無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
主題と変奏 (中公文庫 M 58) 文庫 – 1977/11/10
吉田 秀和
(著)
- 本の長さ140ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日1977/11/10
- ISBN-104122004918
- ISBN-13978-4122004917
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (1977/11/10)
- 発売日 : 1977/11/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 140ページ
- ISBN-10 : 4122004918
- ISBN-13 : 978-4122004917
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,169,468位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 6,705位中公文庫
- - 50,069位楽譜・スコア・音楽書 (本)
- - 156,117位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年7月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
音楽関係の仕事の姉に、これとられました。内容は、これぞウエルメイドな音楽評です。本人がレコードを聴いて、譜面を確認して、と。野球評論家は現役の頃凄かった人じゃないと、何を言っても、おめえ何言ってんだとなりますけども、恐らく吉田先生は楽器はそれほどできない人だと思います。しかし音楽は感性の世界だから弾ける人の評論よりも、理知的に判断してる人の方が読みやすいです。同じことが他の人にも言えます(村上春樹先生の音楽評論も大好きです)譜面の評論できるかと聴かれたらできると思うと答えたらリトーの社長から大量に送られてきたと語りそれをしていますけども、だから弾けないからって、評論で楽してる訳でなく、とても高度なことをやっていてカッコいいです。
2012年7月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
秋のある日,FMラジオから流れ始めた音楽に,わたしは掴まれた。 30分間,その音楽だけに集中した。 それは バルトークの「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」だった。
ブリティッシュ・ロックやプログレッシブ・ロックばかり聞いていたわたしは,こんなにも密度の高い音楽があったのかと思った。 もっと聞きたいと思った。
手当たり次第に,名盤何百選や音楽雑誌を読み始めたのだが,どうも表面を撫でるだけの,一定の音楽的教養があれば誰にでも書けそうな,つまらない文章しか見つからない。
そして吉田秀和に出会った。 この人は莫大な教養を持っているが,教養で書くのではなく,自分の感性だけを信じて書いていると思えた。 そして吉田秀和を読み始めた。
ピエール・ブレーズの「春の祭典」が,これまでの演奏とは全く違ったものであることを教えてくれた。 ポリーニを教えてくれた。 ポリーニを知らなかったら,ベートーベンの後期ピアノソナタに夢中になることもなかっただろう。ショパンもそんなに聴かなかったと思う。 そしてシューマンを教えてくれた。
この本に「シューマンは明確にとびこえた」という1行がある。 シューマンは古典派の枠を飛び越えて,真のロマン派になったのだと思う。シューマンは躁鬱病(双極性感情障)を持っていたと言われる。 クライスレリアーナなどを聞くと,その気分の揺れの激しさが伝わってくる。(しかし,なんと美しく昇華されていることか!)
バルトークの音楽がどうしてあんなに緊密なのかも,この本で分析されている。
これは著者の第一評論集だが,わたしはこの本が一番好きだ。
ブリティッシュ・ロックやプログレッシブ・ロックばかり聞いていたわたしは,こんなにも密度の高い音楽があったのかと思った。 もっと聞きたいと思った。
手当たり次第に,名盤何百選や音楽雑誌を読み始めたのだが,どうも表面を撫でるだけの,一定の音楽的教養があれば誰にでも書けそうな,つまらない文章しか見つからない。
そして吉田秀和に出会った。 この人は莫大な教養を持っているが,教養で書くのではなく,自分の感性だけを信じて書いていると思えた。 そして吉田秀和を読み始めた。
ピエール・ブレーズの「春の祭典」が,これまでの演奏とは全く違ったものであることを教えてくれた。 ポリーニを教えてくれた。 ポリーニを知らなかったら,ベートーベンの後期ピアノソナタに夢中になることもなかっただろう。ショパンもそんなに聴かなかったと思う。 そしてシューマンを教えてくれた。
この本に「シューマンは明確にとびこえた」という1行がある。 シューマンは古典派の枠を飛び越えて,真のロマン派になったのだと思う。シューマンは躁鬱病(双極性感情障)を持っていたと言われる。 クライスレリアーナなどを聞くと,その気分の揺れの激しさが伝わってくる。(しかし,なんと美しく昇華されていることか!)
バルトークの音楽がどうしてあんなに緊密なのかも,この本で分析されている。
これは著者の第一評論集だが,わたしはこの本が一番好きだ。
2015年4月26日に日本でレビュー済み
吉田秀和は「小林秀雄の〈モオツアルト〉を読まなかったら、音楽について書く、その手段を模索するだけで一生を終わってしまったかもしれない。」(「一冊の本」(「もう一つの時間」海竜社所収))と正直に書いている。その、小林秀雄に倣った典型的な例が、本書の冒頭の「ロベルト・シューマン」(1950年、吉田37歳)である。吉田は恥じるかのように、この作品が小林に倣ったことを、この作品の中に、誰にでも分かるような表現で書き示している。
それは、「ロベルト・シューマン」の冒頭の「あれは、今から二十年近く前のことだ。〜こういったやくざな考えが、〜今は大部分忘れてしまった。」という吉田が自分の個人的な想い出を語る部分だ。その口調、雰囲気、内容が、小林の「モオツアルト」の2、有名な40番ト短調の第4楽章の楽譜が引用されている部分とそっくりなのだ。「もう二十年も昔のことを、」で始まる小林の文章は「僕がその時、何を考えていたか忘れた。〜やくざな言葉で頭を一杯にして、犬のようにうろついていたのだろう。」と続く。違うのは、吉田の方は日比谷での出来事で、小林の方は道頓堀だと言うことくらいだ。
吉田は、この作品が小林に負うものであることを誰にでも分かるようにあからさまに作品冒頭に示しているのだ。その後、吉田は、こういった小林の文学的な手法から離れて、名曲や名演奏の聞き所を、きわめて印象的な表現でずばりと言い切ることに全力を注ぐようになる。もう、個人的な話は差し挟まなくなるのだ。「私が、若いとき何をしていたかなんて、ちっともおおもしろくもなんともないじゃありませんか。」(「ストラヴィンスキー『春の祭典』」(「私の好きな曲」1977年、吉田秀和64歳))。
もっとも、「ロベルト・シューマン」の冒頭の文章にはこのような一節もある。「何故ゆるぎなく明確な音そのものを聞かないのか?」。この頃の若い吉田にとっては小林の手法とて、音楽の本質を語るための手段であったことは間違いない。楽譜をならべて分析しても通じない。小林の手法を吉田はどこかでこう書いていた「それは、全てを書かずに、全てを投げ込む方法だった。そこでは、読者は書かれている以上のものを読むことになる。」(私の記憶による引用です。出典は捜したけれど見つけることができませんでした。)。
吉田の初期の作品が、こうやって現役の文庫本で読めるのは素晴らしいことだ。いつまでも読み継がれますように。
なお、最晩年の90歳を越してからの作品「永遠の故郷」4部作では、吉田は、自分の想い出を通して歌を語る手法を、自分に許している。新聞のインタビューでは「そういう(自分の想い出を通して評評を展開する)批評があっても良いのではないか」と言い訳を語っていた。(そういう記事を読んだ記憶があります。)
2015年5月2日追記:
出典が分からないと書いた小林のモオツアルトの手法について吉田が書いていた作品を確認できた。「ソロモンの歌」所収の「小林秀雄」(これを書いた吉田は53か54歳)だ。上記の不完全な引用のカ所は、正確にはこうだ。「それは、一方では自分のできることすべてをその中に投げ入れる方法の啓示であり、一方では、どうやってすべてを書きつくさないで、たくさんのものを与えうるかという問題への答えであった。(略)読むものはそこに書いてある以上のことを聞く。」
2018年9月9日追記:
この本の最後には、吉田が小林秀雄の方法を採る前に書いた評論が収められている。「ショーペンハウエルのフリュート」(原題:「音楽の本質について」)がそれだ。この「ショーペンハウエルのフリュート」は吉田が音楽の本質について啓蒙するために書いた作品に違いないのだが、ひどく生硬な表現で空振りに終わっている。それを反省して、表現方法を変えて(同じテーマ・音楽の本質について)書かれたのが本書冒頭の「ロベルト・シューマン」なのだと思う。両作品の結論を並べると分かる。
「ショーペンハウエルのフリュート」(原題「音楽の本質について」)の結論部分はこうだ。
◇「音楽は決して無から創造されたものでも、上天乃至地下の精霊の啓示によるものでもない」(126p)、「音楽はある絶対に現実的な物質の処理からなるものであり、(略)大理石や木材や布地や色と少しも違わない。それは純粋に技術的に処理される」(127p)。
これに対して、「ロベルト・シューマン」では名人の演奏したバッハとシューマンについてこう書いている。
◇「これが『物』だ。(略)こいつは、何としっかり存在していることだろう。こいつは明日になっても、やはり同じ姿でいるのだ。ああ、ぼくら、人間という、この奇妙な、ふわふわした『精神的存在』も、確然として現存する『物』にならなければならない。」(9p)
両者がおなじことについて、全く違う表現をとっていることが分かるだろう。後者が『小林秀雄の「モオツアルト」の方法』なのだ。
(以下蛇足)
なお、「ショーペンハウエルのフリュート」は昭和23年の近代文学が初出と巻末に記されている。中公文庫版の元となった「主題と変奏」(昭和28年)に収められる前に、昭和25年に出版された別の本「世界の音楽」の巻末にもこの評論は収録されている。その時の題名は「音楽の本質について」となっている。これが昭和23年に近代文学に発表されたときの原題なのだろうと推測される。ずいぶん力んだ題名だ。「題が大げさで恐縮だが」と同書の端書きに吉田も書いている。あまりに大げさな題名なので、「主題と変奏」に収めるときに「ショーペンハウエルのフリュート」と変えたのだろう。
(2020.5.16追記)
12pのランボーの詩の仏語の綴りが間違っている。arrete(止める)がarete(魚の骨)となっている。他に「ロベルト・シューマン」を収録している本を確認すると、吉田秀和全集第2巻でも、「言葉のフーガ 自由に、精緻に」(四明書院)でも、同じく間違っている。昭和28年刊の「主題と変奏」初版から間違っていたのではなかろうか。この数十年、誰もまともに読まなかったのだろうか。
それは、「ロベルト・シューマン」の冒頭の「あれは、今から二十年近く前のことだ。〜こういったやくざな考えが、〜今は大部分忘れてしまった。」という吉田が自分の個人的な想い出を語る部分だ。その口調、雰囲気、内容が、小林の「モオツアルト」の2、有名な40番ト短調の第4楽章の楽譜が引用されている部分とそっくりなのだ。「もう二十年も昔のことを、」で始まる小林の文章は「僕がその時、何を考えていたか忘れた。〜やくざな言葉で頭を一杯にして、犬のようにうろついていたのだろう。」と続く。違うのは、吉田の方は日比谷での出来事で、小林の方は道頓堀だと言うことくらいだ。
吉田は、この作品が小林に負うものであることを誰にでも分かるようにあからさまに作品冒頭に示しているのだ。その後、吉田は、こういった小林の文学的な手法から離れて、名曲や名演奏の聞き所を、きわめて印象的な表現でずばりと言い切ることに全力を注ぐようになる。もう、個人的な話は差し挟まなくなるのだ。「私が、若いとき何をしていたかなんて、ちっともおおもしろくもなんともないじゃありませんか。」(「ストラヴィンスキー『春の祭典』」(「私の好きな曲」1977年、吉田秀和64歳))。
もっとも、「ロベルト・シューマン」の冒頭の文章にはこのような一節もある。「何故ゆるぎなく明確な音そのものを聞かないのか?」。この頃の若い吉田にとっては小林の手法とて、音楽の本質を語るための手段であったことは間違いない。楽譜をならべて分析しても通じない。小林の手法を吉田はどこかでこう書いていた「それは、全てを書かずに、全てを投げ込む方法だった。そこでは、読者は書かれている以上のものを読むことになる。」(私の記憶による引用です。出典は捜したけれど見つけることができませんでした。)。
吉田の初期の作品が、こうやって現役の文庫本で読めるのは素晴らしいことだ。いつまでも読み継がれますように。
なお、最晩年の90歳を越してからの作品「永遠の故郷」4部作では、吉田は、自分の想い出を通して歌を語る手法を、自分に許している。新聞のインタビューでは「そういう(自分の想い出を通して評評を展開する)批評があっても良いのではないか」と言い訳を語っていた。(そういう記事を読んだ記憶があります。)
2015年5月2日追記:
出典が分からないと書いた小林のモオツアルトの手法について吉田が書いていた作品を確認できた。「ソロモンの歌」所収の「小林秀雄」(これを書いた吉田は53か54歳)だ。上記の不完全な引用のカ所は、正確にはこうだ。「それは、一方では自分のできることすべてをその中に投げ入れる方法の啓示であり、一方では、どうやってすべてを書きつくさないで、たくさんのものを与えうるかという問題への答えであった。(略)読むものはそこに書いてある以上のことを聞く。」
2018年9月9日追記:
この本の最後には、吉田が小林秀雄の方法を採る前に書いた評論が収められている。「ショーペンハウエルのフリュート」(原題:「音楽の本質について」)がそれだ。この「ショーペンハウエルのフリュート」は吉田が音楽の本質について啓蒙するために書いた作品に違いないのだが、ひどく生硬な表現で空振りに終わっている。それを反省して、表現方法を変えて(同じテーマ・音楽の本質について)書かれたのが本書冒頭の「ロベルト・シューマン」なのだと思う。両作品の結論を並べると分かる。
「ショーペンハウエルのフリュート」(原題「音楽の本質について」)の結論部分はこうだ。
◇「音楽は決して無から創造されたものでも、上天乃至地下の精霊の啓示によるものでもない」(126p)、「音楽はある絶対に現実的な物質の処理からなるものであり、(略)大理石や木材や布地や色と少しも違わない。それは純粋に技術的に処理される」(127p)。
これに対して、「ロベルト・シューマン」では名人の演奏したバッハとシューマンについてこう書いている。
◇「これが『物』だ。(略)こいつは、何としっかり存在していることだろう。こいつは明日になっても、やはり同じ姿でいるのだ。ああ、ぼくら、人間という、この奇妙な、ふわふわした『精神的存在』も、確然として現存する『物』にならなければならない。」(9p)
両者がおなじことについて、全く違う表現をとっていることが分かるだろう。後者が『小林秀雄の「モオツアルト」の方法』なのだ。
(以下蛇足)
なお、「ショーペンハウエルのフリュート」は昭和23年の近代文学が初出と巻末に記されている。中公文庫版の元となった「主題と変奏」(昭和28年)に収められる前に、昭和25年に出版された別の本「世界の音楽」の巻末にもこの評論は収録されている。その時の題名は「音楽の本質について」となっている。これが昭和23年に近代文学に発表されたときの原題なのだろうと推測される。ずいぶん力んだ題名だ。「題が大げさで恐縮だが」と同書の端書きに吉田も書いている。あまりに大げさな題名なので、「主題と変奏」に収めるときに「ショーペンハウエルのフリュート」と変えたのだろう。
(2020.5.16追記)
12pのランボーの詩の仏語の綴りが間違っている。arrete(止める)がarete(魚の骨)となっている。他に「ロベルト・シューマン」を収録している本を確認すると、吉田秀和全集第2巻でも、「言葉のフーガ 自由に、精緻に」(四明書院)でも、同じく間違っている。昭和28年刊の「主題と変奏」初版から間違っていたのではなかろうか。この数十年、誰もまともに読まなかったのだろうか。
2013年5月8日に日本でレビュー済み
吉田が、30才前後に書いたいくつかの文章を収めている。
自分の見識に対する絶対的な自身に満ちた文章が印象的だ。
まるで、世界を征服したような、高揚感に溢れている。これこそ、若さというものだろう。
しかし、その背景には、他の追随を許さない、対象の音楽に対する理解力が、裏つけされている。
特に、最後の、ショーペンハウエルのフリュート、という文章が面白かった。
その題名からは想像できないが、この短い文章は、吉田の音楽言論のようだ。
自分の見識に対する絶対的な自身に満ちた文章が印象的だ。
まるで、世界を征服したような、高揚感に溢れている。これこそ、若さというものだろう。
しかし、その背景には、他の追随を許さない、対象の音楽に対する理解力が、裏つけされている。
特に、最後の、ショーペンハウエルのフリュート、という文章が面白かった。
その題名からは想像できないが、この短い文章は、吉田の音楽言論のようだ。
2010年1月12日に日本でレビュー済み
小林秀雄の名著「モーツァルト」を再読し、最後のあたりのフレーズがどうしても気になった。デジャブならぬ既読感が気になって仕方なく、吉田秀和の著作だ!ということまで思い出し、昔読んだ文庫本を片っ端から引っ張り出しモーツァルトについて言及してある文章を読み漁った。件の一節はまだ見つからないがそこで登場したのがこの一冊。
32年前に購入し、今では内部まで茶色い額縁に彩られた一冊の文庫本、そこには、シューマン、モーツァルト、バルトーク等について書かれた今読んでも全く色あせない深い透察力と音楽に対する愛情にあふれた文章が存在している。
彼の全集を購入したい欲求が再び頭をもたげてきて、それと戦っている。私にはもっと実生活に必要なものがある…
後世の人たちは古典として、歳月の波に淘汰された彼の一部の著作に触れることになるのだろうか?(全著作が完全に消えてしまうことはないと思う。)
せっかく同時代を生きたのだから読書が可能なうちに全部読みたい!!
☆とりあえず、入手可能なものは読むことをお勧めします。☆
ちなみに文庫収録以前の初出年月日を見て驚く。私が生まれた以前すべて昭和20年代。
既に古典なのだ…
32年前に購入し、今では内部まで茶色い額縁に彩られた一冊の文庫本、そこには、シューマン、モーツァルト、バルトーク等について書かれた今読んでも全く色あせない深い透察力と音楽に対する愛情にあふれた文章が存在している。
彼の全集を購入したい欲求が再び頭をもたげてきて、それと戦っている。私にはもっと実生活に必要なものがある…
後世の人たちは古典として、歳月の波に淘汰された彼の一部の著作に触れることになるのだろうか?(全著作が完全に消えてしまうことはないと思う。)
せっかく同時代を生きたのだから読書が可能なうちに全部読みたい!!
☆とりあえず、入手可能なものは読むことをお勧めします。☆
ちなみに文庫収録以前の初出年月日を見て驚く。私が生まれた以前すべて昭和20年代。
既に古典なのだ…