<島津退き口>目当てで司馬遼太郎さんの『関ヶ原』を読んでいたはずが、大河ドラマとともに同書を鑑賞していたらいつのまにか官兵衛ファンになってきて、作品の中の一体どこからどこまでが史実で、どこが司馬さんまたは脚本家さんの創作なのかが気になり、本書並びに複数の官兵衛本を渉猟しました。
本書は他のレヴュアーさんも書かれている通り、官兵衛の生涯を時系列的に追ったものですが、資料を丁寧に当たられ出典も明記されており、入門書としてお勧めできる誠実な仕事の良書と思います。武辺のみでなく、和歌や茶の湯にも才を発揮した文化人として、また敬虔なキリシタンとしての官兵衛の顔を一歩深く知ることができて勉強になりました。
それにしてもわたしは、長年誠実に尽くしてきた官兵衛を殺そうとした主君・小寺政職を許したことと、竹中半兵衛が信長の命に背いて官兵衛の嫡男・松寿丸を生かしておいたことは、いくらなんでも話が出来過ぎではないかと感じ、正直創作だと思っていました
本書ではそもそも「信長が松寿丸を殺せと指示したかどうかは資料から分からない、黒田家を信用していたということを思わせる資料もある」とされていました。ちなみに半兵衛が松寿を匿ったという話は『黒田家譜』に見える記述が根拠のようです。何の恩もないのにわざわざ逸話を創作して黒田の家が半兵衛の株をあげる理由が分かりませんから、本当なのかなと思いますが・・。ちなみに海音寺潮五郎先生は『武将列伝』の中で「両雄は並び立たないと言われるが、この二人は随分仲が良かったようである。二人とも、寵を争ったり、勢力を争ったりするような料簡の狭い人間ではなかったのである」とか「半兵衛が松寿丸を殺さずして菩提山城に匿っていると聞いて、(官兵衛が)大いに喜んだと、魔釈記、黒田家譜、古郷物語等にある。半兵衛と官兵衛のなかがよくなくては、こうはいくまい」と書かれています。渡邊大門さん『黒田官兵衛―作られた軍師像』でも、「実在する書状に半兵衛が信長に忠言したとの記載があるので、史実と認めてよい」「官兵衛と半兵衛の間には強い信頼関係があったようだ」と書かれています。
このあたり、事実と認識して扱っている本と疑義をはさんでいる本があります。高松城水攻めの発案が秀吉なのか官兵衛なのかや、関ヶ原時の九州での挙兵理由についても諸説あり微妙なところのようです(安倍龍太郎さん『風の如く 水の如く』は晩年の挙兵を掘り下げたお話。本多正純が家康の命で如水の心底を探っていくのですが、結城秀康との関係や如水のキリシタン・ネットワークのことなどをうまく組み合わせ非常によく考えられていて感嘆しました。玄人向けというか本格的なので頭を使いますが、そのぶん読み応えのある個性的な作品です)。
しかし半兵衛の逸話が本当なら、いくら死期が近かったからとは言えあの信長に逆らって人質を隠すなんていう離れ業を涼しい顔でやってのける竹中半兵衛のくそ度胸には脂汗をかきます。武将版藤原行成か。敵に回したくないことこの上ありません。しかし、半兵衛が官兵衛の忠義を信頼して松寿丸を生かしていたこと、秀吉と官兵衛の「義兄弟」の誓紙を破いたことは、先見のできた半兵衛からの官兵衛への友情でありましょうし、感動を禁じ得ません。明敏な頭脳と、寡欲な曇りのない目があらばこそここまで間違いのない判断が下せ、また並はずれた度胸があるからこそその知略を実行できるのでしょう。孫子の兵法書で有名な「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」という兵法の基本のキが徹底されているという気がしますし、そのためには虚心さが必要であり、両兵衛は常にそうあろうと努めていたのでしょう。
官兵衛は若さと人が良いせいで惨い目にも遭いましたが、こんなにいい友人−あるいは理解者―(まあ変人ですが)を得たことは本当に幸運だったと思います。「士は己を知るもののために死す」と言いますが、信長や多くの同僚が―あるいは秀吉さえもが(諸説あります)―疑った己の忠義を信じて、命がけの手を打ってくれていた人がいたということに、誠実な官兵衛はどれほど感銘を受けたことかと想像し泣けてきます(注・わたしのこのあたりの感想は火坂雅志さんの『軍師の門』にかなり影響されているのでお気を付けください。同書は小説としての出来がいいので引き込まれて本に読まれてしまう・笑)
半兵衛像にも色々あり、資料にあたろうにもあまり入手しやすいものがなくて悩ましい所です。小兵の優男という容姿についてはどの本でもかなり一致していますが、性格や能力にはぶれが・・。想像するのは楽しいのですが。秀吉への忠誠心がどの程度だったのか、最大の目的は何だったのかなども、もう少し知りたい。海音寺先生は寡欲な芸術家肌の人物として捉えられていますし、わたしの見た限りこの見方が多いですが、火坂さんはもう少し野心家として描いておられます。
また、作品によっては(笹沢佐保さん『軍師・竹中半兵衛』)半兵衛は、割と早い段階で秀吉が半兵衛や官兵衛を恐れて遠ざけるだろうことを見抜いていますが、実際はどうだったのでしょうか。諸葛孔明と劉備玄徳は最後まで強い信頼関係で結ばれていましたが、あれは劉備が傑出した人格者だったからなのか、蜀が天下統一まではしていなかったからなのか・・などということまで考えてしまいます。官兵衛がどの時点で秀吉との間の決定的な溝を感じ始めたのかも気になります。やはり政権が安定期に入り、三成ら若く秀吉子飼いの文吏派の台頭で、じわじわきていたのか。楠木誠一郎さんの『黒田官兵衛は天下を狙ったのか』では北条攻めの際だったのではと書かれていましたが・・。と言っても、小寺にせよ豊臣にせよ主人を裏切ることは生涯なかった官兵衛ですが。
ともあれ官兵衛には、有岡城で酷い目に遭い、天下統一後も秀吉に警戒されて実績の割には微禄しかもらえなかった分(最終的に黒田家は五十二万石の大大名になるとはいえ、それは家康から長政に対する報奨ですし)、死後はできれば秀吉よりも誉めたたえられて欲しいと個人的に思い微力ながらレヴューさせてもらいました(笑)。秀吉も大人物ですが晩年の皇帝になったナポレオン的暴挙の印象が強すぎて・・。
図抜けて頭が良く、戦でも残酷なことは極力避けしかも戦の采配を取ればほぼ負け知らずで、漢籍を暗記している上和歌も読めれば茶の湯もできる教養人、家臣や民を大事にし、質素寡欲で、子ども好きで、誠実で、その気になれば天下も取れただろうに欲が無くて取らなかった男(少なくとも欲があれば小寺氏くらいは下剋上してたんでないでしょうか)、こんなにも器量人なのにやり方とキャラクターが地味なせいかいまひとつ知名度が低いのが惜しまれます。大河のおかげで随分ネームバリューは上がったでしょうが・・。
以上、振り返ればなんか熱く書き過ぎましたが、官兵衛に対して少し冷静になりたい方は童門冬二さん『黒田官兵衛―知と情の軍師』をお読みください。童門さんは官兵衛をお好きらしいと聞きましたが、その割には少し悲しくなる位彼を過大に評価することなく書かれていると思います(笑)。秀吉がお伽衆に「次の天下取りは官兵衛」と言ったという逸話は、『黒田家譜』や江戸時代に編まれた『名将言行録』が根拠の様で信憑性が薄く、本書では言及はないですし、童門さんもカットされていました(十数年前に書かれた官兵衛本にはこの逸話を紹介されていましたが―ちなみに火坂雅志編『実伝 黒田官兵衛』所収のもの。内容の重複を避けられたのか、信憑性の点を鑑みて言及を避けられたのかは分かりません)。渡邊大門さんは『故郷物語』『常山紀談』にも同様の逸話が見られるとしながらも、童門さんと同じく「12万石は官兵衛の身分を考えれば不当に低いとはいえないのではないか」とし、「黒田官兵衛なら天下を取れた」というのは後世の誇張も入っていると思うと結論されています。
なお、やや蛇足ですが坂口安吾『二流の人』(同名の海援隊さんの歌の存在は最近知りました。歌詞を一読してなんか泣けてきました・笑)では、官兵衛は<一流の人>徳川家康に比して、分際を弁えきれないちょっと大人げない才人のごとく書かれていましたが、大好きな直江兼続のことさえ皮肉っぽく書くことのある安吾、なにせあの文壇の反逆児・ぶいぶい無頼の安吾なので、真意が奈辺にあるかは読者諸賢のご想像にお任せということでいいのではないでしょうか。信憑性の薄い逸話を根拠に如水の人物像を描いている部分もありますが、安吾一流の人物観がうかがえて興味深いですので、興味のある方はご一読を。さして長くないですし、キンドルなら無料で読めます。
司馬遼太郎さんは『播磨灘物語』のあとがきで「友人に持つなら官兵衛のような男がいい」と書かれていただけあり―ちなみに童門さんもあるインタヴューで「一緒に酒を飲んで語らいたいような人物」と言っておられました―小説を読んでいても作者の好意というか、温かい気持ちみたいなものを感じました。ただ奥さんの名前も違う(同書ではなぜか「お悠」。大河や最近の本では「光(てる)」)し、キリシタンになった時期も他の資料と異なっており、あくまで小説なので、どこまで資料として信頼できるのかはわかりません。
「如水」の由来となったのは「水は方円の器に随う」、「身は 褒貶毀誉 ( ほうへんきよ ) の間にあるといえども、心は水のごとく清し」とのことですが(『播磨灘物語』『武将列伝』等に見える)兵法書にも水のあり方を理想とする記述がありますし、荘子には「君子の交わりは淡きこと水の如し」という言葉もありますね。わたしは「身は・・」の言葉を聞いた時非常に感動しました。素直に取り過ぎるのも問題かもですが、良い言葉だなと思います。こうありたいものです。名前の由来は、変わったところでキリスト教の聖書に登場する<ヨシュア(ジョシュア)>ではないかという説もあるようですが。
しかし政敵ともいえる関係だった三成と官兵衛が今は京都の奥座敷・利休切腹の因となったことで有名な山門のある大徳寺で、同じ境内に眠っているということを最近偶然知りましたが、ヴォルテールとルソーがフランスのパンテオンに眠っているようで、なんとも言えませんね。
長文失礼しました。
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黒田官兵衛 - 「天下を狙った軍師」の実像 (中公新書 2241) 新書 – 2013/11/22
諏訪 勝則
(著)
時代の趨勢を読み、織田陣営についた黒田官兵衛は、瞬く間に頭角を現した。
秀吉の右腕として中国経略、九州遠征、小田原合戦など各地を転戦。
官兵衛の働きなくして秀吉による全国統一もなかった。
「稀代の軍師」とも呼ばれる武将の活躍の実態はいかなるものだったのか。
関ヶ原合戦に際して天下を目指したとする説の真偽は――。
茶の湯や連歌に優れ、キリスト教信仰を貫くなど、名将の知られざる側面にも光を当てる意欲的評伝。
【目次】
第一章 黒田氏の系譜
/ 黒田氏発祥の地/祖父重隆/父職隆
第二章 播磨の麒麟児
幼少期と黒田家周縁/官兵衛の成長/黒田家の総帥として
第三章 信長時代の激闘
信長に従う/秀吉に従う/幽囚となる/小寺から再び黒田へ
第四章 豊臣政権確立期の活躍
秀吉の天下取りを支える/四国遠征/九州遠征/豊前六郡の支配/敬虔なキリシタン/茶の湯に目覚める
第五章 天下統一から海外遠征へ
小田原合戦/朝鮮出兵/官兵衛と茶の湯/官兵衛と連歌
第六章 関ヶ原合戦と官兵衛の晩年
関ヶ原合戦と九州/合戦後の官兵衛
終 章 「軍師」の実像
文武両道の名将/その後の黒田家
秀吉の右腕として中国経略、九州遠征、小田原合戦など各地を転戦。
官兵衛の働きなくして秀吉による全国統一もなかった。
「稀代の軍師」とも呼ばれる武将の活躍の実態はいかなるものだったのか。
関ヶ原合戦に際して天下を目指したとする説の真偽は――。
茶の湯や連歌に優れ、キリスト教信仰を貫くなど、名将の知られざる側面にも光を当てる意欲的評伝。
【目次】
第一章 黒田氏の系譜
/ 黒田氏発祥の地/祖父重隆/父職隆
第二章 播磨の麒麟児
幼少期と黒田家周縁/官兵衛の成長/黒田家の総帥として
第三章 信長時代の激闘
信長に従う/秀吉に従う/幽囚となる/小寺から再び黒田へ
第四章 豊臣政権確立期の活躍
秀吉の天下取りを支える/四国遠征/九州遠征/豊前六郡の支配/敬虔なキリシタン/茶の湯に目覚める
第五章 天下統一から海外遠征へ
小田原合戦/朝鮮出兵/官兵衛と茶の湯/官兵衛と連歌
第六章 関ヶ原合戦と官兵衛の晩年
関ヶ原合戦と九州/合戦後の官兵衛
終 章 「軍師」の実像
文武両道の名将/その後の黒田家
- 本の長さ253ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2013/11/22
- ISBN-104121022416
- ISBN-13978-4121022417
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2013/11/22)
- 発売日 : 2013/11/22
- 言語 : 日本語
- 新書 : 253ページ
- ISBN-10 : 4121022416
- ISBN-13 : 978-4121022417
- Amazon 売れ筋ランキング: - 373,604位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,664位中公新書
- - 10,410位日本史 (本)
- - 69,115位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年9月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
黒田官兵衛は、なかなか魅力ある人物であるらしい点は、ほぼ間違いないような気がしますので、 それ故、NHKの大河ドラマとして登場したのでしょう。 大河ドラマゆえに、広く視聴者から見て少しでもおもしろくしなければいけない宿命にあるようですので、勢い、多くの虚構が入り込んでしまう余地があるようです。 そうしますと、どうしても本当の官兵衛の姿がぼやけてしまう傾向にあることでしょう。 官兵衛の足跡を記すにあたって、史実として認められる事実と、後世の人々によって造られた虚構ではないか、という点を常に言及しつつ著したことに、この書を読む価値があると思います。 また、官兵衛の業績について、彼を英雄視するあまり、あたかも彼が一人でやったような見地で業績を記す著作が多い中、この書はそうではなく、共同作業として、あるいはチームワークとして、その仕事に携わった武将や人物の名前も、等しく、できる限り挙げている点も、この書の評価すべき点かと考えます。 何事も、大きな仕事では、一人の英雄の陰には、実に多くの有能なメンバーの支えがあったことを教えているのが、この書の特徴ともいえるかと思います。
歴史事実を少しでも面白くわかりやすく記して、世間に広めることは大切なのでしょうが、史実と虚構とを峻別することは、正しい歴史を知るうえで、とても大切なことではないでしょうか。
黒田官兵衛について一通り知っている方が、ご自分の知識を検証するために本書を読まれるという点で、好著かと考えます。
歴史事実を少しでも面白くわかりやすく記して、世間に広めることは大切なのでしょうが、史実と虚構とを峻別することは、正しい歴史を知るうえで、とても大切なことではないでしょうか。
黒田官兵衛について一通り知っている方が、ご自分の知識を検証するために本書を読まれるという点で、好著かと考えます。
2023年8月6日に日本でレビュー済み
豊臣秀吉の天下統一事業に多大な貢献があったという黒田官兵衛。
しかし、彼のイメージは「軍師」という作戦参謀のような知略で敵を倒すようなものばかり。
本当の官兵衛はどんな人物だったのかという彼の実像に迫ります。
官兵衛は播磨の豪族である小寺氏の家臣でした。それが歴史の表舞台に登場するのは戦国の世。
足利義昭を奉じて上洛した織田信長の天下統一事業と共に現在の兵庫県も西に毛利氏、東に織田氏という二大勢力に挟まれて間の小豪族はどちらに味方するのか決断を迫られることになります。
若き官兵衛は主君・小寺政職に織田信長に味方するように進言して以後、織田家と共に周辺豪族と戦うようになるのでした。
官兵衛自身は小寺家の家臣の為、織田家との折衝の窓口になることは多かったものの、身分的には下の為、直接信長と会う機会は少なかった模様。また、基本的に播磨方面を担当していたので、浅井・朝倉、本願寺、長島の一向一揆、武田家などの信長周辺の反勢力との戦いには不参加です。
本格的な活躍は、中国方面に羽柴秀吉が司令官としてやってきて、秀吉の下に付く様になってからです。
そして秀吉に重用されるようになったと思ったら「本能寺の変」が起こり、彼の人生も秀吉と共に一変します。直ぐに大返しして光秀を討つ事で天下人への道を歩めると秀吉に進言したのは官兵衛だとも言われ、光秀を討った秀吉は織田家の内紛をリードして、柴田勝家との戦いに勝利。強敵・徳川家康とも和睦して西の毛利氏を取り込みます。この際には交渉に官兵衛が当たり、織田家と和睦する際には取り決めていた領土の割譲は無くなって現状維持で味方に付ける事ができたようです。
その後、四国の長宗我部家を下し、九州へと進軍する際は官兵衛は現地の兵糧や兵士の調達やその他諸々のことまで一手に引き受けての大活躍。さらには現地の豪族を交渉の末に味方に付ける等、ある意味、ここが彼の活躍の頂点でした。
秀吉はこの頃から中国大陸への進出を考えており、北九州に前線基地を築くつもりでした。
しかし・・・九州に領地を与えられた官兵衛はキリスト教に入信してキリシタンとなってしまいます。
この本ではこれが中津12万石という小身に官兵衛が抑えられた大きな理由だと言います。後に禁教、即ちキリシタンを追放する秀吉にとって信頼していた官兵衛がキリシタンになったのは裏切りであり、大きな失望だったのだしょう。
ですが、表立っては彼は秀吉には処罰されません。小田原の北条家、さらには東北地方の平定に官兵衛が果たした役割は大きく、過去の手柄で秀吉による処罰を免れることができたようです。
しかし、両者の蜜月はこの頃に終わりを迎え、後に始まった朝鮮出兵でも官兵衛は現地に渡海したものの、病気になるなどしてさしたる活躍はできませんでした。これは石田三成を始めとする文治派の讒言も少なからずあった模様ですが、晩年の秀吉から官兵衛の心は離れていたのでしょう。
やがて秀吉が死ぬと泥沼の朝鮮の戦いも終結して、ようやく官兵衛も帰国できました。
息子の長政に家督を譲って隠居の身分の官兵衛は歌を詠んだり、茶の湯に勤しんだりと文化人と交流して人脈を作り、その間に徳川家康と反徳川である石田三成たちとの動向を九州で注視していたようです。
そして、会津の上杉景勝を討つ兵を出した家康の留守に三成たちが挙兵すると、九州の官兵衛は既に徳川家康と親交を深めていたため、徳川方として参戦し、九州の西軍の武将たちを攻めて城を落としていきます。
息子の長政は家康に従って関が原の本戦で東軍の勝利に貢献しました。
巷でよく言われている「息子の長政が家康に褒められたと自慢したら、何で家康を刺さなかった?」といったエピソードは後世の創作で、実際は家康から停戦命令が出るとそれに従っています。
これが官兵衛最後の戦いでした。その後は病気がちとなり、関が原から4年後の1604年には59歳で死去しています。
彼は後世で言う「軍師」などではなく、普通に戦国武将で若い時は前線に出て戦闘に参加し、敵を討ち取りました。勿論、無駄な犠牲を出すことを好んではおらず、可能な限り敵を取り込むようにしていた。
そうすると「無益な朝鮮侵略」の戦いは官兵衛の本意ではあるはずもなく、積極的な力の発揮は却って戦争を長引かせると読んでいたのかもしれません。
官兵衛が変わったのではなく、変わったのは秀吉だったのでしょう。
「天下人」の孤独をよく知っていた彼が「自分がその天下人になろう」などと考えていたのか?
おそらく、無いでしょうね。
しかし、彼のイメージは「軍師」という作戦参謀のような知略で敵を倒すようなものばかり。
本当の官兵衛はどんな人物だったのかという彼の実像に迫ります。
官兵衛は播磨の豪族である小寺氏の家臣でした。それが歴史の表舞台に登場するのは戦国の世。
足利義昭を奉じて上洛した織田信長の天下統一事業と共に現在の兵庫県も西に毛利氏、東に織田氏という二大勢力に挟まれて間の小豪族はどちらに味方するのか決断を迫られることになります。
若き官兵衛は主君・小寺政職に織田信長に味方するように進言して以後、織田家と共に周辺豪族と戦うようになるのでした。
官兵衛自身は小寺家の家臣の為、織田家との折衝の窓口になることは多かったものの、身分的には下の為、直接信長と会う機会は少なかった模様。また、基本的に播磨方面を担当していたので、浅井・朝倉、本願寺、長島の一向一揆、武田家などの信長周辺の反勢力との戦いには不参加です。
本格的な活躍は、中国方面に羽柴秀吉が司令官としてやってきて、秀吉の下に付く様になってからです。
そして秀吉に重用されるようになったと思ったら「本能寺の変」が起こり、彼の人生も秀吉と共に一変します。直ぐに大返しして光秀を討つ事で天下人への道を歩めると秀吉に進言したのは官兵衛だとも言われ、光秀を討った秀吉は織田家の内紛をリードして、柴田勝家との戦いに勝利。強敵・徳川家康とも和睦して西の毛利氏を取り込みます。この際には交渉に官兵衛が当たり、織田家と和睦する際には取り決めていた領土の割譲は無くなって現状維持で味方に付ける事ができたようです。
その後、四国の長宗我部家を下し、九州へと進軍する際は官兵衛は現地の兵糧や兵士の調達やその他諸々のことまで一手に引き受けての大活躍。さらには現地の豪族を交渉の末に味方に付ける等、ある意味、ここが彼の活躍の頂点でした。
秀吉はこの頃から中国大陸への進出を考えており、北九州に前線基地を築くつもりでした。
しかし・・・九州に領地を与えられた官兵衛はキリスト教に入信してキリシタンとなってしまいます。
この本ではこれが中津12万石という小身に官兵衛が抑えられた大きな理由だと言います。後に禁教、即ちキリシタンを追放する秀吉にとって信頼していた官兵衛がキリシタンになったのは裏切りであり、大きな失望だったのだしょう。
ですが、表立っては彼は秀吉には処罰されません。小田原の北条家、さらには東北地方の平定に官兵衛が果たした役割は大きく、過去の手柄で秀吉による処罰を免れることができたようです。
しかし、両者の蜜月はこの頃に終わりを迎え、後に始まった朝鮮出兵でも官兵衛は現地に渡海したものの、病気になるなどしてさしたる活躍はできませんでした。これは石田三成を始めとする文治派の讒言も少なからずあった模様ですが、晩年の秀吉から官兵衛の心は離れていたのでしょう。
やがて秀吉が死ぬと泥沼の朝鮮の戦いも終結して、ようやく官兵衛も帰国できました。
息子の長政に家督を譲って隠居の身分の官兵衛は歌を詠んだり、茶の湯に勤しんだりと文化人と交流して人脈を作り、その間に徳川家康と反徳川である石田三成たちとの動向を九州で注視していたようです。
そして、会津の上杉景勝を討つ兵を出した家康の留守に三成たちが挙兵すると、九州の官兵衛は既に徳川家康と親交を深めていたため、徳川方として参戦し、九州の西軍の武将たちを攻めて城を落としていきます。
息子の長政は家康に従って関が原の本戦で東軍の勝利に貢献しました。
巷でよく言われている「息子の長政が家康に褒められたと自慢したら、何で家康を刺さなかった?」といったエピソードは後世の創作で、実際は家康から停戦命令が出るとそれに従っています。
これが官兵衛最後の戦いでした。その後は病気がちとなり、関が原から4年後の1604年には59歳で死去しています。
彼は後世で言う「軍師」などではなく、普通に戦国武将で若い時は前線に出て戦闘に参加し、敵を討ち取りました。勿論、無駄な犠牲を出すことを好んではおらず、可能な限り敵を取り込むようにしていた。
そうすると「無益な朝鮮侵略」の戦いは官兵衛の本意ではあるはずもなく、積極的な力の発揮は却って戦争を長引かせると読んでいたのかもしれません。
官兵衛が変わったのではなく、変わったのは秀吉だったのでしょう。
「天下人」の孤独をよく知っていた彼が「自分がその天下人になろう」などと考えていたのか?
おそらく、無いでしょうね。
2015年7月10日に日本でレビュー済み
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読み物としてはしっかりと集中して読まないとなかなか頭に入ってこない。視点はかなり良いと思うが、読み手を飽きさせない工夫が欲しかったと思う。
2014年8月1日に日本でレビュー済み
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大河で初めて知ったことも多く、それを知識としてしっかり把握するのに便利です。
2014年2月13日に日本でレビュー済み
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黒田官兵衛という、厳密に言えば軍師ではない人物に関して、出典や情報源の信頼性も含めて、時系列で解説してくれている。
一貫して、原典を引用する際にも前後に、平易な解説文を入れてあり、わかりやすい。
官兵衛の人生の転機と思われる、情報を網羅し、関連する人物も丁寧に書かれている。
事実がわからない点は正直に述べている。
信頼でき、わかりやすいということから、最高の評価をつけた。
一貫して、原典を引用する際にも前後に、平易な解説文を入れてあり、わかりやすい。
官兵衛の人生の転機と思われる、情報を網羅し、関連する人物も丁寧に書かれている。
事実がわからない点は正直に述べている。
信頼でき、わかりやすいということから、最高の評価をつけた。
2014年4月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
詳しくそして、知りたいことが書かれていた。、できれば、九州時代をもう少し知りたいが。人気の時にこそ、文献資料の発掘が期待されるか。
2015年1月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本はNHK発行ではないですが、大河ドラマの解説本として、とても参考になりました。ドラマの情感こもったセリフは出てきませんが、理知的、抑制的な官兵衛像を思い描くことができました。