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ホモ・ルーデンス (中公文庫 D 4) 文庫 – 1973/8/10

4.0 5つ星のうち4.0 40個の評価

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登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 中央公論新社 (1973/8/10)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1973/8/10
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 477ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4122000254
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122000254
  • カスタマーレビュー:
    4.0 5つ星のうち4.0 40個の評価

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高橋 英夫
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遊びとは何か? そもそも文化・文明とは?
5 星
遊びとは何か? そもそも文化・文明とは?
遊びは、文化・文明よりも古く、動物の時代から行われ、想像力で現実を形象化することにより、一時的に非日常的で美的な意味合いを生活に添える行為。その事実を 古今東西の文化を紐解くことで実証した名著。特にスポイルスポート(遊び破り)やピュエリリズム(文化的小児病)といった概念を用いて、遊びの中にあることを忘れ、堕落した現代諸文化の道徳的退廃に警鐘を鳴らす、衝撃的な啓蒙書になっている。20年後、本書を批判的に継承したロジェ・カイヨワは、遊びは特定の性質ではなく、4つの全く違った別の性質を、名目上だけ1つの名前「遊び」と呼んでいるだけだとし、4類型 「競争」「運」「模擬」「目眩」を提示した(1958年『遊びと人間』)。カイヨワの理論が正しいとすれば、文化創造機能を持たぬ単なる気晴らしや思いつきや暇つぶしまでもが遊びに含まれてしまうし、反対に、のっぴきならぬ真面目な行為も「これは遊びだ」と強弁することができる。心乱れる「目眩」など、遊戯というより、本当にタダの気晴らしなのではないか? ブランコに乗るという行為に精神性は無い。それゆえ文化に発展しない(空中ブランコは遊び破り。芸人は昔は「河原乞食」と呼ばれて軽蔑される存在だったが、今では庶民より偉い存在になってしまっている)。スケート場でビュンビュン滑る大人げない人を見るが、あれはホイジンガ的には「遊び破り」、カイヨワ的には「目眩」だ。イヤらしいものは遊びではない。それとも「模擬」や「目眩」に分類できる立派な遊びなのか? ここに結論を出す新説が待たれる。本書の方を正しいとすると、遊びという一つの性質がある事になる。4つに区分できる多様な気晴らし方法の総称ではなく、文化へと至る一本の道。文明を生む根源的衝動。140年前の先駆者シラーはそれを「遊戯衝動」と説いた(1795年『人間の美的教育について』)。しかし現実的には、野蛮な遊び破りや遊びと強弁する真面目を批判するのは難しい。遊びか否かを判断する道徳心には、正義と寛容という二面性があるので、結局、遊びか真面目かの判断を下せないという 悩ましい問題を提起し、本書は終わっている。「それゆえに、チートや遊び破りは文明そのものを破壊してしまう」ヨハン・ホイジンガ政治と違い、文化は退廃しても人が死ぬようなことはないので、「寛容に」許されることがほとんど。それが次第に政治や経済や共同体の在り方等に悪い影響を与えていっても、人々は気づきにくい。「模擬と目眩が人間にとっての永遠の誘惑であるなら、これらを集団生活から排除し、子供の楽しみや異状の振る舞いとしてだけ許しておくということは、容易にできることではあるまい」ロジェ・カイヨワカイヨワはホイジンガを批判しながらも、モラルの大切さは力説する。しかし、現実との妥協を一切図らず モラルの再興を主張した『ホモ・ルーデンス』の方が、長い目で見れば、文化・文明へ、我らホモ・サピエンス(理性の人)の存続・進化へ、果たす役割は大きいだろう。ホモ・デウス(神性の人)はフェアプレイしかしないはず。
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上位レビュー、対象国: 日本

2017年6月28日に日本でレビュー済み
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この本を買ったのは7年前。

どうして世の中はこんなにギスギスしてるんだろう。
平和ぼけと言われても、戦争反対。
いつだってオタクでいたい。

そう思っていた時に、出会った本でした。
文化論を論じながらも、平和を希求する素晴らしい思想だと思いました。

こんな思想を持っていた人がいたなんて……!
と、思いました。

こんな思想を持っている人がいて、
読んでいる人がたくさんいれば、
世界は平和になるはず、
そう思いました。

たくさんの人に読んでいただきたいと思う一冊です。
21人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2006年1月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
 “私の心のなかでは、人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきたのだ、という確信がしだいに強まる一方であった。(P12)”という著者。本書は「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と題された。

 ホイジンガは“スポーツは遊びの領域から去ってゆく(P399)”とし、“現代社会生活のなかではスポーツは本来の文化過程のかたわらに、それから逸れたところに位置を占めてしまった。...スポーツは完全に泰献性なきものと化し...何か実りを生む共同社会の一因子というより、むしろただ闘技的本能だけの、孤立的な表れなのだ。(P399〜P400)”なのだと言う。

 ちなみに、『スポーツにおいては、身を鍛えることによって過去におけるすべての成績をはるかに上まわる成績があがっているという事実はたえず報告されているし、だれでも知っている。その一つ一つに感心したり、達成された記録に注目するだけでは不十分であって、その頻繁さがわれわれの気持ちに与える印象に注目しなければならない』と言ったのが、オルテガである。

 そしてホイジンガは、たやすく満足は得られても、けっしてそれで飽和してしまうことのない、つまらぬ気晴らしを求めたがる欲望。粗野なセンセーションの追求。巨大な見せ物に対する喜び。こうしたものを“小児病(P414)”と名づけた。

 そして“小児病に対しては遊びの形式としての性質を認める事ことを拒否しなければならないと思う(P417)”とホイジンガは言う。

 つまり、遊びが消えゆく事もしくは小児病という現象に対し、言わば警告をしたとでもいうのがホイジンガであり、本書だという事である。

 その示唆は、今の時代になっても薄らいではいないであろう。
50人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2020年8月10日に日本でレビュー済み
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新鮮でした🎵
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2018年10月31日に日本でレビュー済み
遊びは、文化・文明よりも古く、動物の時代から行われ、想像力で現実を形象化することにより、一時的に非日常的で美的な意味合いを生活に添える行為。
その事実を 古今東西の文化を紐解くことで実証した名著。

特にスポイルスポート(遊び破り)やピュエリリズム(文化的小児病)といった概念を用いて、遊びの中にあることを忘れ、堕落した現代諸文化の道徳的退廃に警鐘を鳴らす、衝撃的な啓蒙書になっている。

20年後、本書を批判的に継承したロジェ・カイヨワは、遊びは特定の性質ではなく、4つの全く違った別の性質を、名目上だけ1つの名前「遊び」と呼んでいるだけだとし、4類型 「競争」「運」「模擬」「目眩」を提示した(1958年『遊びと人間』)。

カイヨワの理論が正しいとすれば、文化創造機能を持たぬ単なる気晴らしや思いつきや暇つぶしまでもが遊びに含まれてしまうし、反対に、のっぴきならぬ真面目な行為も「これは遊びだ」と強弁することができる。

心乱れる「目眩」など、遊戯というより、本当にタダの気晴らしなのではないか? ブランコに乗るという行為に精神性は無い。それゆえ文化に発展しない(空中ブランコは遊び破り。芸人は昔は「河原乞食」と呼ばれて軽蔑される存在だったが、今では庶民より偉い存在になってしまっている)。

スケート場でビュンビュン滑る大人げない人を見るが、あれはホイジンガ的には「遊び破り」、カイヨワ的には「目眩」だ。

イヤらしいものは遊びではない。それとも「模擬」や「目眩」に分類できる立派な遊びなのか? ここに結論を出す新説が待たれる。

本書の方を正しいとすると、遊びという一つの性質がある事になる。4つに区分できる多様な気晴らし方法の総称ではなく、文化へと至る一本の道。文明を生む根源的衝動。140年前の先駆者シラーはそれを「遊戯衝動」と説いた(1795年『人間の美的教育について』)。

しかし現実的には、野蛮な遊び破りや遊びと強弁する真面目を批判するのは難しい。遊びか否かを判断する道徳心には、正義と寛容という二面性があるので、結局、遊びか真面目かの判断を下せないという 悩ましい問題を提起し、本書は終わっている。

「それゆえに、チートや遊び破りは文明そのものを破壊してしまう」ヨハン・ホイジンガ

政治と違い、文化は退廃しても人が死ぬようなことはないので、「寛容に」許されることがほとんど。それが次第に政治や経済や共同体の在り方等に悪い影響を与えていっても、人々は気づきにくい。

「模擬と目眩が人間にとっての永遠の誘惑であるなら、これらを集団生活から排除し、子供の楽しみや異状の振る舞いとしてだけ許しておくということは、容易にできることではあるまい」ロジェ・カイヨワ

カイヨワはホイジンガを批判しながらも、モラルの大切さは力説する。しかし、現実との妥協を一切図らず モラルの再興を主張した『ホモ・ルーデンス』の方が、長い目で見れば、文化・文明へ、我らホモ・サピエンス(理性の人)の存続・進化へ、果たす役割は大きいだろう。ホモ・デウス(神性の人)はフェアプレイしかしないはず。
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5つ星のうち5.0 遊びとは何か? そもそも文化・文明とは?
2018年10月31日に日本でレビュー済み
遊びは、文化・文明よりも古く、動物の時代から行われ、想像力で現実を形象化することにより、一時的に非日常的で美的な意味合いを生活に添える行為。
その事実を 古今東西の文化を紐解くことで実証した名著。

特にスポイルスポート(遊び破り)やピュエリリズム(文化的小児病)といった概念を用いて、遊びの中にあることを忘れ、堕落した現代諸文化の道徳的退廃に警鐘を鳴らす、衝撃的な啓蒙書になっている。

20年後、本書を批判的に継承したロジェ・カイヨワは、遊びは特定の性質ではなく、4つの全く違った別の性質を、名目上だけ1つの名前「遊び」と呼んでいるだけだとし、4類型 「競争」「運」「模擬」「目眩」を提示した(1958年『遊びと人間』)。

カイヨワの理論が正しいとすれば、文化創造機能を持たぬ単なる気晴らしや思いつきや暇つぶしまでもが遊びに含まれてしまうし、反対に、のっぴきならぬ真面目な行為も「これは遊びだ」と強弁することができる。

心乱れる「目眩」など、遊戯というより、本当にタダの気晴らしなのではないか? ブランコに乗るという行為に精神性は無い。それゆえ文化に発展しない(空中ブランコは遊び破り。芸人は昔は「河原乞食」と呼ばれて軽蔑される存在だったが、今では庶民より偉い存在になってしまっている)。

スケート場でビュンビュン滑る大人げない人を見るが、あれはホイジンガ的には「遊び破り」、カイヨワ的には「目眩」だ。

イヤらしいものは遊びではない。それとも「模擬」や「目眩」に分類できる立派な遊びなのか? ここに結論を出す新説が待たれる。

本書の方を正しいとすると、遊びという一つの性質がある事になる。4つに区分できる多様な気晴らし方法の総称ではなく、文化へと至る一本の道。文明を生む根源的衝動。140年前の先駆者シラーはそれを「遊戯衝動」と説いた(1795年『人間の美的教育について』)。

しかし現実的には、野蛮な遊び破りや遊びと強弁する真面目を批判するのは難しい。遊びか否かを判断する道徳心には、正義と寛容という二面性があるので、結局、遊びか真面目かの判断を下せないという 悩ましい問題を提起し、本書は終わっている。

「それゆえに、チートや遊び破りは文明そのものを破壊してしまう」ヨハン・ホイジンガ

政治と違い、文化は退廃しても人が死ぬようなことはないので、「寛容に」許されることがほとんど。それが次第に政治や経済や共同体の在り方等に悪い影響を与えていっても、人々は気づきにくい。

「模擬と目眩が人間にとっての永遠の誘惑であるなら、これらを集団生活から排除し、子供の楽しみや異状の振る舞いとしてだけ許しておくということは、容易にできることではあるまい」ロジェ・カイヨワ

カイヨワはホイジンガを批判しながらも、モラルの大切さは力説する。しかし、現実との妥協を一切図らず モラルの再興を主張した『ホモ・ルーデンス』の方が、長い目で見れば、文化・文明へ、我らホモ・サピエンス(理性の人)の存続・進化へ、果たす役割は大きいだろう。ホモ・デウス(神性の人)はフェアプレイしかしないはず。
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6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2017年8月19日に日本でレビュー済み
文化史家ヨハン・ホイジンガの手になる、遊びと人間論の名著です。
試みに、学校や学派を意味するスクールの語源はスコラ(スコラ哲学など)ですが、
本来学校というトポスは、農業生産力の向上に伴う余剰生産物の発生で、
考えることが可能になったことでようやく派出してきたもので、
その意味ではむしろルードス(遊び)が語源なのだ、とは教育学者堀尾輝久が述べていますが、
してみると、遊びとはなにか具体的かつ理性的な基礎のうえに初めて成り立つものではなく、
より本源的な要素としてあり、特殊人間的でもないようなのです。
ホイジンガはそもそも遊びをそうは捉えておらず、むしろ文化的総体(entity)として思案しているようです。

印欧諸語にせよ、本来言語学的にそうした対概念を明瞭にはもたないものもある中で、
いったい遊びというものをどう解したらよいか、そんな問題意識に依拠した本です。
博学なホイジンガゆえに分析視角は広く、多岐にわたりますが、
遊びを生命的連続性の根源要素と考えることから出発して、
人と動物をあえて切り離さずに立論しているあたりも興味深く、
つまりは文化的萌芽形態をばはるか祖先種に看取する視点かもしれず、
いわば遺伝子DNAの進化じたいとして遊びなのだ、とも考えられます。

してみると、「遊びに夢中になる」などといった文化現象もまた、
多様性の中で解されることになり、そこからはアゴン、イリンクス…などと分類もされ、
その中にさらにいろいろな遊びが混入している体系化の実態も分析可能であるように見受けられます。
こうしてホイジンガの開いた境地は、歴史的事実への真摯なまなざしと、
いわば文化相対主義とによって生命の本質論へと発展を遂げてゆくのであり、
本書もそうした読み方をしてみると、見えてくる地平があるように思われます。
ここに本書を改めて、遊びと人間論としておすすめしておきます。
10人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2007年3月19日に日本でレビュー済み
 本書がいう「遊び」とは、人間のもつ創造性の源とでもいうべきものであると解すべきものであると思う。たとえ著者が本書において広汎な言語学的・文化人類学的な知見に基づいて繊細な定義づけをしているとしても、それ以外の定義は不要であると思う。なぜなら、人間の創造性は元来アナーキーなもので、それに形を与えるのは不可能だからである。

 さて本書を読めば「遊び」の中に生まれた「文化」のうち、人間の経済に有用なものが「真面目」あるいは「日常」として、(経済的)合目的性を帯びて分離されたということがわかる。著者・ホイジンガは、19世紀以来、この「真面目」が肥大化して「遊び」すなわち人間の創造性を圧迫・従属させているかのように感じているようだ。ホイジンガはいう〈社会と人間精神のなかで経済的因子を過大に評価することは、ある意味では神秘というものを殺し、人間を罪業、罪責から解き放った合理主義と功利主義の当然の成り行きである。しかしそれと同時に、彼らは人間を愚かしさと近視眼的けちくささから解放してやるべきなのに、それは忘れていた〉と(P390)。

 要するに『ホモ・ルーデンス』とは、専制君主と化した「真面目」=経済から「遊び」=創造性を解放し、モラルへと向かう試みである。この1938年のオランダ人の目にはナチズムという「真面目」と「遊び」の不幸な結びつき(「小児病」)が映っていたのだ。しかし、その試みは肝心なところで古きよきヨーロッパを懐古するという誤りを犯している。罪から解き放たれた人間が、「遊び」ながら新たな地平を切り拓いたすぐ後から「経済」が追いかけてくるのが19世紀から現代へとつづく社会である。ナチズムとてそのようにアナーキーな歴史の文脈において「モラル(規律)」を回復しようとした試みであるといえるのではないだろうか。
19人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2008年3月27日に日本でレビュー済み
文化及びその他人間活動における遊びの重要性を論証した歴史的名著。

遊びの特徴としては
・何らかの目的のための活動ではなく、その行動自体が目的である
・ルールを互いに守る
・相手を尊重する
・競争的である
などが挙げられている。

そうした特徴を軸に、さまざまな文化活動を分析する。
読み物としても面白い。

そして、現代のスポーツ、ゲーム、戦争などにおいて遊びの要素がなくなる小児病に陥っていると警告を慣らす。
プロスポーツ、トランプ、殲滅戦などは、遊びが残っていた昔には考えられないことなのだ。

最後に目次を付しておく

文化現象としての遊びの本質と意味
遊び概念の発想とその言語表現
文化創造の機能としての遊びと競技
遊びと法律
遊びと戦争
遊びと知識
遊びと詩
詩的形成の機能
哲学の遊びの形式
芸術の遊びの形式
「遊ビノ相ノモトニ」見た文化と時代の変遷
現代文化における遊びの要素
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