本書は、17世紀前半から18世紀半ばのフランスにおける「動物に魂はあるのか」という議論を概観するものである。
序論「動物の方へ、人間のために」は、本書の問題関心とテーマ設定について。
第1章「動物論の前史」は、前史として、古代ギリシャ・ローマ世界での動物論、および16世紀フランスを代表する人文主義者モンテーニュを取り上げる。
第2章「デカルトの衝撃」は、デカルトを中心に<動物機械論>を概観する。
第3章「魂――物質と非物質との間」は、17世紀後半の<動物霊魂論>を概観する。
第4章「<常識派>への揺り戻し」は、18世紀前半の<動物霊魂論>を概観する。
第5章「論争のフェイド・アウト」は、ラ・メトリ、ビュフォン、コンディヤックを取り上げる。
第6章「現代の<動物の哲学>」は、現代の<動物の哲学>を概観する。
終章「<動物霊魂論>が浮き彫りにするもの」は、本書のこれまでの議論をまとめ、<動物霊魂論>の現代的意義について論じる。
以下、簡単な批評。
1) 西洋史の叙述は、一般的かつ形式的にいえば、古代ギリシャ・ローマ世界→中世キリスト教世界→西洋的近代世界→現代として描かれる。しかし本書は、幾人かの神学者を取り上げるだけで、キリスト教的霊魂観についてはまとまって議論していない。ところで、かつて奴隷制はキリスト教により正当化され、黒人奴隷は動物的扱いを受けていたが、クエーカー教徒らを中心に奴隷制廃止運動が起こり、廃止された。ここから、キリスト教的価値観が人間/動物の境界形成に影響を与えていただろうと考えられる。この点からも、本書がキリスト教的霊魂観を看過しているのは残念に思えた。
2)本書は、<動物機械論>が社会に浸透したせいで、「知識人」は動物の苦しみに対して無関心になったという。そしてそれは、「普通人」の日常的直観からは乖離していたと述べている(p.81)。しかし近世において、動物(特に猫)は娯楽としてしばしば「普通人」によって虐殺されていた。つまり、一般論として「普通人」が動物の苦しみに対して共感を寄せていたとは必ずしもいえない。
3) 本書は、ビュフォンが項目「猫」を精神的な資質に基づいて否定的に記述したと論じている(p.167)。ところで、猫は文化的に様々な意味を付された動物であり、近世においては魔力、性などを象徴していた。ビュフォンがそのような伝統的象徴から猫を否定的に記述したのか、あるいは単に猫が嫌いだったからなのかは不明だが、本書はそのような動物の象徴性については論じていない。
4) 本書は、<動物機械論>が「近代」の申し子であったと述べている(p.221)。では、「近代」を準備したとされる啓蒙思想家は動物機械論者だったのか。本書によれば、少なくともヴォルテールは動物機械論に共感を示してはいなかった。そもそも本書は、動物機械論に対する動物霊魂論の批判・優勢を基本的枠組みとしている。なぜ、いかに説得力を失ったはずの動物機械論が現代へと連なっていくのか。本書は、この問題に対してなんら答えていない。
5) 本書は入門書であり、以上のような「物足りなさ」があるが、それにもかかわらず多くの示唆に富む。<動物霊魂>という珍しいテーマから西洋思想を概観しているからだけでなく、その議論を現代の<生政治>へと接続しようとしている点が興味深い。動物/人間の境界に光を当てる<現代化された動物機械論>は非常にアクチュアルな問題であると感じられる。一読を勧めたい。

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動物に魂はあるのか 生命を見つめる哲学 (中公新書 2176) 新書 – 2012/8/25
金森修
(著)
動物に霊魂はあるのか、それとも動物は感じることのない機械なのか――。
アリストテレスに始まり、モンテーニュを経て、デカルトの登場によってヨーロッパ哲学界で動物をめぐる論争は頂点に達した。
古代ギリシャ・ローマ時代から二〇世紀のハイデッガー、デリダまで、哲学者たちによる動物論の系譜を丹念に跡づける。
動物/生命へのまなざしの精緻な読解によって「人間とは何か」を照らし出す、スリリングな思想史の試み。
アリストテレスに始まり、モンテーニュを経て、デカルトの登場によってヨーロッパ哲学界で動物をめぐる論争は頂点に達した。
古代ギリシャ・ローマ時代から二〇世紀のハイデッガー、デリダまで、哲学者たちによる動物論の系譜を丹念に跡づける。
動物/生命へのまなざしの精緻な読解によって「人間とは何か」を照らし出す、スリリングな思想史の試み。
- 本の長さ262ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2012/8/25
- 寸法11.1 x 1.3 x 17.4 cm
- ISBN-104121021762
- ISBN-13978-4121021762
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2012/8/25)
- 発売日 : 2012/8/25
- 言語 : 日本語
- 新書 : 262ページ
- ISBN-10 : 4121021762
- ISBN-13 : 978-4121021762
- 寸法 : 11.1 x 1.3 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 342,723位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,528位中公新書
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2012年9月11日に日本でレビュー済み
書名から連想したのと違って「動物の知性、精神、道徳的扱い等々について古今の思想家はどう考えてきたのか」という思想史もの。取り上げられてる思想家の多くは19世紀以前の人。またフランス中心。
デカルト〜ビュフォンあたりは生物学史にも関わってくるので興味深く読めたが、残念なことに著者の解説は分かりやすいとは言えない。小説のような飾った表現が多かったり、回りくどかったり、言葉の用法があいまいで一貫性がないことなど原因だろう。
20世紀以降は現代の思想として紹介されている。思弁的だった思想が現代化されてくるのがわかるというが、私には相変わらず思弁的に見える。たとえばシェーラーの「世界開放性」について。動物はユクスキュルの言う環境世界の中に生きているが人間だけには精神が宿っているのでそれを凌駕できる、ということだそうだ。でも根拠は何も示されていないし、環境世界を凌駕するとは具体的にどういう意味かも分からない。そもそも精神が人間だけに宿っているかどうかが本書のテーマのはず。なんの議論もなく受け入れちゃっていいのだろうか。これは経験科学ではなく哲学だからいいのだ、と言うのかもしれないが。
回りくどさや論理の飛躍は後半に加速し、文意を精確に追うのが困難になっていく。デリダのところは大変ひどく全く解説になっていない。そのかわりに「超有名で信者がたくさんいて哲学に大影響を与えて云々」ということが大仰な表現で述べられているだけ。
まとめとして現代では人間と動物の「安定的な範疇性の擾乱」が起きていて、それは「人間と動物の化学的混淆」と「脱動物化追求による非承認と排斥」によるのだとか。前後の文脈からすると、人間にも動物的な部分はあるし、動物も多少は道徳的に扱ってやらないとという意見も出てきて動物/人間という二分法は適切ではなくなってきて…ということなのだが、なぜもっと平易に表現しないのか謎だ。
デカルト〜ビュフォンあたりは生物学史にも関わってくるので興味深く読めたが、残念なことに著者の解説は分かりやすいとは言えない。小説のような飾った表現が多かったり、回りくどかったり、言葉の用法があいまいで一貫性がないことなど原因だろう。
20世紀以降は現代の思想として紹介されている。思弁的だった思想が現代化されてくるのがわかるというが、私には相変わらず思弁的に見える。たとえばシェーラーの「世界開放性」について。動物はユクスキュルの言う環境世界の中に生きているが人間だけには精神が宿っているのでそれを凌駕できる、ということだそうだ。でも根拠は何も示されていないし、環境世界を凌駕するとは具体的にどういう意味かも分からない。そもそも精神が人間だけに宿っているかどうかが本書のテーマのはず。なんの議論もなく受け入れちゃっていいのだろうか。これは経験科学ではなく哲学だからいいのだ、と言うのかもしれないが。
回りくどさや論理の飛躍は後半に加速し、文意を精確に追うのが困難になっていく。デリダのところは大変ひどく全く解説になっていない。そのかわりに「超有名で信者がたくさんいて哲学に大影響を与えて云々」ということが大仰な表現で述べられているだけ。
まとめとして現代では人間と動物の「安定的な範疇性の擾乱」が起きていて、それは「人間と動物の化学的混淆」と「脱動物化追求による非承認と排斥」によるのだとか。前後の文脈からすると、人間にも動物的な部分はあるし、動物も多少は道徳的に扱ってやらないとという意見も出てきて動物/人間という二分法は適切ではなくなってきて…ということなのだが、なぜもっと平易に表現しないのか謎だ。
2012年10月31日に日本でレビュー済み
「動物に魂はあるのか」とは、すなわち「動物と人間の違いは何か」である。
本書は、16〜18世紀フランスをメインとして、それに関する思弁の歴史を鳥瞰し、さらに20世紀以降の展開について述べている。
動物と人間は本質的に(根本的に)違うものなのか、それともその差は「程度問題」で違いはないのか。
動物と人間の差を作っているものは何か。そもそも動物と人間の境目はどこにあるのか。
「動物には感覚も感情もない」とするデカルトの「動物機械論」は、現代の我々の感性からは全く受け入れられないものだ。
しかし、この説はいったん廃れた後、「動物を人間のもつ高度な技術で利用する(動物実験、工場的飼育による大量食肉化等)」という現代社会において、実は復活しているという指摘に納得した。
動物に魂を認めるかどうかは、人間の倫理観の問題なのだ。
哲学関連の本としては文章も平易な部類で、「思想史」という世界への案内書として興味深く読める1冊である。
本書は、16〜18世紀フランスをメインとして、それに関する思弁の歴史を鳥瞰し、さらに20世紀以降の展開について述べている。
動物と人間は本質的に(根本的に)違うものなのか、それともその差は「程度問題」で違いはないのか。
動物と人間の差を作っているものは何か。そもそも動物と人間の境目はどこにあるのか。
「動物には感覚も感情もない」とするデカルトの「動物機械論」は、現代の我々の感性からは全く受け入れられないものだ。
しかし、この説はいったん廃れた後、「動物を人間のもつ高度な技術で利用する(動物実験、工場的飼育による大量食肉化等)」という現代社会において、実は復活しているという指摘に納得した。
動物に魂を認めるかどうかは、人間の倫理観の問題なのだ。
哲学関連の本としては文章も平易な部類で、「思想史」という世界への案内書として興味深く読める1冊である。
2012年11月20日に日本でレビュー済み
動物の魂についての「哲学史」なのだが、扱われるのは17,8世紀のヨーロッパと、範囲は限られたものである。哲学者別の解釈が続く部分は新書とはいってもわかりやすいとはいえない。。デカルトやヴォルテールなどは誰でもがある程度知っているのだろうが、まったく知らない人もたくさん出てきてとまどう。
最後の方で現代につなげてはあるのだが、西洋の限られた時代の哲学者の思考だけから、日本人の読者に「動物の魂」の哲学を語るのは少し説得力がたりないように思われる。西洋では「動物と人間」の間のどこで魂のあるなしの線引きをするかが問題であり続けてきたようだが、日本人はどこかに「(動物のみならず)ものすべてに魂がある」という考えをもち続けてきたのではないだろうか。針供養しかり。その一方「カブトムシが壊れた」という表現を用いる人もいたりと、日本人の「魂」の考え方は容易に変わってしまうという性格もあらわしている(いや、人間全部かもしれない)。
東洋的な扱いも含めて現代の「魂」観につなげてもらえれば、もう少し実感を持って考えられる本になったように思われた。
著者の結論(終章)は、「動物に魂はない。しかし人間や犬・猫にはある・・・」ということらしい。しかし、犬猫は動物ではないのか。動物のどこまでである、ないでわけられるのか。言葉そのものが持つ「分けて定義する」性質と、現実の世界の距離が議論の中で露わにされた気がする。
立ち位置の自分との違いは感じたのだが、あらためて考える時間をもらったと思えるのは、著者なりに真摯に考え、初学者にむけて語ってくださったからだろう。「いまさら」と思っても、放り出さずに読み続けると得るものが多い、そういう読書の一つとなった。
最後の方で現代につなげてはあるのだが、西洋の限られた時代の哲学者の思考だけから、日本人の読者に「動物の魂」の哲学を語るのは少し説得力がたりないように思われる。西洋では「動物と人間」の間のどこで魂のあるなしの線引きをするかが問題であり続けてきたようだが、日本人はどこかに「(動物のみならず)ものすべてに魂がある」という考えをもち続けてきたのではないだろうか。針供養しかり。その一方「カブトムシが壊れた」という表現を用いる人もいたりと、日本人の「魂」の考え方は容易に変わってしまうという性格もあらわしている(いや、人間全部かもしれない)。
東洋的な扱いも含めて現代の「魂」観につなげてもらえれば、もう少し実感を持って考えられる本になったように思われた。
著者の結論(終章)は、「動物に魂はない。しかし人間や犬・猫にはある・・・」ということらしい。しかし、犬猫は動物ではないのか。動物のどこまでである、ないでわけられるのか。言葉そのものが持つ「分けて定義する」性質と、現実の世界の距離が議論の中で露わにされた気がする。
立ち位置の自分との違いは感じたのだが、あらためて考える時間をもらったと思えるのは、著者なりに真摯に考え、初学者にむけて語ってくださったからだろう。「いまさら」と思っても、放り出さずに読み続けると得るものが多い、そういう読書の一つとなった。
2012年12月31日に日本でレビュー済み
ギリシャおよび16-7世紀の主としてフランス哲学における「動物機械論」、「動物霊魂論」の「哲学史」である。そのようなものとして著者の薀蓄に付き合う気にさせられてしまうのは、何某のしかじかの論述についてここでは詳述する余裕はないので著書**をぜひ読んで欲しい・・・という類の記述が至るところにあるためだろう。著者のゼミでも受けて単位をもらおうなどというスタンスにない読者には余計なこと、そういう細部はイイから大づかみにやってよ・・とツイ読み飛ばしそうになる。でも、薀蓄の要所要所は楽しく読むことができた。
そして終章では、食肉や動物実験などの先にバイオテクノロジーに支えられた<現代化された動物機械論>が展開されていることに対抗すべき<現代の動物霊魂論>はないものか?と問いが発せられる。ここでにわかに著者の論調は世界各地の先住民たち(たとえばアイヌ民族のような)の動物に対する素朴な姿勢と同じものに流れ込んでいく。それは本書に述べられた碩学たちのさんざん「哲学」をやったあげくの終着点として出てくるものではないので、下剤を処方された便秘持ちのような気持ちになる。現代の問題は過去の哲学では解けないので、やむを得ないところだろう。
そして終章では、食肉や動物実験などの先にバイオテクノロジーに支えられた<現代化された動物機械論>が展開されていることに対抗すべき<現代の動物霊魂論>はないものか?と問いが発せられる。ここでにわかに著者の論調は世界各地の先住民たち(たとえばアイヌ民族のような)の動物に対する素朴な姿勢と同じものに流れ込んでいく。それは本書に述べられた碩学たちのさんざん「哲学」をやったあげくの終着点として出てくるものではないので、下剤を処方された便秘持ちのような気持ちになる。現代の問題は過去の哲学では解けないので、やむを得ないところだろう。