に、主観というフレームが形成されたロマン主義の時期、それが定着する中で徐々に解体されていくリアリズムの時期、それが再編される20世紀という三分法をとる。すなわち、自我の内部においてのみ外部を見つめるというルソーの姿勢が革命後に一般化するものの、自由の幻想が肥大化する中で生の限界もまた露呈し、習慣(コンスタン)、現実の中での不透明な自己との直面(スタンダール)、不透明な社会の分類と越境(バルザック)、中間状態(ネルヴァル)等によるその克服がまず目指される。しかしその結果として個人を拘束する社会に目が向き、その社会の中で意味づけられた些細な日常感覚を重視するリアリズムの時代が到来する。それはダイナミックな社会背景の下での、行為ではなく印象による統一性という新たな眼差しを開拓したフロベールに始まるが、その後、孤独な群衆に根底で共有された苦悩(ボードレール)、身体的欲望への注目による個性の消去(ゾラ)、人工的な美への逃避(ユイスマンス)、分類による安定化への懐疑(ヴァレリー)等に関心が移行し、その結果、自我中心主義は明白な破綻を迎えた。そうした危機に際し、20世紀には過去と未来のイメージを喚起し現前させることで現実を豊かにする写真の機能(バルト、プルースト)が注目されるようになる。そこで明らかになる第三の特徴は、たしかに私の自律は完全には存在しないが、それでも私は私でしかありえず、そこから思考錯誤するしかないという現実である。