本書のテーマは「生きている状態」とはどういう状態のことを言うのか、を明らかにすること。その対象は人や動植物に限らず、人が作る組織や社会、さらにはあらゆる生命を含む環境にまで及び、それらの生命システムに共通する「生きている」ことの普遍的な原理が解き明かされていく。
本書『生命を捉えなおす』(初版1978年/増補版1990年)は約40年前に著された、生命関係学の初期の代表作にあたるもの。最新刊である『<いのち>の自己組織』(2016年刊)に至る著者の思索が、一貫して自然科学的理解を基盤に構築されてきたものであることを知ることができる。
「生きている状態」とは何か? それに対する答えの詳細は本書に譲るとして、「人と組織」をどうすれば「生き生きとした状態」に保つことができるかという経営学的観点から著者の論旨を追いかけてみるとーー。
まずは「生物」と「非生物」。この両者はどこがどう違うのか? 生物であれ非生物であれ、それらはいずれも、分子・原子レベルで見ると同じようなものなのに、いったいどこに違いがあるのか。
「非生物が自発的には動かないように見えるのは、その構成要素のランダムな運動が、互いに相殺しあって、肉眼で見えるような大きな運動として外へ現れてこないため。「生きていない状態」とは、要素の無秩序な運動状態だといえる」
なるほど。分子・原子レベルにまで分解すると同じようなものであっても、生物と非生物とでは、その「状態」に大きな違いがあると。ポイントは「秩序」の有無というわけか。
「生きている状態にある系は、高い秩序を自ら発現し、それを維持する能力を持っている」
「その秩序は、結晶に見られるような「静的秩序」ではなく、「動的秩序」であり、その秩序を安定に維持するためには、エネルギーや物質の絶えざる流れを必要する」
「エントロピー増大則という普遍的な自然法則によれば、[秩序→無秩序]という変化から何物も逃れることができないはずなのに、生きている系では、[無秩序→秩序]という逆の変化が普遍的に起きている」
非生物は、時間の経過とともに、壊れたり、汚れたり、腐ったりする。これはもうどうにも回避のしようがない現象だ。ところが生物は、「死」を迎えるまでは腐らない。エントロピー増大則という普遍的な自然法則とは真逆の[無秩序→秩序]という現象が、絶え間なく繰り返されているからだという。実に驚きだ。
「動的秩序が形成されているときには、ミクロとマクロの間にフィードバック・ループができ、このループを通じて互いに相手に影響を与える。そして異なるミクロな要素の運動(時間的変化)の間に、このループによって、マクロな秩序を高めるための(間接的な)協同作業ができあがる(=動的協力性)」
マクロとミクロとは、例えていえば、私における細胞と身体との関係。私の身体の各部位における各々の細胞(ミクロ)が、身体というマクロとの間で緊密な情報交換を行い、その「動的協力性」によって私の身体は正常に保たれているわけだ。
そして著者は、人と組織、組織と社会なども同様のミクロ(要素)とマクロ(場)の関係として捉え、両者の間のループによって展開される「動的協力性」に注目する。
「この動的協力性は人間の集まりにも存在し、人々は社会の秩序を発展させるという働きを通じて互いに協力しあう。全く知らない人々の間でも、秩序をつくるという行動を通して協同性や連帯性が生まれる。生きている系にはみな、このような動的協力性が働いて秩序を形成している」
「生きている状態とは?」という本書のテーマに対する著者の答えをひと言でいうと、「生きている状態にあるシステムは情報を生成しつづける」という言葉になるが、そうした「情報」の生成は、当然のことながら無闇やたらに行われるわけではなく、そこには必ず何がしかの「法則性」が存在する。
「動物や人間は、さまざまな情報障壁を設けて、多くの情報を排除して法則性を発見することが可能な程度の情報量をその内側の世界に取り込んでいる。要素的な情報群の中に発見される無数の法則性に対し、自己の世界の意味的な境界(セマンティック・ボーダー/意味的な拘束条件)を導入することによって法則性を取り出す」
「企業哲学または企業文化と呼ばれているものは、情報の中にその企業が欲しい(意味をもつ)情報を発見したりつくったりするための拘束条件ともいえ、企業のセマンティック・ボーダーに相当する」
以上のような理解に基づけば、「経営理念」が担う機能は、セマンティック・ボーダーに他ならない。
「生命システムが本質的に創造的な存在であることは、さまざまな「フィードフォワード・ループ」によって大きな生命体の(意味的な)時間と空間の中に、固有の位置をつくりだすことではないか」
「セマンティック・ボーダーの設定は、フィードフォワード制御のための法則性をつくるのに必要」
経営理念によって組織(マクロ)の意味的秩序のあり方を明らかにし、それを社員(ミクロ)が共有することによってフィードフォワード制御(あるべき状態にこれからの状態を合わせるように自己制御すること)を可能とし、高い動的協力性を実現する――。生き生きとした組織を生み出す原理は、私たちの健康な身体をつくる原理と寸分違わないことを、本書は、「生きていること」の自然科学的理解を通じて私たちに教えてくれる。
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生命を捉えなおす 増補版: 生きている状態とは何か (中公新書 503) 新書 – 1990/10/25
清水 博
(著)
- 本の長さ355ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日1990/10/25
- ISBN-104121905032
- ISBN-13978-4121905031
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (1990/10/25)
- 発売日 : 1990/10/25
- 言語 : 日本語
- 新書 : 355ページ
- ISBN-10 : 4121905032
- ISBN-13 : 978-4121905031
- Amazon 売れ筋ランキング: - 334,692位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2011年5月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
相当に注意深くロジックを追いかけないと途中で迷子になる議論。
自己の二重性のコンセプトは東洋思想というか仏教とも重なるところがあり、実際に、著者の清水はその後、仏教に傾倒して、なんだかよくわからない方向へ進んでしまい、言説としての力を失っている。
「セマンティックボーダー」という概念は非常に面白いが、ともすると、理解の浅い馬鹿者に援用されがちな概念でもあり、佐々木トシナオなどが理解不十分なまま、援用している。
このへんの知的財産の保護の甘さは指摘されてしかるべきだろう。
自己の二重性のコンセプトは東洋思想というか仏教とも重なるところがあり、実際に、著者の清水はその後、仏教に傾倒して、なんだかよくわからない方向へ進んでしまい、言説としての力を失っている。
「セマンティックボーダー」という概念は非常に面白いが、ともすると、理解の浅い馬鹿者に援用されがちな概念でもあり、佐々木トシナオなどが理解不十分なまま、援用している。
このへんの知的財産の保護の甘さは指摘されてしかるべきだろう。
2016年1月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
生物物理的な解説が生命現象に対して適切に書かれていて、読んで面白く、研究にも役立つ書物です。
2014年10月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大学で使用するための購入です。書店では購入出来なかったので
購入出来て助かりました。
購入出来て助かりました。
2017年9月3日に日本でレビュー済み
佐々木俊尚『キュレーションの時代』に、取り上げられていたので読みました。
『キュレーションの時代』に出てくる自己世界の意味的な境界「セマンティック・ボーダー」について書かれているのは第二部第一章です。
その他の章は理数的な用語や理論に慣れていないと読みにくいです。私はコミュニケーションや、個人個人の世界の認識方法についてさらっと知りたいと思っていたので、第二部第一章以外は流し読みをしてしまいました。
『キュレーションの時代』に出てくる自己世界の意味的な境界「セマンティック・ボーダー」について書かれているのは第二部第一章です。
その他の章は理数的な用語や理論に慣れていないと読みにくいです。私はコミュニケーションや、個人個人の世界の認識方法についてさらっと知りたいと思っていたので、第二部第一章以外は流し読みをしてしまいました。
2006年6月12日に日本でレビュー済み
清水博氏によると、生物の世界においては単独で活動するよりも、幾つかの異なるものが複合的なサイクルを作る方が、お互いがより高次な系に組み込まれていくことによって、さらに安定した共存的システムへと進化していくのだそうです。
清水氏は、自然界においては<個>と<全体>は互いにループで結ばれた階層構造をなしており、両者は構造的にも機能的にも分離することができないという考え方を土台にしながら、その階層構造の中に人間の社会や組織をも組み込んだ自然観を提示しようとしており、それをバイオホロニックスと呼んでいます。
バイオホロニックスは生物の世界において<個>と<全体>がどのように調和しているのかを説明するものですが、同氏は要素還元論的な発想から<個>を捉えることはせず、「ホロン」=「関係子」という概念を使って「生きている自然のシステム」を解き明かそうとします。
関係子とは従属子や独立子ではなく、自由な<個>でありながら、その自由選択性ゆえにシステム全体における秩序形成に自主的に参画し、<全体>を形作るものであり、そういう仕組みこそが生命システムであると清水氏は述べています。
清水氏は、自然界においては<個>と<全体>は互いにループで結ばれた階層構造をなしており、両者は構造的にも機能的にも分離することができないという考え方を土台にしながら、その階層構造の中に人間の社会や組織をも組み込んだ自然観を提示しようとしており、それをバイオホロニックスと呼んでいます。
バイオホロニックスは生物の世界において<個>と<全体>がどのように調和しているのかを説明するものですが、同氏は要素還元論的な発想から<個>を捉えることはせず、「ホロン」=「関係子」という概念を使って「生きている自然のシステム」を解き明かそうとします。
関係子とは従属子や独立子ではなく、自由な<個>でありながら、その自由選択性ゆえにシステム全体における秩序形成に自主的に参画し、<全体>を形作るものであり、そういう仕組みこそが生命システムであると清水氏は述べています。
2015年8月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者が扱っている内容自体は興味深いのだが、とにかく無駄な比喩が多く、議論への集中力の低い文章で読みにくい。例えば、第3章の冒頭で、ミクロとマクロの視点の違いを説明するのに、「美しい女性の写真も老婆の写真も、近づいてみればただのインクの染みである」といった、わざわざ書かなくても良い比喩が出てくる。さらに続けて、「…「木を見て森を見ず」というのはこのへんの事情を述べていることわざです。会議のときに「すじ論」にこだわる人がよくいますが、物差しが小すぎるのではないかという気がします。」といった、ほとんど議論とは関係のない文まで出てきて、その度に頭の中で議論が中断してしまう。
著者がどのような人物か知らないが、これが口頭での説明であれば、「無駄なおしゃべりが好きな人」といった印象を持ってしまうだろう。
著者がどのような人物か知らないが、これが口頭での説明であれば、「無駄なおしゃべりが好きな人」といった印象を持ってしまうだろう。
2020年4月5日に日本でレビュー済み
清水博(1932年~)氏は、生命科学、場所論を専門とする科学者。東京大学名誉教授。NPO法人「場の研究所」所長。諸学問を統合した視点から生命を解明する“バイオ・ホロニクス(生命関係学)”の研究に取り組んでいる。
本書は、1978年に出版(増補版初版は1990年)されたロングセラーで、松岡正剛の有名な書評サイト「千夜千冊」でも、「この一冊が与えた衝撃は機関銃掃射のようだった。・・・一番の衝撃は「情報の動的秩序のふるまい」によって「生命」を捉えようとしていたことである。いまでこそこのような見方は生命論や生命情報論や自己組織化論の主流のひとつになっているが、当時はこんな見方をする科学者はほとんどいなかった。」と絶賛されている。
本書は、タイトル通り、「生命とは何か」、「生きているとはどういうことか」を、普遍的に捉え、様々な側面から論じたものであるが、強いて整理するなら大きく二つの論点があるように思う。
一つは、人間を含む生体にとって、「生きているとはどのような状態か」を明らかにしている点である。著者は、生物には、構成する要素は同じでありながら、「生きている状態」と「死んでいる状態」、即ち2つの「相」が存在するとし、①「生きている状態」とは、特定の分子や要素があるかないかということではなく、多くの分子や要素の集合体(マクロな系)が持つ「相」(グローバルな状態)である、②「生きている状態」にある系は、「エントロピーの増大則」に反して高い秩序を自ら発現し、それを維持する能力を持っている、③その秩序は、結晶に見られるような「静的秩序」ではなく、「動的秩序」であり、その秩序を安定的に維持するために、エネルギーや物質(負のエントロピー)を絶えず取り込む必要がある、と述べている。即ち、生きている相にある生命系には、秩序の自己形成をする能力があり、そこで生まれる動的秩序を伴った現象を「生命現象」というのである。これは、著者も書いている様に、オーストリアの理論物理学者・シュレーディンガー(1887~1961年)の名著『生命とは何か』(1944年)の発想を展開したものであり、最近では、「動的平衡」をキーワードに活躍する福岡伸一によっても広く知られた考え方である。
そしてもう一つは、「生命」とは「動的秩序を自己形成する能力」であるという発想を生体以外に拡大し、様々な「系」を固有の「生命現象」と考えた点である。ある「系」において、個々の要素の運動や状態の変化が「系」にマクロな秩序をつくると、その秩序が逆に個々の要素に働きかけて、それぞれが協同して運動する力を与え、そのために秩序はますます高められ、それが要素の運動の協同性をさらに促すというようなループが回転することになるというのである。即ち、一生体に留まらず、自然における様々な系(生態系、気候系など)はもちろんのこと、さらには人間の社会や組織でさえも、そういう意味ではある種の「生命システム」であり、「生きている状態」があるのである。そして、その「生きている状態」とは「生きている状態にあるシステムは情報を生成し続ける」ということだと述べている。
20世紀を代表する物理学者ファインマン(1918~88年)は、同世紀の科学の最大の成果を「物質は原子からできている」ことの発見と言ったが、ほぼ同じ時期に、アトミズム、要素還元主義の限界(もちろん、著者はその重要性についても強調はしている)を示唆した本書の先駆性・独創性は、松岡氏の言う通り驚くべきものである。
(2020年4月了)
本書は、1978年に出版(増補版初版は1990年)されたロングセラーで、松岡正剛の有名な書評サイト「千夜千冊」でも、「この一冊が与えた衝撃は機関銃掃射のようだった。・・・一番の衝撃は「情報の動的秩序のふるまい」によって「生命」を捉えようとしていたことである。いまでこそこのような見方は生命論や生命情報論や自己組織化論の主流のひとつになっているが、当時はこんな見方をする科学者はほとんどいなかった。」と絶賛されている。
本書は、タイトル通り、「生命とは何か」、「生きているとはどういうことか」を、普遍的に捉え、様々な側面から論じたものであるが、強いて整理するなら大きく二つの論点があるように思う。
一つは、人間を含む生体にとって、「生きているとはどのような状態か」を明らかにしている点である。著者は、生物には、構成する要素は同じでありながら、「生きている状態」と「死んでいる状態」、即ち2つの「相」が存在するとし、①「生きている状態」とは、特定の分子や要素があるかないかということではなく、多くの分子や要素の集合体(マクロな系)が持つ「相」(グローバルな状態)である、②「生きている状態」にある系は、「エントロピーの増大則」に反して高い秩序を自ら発現し、それを維持する能力を持っている、③その秩序は、結晶に見られるような「静的秩序」ではなく、「動的秩序」であり、その秩序を安定的に維持するために、エネルギーや物質(負のエントロピー)を絶えず取り込む必要がある、と述べている。即ち、生きている相にある生命系には、秩序の自己形成をする能力があり、そこで生まれる動的秩序を伴った現象を「生命現象」というのである。これは、著者も書いている様に、オーストリアの理論物理学者・シュレーディンガー(1887~1961年)の名著『生命とは何か』(1944年)の発想を展開したものであり、最近では、「動的平衡」をキーワードに活躍する福岡伸一によっても広く知られた考え方である。
そしてもう一つは、「生命」とは「動的秩序を自己形成する能力」であるという発想を生体以外に拡大し、様々な「系」を固有の「生命現象」と考えた点である。ある「系」において、個々の要素の運動や状態の変化が「系」にマクロな秩序をつくると、その秩序が逆に個々の要素に働きかけて、それぞれが協同して運動する力を与え、そのために秩序はますます高められ、それが要素の運動の協同性をさらに促すというようなループが回転することになるというのである。即ち、一生体に留まらず、自然における様々な系(生態系、気候系など)はもちろんのこと、さらには人間の社会や組織でさえも、そういう意味ではある種の「生命システム」であり、「生きている状態」があるのである。そして、その「生きている状態」とは「生きている状態にあるシステムは情報を生成し続ける」ということだと述べている。
20世紀を代表する物理学者ファインマン(1918~88年)は、同世紀の科学の最大の成果を「物質は原子からできている」ことの発見と言ったが、ほぼ同じ時期に、アトミズム、要素還元主義の限界(もちろん、著者はその重要性についても強調はしている)を示唆した本書の先駆性・独創性は、松岡氏の言う通り驚くべきものである。
(2020年4月了)