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論理のことば (中公文庫 モ 2-1) 文庫 – 1975/5/10
モークシャーカラグプタ
(著),
梶山 雄一
(著)
- 本の長さ164ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日1975/5/10
- ISBN-104122002168
- ISBN-13978-4122002166
登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (1975/5/10)
- 発売日 : 1975/5/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 164ページ
- ISBN-10 : 4122002168
- ISBN-13 : 978-4122002166
- Amazon 売れ筋ランキング: - 614,167位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年3月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
傍線、書き込みがなく新刊本がそのまま時代を経ているだけの感じであった。
2012年1月20日に日本でレビュー済み
2017/10/02 改稿第二版
ブッダ釈尊の教法が末期のインド仏教の一つである仏教認識論・仏教論理学にどのように反映されているのかを本書で確認した。本書の理解には、『The complete works of Swami Vivekananda』Vol.1(p.195~313)の「Patanjali’s Yoga Aphorisms」と『仏教の思想〈2〉 存在の分析』(桜部建著の第1章と鼎談の第2章)をあらかじめ通読して用語や体系に馴染むのが望ましい。ただし、前者の日本語訳『ラージャ・ヨーガ』の第2部「パタンジャリのヨーガ格言集」は分かり難い訳なのでお勧めできない。
本書から仏教の認識論・論理学は説一切有部アビダルマを前提に構築されたことが分かる。「五位七十五法」の心所法(心作用)も説一切有部の初期アビダルマでは「大地法」だけであったことが知られており、そこには釈尊の教法を再構築する片鱗が伺える。しかし、拡大増広された終期アビダルマの「五位七十五法」は枝葉末節が幹を覆い隠してしまった。
本書の第1章第2節「認識の分類」で、知覚と推理の二つが仏教の認識の特徴だと示される。
1)直接の知覚(プラッティヤクシャ)=現量
2)推理(アヌマーナ)=比量
これに3)直接の証明(アープタワーキャ)=聖教量(or 聖言量)=証言(シャーブダ、本書の用語)を加えて「正知」とするのがサーンキャ学派であり「ヨーガ・スートラ」である。
さらに、随伴性の定義を見ると、十二縁起(十二因縁)の定義と次のように対応することが分かる。
肯定的随伴性 ⇔ 流転の縁起〔順観〕
否定的随伴性 ⇔ 還滅の縁起〔逆観〕
また、第1章第7節「ヨーガ行者の直観」では、釈尊の教法と一致する説明が為されている。
該当部分を引用すると、
***
(五)人が身体をもっているかぎり、恩恵を与えられて快感を、冷遇されて不快感を得るわけであるから、身体をもつ者が貪欲などを離脱して解脱することは不可能である、と君は言ったが、それは正しくない。というのは、貪欲などを起こす原因は身体ではなくて、無知(無明)にこそある。無知とは、無常なものを恒常なものと考え、自我でないものを自我とし、苦であるものを楽とし、不浄なものを清浄であるとする、四種の倒錯した見解を本性とする誤解のことである。それによって、快楽の対象に対する掲愛も生じる。
***
ここで述べていることは、「三結」の断に近い。「自我でないものを自我とし」とは「身見」のことであり、「自我でないものを自我とし、苦であるものを楽とし、不浄なものを清浄であるとする」とは「疑」のことであり、「無常なものを恒常なものと考え」とは「戒取」のことである。ここで、そうした教法が明確に説かれていることに驚かされた。
もう一カ所、引用する。
***
自我は恒常的なものとしてあると考える人は、快楽への熱望などの原因であるものを、自我の所有物と(して執着)することにもなる。それらに執着することが貪欲にほかならない。この貪欲と結びついて、瞋恚(怒り)その他(の煩悩)が生じるのである。そういうわけで、無知こそが貪欲など(の煩悩)の根源であって、身体がそうなのではない。たとえ身体があるとしても、もし無知がなくなれば、どうして貪欲などがその人にまつわろうか。
***
ここで「無知こそが貪欲など(の煩悩)の根源である」という表現の「無知」とは、上記した「三結」のことである。「無知」=「三結」が無くなれば、「五下分結(三結+欲貪+瞋恚)の断が始まる。「貪欲」と訳されている言葉は、欲貪(欲界の貪欲=主に、セックス欲・名誉欲など)のことである。「欲貪」とそれが得られないことによる「瞋恚」は「三結」のように一気に断じることは出来ない。「欲貪」と「瞋恚」を忌避するのではなく、自分にはそれらが残っていることを観察し、それらがどのようなメカニズムで起動するのかを観察し、理解が深まる過程を自分の成長と認め、自分を責めないことである。
ブッダ釈尊の教法が末期のインド仏教の一つである仏教認識論・仏教論理学にどのように反映されているのかを本書で確認した。本書の理解には、『The complete works of Swami Vivekananda』Vol.1(p.195~313)の「Patanjali’s Yoga Aphorisms」と『仏教の思想〈2〉 存在の分析』(桜部建著の第1章と鼎談の第2章)をあらかじめ通読して用語や体系に馴染むのが望ましい。ただし、前者の日本語訳『ラージャ・ヨーガ』の第2部「パタンジャリのヨーガ格言集」は分かり難い訳なのでお勧めできない。
本書から仏教の認識論・論理学は説一切有部アビダルマを前提に構築されたことが分かる。「五位七十五法」の心所法(心作用)も説一切有部の初期アビダルマでは「大地法」だけであったことが知られており、そこには釈尊の教法を再構築する片鱗が伺える。しかし、拡大増広された終期アビダルマの「五位七十五法」は枝葉末節が幹を覆い隠してしまった。
本書の第1章第2節「認識の分類」で、知覚と推理の二つが仏教の認識の特徴だと示される。
1)直接の知覚(プラッティヤクシャ)=現量
2)推理(アヌマーナ)=比量
これに3)直接の証明(アープタワーキャ)=聖教量(or 聖言量)=証言(シャーブダ、本書の用語)を加えて「正知」とするのがサーンキャ学派であり「ヨーガ・スートラ」である。
さらに、随伴性の定義を見ると、十二縁起(十二因縁)の定義と次のように対応することが分かる。
肯定的随伴性 ⇔ 流転の縁起〔順観〕
否定的随伴性 ⇔ 還滅の縁起〔逆観〕
また、第1章第7節「ヨーガ行者の直観」では、釈尊の教法と一致する説明が為されている。
該当部分を引用すると、
***
(五)人が身体をもっているかぎり、恩恵を与えられて快感を、冷遇されて不快感を得るわけであるから、身体をもつ者が貪欲などを離脱して解脱することは不可能である、と君は言ったが、それは正しくない。というのは、貪欲などを起こす原因は身体ではなくて、無知(無明)にこそある。無知とは、無常なものを恒常なものと考え、自我でないものを自我とし、苦であるものを楽とし、不浄なものを清浄であるとする、四種の倒錯した見解を本性とする誤解のことである。それによって、快楽の対象に対する掲愛も生じる。
***
ここで述べていることは、「三結」の断に近い。「自我でないものを自我とし」とは「身見」のことであり、「自我でないものを自我とし、苦であるものを楽とし、不浄なものを清浄であるとする」とは「疑」のことであり、「無常なものを恒常なものと考え」とは「戒取」のことである。ここで、そうした教法が明確に説かれていることに驚かされた。
もう一カ所、引用する。
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自我は恒常的なものとしてあると考える人は、快楽への熱望などの原因であるものを、自我の所有物と(して執着)することにもなる。それらに執着することが貪欲にほかならない。この貪欲と結びついて、瞋恚(怒り)その他(の煩悩)が生じるのである。そういうわけで、無知こそが貪欲など(の煩悩)の根源であって、身体がそうなのではない。たとえ身体があるとしても、もし無知がなくなれば、どうして貪欲などがその人にまつわろうか。
***
ここで「無知こそが貪欲など(の煩悩)の根源である」という表現の「無知」とは、上記した「三結」のことである。「無知」=「三結」が無くなれば、「五下分結(三結+欲貪+瞋恚)の断が始まる。「貪欲」と訳されている言葉は、欲貪(欲界の貪欲=主に、セックス欲・名誉欲など)のことである。「欲貪」とそれが得られないことによる「瞋恚」は「三結」のように一気に断じることは出来ない。「欲貪」と「瞋恚」を忌避するのではなく、自分にはそれらが残っていることを観察し、それらがどのようなメカニズムで起動するのかを観察し、理解が深まる過程を自分の成長と認め、自分を責めないことである。