オランダの歴史学者ホイジンガの同書を堀越孝一氏が平易に翻訳したものの文庫版で、この上巻では第12章までを扱っている。作品の価値を高めているのは堀越氏特有の文体による日本語への訳業に負うものが多く、難解な哲学書的な印象がないのは流石だ。またしばしば使われるホイジンガ独特の詩的な情景描写などもその雰囲気を良く訳出しているし、訳注の付け方も読者への便宜が考慮された要領を得たものになっているのが有難い。ホイジンガが第一版緒言で述べているように14世紀から15世紀のネーデルランド及びフランスの文化をルネサンスの告知と捉えず、中世がその生涯の最後の時を生きた季節として見る。彼の言葉によれば『あたかも思うがままに伸びひろがり終えた木のごとく、たわわに実をみのらせた。古い思考の諸形態がはびこり、生きた思想の核にのしかぶさり、これをつつむ。ここに、ひとつのゆたかな文化が枯れしぼみ、死に硬直する』と。そこにはこの時代にしか達し得なかった典型的な文明の終焉が、幅広い考察と多くの逸話、おそらく入門者にとっては多過ぎるエピソードと共に描き出されている。
中世には相次いだ戦乱や過去に例を見なかったほどのペストの大流行などによる終末思想がはびこり、誰もが世の終わりが近付いていることを感じずにはいられなかった。それゆえこの時代に生きた人々の思考そのものがメランコリーとペシミズムに覆われていたことは想像に難くない。フランス宮廷やブルゴーニュを中心とする諸侯の間では血で血を洗う復讐劇が続けられる一方で、彼らの間では滑稽なほど騎士道精神が金科玉条の如く尊重され、宮廷内や宗教儀式のみならずあらゆる生活の場面でのマナーが捻り出され、その遵守が尊ばれた風潮はこうした背景があったからだろう。追い詰められた人間達はその残忍非道さを顕にするが、本文によれば礼儀作法は傲慢を自ら否認する、美しくもほむべき手続きということで、それをホイジンガは貴族の自負と美しく生きるための憧憬としている。騎士の間では馬上試合、つまりトーナメントが厚い緞帳につつまれたロマンティックなドラマとして、彼らの形骸化した騎士道精神が最高度に発揮されるジオラマのように表現されている。一方庶民のためのスペクタクルなイベント、魔女狩り、公開処刑あるいは教会や宮廷での盛大な式典の催しなどは、厳格な階級社会を維持するための意図的にオーガナイズされた集団心理の暴走ショーと考えると、中世末期のヨーロッパの人々のコンセプトがより具体的なイメージとして浮かび上がってくる。
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中世の秋 1 (中公クラシックス W 1) 単行本 – 2001/4/10
- 本の長さ440ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2001/4/10
- ISBN-104121600002
- ISBN-13978-4121600004
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2001/4/10)
- 発売日 : 2001/4/10
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 440ページ
- ISBN-10 : 4121600002
- ISBN-13 : 978-4121600004
- Amazon 売れ筋ランキング: - 436,412位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 97位中公クラシックス
- - 1,135位ヨーロッパ史一般の本
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年9月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2001年5月20日に日本でレビュー済み
待ちにまったホイジンガの名著のナンデイ版.どういう次第か読みかけの中央公論の(世界の名著)のなかで,中世の秋のみが,行方不明の侭になっていたのである. 友達に貸したのかどうかも解らず永年気がかりであった.堀越孝一氏の解説も,平易で親しみが持てる.年齢を重ねるにつけて,奥深い洞察にみちたホイジンガの思索の集大成に益々魅せられている.
2012年8月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中世のおそるべしエネルギーが肌で感じられるようです。堀越孝一氏の著書を先によんでおくと感動も倍増です。「新書ヨーロッパ史 中世編」「中世ヨーロッパの歴史」「中世の画家たち」「ブルゴーニュ家」など。
2016年2月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ホイジンガーの名著ですが、余りフランスの中世には重きを置かない者には、冗長です。
2017年10月24日に日本でレビュー済み
読んでいてまるでほんとうに自分が中世にいるのではないだろうかと感じた。
歴史書でありながら散文詩のように書かれてある本書を中公クラシックがレーベルの第1巻としたのも納得の出来。
歴史書でありながら散文詩のように書かれてある本書を中公クラシックがレーベルの第1巻としたのも納得の出来。
2005年10月7日に日本でレビュー済み
誰が言い始めたのかわからないが(おそらくマルクス?)「中世は停滞した、暗い時代だ」というイメージが定着している。そしてわれわれの持つこの時代のヨーロッパのイメージは、異端裁判やガリレオの迫害に代表される、スコラ神学が一世を風靡し教会によって世界が支配されていたという構図である。もちろん、それは一面正しかったのかもしれないが、王侯貴族も庶民もそうやって縛られて生きていただけではあるまい。それは現在に残るさまざまな絵画や文学作品からも推定することができる。そしてそれを古文書からの掘り起こしというかたちで、実証的に呈示したのがこのホイジンガの代表作「中世の秋」である。
本書はれっきとした歴史書ではあるが、反面読者を飽きさせない鮮やかな例示に優れている。読んでいて中世のひとびとの日常の生き様が眼前に展開される観がある。舞台は全ヨーロッパではなく、ホイジンガの暮らしたフランドル(オランダ・ベルギー)地方と、関連の深かったフランスが主な舞台である。この地域に普段われわれはなじみがないと思われるが、音楽や絵画で有名なように、当時ヨーロッパの先進地帯のひとつであり、絢爛たる文化がそこに展開されていたことが伺える。
本書はれっきとした歴史書ではあるが、反面読者を飽きさせない鮮やかな例示に優れている。読んでいて中世のひとびとの日常の生き様が眼前に展開される観がある。舞台は全ヨーロッパではなく、ホイジンガの暮らしたフランドル(オランダ・ベルギー)地方と、関連の深かったフランスが主な舞台である。この地域に普段われわれはなじみがないと思われるが、音楽や絵画で有名なように、当時ヨーロッパの先進地帯のひとつであり、絢爛たる文化がそこに展開されていたことが伺える。
2010年4月1日に日本でレビュー済み
著名なホイジンガーの「中世の秋」であり、出版社も中央公論ということもあって購入し、読んでみた。
(1)独特の文章である。
例えば、第149頁第11行目〜14行目には「中流階級ないし下層民の人間関係にあっては、とテーヌは、その著『現代フランスの起源』にいう、その発動バネは利害であり、貴族社会においては、自負心の原動力である、人間内奥のもろもろの感情のうち、この自負にまさって、誠実、愛国心、良心に転化するにふさわしいものはない。」
第180頁第7行目〜10行目には「恋の詩を、トーナメント記述をよむさいに、歴史事象のこまかな知識、にぎやかな事件を並べあげた叙述が、いったいなんの訳にたとう。なにかをみつめていた当時の人びとの、翔ぶかもめのかたちよろしく吊りあげられた眉毛の下の、押しあげられてせばまったひたいの下の、明暗さまざまな目の輝きを、想像のうちによみがえらせようとしないならば。」
第195頁後ろから4行目〜後ろから3行目「金羊毛騎士団の宗教的性格を証言しているのは、もったいぶったボローニャことシャトランの、敬虔の心情あふれる見ぶるいだけではない。」(句読点もひらがなもそのまま引用)
(2)上記引用例にも見られるが、常用漢字を使うところになぜか平仮名が多用されている。同じ180頁内にも「かならず」「おおぜい」「こらした」「ふんだん」「ひびき」「きかれない」「きわめて」「ふたたび」「よむ」「うずたかく」「わたしたち」などがある。こうした平仮名表現は「じしん」「かの女」「かれ」「ものたち」など全文にわたって異常なほど無数にあるのだが 184頁の「いぜん」などは「依然」なのか「以前」なのか全体を読み終わらないとわかりにくい。また、205頁に「きじの誓い」という言葉が出てくるが、次の「くじゃくの誓い」があって始めて「雉の誓い」のことだとわかる。
(3)人名の訳が必要なのだろうか。文中「シャルル突進候」「ジャン無怖候」「フィリップ善良候」など多くの人名が機械的に訳されている。鈴木という名前を仮に英訳するとして、Bell Wood とはせず Suzuki とするのが常識だろうが、これと違う話なのだろうか。
(4)「翻訳について」の中で、訳者は「原文中括弧内の挿入語句は本文に組み込んで訳した。ホイジンガは引用あるいは引用したテキストは脚注で明らかにすることが多いが、わたしは「とシャトランはいっている」とか、「パリの一市民によれば」とか、本文に示すのを原則とした」と述べる。
「翻訳とはそもそも何か」また「翻訳者の任務は何か」を考える材料提供をしている一冊と思われる。
(1)独特の文章である。
例えば、第149頁第11行目〜14行目には「中流階級ないし下層民の人間関係にあっては、とテーヌは、その著『現代フランスの起源』にいう、その発動バネは利害であり、貴族社会においては、自負心の原動力である、人間内奥のもろもろの感情のうち、この自負にまさって、誠実、愛国心、良心に転化するにふさわしいものはない。」
第180頁第7行目〜10行目には「恋の詩を、トーナメント記述をよむさいに、歴史事象のこまかな知識、にぎやかな事件を並べあげた叙述が、いったいなんの訳にたとう。なにかをみつめていた当時の人びとの、翔ぶかもめのかたちよろしく吊りあげられた眉毛の下の、押しあげられてせばまったひたいの下の、明暗さまざまな目の輝きを、想像のうちによみがえらせようとしないならば。」
第195頁後ろから4行目〜後ろから3行目「金羊毛騎士団の宗教的性格を証言しているのは、もったいぶったボローニャことシャトランの、敬虔の心情あふれる見ぶるいだけではない。」(句読点もひらがなもそのまま引用)
(2)上記引用例にも見られるが、常用漢字を使うところになぜか平仮名が多用されている。同じ180頁内にも「かならず」「おおぜい」「こらした」「ふんだん」「ひびき」「きかれない」「きわめて」「ふたたび」「よむ」「うずたかく」「わたしたち」などがある。こうした平仮名表現は「じしん」「かの女」「かれ」「ものたち」など全文にわたって異常なほど無数にあるのだが 184頁の「いぜん」などは「依然」なのか「以前」なのか全体を読み終わらないとわかりにくい。また、205頁に「きじの誓い」という言葉が出てくるが、次の「くじゃくの誓い」があって始めて「雉の誓い」のことだとわかる。
(3)人名の訳が必要なのだろうか。文中「シャルル突進候」「ジャン無怖候」「フィリップ善良候」など多くの人名が機械的に訳されている。鈴木という名前を仮に英訳するとして、Bell Wood とはせず Suzuki とするのが常識だろうが、これと違う話なのだろうか。
(4)「翻訳について」の中で、訳者は「原文中括弧内の挿入語句は本文に組み込んで訳した。ホイジンガは引用あるいは引用したテキストは脚注で明らかにすることが多いが、わたしは「とシャトランはいっている」とか、「パリの一市民によれば」とか、本文に示すのを原則とした」と述べる。
「翻訳とはそもそも何か」また「翻訳者の任務は何か」を考える材料提供をしている一冊と思われる。