初めに言いますが、内容自体はとても面白いです。ヘーゲル解釈に独自性もありますがが、一貫性を保ちつつわかりやすく解説されており入門書として最適です。しかし、この本を紙の本もしくは違うコンテンツから買うことをおすすめします。
見開きの左側のページの一行目が切れていて内容が読めません。
また、こちらは責めるべきではないかもしれませんが、文字テキストではなく画像のようで探索もかけれませんね。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
カントからヘーゲルへ 単行本 – 2012/5/18
岩崎 武雄
(著)
カントの批判哲学から、フィヒテ、シェリングをへてヘーゲルの哲学体系までドイツ観念論を平明に解説したスタンダードな入門書。哲学を志す者にとって、またカント、ヘーゲル哲学へのすぐれた手引として、待望の書といえよう。解説=坂部恵【書物復権:初版1977年】
- 本の長さ269ページ
- 言語日本語
- 出版社東京大学出版会
- 発売日2012/5/18
- ISBN-104130130277
- ISBN-13978-4130130271
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 東京大学出版会; 新装版 (2012/5/18)
- 発売日 : 2012/5/18
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 269ページ
- ISBN-10 : 4130130277
- ISBN-13 : 978-4130130271
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,102,831位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 949位ドイツ・オーストリアの思想
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中3.5つ
5つのうち3.5つ
全体的な星の数と星別のパーセンテージの内訳を計算するにあたり、単純平均は使用されていません。当システムでは、レビューがどの程度新しいか、レビュー担当者がAmazonで購入したかどうかなど、特定の要素をより重視しています。 詳細はこちら
6グローバルレーティング
虚偽のレビューは一切容認しません
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2013年11月16日に日本でレビュー済み
一、
宗教の世界では批判と言うことは御法度(ごはっと)とされているが、哲学の世界ではむしろ日常的で
あり、創造的なものとされている。
カントからヘーゲルに至るドイツ観念論の隆盛時代には、特に批判ということが創造性を持っていた時代
であった。まずカントによって打ち立てられた“批判哲学”は、カント研究に打ち込んだフィヒテによっ
て批判され、フィヒテは自己独自の“知識学”を構想した。このフィヒテ哲学をシェリングが批判して、
シェリング独自の“同一哲学”が生み出された。さらにシェリング哲学の信奉者でもあったヘーゲルは
『精神の現象学』において、シェリングを厳しく批判し、ヘーゲル独自の哲学を打ちたてて、ここにドイ
ツ観念論哲学の完成をみた。
この背景には、各自の個性(パーソナリティ)の相違や歴史状況の変化などが、複雑に絡み合って、新
しい時代状況にふさわしい哲学が構築されていったということであろう。
この哲学的批判精神の本来の意義については、山田宗睦(哲学者)が西田哲学の批判的超克を目指した
『西田幾多郎の哲学』の次の言葉によって的確に表現されている。
「本書は、先人の仕事や見解に、しばしば、おおむね批判的に触れざるをえなかったが、
そのことは私がそれらの業績に負うところが大きかったことのあらわれにほかならない」
(山田宗睦『西田幾多郎の哲学』序)
このことは、哲学的批判精神の本質を物語っている。
カントを受け継ぐ者は、カントの信奉者にはなく、カントを批判したフィヒテによって継承・発展させら
れた。またフィヒテ哲学との対決からシェリング哲学が生まれ、シェリング哲学との対決からヘーゲル哲
学が生み出された。ここに哲学的批判精神の創造性・発展性があるのである。
二、
ただ他方において、批判精神には創造性・発展性という肯定的側面ばかりではなく、当事者間に対立感
情・闘争心などを巻き起こすという否定的側面を持つことも事実であった。ヘーゲルの痛烈なシェリング
批判は、二人の長年の友情を破壊してしまった。
このように人間的側面では、犠牲を伴うものではあったが、哲学は、その人間的な痛みを乗り越えて、
鍛えられ発展させられて来たということも事実であった。
哲学的真理は、この批判的精神が枯渇する時、ダイナミックな創造的発展の契機を失い停滞してしまう
のである。ヘーゲルの<正><反><合>による発展の弁証法が示すところは、哲学的真理は、常に批判
を媒介として発展してゆくものであるということである。それは哲学真理それ自体が、創始者の個性の限
界を乗り越えて、その弱点を克服し、一つの全体的真理を獲得してゆくプロセスそのものであることを意
味しているのではないか。
宗教の世界では批判と言うことは御法度(ごはっと)とされているが、哲学の世界ではむしろ日常的で
あり、創造的なものとされている。
カントからヘーゲルに至るドイツ観念論の隆盛時代には、特に批判ということが創造性を持っていた時代
であった。まずカントによって打ち立てられた“批判哲学”は、カント研究に打ち込んだフィヒテによっ
て批判され、フィヒテは自己独自の“知識学”を構想した。このフィヒテ哲学をシェリングが批判して、
シェリング独自の“同一哲学”が生み出された。さらにシェリング哲学の信奉者でもあったヘーゲルは
『精神の現象学』において、シェリングを厳しく批判し、ヘーゲル独自の哲学を打ちたてて、ここにドイ
ツ観念論哲学の完成をみた。
この背景には、各自の個性(パーソナリティ)の相違や歴史状況の変化などが、複雑に絡み合って、新
しい時代状況にふさわしい哲学が構築されていったということであろう。
この哲学的批判精神の本来の意義については、山田宗睦(哲学者)が西田哲学の批判的超克を目指した
『西田幾多郎の哲学』の次の言葉によって的確に表現されている。
「本書は、先人の仕事や見解に、しばしば、おおむね批判的に触れざるをえなかったが、
そのことは私がそれらの業績に負うところが大きかったことのあらわれにほかならない」
(山田宗睦『西田幾多郎の哲学』序)
このことは、哲学的批判精神の本質を物語っている。
カントを受け継ぐ者は、カントの信奉者にはなく、カントを批判したフィヒテによって継承・発展させら
れた。またフィヒテ哲学との対決からシェリング哲学が生まれ、シェリング哲学との対決からヘーゲル哲
学が生み出された。ここに哲学的批判精神の創造性・発展性があるのである。
二、
ただ他方において、批判精神には創造性・発展性という肯定的側面ばかりではなく、当事者間に対立感
情・闘争心などを巻き起こすという否定的側面を持つことも事実であった。ヘーゲルの痛烈なシェリング
批判は、二人の長年の友情を破壊してしまった。
このように人間的側面では、犠牲を伴うものではあったが、哲学は、その人間的な痛みを乗り越えて、
鍛えられ発展させられて来たということも事実であった。
哲学的真理は、この批判的精神が枯渇する時、ダイナミックな創造的発展の契機を失い停滞してしまう
のである。ヘーゲルの<正><反><合>による発展の弁証法が示すところは、哲学的真理は、常に批判
を媒介として発展してゆくものであるということである。それは哲学真理それ自体が、創始者の個性の限
界を乗り越えて、その弱点を克服し、一つの全体的真理を獲得してゆくプロセスそのものであることを意
味しているのではないか。
2010年3月16日に日本でレビュー済み
ドイツ観念論の大枠が平易な文章で見事に要約されています。最初にこれを読むことは実に効率的です。ただし当時の哲学が有していた宗教的側面については極めて淡白な記述です。そういうものを求める人には池田晶子の「考える人」やシュタイナーの「哲学の謎」もオススメです。
2007年8月5日に日本でレビュー済み
カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの生涯と学説を平易に解説。明快だが急がずゆったりとした文体で、語ってくる本書は、だれでも無理なく読める好著。高校生でも読んで哲学に興味が出てくる良書。斯く言う私も高校時代に本書に接して以来、哲学関連の書籍に親しむようになった。難しい話を順序だてて、ひとつひとつ平易な言葉に置きなおして考えていくその姿勢は見事で、若年においては大いに学ぶべきところがあると思う。だが、ヘーゲルの章においては間もなく不満が生じた。分けても「弁証法」を「認識の弁証法」に限定して評価し、それ以外は無意味であるかのように語る解説には、根本的に徹底して考える、というヘーゲル哲学の姿勢そのものを無視してしまう結果を生んでいる。この解説では、「悟性」と「理性」の区別もつかない。また一読後、良く考えてみると、一体どこがフィヒテの思想と異なるかも釈然としない結果を生む。けれど、ヘーゲル以外については行届いた妥当な判断の解説と言えると思う。