この本からカーヴァーが始まった。
自分にとっては村上春樹さんを追いかけていて、カーヴァーに出会うことが出来、その世界にはまった。
「ぼくが電話をかけている場所」。それは何処でもない場所かもしれない。
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ぼくが電話をかけている場所 (中公文庫 C 30) 文庫 – 1986/1/1
レイモンド カーヴァー
(著),
村上 春樹
(翻訳)
アメリカの名コラムニストとして活躍する著者による結婚して11年目に初めて子供をもった年の一年間の驚きや発見の記録を綴った日記。社会や人生の残酷さを、ジャーナリストとしてクールな目で描きながらも、一貫して人間への愛情があふれ、一種の安心感を与えている。
- 本の長さ200ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日1986/1/1
- ISBN-104122012899
- ISBN-13978-4122012899
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (1986/1/1)
- 発売日 : 1986/1/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 200ページ
- ISBN-10 : 4122012899
- ISBN-13 : 978-4122012899
- Amazon 売れ筋ランキング: - 313,969位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2010年9月21日に日本でレビュー済み
レイモンド・カーヴァー村上春樹訳の「ぼくが電話をかけている場所」を読了。短編集ですが、すべてその事象のみの記述であり、いわゆるオチがありません。そうだよね、実人生にオチなんかないからね。誰も落とそうとしていませんものね。だからいいのです。そのぶった切り感というか。。。
人生の物語に近づけば近づくほどこうなるのですね。でもそこには暗闇が待ってます。なんともいえない暗闇。きっと誰もが持っているものなのでしょう。そこをくすぐる本書はただの短編集では無いのです。
人生の物語に近づけば近づくほどこうなるのですね。でもそこには暗闇が待ってます。なんともいえない暗闇。きっと誰もが持っているものなのでしょう。そこをくすぐる本書はただの短編集では無いのです。
2008年4月7日に日本でレビュー済み
ずっと前に読んで、今では内容を忘れてしまっていましたが、「百年の誤読 海外文学編」を読んでいたらよみたくなりまして。
いや、久しぶりにですが、凄いですね、レイモンド・カーヴァー。本当に短編の放り投げ方、切り方、凄まじいです。どのぐらい凄まじいかと言いますと、普通小説の余韻を楽しもうとする場合は、より物語そのものに深くハマル、感情移入する人物がいる、何か分からないものを追求する(気になる!例えばミステリーなら、犯人が、結末が、とかです)、など読み手の感情をコントロールさせられている部分が必要になりますし、そのためにはそれなりの長さが、説明が、描写が、仕掛けが、伏線が、必要になります。だからこそ、長編小説にやられることは確率的に言って多いのだと思います。それなのに、カーヴァーの短編は違います。説明を極力押さえ、説明も省き、恐らく最も伝えたい、主要なテーマの様なモノまでもを、隠す事によってより鮮明な余韻を読み手に与えます。
「ダンスしないか?」のガレッジセールをする男の悲しみと、そこを訪れるカップルの哀しみの質の違いを、読後に想像しないわけには行かなくなります。何故こんなことになってしまったのかを、考えて、想像し、納得したくなってしまうポイント(そこを越えて省略したり、押さえたりしてしまうと、関心がなくなり、親しみもなくなるのですが、そこがまさに絶妙!!!!)ギリギリで切ってきます、放り投げてきます。まるでこの後を読み手である読者に委ねるかのように。
「菓子袋」におけるある人の大きな分岐点(しかし、ある意味誰にでも起こりうる)の始まりについて、「出かけるって女たちに言ってくるよ」のカタストロフィが訪れる瞬間を振り返っての、最初の始まり。この男の部分の何かの扱いが、上手すぎます。また、観察と同調と恐ろしさと、静けさは、スティーブン・キングの恐さに、生きている人間の恐さに、とても近いことを全く違った角度から、考え方から、迫り来る、考えさせられる恐ろしさです。まさに、なにも起こっていないのに、普通のとある出来事なのに、その中にある、狂気の芽や、カタストロフィにも繋がる何かを、切り取り、取り出して、目の前に持って来て、必要以上に考えさせられるのです。
それに、恐らくこの短編集のベスト「足もとに流れる深い川」の出来事、妻の心理的何かの切迫した変化など、女の心の中までもをそぎ落とせるだけそぎ落として、非常にソリッドな何かとして浮かび上がらせるテクニックは物凄いです。何かが(それもとりわけ奇妙で無い、普通の出来事の、生活の中にある)起こり、そして何らかの変化が(目に見えたり、見えなかったり、)起こります。その変化が起こす何か、それについて考えてみたくなってしまう、そんなものに興味がある方に、金井美恵子作品で言えば「軽いめまい」に似たあの生活の中にある、あまり認めたくない、狂気の芽を知ってる人にオススメ致します。
いや、久しぶりにですが、凄いですね、レイモンド・カーヴァー。本当に短編の放り投げ方、切り方、凄まじいです。どのぐらい凄まじいかと言いますと、普通小説の余韻を楽しもうとする場合は、より物語そのものに深くハマル、感情移入する人物がいる、何か分からないものを追求する(気になる!例えばミステリーなら、犯人が、結末が、とかです)、など読み手の感情をコントロールさせられている部分が必要になりますし、そのためにはそれなりの長さが、説明が、描写が、仕掛けが、伏線が、必要になります。だからこそ、長編小説にやられることは確率的に言って多いのだと思います。それなのに、カーヴァーの短編は違います。説明を極力押さえ、説明も省き、恐らく最も伝えたい、主要なテーマの様なモノまでもを、隠す事によってより鮮明な余韻を読み手に与えます。
「ダンスしないか?」のガレッジセールをする男の悲しみと、そこを訪れるカップルの哀しみの質の違いを、読後に想像しないわけには行かなくなります。何故こんなことになってしまったのかを、考えて、想像し、納得したくなってしまうポイント(そこを越えて省略したり、押さえたりしてしまうと、関心がなくなり、親しみもなくなるのですが、そこがまさに絶妙!!!!)ギリギリで切ってきます、放り投げてきます。まるでこの後を読み手である読者に委ねるかのように。
「菓子袋」におけるある人の大きな分岐点(しかし、ある意味誰にでも起こりうる)の始まりについて、「出かけるって女たちに言ってくるよ」のカタストロフィが訪れる瞬間を振り返っての、最初の始まり。この男の部分の何かの扱いが、上手すぎます。また、観察と同調と恐ろしさと、静けさは、スティーブン・キングの恐さに、生きている人間の恐さに、とても近いことを全く違った角度から、考え方から、迫り来る、考えさせられる恐ろしさです。まさに、なにも起こっていないのに、普通のとある出来事なのに、その中にある、狂気の芽や、カタストロフィにも繋がる何かを、切り取り、取り出して、目の前に持って来て、必要以上に考えさせられるのです。
それに、恐らくこの短編集のベスト「足もとに流れる深い川」の出来事、妻の心理的何かの切迫した変化など、女の心の中までもをそぎ落とせるだけそぎ落として、非常にソリッドな何かとして浮かび上がらせるテクニックは物凄いです。何かが(それもとりわけ奇妙で無い、普通の出来事の、生活の中にある)起こり、そして何らかの変化が(目に見えたり、見えなかったり、)起こります。その変化が起こす何か、それについて考えてみたくなってしまう、そんなものに興味がある方に、金井美恵子作品で言えば「軽いめまい」に似たあの生活の中にある、あまり認めたくない、狂気の芽を知ってる人にオススメ致します。
2023年12月2日に日本でレビュー済み
二十代の初め頃に町の本屋で買ったと思う。その当時に製本所で短期アルバイトをしていて、製本され梱包された沢山の本のわきに、この本が見本のように置いてあった。昼休みに「ダンスしないか?」を読んで感銘を受け、この本もらえませんか、と試しに訊いたところ断られたのをよく憶えている。すぐにバイト代かなんかで本屋で買った。正直言うと村上春樹に対してはちょっと捉えどころがないように思っていた。羊三部作とノルウェイの森とのギャップとか。でも、この翻訳されたカーヴァーの短編たちは素晴らしいと思った。
ハードカバーは1983年に出たようで、訳者としては初期の訳業だろう。
作品の構造としては、「ダンスしないか?」「大聖堂 カセドラル」「菓子袋」「あなたお医者さま?」「何もかもが彼にくっついていた」などの作品は、後半や結末に題名の事柄が重要になり、前半との心情や視点などの差異が面白みを読者に与えるのだろう。
例えば「ダンスしないか?」では、珍しいガレージセールと庭でのダンスというのはつながりつつ、別れを経験した中年男と踊った(若い)娘がその孤独を引き継ぐように彼女の視点で終わるという、滑らかにつながりながらも中年男から(恐らく深刻な別れをまだ経験していない)若い女性へと視点が変わり、その無邪気な若さと出口のない孤独といったものが対比的にあらわれてくる、というような作品になっている。
「大聖堂」では、その表現においても心情においても、より対比的かつダイナミックに短編が進むように思える。盲人の訪問と、それを迎える冷笑的な中年の主人。語り手はその主人であるのだが、冒頭は彼による要約であり、後半は会話や描写によってあらわされ、また、語り手の心情も大きく変わる。そして、盲人の来訪と大聖堂とがどのようにつながるかは、予想できないだろう、既にタイトルを知っているにも関わらず。この辺りは創作の謎だ。構想として盲人と大聖堂があったのか、書き進めるうちに大聖堂が出てきたのか。前半は(語り手は主人だが)妻がプロットを進ませ、妻が寝てしまうことで後半のプロットが展開するというのも効果的だろう。たった三人だけの登場人物だが、要約、テープ、会話、沈黙の食事、大麻煙草、テレビ、絵、などがメリハリを効かせている一方で、軽妙さが常にある。無信仰と悪夢を冷笑的にやり過ごすところに語り手の、あるいは中産階級の中年男の孤独が窺える。
「訳者あとがき」で触れられているが、中産階級の孤独というものがどの作品にも通底しているだろう。収録作最後の作品も少女であった妻との(何らかの)別れが暗示されている。
原書にも目を通したことがあるが、翻訳と同様に簡潔な単語や文章で綴られているようだった。その辺りは、英訳された村上春樹の短編とも通じるようだ(恐らくカーヴァーの方が簡潔だと思える。また、簡潔な語彙による伝達といった点では、ビートルズ、特に初期のジョンの作詞は示唆的である)。また、同じ訳者だからと言って、さすがにフィッツジェラルドとカーヴァーとで異なる質感を読み取らないわけにはいかないだろう。
原書で例を引いてみると、「ダンスしないか?」のタイトルの台詞が言及される場面は以下のようだ。
Why don’t you kids dance? he decided to say, and then he said it. “Why don’t you dance?”
結びの段落は次のように書かれている。
She kept talking. She told everyone. There was more to it, and she was trying to get it talked out. After time, she quit trying.
(Raymond Carver ”Where I’m calling from - Selected Stories” Vintage Contemporaries)
モチーフとして、カーヴァーと村上春樹とに共通しているものを認めることができるだろう。未知の女性からの不意の電話や性的関係以外の親密な男女の会話や固有名詞の拒否など、があげられる。
ハードカバーは1983年に出たようで、訳者としては初期の訳業だろう。
作品の構造としては、「ダンスしないか?」「大聖堂 カセドラル」「菓子袋」「あなたお医者さま?」「何もかもが彼にくっついていた」などの作品は、後半や結末に題名の事柄が重要になり、前半との心情や視点などの差異が面白みを読者に与えるのだろう。
例えば「ダンスしないか?」では、珍しいガレージセールと庭でのダンスというのはつながりつつ、別れを経験した中年男と踊った(若い)娘がその孤独を引き継ぐように彼女の視点で終わるという、滑らかにつながりながらも中年男から(恐らく深刻な別れをまだ経験していない)若い女性へと視点が変わり、その無邪気な若さと出口のない孤独といったものが対比的にあらわれてくる、というような作品になっている。
「大聖堂」では、その表現においても心情においても、より対比的かつダイナミックに短編が進むように思える。盲人の訪問と、それを迎える冷笑的な中年の主人。語り手はその主人であるのだが、冒頭は彼による要約であり、後半は会話や描写によってあらわされ、また、語り手の心情も大きく変わる。そして、盲人の来訪と大聖堂とがどのようにつながるかは、予想できないだろう、既にタイトルを知っているにも関わらず。この辺りは創作の謎だ。構想として盲人と大聖堂があったのか、書き進めるうちに大聖堂が出てきたのか。前半は(語り手は主人だが)妻がプロットを進ませ、妻が寝てしまうことで後半のプロットが展開するというのも効果的だろう。たった三人だけの登場人物だが、要約、テープ、会話、沈黙の食事、大麻煙草、テレビ、絵、などがメリハリを効かせている一方で、軽妙さが常にある。無信仰と悪夢を冷笑的にやり過ごすところに語り手の、あるいは中産階級の中年男の孤独が窺える。
「訳者あとがき」で触れられているが、中産階級の孤独というものがどの作品にも通底しているだろう。収録作最後の作品も少女であった妻との(何らかの)別れが暗示されている。
原書にも目を通したことがあるが、翻訳と同様に簡潔な単語や文章で綴られているようだった。その辺りは、英訳された村上春樹の短編とも通じるようだ(恐らくカーヴァーの方が簡潔だと思える。また、簡潔な語彙による伝達といった点では、ビートルズ、特に初期のジョンの作詞は示唆的である)。また、同じ訳者だからと言って、さすがにフィッツジェラルドとカーヴァーとで異なる質感を読み取らないわけにはいかないだろう。
原書で例を引いてみると、「ダンスしないか?」のタイトルの台詞が言及される場面は以下のようだ。
Why don’t you kids dance? he decided to say, and then he said it. “Why don’t you dance?”
結びの段落は次のように書かれている。
She kept talking. She told everyone. There was more to it, and she was trying to get it talked out. After time, she quit trying.
(Raymond Carver ”Where I’m calling from - Selected Stories” Vintage Contemporaries)
モチーフとして、カーヴァーと村上春樹とに共通しているものを認めることができるだろう。未知の女性からの不意の電話や性的関係以外の親密な男女の会話や固有名詞の拒否など、があげられる。
2005年4月16日に日本でレビュー済み
村上春樹がカーヴァーを翻訳した最初の作品集。当時大学生であり まだカルト作家という位置付けであった村上春樹のファンであった小生が この本を手に取るのは 当然といえば当然であったが 読んでショックを受けたことを今でも まざまざと覚えている。
特に冒頭作の「ダンスしないか?」は 奇妙なガレージセールの話であるが米国が抱えている一種の絶望感が湛えられていて 今読み返しても興味深いものがある。特に9.11と その後の米国の世界に対する「対応」を見てきた我々が 20年以上前に本作で描かれた米国の一種の「病理」を見直すと その間に米国そのものが 何を必要だと考え、何をしてきたかが 暗示的に浮かび上がるような気すらしてくる。
社会の閉塞感とは その社会が下手に物質的に豊かな場合には 本当に歪んだものになるのはローマ帝国時代からの繰り返しかもしれない。閉塞感を打破するには 何か「共通の敵」が必要なのかもしれない。そしてそれは... などと考えていると しかし 段々嫌になってくる。
それにしてもこれを発見した村上春樹は さすがであるとしか言いようが無い。
特に冒頭作の「ダンスしないか?」は 奇妙なガレージセールの話であるが米国が抱えている一種の絶望感が湛えられていて 今読み返しても興味深いものがある。特に9.11と その後の米国の世界に対する「対応」を見てきた我々が 20年以上前に本作で描かれた米国の一種の「病理」を見直すと その間に米国そのものが 何を必要だと考え、何をしてきたかが 暗示的に浮かび上がるような気すらしてくる。
社会の閉塞感とは その社会が下手に物質的に豊かな場合には 本当に歪んだものになるのはローマ帝国時代からの繰り返しかもしれない。閉塞感を打破するには 何か「共通の敵」が必要なのかもしれない。そしてそれは... などと考えていると しかし 段々嫌になってくる。
それにしてもこれを発見した村上春樹は さすがであるとしか言いようが無い。
2004年2月16日に日本でレビュー済み
訳者が、作家だと安心して読めますね。偏見かも知れませんが。 で、短編作家による短編集である。カーヴァ-のように、何も起こらない日々を短編にするのは、恐ろしく技量がいる。端的にいって、ハードだけで戦うということだからだ。 しかし、このような短編を昔は、なにが良いのか理解できなかった。それを少しはわかるようになったのは、加齢のためだろう。 サリンジャーのライ麦は理解できても、ナインストーリーズはさっぱりだったころを思い返せば。・「男には息抜きってものがいるんだ」・「一人の男が全ての規則や習わしに従がってきちんと生きている。そしてその次の瞬間にそんなことまるでどうだってよくなっちまうんだ。彼の運命が勝手にどんどん歩き出すわけさ」・「もし本当にそうしたいと思えば」と僕は言う。「時間くらいみつけられるものさ。時間は作りだすんだよ」・「ふたつのことが明らかだった。①他人に何が起ころうが別に関係ない、とみんな思っている。②何かが新に変化することなどはもはやありえない」
2004年6月30日に日本でレビュー済み
カーヴァーの持つ「心の闇」が村上春樹の独特の文体で読者に提示される。
乾いてざらついていて、無機質でありながらうっすらとした狂気と衝動に満ちている。アメリカの短編小説作家の中でも異色の存在であるカーヴァーを翻訳するのには村上春樹が最も適しているだろう。
村上作品にしばしば登場する「森」はカーヴァーの世界のようなものだなと想像させてくれる。
乾いてざらついていて、無機質でありながらうっすらとした狂気と衝動に満ちている。アメリカの短編小説作家の中でも異色の存在であるカーヴァーを翻訳するのには村上春樹が最も適しているだろう。
村上作品にしばしば登場する「森」はカーヴァーの世界のようなものだなと想像させてくれる。