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自殺論 (中公文庫 D 26ー1) 文庫 – 1985/9/10
エミール デュルケーム
(著),
宮島 喬
(翻訳)
- ISBN-104122012562
- ISBN-13978-4122012561
- 出版社中央公論新社
- 発売日1985/9/10
- 言語日本語
- 本の長さ568ページ
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (1985/9/10)
- 発売日 : 1985/9/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 568ページ
- ISBN-10 : 4122012562
- ISBN-13 : 978-4122012561
- Amazon 売れ筋ランキング: - 62,925位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年3月7日に日本でレビュー済み
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デュルケーム自身、社会学を科学的な学問だと知らしめるために著したもので、そのために自殺が取り扱われたに過ぎないのですが、それ故に全体の構成は素晴らしく綺麗にまとまっています。自殺という社会現象に対して、社会学の観点からどのように捉えようと模索していくもので、この考え方は他の社会現象を論じていく上でも参考になると思います。
2014年7月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
社会学の2大名著(自殺論と、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)の1つ
一言で、『自殺の数は、その社会の統合の強さと反比例する。』
<自殺の4分類>
(1)利他的自殺(集団本位的自殺)
→集団のために犠牲になること
(2)利己的自殺(自己本位的自殺)
→自分の事情で自殺すること
(3)アノミー的自殺
→社会的規則・規制がない(もしくは少ない)状態で起こる自殺の形態。無規制状態の下で自らの欲望に歯止めが効かなくなり、自殺してしまうもので、不況期よりも好景気のほうが欲望が過度に膨張するので自殺率が高まる。
(4)宿命的自殺
→集団・社会の規範による拘束力が非常に強く、個人の欲求を過度に抑圧することで起こる自殺の形態 例 心中
(2)や(4)は想像するに難くないが、この(3)「アノミー的自殺」を喝破した所にデュルケームの鋭さを感じる。
一言で、『自殺の数は、その社会の統合の強さと反比例する。』
<自殺の4分類>
(1)利他的自殺(集団本位的自殺)
→集団のために犠牲になること
(2)利己的自殺(自己本位的自殺)
→自分の事情で自殺すること
(3)アノミー的自殺
→社会的規則・規制がない(もしくは少ない)状態で起こる自殺の形態。無規制状態の下で自らの欲望に歯止めが効かなくなり、自殺してしまうもので、不況期よりも好景気のほうが欲望が過度に膨張するので自殺率が高まる。
(4)宿命的自殺
→集団・社会の規範による拘束力が非常に強く、個人の欲求を過度に抑圧することで起こる自殺の形態 例 心中
(2)や(4)は想像するに難くないが、この(3)「アノミー的自殺」を喝破した所にデュルケームの鋭さを感じる。
2009年7月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自殺に対してデュルケムが協同組合という対案を最後に出していることはもっと注目されて良い。
日本の学者だとこうはいかないだろう。
集団的社会学として個人を重んじないと批判されることの有るデュルケムだが、そう単純な批判は出来ない。
いまこそ、マルクスやウェーバーが見失ったプルードン流の集合力理論に立ち戻るべきだろう(デュルケムはさらに金融に話を進めるべきだとは思うが)。
そうした社会学の一方の極みがデュルケムだということがわかる。
日本の学者だとこうはいかないだろう。
集団的社会学として個人を重んじないと批判されることの有るデュルケムだが、そう単純な批判は出来ない。
いまこそ、マルクスやウェーバーが見失ったプルードン流の集合力理論に立ち戻るべきだろう(デュルケムはさらに金融に話を進めるべきだとは思うが)。
そうした社会学の一方の極みがデュルケムだということがわかる。
2010年11月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
全くもって驚ける良書です。
自殺に至る背景は今も昔も変わっていない事が良くわかります。
多少、著者デュルケームの自殺観が宗教倫理観寄りではありますが
行間からそれを極力排除しようとする姿が窺えます。
これを読んだ上で以前に読んだ「 強いられる死 自殺者三万人超の実相 」を
思い起こすと現代日本が如何に病んだ社会かが実感できますね。
自殺に至る背景は今も昔も変わっていない事が良くわかります。
多少、著者デュルケームの自殺観が宗教倫理観寄りではありますが
行間からそれを極力排除しようとする姿が窺えます。
これを読んだ上で以前に読んだ「 強いられる死 自殺者三万人超の実相 」を
思い起こすと現代日本が如何に病んだ社会かが実感できますね。
2014年8月5日に日本でレビュー済み
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なぜ人々が自殺を図るかを様々な角度から分析した本で、なかなか興味深いです。
2009年12月25日に日本でレビュー済み
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自殺というとどうしてもその心理的動機や精神的葛藤に興味が向いたり、善か悪かといった道徳的問題に関心が払われがちである。だが1897年にオリジナルが刊行された本書は、道徳的解釈を完全に排除し、徹底的に統計学的な分析を試みている。
自殺の定義から始まって、精神病や人種等の先天的(遺伝的)要因、気候などといった自然環境的要因をデュルケームはまず検討し否定する。そして自殺の割合が社会およびその状況に依存している(らしい)ことに着目し、社会的要因に淵源する三つの自殺タイプを提唱する。すなわち、社会からの疎外に起因する「自分本位的(利己的)自殺」、社会への埋没がもたらす「集団本位的(愛他的)自殺」、社会の破綻に基づく「アノミー的(虚無的)自殺」がそれである。
はじめに結論ありきで、それに基づいてデータを解釈している、という読み方もできないことはないが、自殺はカトリックよりもプロテスタントの方が圧倒的に多いという事実や、離婚制度と自殺との因果関係など、興味深い指摘も多い。
本書にも紹介があるが、かつて自殺とは刑罰に値する罪悪であった。宗教的背景は口実に過ぎず、恐らくは罰したいという欲求が、自殺者をその標的として選ばずにはいられなかったのだろう。罰に基づいて罪の概念が形成されるのだとすれば、自殺の蔑視はヨーロッパの伝統に基づくドグマでしかないのではなかろうか(もっとも自殺を潔しとする風潮もまた、切腹という文化を持つ日本特有のドグマでしかないのであろうが)。自分の命の所有者は自分ではないという議論も成り立つとはいえ、自殺とは不可抗力であり、善悪という基準で量るべきものではないと思う。そういった意味でも、感情を排した本書の客観的分析手法には好感が持てる。哲学的とは言えないが、社会学の古典の名にふさわしい名著。
自殺の定義から始まって、精神病や人種等の先天的(遺伝的)要因、気候などといった自然環境的要因をデュルケームはまず検討し否定する。そして自殺の割合が社会およびその状況に依存している(らしい)ことに着目し、社会的要因に淵源する三つの自殺タイプを提唱する。すなわち、社会からの疎外に起因する「自分本位的(利己的)自殺」、社会への埋没がもたらす「集団本位的(愛他的)自殺」、社会の破綻に基づく「アノミー的(虚無的)自殺」がそれである。
はじめに結論ありきで、それに基づいてデータを解釈している、という読み方もできないことはないが、自殺はカトリックよりもプロテスタントの方が圧倒的に多いという事実や、離婚制度と自殺との因果関係など、興味深い指摘も多い。
本書にも紹介があるが、かつて自殺とは刑罰に値する罪悪であった。宗教的背景は口実に過ぎず、恐らくは罰したいという欲求が、自殺者をその標的として選ばずにはいられなかったのだろう。罰に基づいて罪の概念が形成されるのだとすれば、自殺の蔑視はヨーロッパの伝統に基づくドグマでしかないのではなかろうか(もっとも自殺を潔しとする風潮もまた、切腹という文化を持つ日本特有のドグマでしかないのであろうが)。自分の命の所有者は自分ではないという議論も成り立つとはいえ、自殺とは不可抗力であり、善悪という基準で量るべきものではないと思う。そういった意味でも、感情を排した本書の客観的分析手法には好感が持てる。哲学的とは言えないが、社会学の古典の名にふさわしい名著。
2012年9月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
社会学の古典的名作だけあって、内容は素晴らしいです。自殺論に対する批判はありますが、社会学における役割を考えれば、一読の価値はあります。
しかし、翻訳が良くない。非常に難解な日本語になっています。英語版で読むと良いと思います。
しかし、翻訳が良くない。非常に難解な日本語になっています。英語版で読むと良いと思います。
2011年4月9日に日本でレビュー済み
デュルケーム(1858-1917)による自殺の社会学的研究、1897年公刊。前著『社会学的方法の規準』に於いて確立した、他の諸学から区別される固有の学としての社会科学の方法論を、自殺という社会現象に適用してみせたもの。
そもそもの前提として、自殺という現象が「社会」的な性質を帯びているということを示さなければならない。その為にまず、精神病理・人種・遺伝・気候環境・模倣などの非「社会」的なファクターが、集合的な自殺現象の要因としては本質的ではないことを論証する。そして、それぞれの「社会」集団には、個人の生理的・心理的素質や地域の気象的条件には還元し尽くせない、当該社会に特有の自殺傾向が見出され、「社会的自殺率」と名付けられる。こうして自殺現象の「社会」的な性格が浮き彫りにされ、同時に或る集合的な事象を解釈する上で「社会」――単なる個々人の総和とは区別される、個人に対して外在的な、それ自体として独立した実在――という認識枠組みが有効であることが示される。これは、「社会」という領域が学問の対象として立ち現れてきたことを意味する。換言すれば、形而上学や自然科学など他の諸学から自律した、固有の研究対象と固有の方法論を備えた学として社会学が確立されたということだ。随所に、社会学を独立した学たらしめようとするデュルケームの方法論的な自覚が見出される。
神が世俗から無限に隔てられていくことで此岸はその自律性を獲得したが、同時に、人間の生のあらゆる局面に於いてその意味・方向を付与していた秩序が崩壊した。目的論的世界観から機械論的世界観への転換である。それは近代資本主義の浸透とも重なる。世界の中で自己の存在理由を確信できなくなった自我は、勢い内面へと沈潜していき、自己を何かに基礎づけようとしてはすぐさまその自己規定を拒絶し寄る辺なく浮遊し続ける――何故なら外在的な則ち概念化・言語化可能な何かによって規定された途端に自己はその特権的な超越性を失うから――、そんな自己否定の無限循環、ロマン主義的アイロニーと呼ばれる自己意識の無限運動の中で、絶望して命を絶つだろう(自己本位的自殺)。また、資本主義が解き放ったアナーキーな欲望、唯一にして最上位の価値基準とされた欲望、それ自体が自己目的化した決して充足されることのない無際限の欲望に駆られながら、経済的存在として断片化され自己喪失した果てに自ら死を選ぶだろう(アノミー的自殺)。或いは、恒常的な不安を強いる流動化した社会から退却して、"永遠の存在"に自己を合一・滅却させようとして、空想の観念と殉死を遂げるだろう(自己本位的自殺と集団本位的自殺との結合)。自殺研究を通して見えてくるのは、近代社会のニヒリズム的状況そのものである。
なお、社会学は自殺を「社会」現象として捉える学問であるから、自殺行為に於ける個人の実存の問題は当然のことながら等閑に付される。そこで扱い得るのは、飽くまで「社会」的条件によって規定されそれによって解釈され得る限りでの自殺である、つまり自殺という事態の抽象的で匿名的な一側面のみが照射される。ここでもし、自殺という現象の全てが社会学という特有の方法論によって捕捉されるような「社会」的条件によってのみ規定されるのだという転倒した解釈に陥れば、それは直ちに、社会学の学問的権利を不当に過大要求する「社会学主義」として批判されるだろう。デュルケームはその点に自覚的であったと思う。
いづれにせよ、本書はヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と並ぶ社会科学の古典的名著であることに間違いない。
そもそもの前提として、自殺という現象が「社会」的な性質を帯びているということを示さなければならない。その為にまず、精神病理・人種・遺伝・気候環境・模倣などの非「社会」的なファクターが、集合的な自殺現象の要因としては本質的ではないことを論証する。そして、それぞれの「社会」集団には、個人の生理的・心理的素質や地域の気象的条件には還元し尽くせない、当該社会に特有の自殺傾向が見出され、「社会的自殺率」と名付けられる。こうして自殺現象の「社会」的な性格が浮き彫りにされ、同時に或る集合的な事象を解釈する上で「社会」――単なる個々人の総和とは区別される、個人に対して外在的な、それ自体として独立した実在――という認識枠組みが有効であることが示される。これは、「社会」という領域が学問の対象として立ち現れてきたことを意味する。換言すれば、形而上学や自然科学など他の諸学から自律した、固有の研究対象と固有の方法論を備えた学として社会学が確立されたということだ。随所に、社会学を独立した学たらしめようとするデュルケームの方法論的な自覚が見出される。
神が世俗から無限に隔てられていくことで此岸はその自律性を獲得したが、同時に、人間の生のあらゆる局面に於いてその意味・方向を付与していた秩序が崩壊した。目的論的世界観から機械論的世界観への転換である。それは近代資本主義の浸透とも重なる。世界の中で自己の存在理由を確信できなくなった自我は、勢い内面へと沈潜していき、自己を何かに基礎づけようとしてはすぐさまその自己規定を拒絶し寄る辺なく浮遊し続ける――何故なら外在的な則ち概念化・言語化可能な何かによって規定された途端に自己はその特権的な超越性を失うから――、そんな自己否定の無限循環、ロマン主義的アイロニーと呼ばれる自己意識の無限運動の中で、絶望して命を絶つだろう(自己本位的自殺)。また、資本主義が解き放ったアナーキーな欲望、唯一にして最上位の価値基準とされた欲望、それ自体が自己目的化した決して充足されることのない無際限の欲望に駆られながら、経済的存在として断片化され自己喪失した果てに自ら死を選ぶだろう(アノミー的自殺)。或いは、恒常的な不安を強いる流動化した社会から退却して、"永遠の存在"に自己を合一・滅却させようとして、空想の観念と殉死を遂げるだろう(自己本位的自殺と集団本位的自殺との結合)。自殺研究を通して見えてくるのは、近代社会のニヒリズム的状況そのものである。
なお、社会学は自殺を「社会」現象として捉える学問であるから、自殺行為に於ける個人の実存の問題は当然のことながら等閑に付される。そこで扱い得るのは、飽くまで「社会」的条件によって規定されそれによって解釈され得る限りでの自殺である、つまり自殺という事態の抽象的で匿名的な一側面のみが照射される。ここでもし、自殺という現象の全てが社会学という特有の方法論によって捕捉されるような「社会」的条件によってのみ規定されるのだという転倒した解釈に陥れば、それは直ちに、社会学の学問的権利を不当に過大要求する「社会学主義」として批判されるだろう。デュルケームはその点に自覚的であったと思う。
いづれにせよ、本書はヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と並ぶ社会科学の古典的名著であることに間違いない。