・全体像
それは、大衆の反逆と呼ばれる。
【オルテガ】
スペインの哲学者。「私は私と私の環境である」の名言で知られる。
著作は他と比べれば多いほうではないが、この『大衆の反逆』は
とある著名な文化評論誌で20世紀を代表する著作と認定された。
ちなみに18世紀がルソー『社会契約論』、19世紀はマルクス『資本論』と
名だたる面々である。
・感想
時代が違えば考えかたが違うなんて、考えれば小学生でも出せえる答えです。
このオルテガが生まれた時代は、近代化が目に見える形で頬をなでる激動の
時代です。そんな風のなかで、彼が感じたのは大衆(それは俗物であり、凡俗な
人間)が表舞台に、まつりごとの世界に土足で上がりこんできたということです。
オルテガの言葉に「すぐれたものとは自分自身に多くを課す者であり、
凡俗な人間とは、自分自身に何も課さず、現在あるがままのもので満足し、
自分自身に陶酔している者である」と痛烈な批判があります。
貴族や王族が革命という名前で地に落ち、場合によっては首が地に落ちました。
民主主義の到来と世界が震撼し、教科書にも歴史的瞬間だと大々的に賛辞が
寄せられていますが、本当にそれでよかったのでしょうか。
確かに、無能で傲慢な暗君もいたでしょうが、多くは英才教育を受けているため
革命中に武器を振り回して人間よりは、幾分優れていたでしょう。
ルイ16世いわく「余は無実だ!」
ルイ16世は暗君だったといわれていますが、目立った失政はなく妻選びを
失敗せずに、時代が荒んでいなかったら、あんな末路を送らなかったという
専門家の意見もあります。
長くなりましたが、オルテガの洞察目が過大評価ではないことは確かなので
ぜひ、一食を抜いてでもご購入の手続きを。
・抜粋文
感想中に記したので省略します。
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大衆の反逆 (中公クラシックス W 15) 新書 – 2002/2/10
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- ISBN-10412160024X
- ISBN-13978-4121600240
- 出版社中央公論新社
- 発売日2002/2/10
- 言語日本語
- 本の長さ263ページ
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2002/2/10)
- 発売日 : 2002/2/10
- 言語 : 日本語
- 新書 : 263ページ
- ISBN-10 : 412160024X
- ISBN-13 : 978-4121600240
- Amazon 売れ筋ランキング: - 198,093位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2019年2月28日に日本でレビュー済み
ファシズムの次はポピュリズムと、ここ数年、
危惧される流れがメディアに現れている。
しかし、それは外国の事だと私は思っていた。
改めて謂うまでもなく、名著が古典であるのは、
普遍性を的確に顕現しているからで、
まさか自分の身辺の洞察を導き暁諭するとは僥倖である。
心を揃えないと大きな仕事は遂行できないと思っていた。
問題は、間違った思想に同調する場合。
息子の不登校と謂う理不尽の日々に遭遇した、様々な因習の数々。
10年の歳月の結果、努力は水泡に帰し、
やるせなさに苛まされる。
こういう時に、不遇や逆境を過ごす心構を諭す偉人たちの名言は、
既に役に立たない。
この境遇で出逢ったのが、オルテガの名著『大衆の反逆』だった。
終始、共感と首肯と省察で以て読み進められた、非常に面白い著作なのだ。
ユーモアと風刺が効いた文章を読むと、
彼の弁舌と心のうねりが感じられる。
この結果としてのユーモアは、深刻で重篤な滑稽を忠実に表現したもので、
彼の才知である。
そして、この名著には修辞の妙があり、
非常に効果的な接続語の使い方でも、巧みな論調を構成している。
“年がら年じゅう、できあいの決まり文句、偏見、観念の枝葉末節、
簡単にいえば、偶然かれの頭のなかにたまった空虚なことばをたいせつにして、
天真爛漫だからとでもいうほか理解できない大胆さで、
そういうことばをなににでも押しつけるのである。”(82頁)
“自由主義は―今日、次のことを想起するのはたいせつなことだ―
最高に寛大な制度である。(中略)
それは、敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する。
人間という種族が、
これほど美しい、これほど逆説的な、これほど優雅な、これほど軽業に似た、
これほど反自然的なことを思いついたとは、
信じがたいことだ。だからこそ、
この同じ種族がじきにそれを捨ててしまおうと決意したからといって、
驚いてはならないのである。”(90頁)
“しかし、私がこれからいおうとしているのは、
哲学的問題とはほど遠い問題だから、
以上の前口上は適当ではない。”
(167頁)
諧謔を交えての筆舌ゆえに、読みやすい警鐘の書となっている。
読みながら、オルテガの警鐘が常に聞こえ感じていた。
ファシズムという時代精神の大波に巻き込まれる危機感、
それを何としてでも阻止したかった、
というのが読後に遺された感だった。
「輪転機の上で生まれた」という
ジャーナリストの家庭に生まれた哲学者オルテガは、
時代思潮とその人々の特徴を分析し、大切にするべきものを書き遺した。
「タイプライターが子守唄だった」という学者の娘の私の場合はと言えば、
残念ながら唯それだけの事で、
せめて息子の心身を護り輔助になりたいと、
名著の繙読をしている。
巻頭の佐々木孝氏による「今日的オルテガ」において、
〈スペイン思想史を貫流するもの〉の解説が私には大変有用だった。
当然ながら、一読に値するオルテガの思想の紹介である。
危惧される流れがメディアに現れている。
しかし、それは外国の事だと私は思っていた。
改めて謂うまでもなく、名著が古典であるのは、
普遍性を的確に顕現しているからで、
まさか自分の身辺の洞察を導き暁諭するとは僥倖である。
心を揃えないと大きな仕事は遂行できないと思っていた。
問題は、間違った思想に同調する場合。
息子の不登校と謂う理不尽の日々に遭遇した、様々な因習の数々。
10年の歳月の結果、努力は水泡に帰し、
やるせなさに苛まされる。
こういう時に、不遇や逆境を過ごす心構を諭す偉人たちの名言は、
既に役に立たない。
この境遇で出逢ったのが、オルテガの名著『大衆の反逆』だった。
終始、共感と首肯と省察で以て読み進められた、非常に面白い著作なのだ。
ユーモアと風刺が効いた文章を読むと、
彼の弁舌と心のうねりが感じられる。
この結果としてのユーモアは、深刻で重篤な滑稽を忠実に表現したもので、
彼の才知である。
そして、この名著には修辞の妙があり、
非常に効果的な接続語の使い方でも、巧みな論調を構成している。
“年がら年じゅう、できあいの決まり文句、偏見、観念の枝葉末節、
簡単にいえば、偶然かれの頭のなかにたまった空虚なことばをたいせつにして、
天真爛漫だからとでもいうほか理解できない大胆さで、
そういうことばをなににでも押しつけるのである。”(82頁)
“自由主義は―今日、次のことを想起するのはたいせつなことだ―
最高に寛大な制度である。(中略)
それは、敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する。
人間という種族が、
これほど美しい、これほど逆説的な、これほど優雅な、これほど軽業に似た、
これほど反自然的なことを思いついたとは、
信じがたいことだ。だからこそ、
この同じ種族がじきにそれを捨ててしまおうと決意したからといって、
驚いてはならないのである。”(90頁)
“しかし、私がこれからいおうとしているのは、
哲学的問題とはほど遠い問題だから、
以上の前口上は適当ではない。”
(167頁)
諧謔を交えての筆舌ゆえに、読みやすい警鐘の書となっている。
読みながら、オルテガの警鐘が常に聞こえ感じていた。
ファシズムという時代精神の大波に巻き込まれる危機感、
それを何としてでも阻止したかった、
というのが読後に遺された感だった。
「輪転機の上で生まれた」という
ジャーナリストの家庭に生まれた哲学者オルテガは、
時代思潮とその人々の特徴を分析し、大切にするべきものを書き遺した。
「タイプライターが子守唄だった」という学者の娘の私の場合はと言えば、
残念ながら唯それだけの事で、
せめて息子の心身を護り輔助になりたいと、
名著の繙読をしている。
巻頭の佐々木孝氏による「今日的オルテガ」において、
〈スペイン思想史を貫流するもの〉の解説が私には大変有用だった。
当然ながら、一読に値するオルテガの思想の紹介である。
2018年6月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
●全体的な内容について
初心者あるいは、初めて哲学を学ぶには、難しすぎた。
ただし、内容によってはすんなりと入る部分もあったため、一概に、全く読めないわけでもない。
●所々の内容について
中身の文章について、ここには記載しないが、難しく思った私自身でも、ドキッと思わす部分があったのは事実。
初心者あるいは、初めて哲学を学ぶには、難しすぎた。
ただし、内容によってはすんなりと入る部分もあったため、一概に、全く読めないわけでもない。
●所々の内容について
中身の文章について、ここには記載しないが、難しく思った私自身でも、ドキッと思わす部分があったのは事実。
2018年9月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
1930年にすでにこれが書かれていたことに驚く。そして昨今のテクノロジー、マスメディア、SNS,そして政治の状況をみれば、オルテガは、あらたなフェーズでの「大衆の反逆」を指摘するであろう。
2013年7月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本を読んで、デカルトよりオルテガの方が好きになったかも。
かなり相性のいい本だった。
かなり相性のいい本だった。
2018年10月15日に日本でレビュー済み
ネットやスマホの存在で、大衆の反逆の時代から、大衆だけの時代になりつつある。選挙やデモや集会でしか反逆できなかったオルテガの時代とはずいぶんちがう。そして無自覚であれば、容易にそのような、ネットやスマホの大衆の一人になってしまう己を見出しかねない。くだらないネットニュースにくだらないコメント合戦・・・距離をおいて高潔にあることが求められているのだろう。ということは、ここなるレビューもまた大衆的ということか。自虐。
2003年7月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「政治を政治屋にまかせっきりにしてはいけない。国民は政治に参加せねばならない」よく聞く言葉です。ではどう参加したらよいか。この問いに答えるのは、難しい。しかしオルテガの炯炯とした洞察が、歴史を通じて問われてきたこの問いに、迫力ある答えをだしています。
オルテガのいう「大衆」とは「庶民」とは違います。「大衆」とは「凡庸な精神が自己の凡庸であることを承知の上で、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする」人々のことです。
民主主義は、衆愚政治に陥りやすい。なぜなら、担い手は凡庸さに開き直り、あまつさえ、あらゆる場所にその凡庸を押しつけるから。この問題はプラトンも'指摘し、ニーチェが「最後の人間」に象徴したとおりですが、全く今この時代の課題でもあります。このどんづまりの状況をどうすればいいのか。
オルテガは、「選ばれた少数派」の登場にかかっていると訴えます。選ばれた少数派とは、単なるエリートのことではありません。社会階層に関係なく「たとえ自分に課した高度の要求を果たせなくても、他人よりも自分に厳しい要求を課す」気概ある人達のことです。
アングロサクソンにおいて、その気概は「ノブレス・オブリージ」となって表れ、我が日本では「武士道精神」となって花開きました。今の言葉を使えば、「公」に貢献し、「公」を護る意識に通じるのではないか。
マキアベリの君主論が、「為政者のための政治手法の古典」とすれば、この本は「責任ある市民のための思考の古典」と言えると思います。「いかに統率するか」リーダーからの視点でなく、「いかに参加するか」という国民からの視点で書かれた政治参加論とも言えましょう。
政治論にとどまらず、文明と人間への秀抜な考察を加えています。この値段で、文明と人間の洞察のオンパレードを楽しめるなんて、読んでソンはありません!
オルテガのいう「大衆」とは「庶民」とは違います。「大衆」とは「凡庸な精神が自己の凡庸であることを承知の上で、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする」人々のことです。
民主主義は、衆愚政治に陥りやすい。なぜなら、担い手は凡庸さに開き直り、あまつさえ、あらゆる場所にその凡庸を押しつけるから。この問題はプラトンも'指摘し、ニーチェが「最後の人間」に象徴したとおりですが、全く今この時代の課題でもあります。このどんづまりの状況をどうすればいいのか。
オルテガは、「選ばれた少数派」の登場にかかっていると訴えます。選ばれた少数派とは、単なるエリートのことではありません。社会階層に関係なく「たとえ自分に課した高度の要求を果たせなくても、他人よりも自分に厳しい要求を課す」気概ある人達のことです。
アングロサクソンにおいて、その気概は「ノブレス・オブリージ」となって表れ、我が日本では「武士道精神」となって花開きました。今の言葉を使えば、「公」に貢献し、「公」を護る意識に通じるのではないか。
マキアベリの君主論が、「為政者のための政治手法の古典」とすれば、この本は「責任ある市民のための思考の古典」と言えると思います。「いかに統率するか」リーダーからの視点でなく、「いかに参加するか」という国民からの視点で書かれた政治参加論とも言えましょう。
政治論にとどまらず、文明と人間への秀抜な考察を加えています。この値段で、文明と人間の洞察のオンパレードを楽しめるなんて、読んでソンはありません!
2007年9月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『社会学がわかる事典』-森下 伸也 (著)p.136にオルテガの大衆観がまとめられているので、
それを引用しつつ紹介します。↓大衆の特徴
“1.非常に均質的・画一的で、突出した個性を持たない。
2.何事においても他律的で、他人や世論に同調し、あるいは自分に同調を求める「烏合の衆」である。
3.理想や使命感や向上心など無縁の存在で、自分の現状に満足しきっている。
4.文明の恩恵が自動的に享受できるのを当たり前と思っており、文明や伝統に対する畏敬や感謝の念、
また、未来に対する責任感を欠いた「忘恩の徒」である。
5.自分たちが一番偉いと思い、自分たちのわがままをどこまでも押し通そうとする「駄々っ子」である。
6.精神性などかけらも無く、物質的快楽だけを求める「動物」である。
7.以上のような自分たちのあり方を、何が何でも社会全体に押し付けようとする「野蛮人」である。”
この特徴を逆転させたものがエリートだが、
オルテガは、上記のような大衆が主権を持っただけではなく、
エリートたるべき指導的階層の人間が大衆化していることが問題だと考えた。
また、オルテガはファシズムやボルシェヴィズム等の反自由主義体制が、
「時代錯誤」(p.116)である点を指摘し、強く批判しています。↓本書(大衆の反逆)より抜粋
サンディカリズムとファシズムの相の下に、はじめてヨーロッパに、
理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、
ひたすら自分の意見を押しつけるタイプの人間が現れたのである。
これは新しい事実だ。理由をもたない権利、道理のない道理である。
この新しい事実の中に、私は、資格もないのに社会を支配する決意をした
新しい大衆のあり方の、もっとも顕著な特色を見るのである。(p.86)
ボリシェビズムとファシズムは、二つの偽りの夜明けである。
明日の朝をもたらすのではなく、何度も経験された昔日の朝をもたらすのである。〜中略〜
われわれが十九世紀の自由主義を乗りこえる必要があることは疑う余地がない。
ところが、それはまさに、ファシストのような反自由主義を宣言する人間にはできないことである。
なぜならば、それは―つまり、反自由主義あるいは非自由主義は―
自由主義以前の人間のとっていた態度である。(p.113-114)
この論文で私があえて主張しようとしている最大のことは、
革命あるいは進化は歴史的現象であってもらいたい、
時代錯誤であってはならない、ということである。(p.116)
それを引用しつつ紹介します。↓大衆の特徴
“1.非常に均質的・画一的で、突出した個性を持たない。
2.何事においても他律的で、他人や世論に同調し、あるいは自分に同調を求める「烏合の衆」である。
3.理想や使命感や向上心など無縁の存在で、自分の現状に満足しきっている。
4.文明の恩恵が自動的に享受できるのを当たり前と思っており、文明や伝統に対する畏敬や感謝の念、
また、未来に対する責任感を欠いた「忘恩の徒」である。
5.自分たちが一番偉いと思い、自分たちのわがままをどこまでも押し通そうとする「駄々っ子」である。
6.精神性などかけらも無く、物質的快楽だけを求める「動物」である。
7.以上のような自分たちのあり方を、何が何でも社会全体に押し付けようとする「野蛮人」である。”
この特徴を逆転させたものがエリートだが、
オルテガは、上記のような大衆が主権を持っただけではなく、
エリートたるべき指導的階層の人間が大衆化していることが問題だと考えた。
また、オルテガはファシズムやボルシェヴィズム等の反自由主義体制が、
「時代錯誤」(p.116)である点を指摘し、強く批判しています。↓本書(大衆の反逆)より抜粋
サンディカリズムとファシズムの相の下に、はじめてヨーロッパに、
理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、
ひたすら自分の意見を押しつけるタイプの人間が現れたのである。
これは新しい事実だ。理由をもたない権利、道理のない道理である。
この新しい事実の中に、私は、資格もないのに社会を支配する決意をした
新しい大衆のあり方の、もっとも顕著な特色を見るのである。(p.86)
ボリシェビズムとファシズムは、二つの偽りの夜明けである。
明日の朝をもたらすのではなく、何度も経験された昔日の朝をもたらすのである。〜中略〜
われわれが十九世紀の自由主義を乗りこえる必要があることは疑う余地がない。
ところが、それはまさに、ファシストのような反自由主義を宣言する人間にはできないことである。
なぜならば、それは―つまり、反自由主義あるいは非自由主義は―
自由主義以前の人間のとっていた態度である。(p.113-114)
この論文で私があえて主張しようとしている最大のことは、
革命あるいは進化は歴史的現象であってもらいたい、
時代錯誤であってはならない、ということである。(p.116)