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改版 出雲の阿国 (下) (中公文庫) 文庫 – 2002/8/1
有吉 佐和子
(著)
- 本の長さ511ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2002/8/1
- ISBN-104122040817
- ISBN-13978-4122040816
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2002/8/1)
- 発売日 : 2002/8/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 511ページ
- ISBN-10 : 4122040817
- ISBN-13 : 978-4122040816
- Amazon 売れ筋ランキング: - 745,848位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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山内正子
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本当に一世を風靡した全国一の阿国歌舞伎だった時代と、頂点を極めて落下していく時代。おそらくフィクションなのだろうが落魄していても本人にはそんなことは関係なくお客の前で踊れるだけで幸せであった。その心理描写がすごく丁寧に描かれていた。特に彼女のことを愛していた傳介が志半ばで愛を告知することもなく病死するシーンはジーンとくるものがある。最後。阿国の死はあれでよかったのか。誰もが考えさせられる。有吉ファンならお勧めの好著。
魑魅魍魎
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歌舞伎創設者として歴史的史実の乏しい阿国を見事に描いている。
数多くの歴史時代小説に断片的には登場するがその人物像を知りたく読んでみた。
以外だったのは江戸へは行ったもののほとんどの活躍場所が都(京)であったことだ。
もっと全国行脚したものと思っていたし、後年まで踊り続けたと想像していた。
戦国武将の読み物とは違った感覚で大変面白い。
一般文学通算531作品目の感想。通算821冊目の作品。2009/12/09
数多くの歴史時代小説に断片的には登場するがその人物像を知りたく読んでみた。
以外だったのは江戸へは行ったもののほとんどの活躍場所が都(京)であったことだ。
もっと全国行脚したものと思っていたし、後年まで踊り続けたと想像していた。
戦国武将の読み物とは違った感覚で大変面白い。
一般文学通算531作品目の感想。通算821冊目の作品。2009/12/09
瑠唯
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著者は有吉佐和子氏なのでストーリー構成は文句なしに面白く、阿国だけでなく登場人物の情念が生き生きと描かれた作品です。又中古本の使用感はなくリニューアルして下さったようでした。
レビュアー
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歌舞伎の創始者と言われる才は、人並みはずれたものがあったのかも知れません。
そんな彼女も男に恋をし、嫉妬し、思い悩む。現代の人とも変わることのない繊細さを持った、一人の人間。
それでありながらも、一本芯の通った彼女の生き方には美しいものを感じます。
有吉佐和子先生の描いた阿国を観て、より阿国という人物に興味が深まりました。
描写が濃密なので、世界観にどっぷりと浸かり人にオススメです。
そんな彼女も男に恋をし、嫉妬し、思い悩む。現代の人とも変わることのない繊細さを持った、一人の人間。
それでありながらも、一本芯の通った彼女の生き方には美しいものを感じます。
有吉佐和子先生の描いた阿国を観て、より阿国という人物に興味が深まりました。
描写が濃密なので、世界観にどっぷりと浸かり人にオススメです。
榎戸 誠
【かぶきの創始】
1603(慶長8)年の陰暦4月、将軍宣下の祝典の余韻の漂う京の町を、一つの新しい芸能の評判が駆け巡っていた。出雲大社の巫女(みこ)と称する阿国(おくに)(1572?〜没年不詳)という30歳前後の女が、男装して「かぶき者」に扮し、茶屋の女と戯れる樣を、歌と踊りを交えて巧みに演じてみせたのだ。この時、「かぶき」という芸能が成立したのである。
当時の資料「当代記」が伝えるところによれば、それは、「異風ナル男ノマネヲシテ、刀、脇指、衣裳以下殊異相」だったという。女性の男装という性の倒錯の上に、異相を伴うのであるから、それは確かに妖しい雰囲気を漂わせたものであったろう。
この新しい芸能の創始が、阿国の個性と創造力によってなされたのは言うまでもないが、彼女が時代の転換期に生まれ合わせたということも大きく影響していると思われる。
【阿国の独創性】
阿国は、京畿内の芸能座に所属していたと思われる節がある。それなのに出雲大社の巫女と称したのは、そのイメージを利用しようとしたのだろう。阿国のような女性同業者はほかにも大勢いたはずだが、阿国はその題目、その内容において格段に際立っていた。このため、人気を博し、今日とは異なり当時は蔑視されていた芸能者の一員に過ぎなかったのに、かぶきの創始者として名を残すことができたのである
阿国に率いられた一座は、常にその時々の権力者を庇護者とし、乱世を巧みに乗り切って、「天下一」の女の座への歩みを進めていった。しかも、阿国は権力に馴染んで大衆を切り捨てるような道は選択せず、上層階級にも大衆にも好まれる新しい芸を次々に案出していったのである。
阿国のかぶき踊りは、京都大学図書館蔵の阿国歌舞伎絵詞によって、その片鱗を窺うことができる。観客席から芸人が登場する画期的手法や、見る者に強烈な刺激を与える官能的な踊りや乱舞といった演出の妙を編み出したのだ。庶民大衆の心に直接訴えかけることで、舞台と客席が一つに融け合い、演技者と観客が一体化して、共に歌い踊る陶酔の中にこそ芸能の喜びがあると、阿国は感じていたのだろう。そして、彼女独自の群を抜いた鋭敏な芸人感覚を生かして、斬新なアイディアを生み出していったのだ。その上、一時の物珍しさに終わることなく、清新な魅力が持続するよう、常に舞台の変化を心がけていたのである。
「当代記」は、阿国について「ただし好(よ)き女に非ず」、つまり美人ではない、と記している。若くもなく、決して美しくもなかった阿国の努力には、本当に頭が下がる。
1607(慶長12)年の江戸城での勧進かぶき上演を最後として、さまざまな伝説を身にまとった阿国は、史上から姿を消してしまう。しかし、女座長が率いる僅か十数人の新興芸能の一座が、3年の余も、花の都の伝統ある興業地で定舞台を維持し得たのは、画期的な出来事であったと言えるだろう。
【「かぶき」から「歌舞伎」へ】
後代の寛永年間、女芸の一切が幕府によって禁じられた時、既にかぶきを名乗っていた若衆の座の存在によって、かぶきはその命脈を保ったのであるが、女芸人を根絶、完全追放しようとしたのは、儒教的道徳観に基づく秩序維持が目的であった。
「かぶき者」の「かぶき」は、傾く意の「かぶく」という動詞からきた語とさ れている。かぶくとは、軌道から外れたといったような意味である。かぶきには、その後、歌舞伎という華やかな文字が充てられて、今日に至っている。かぶきの生みの親である阿国が現在の歌舞伎界の隆盛を見たら、何と言うだろうか。
【参考文献】
・『歌舞伎以前』 林屋辰三郎著、岩波新書、1954年
・『出雲の阿国』(改版、上・下巻) 有吉佐和子著、中公文庫、1969年〜1972年
・『出雲のおくに――その時代と芸能』 小笠原恭子著、中公新書、1984年
1603(慶長8)年の陰暦4月、将軍宣下の祝典の余韻の漂う京の町を、一つの新しい芸能の評判が駆け巡っていた。出雲大社の巫女(みこ)と称する阿国(おくに)(1572?〜没年不詳)という30歳前後の女が、男装して「かぶき者」に扮し、茶屋の女と戯れる樣を、歌と踊りを交えて巧みに演じてみせたのだ。この時、「かぶき」という芸能が成立したのである。
当時の資料「当代記」が伝えるところによれば、それは、「異風ナル男ノマネヲシテ、刀、脇指、衣裳以下殊異相」だったという。女性の男装という性の倒錯の上に、異相を伴うのであるから、それは確かに妖しい雰囲気を漂わせたものであったろう。
この新しい芸能の創始が、阿国の個性と創造力によってなされたのは言うまでもないが、彼女が時代の転換期に生まれ合わせたということも大きく影響していると思われる。
【阿国の独創性】
阿国は、京畿内の芸能座に所属していたと思われる節がある。それなのに出雲大社の巫女と称したのは、そのイメージを利用しようとしたのだろう。阿国のような女性同業者はほかにも大勢いたはずだが、阿国はその題目、その内容において格段に際立っていた。このため、人気を博し、今日とは異なり当時は蔑視されていた芸能者の一員に過ぎなかったのに、かぶきの創始者として名を残すことができたのである
阿国に率いられた一座は、常にその時々の権力者を庇護者とし、乱世を巧みに乗り切って、「天下一」の女の座への歩みを進めていった。しかも、阿国は権力に馴染んで大衆を切り捨てるような道は選択せず、上層階級にも大衆にも好まれる新しい芸を次々に案出していったのである。
阿国のかぶき踊りは、京都大学図書館蔵の阿国歌舞伎絵詞によって、その片鱗を窺うことができる。観客席から芸人が登場する画期的手法や、見る者に強烈な刺激を与える官能的な踊りや乱舞といった演出の妙を編み出したのだ。庶民大衆の心に直接訴えかけることで、舞台と客席が一つに融け合い、演技者と観客が一体化して、共に歌い踊る陶酔の中にこそ芸能の喜びがあると、阿国は感じていたのだろう。そして、彼女独自の群を抜いた鋭敏な芸人感覚を生かして、斬新なアイディアを生み出していったのだ。その上、一時の物珍しさに終わることなく、清新な魅力が持続するよう、常に舞台の変化を心がけていたのである。
「当代記」は、阿国について「ただし好(よ)き女に非ず」、つまり美人ではない、と記している。若くもなく、決して美しくもなかった阿国の努力には、本当に頭が下がる。
1607(慶長12)年の江戸城での勧進かぶき上演を最後として、さまざまな伝説を身にまとった阿国は、史上から姿を消してしまう。しかし、女座長が率いる僅か十数人の新興芸能の一座が、3年の余も、花の都の伝統ある興業地で定舞台を維持し得たのは、画期的な出来事であったと言えるだろう。
【「かぶき」から「歌舞伎」へ】
後代の寛永年間、女芸の一切が幕府によって禁じられた時、既にかぶきを名乗っていた若衆の座の存在によって、かぶきはその命脈を保ったのであるが、女芸人を根絶、完全追放しようとしたのは、儒教的道徳観に基づく秩序維持が目的であった。
「かぶき者」の「かぶき」は、傾く意の「かぶく」という動詞からきた語とさ れている。かぶくとは、軌道から外れたといったような意味である。かぶきには、その後、歌舞伎という華やかな文字が充てられて、今日に至っている。かぶきの生みの親である阿国が現在の歌舞伎界の隆盛を見たら、何と言うだろうか。
【参考文献】
・『歌舞伎以前』 林屋辰三郎著、岩波新書、1954年
・『出雲の阿国』(改版、上・下巻) 有吉佐和子著、中公文庫、1969年〜1972年
・『出雲のおくに――その時代と芸能』 小笠原恭子著、中公新書、1984年