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白の闇 単行本 – 2001/2/1

3.9 5つ星のうち3.9 16個の評価

商品の説明

内容(「MARC」データベースより)

視界がまっ白になる病気。原因不明のまま、感染は広がってゆく。政府はかつての精神病院を収容所にして、患者の隔離をはじめる。そこでは、秩序が崩壊し、人間の本性がむきだしになってゆく。圧倒的な空想力で描く現代の寓話。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ NHK出版 (2001/2/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2001/2/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 365ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4140053623
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4140053621
  • カスタマーレビュー:
    3.9 5つ星のうち3.9 16個の評価

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ジョゼ・サラマ−ゴ
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上位レビュー、対象国: 日本

2021年6月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
José SARAMAGO『Enasayo sobre la ceguera』は『白い闇』というタイトルでNHK出版から刊行されている。(雨沢泰訳、2001年03月25日発行)。その一行目(書き出し)を読んで私は、あっ、と叫んでしまった。

 Se ilumino el disco amarilló.雨沢は「黄色がついた。」と訳している。「黄色」は信号の黄色である。

 私が読んだのはスペイン語版でポルトガル語ではないのだが、スペイン語、ポルトガル語は「兄弟言語」のようなものなので、たぶん、「意訳」は入っていないと思う。
 雨沢の訳に間違いはない。「disco 」を雨沢は訳出していないが、「信号」という意味がある。ふつうは「semáforo 」をつかうことが多いと思う。それをサラマーゴは円盤という意味もある「disco 」と書いている。これは、とても重要である。なぜか。この小説は「視覚」が重要なポイントだからである。
 サラマーゴはノーベル賞を受賞しているし、『白い闇』は映画にもなったので、多くの人が知っていると思うが、突然、人間が盲目になるストーリーである。盲目といっても「白い霧」のようなもので視界を覆われる。そして、その病気は感染する。その書き出しの一文。日本語で読んだときは特に何かを感じたわけではないが、スペイン語で読んでびっくりした。「disco 」の一語が、非常に刺戟的なのである。
 信号が黄色に変わった(黄色の光に変わった)でも「視覚」は表現されるが、サラマーゴはあえて「まるい(円盤)」を明確にしている。そこには作者の強い意識が動いている。私は四角い信号や、三角の信号は見たことがないが、たぶん、どんな形をしているにしろ、「赤、黄色、青(緑)」の光が交差点にあれば、それを信号と思うだろう。信号を見るとき、わざわざそれが四角か三角か丸かを意識しない。色だけを意識する。だからこそ雨沢も「黄色」だけを訳出している。しかし、それでは小説の導入として不十分なのである。サラマーゴは、視覚を意識しているからこそ、視覚を刺戟することばをあえて挿入しているのである。刺戟するために「disco 」ということばをつかったのだ。それは、そのすぐあとにあるもう一つの信号の描写にもあらわれている。
 En el indicador del paso de peatones apareció la silueta del hombre verde. (横断歩道にある緑色の男の絵が明るくなった。)「男の絵」は原文では「男の影」である。影はもともと暗い。それが明るくなった。男の姿(シルエット)は、たしかに周りの黒や青(緑)よりも明るい。その明るい部分は、なんとサラマーゴはシルエット(影)と読んでいるのである。この「矛盾」のようなことばの使い方にも、意識が刺戟される。
 単に「具体的」な形、色だけではなく、たとえば「ゼブラゾーン」について触れた部分もそうである。シマウマに似ていないのに、ゼブラゾーンと呼ばれるのはなぜか。譬喩は一種の抽象であり、抽象化は形而上学(哲学)へとつながっていくが、そういうことが書き出しの一段落で「予告」されているのである。「意味」ではなく、「ことば」そのものの具体的な効果によって。
 雨沢の訳文で「意味」は全部わかるが、サラマーゴのことばは、ことばが「意味」になるとき、通り抜ける「意識、感覚」の回路が非常に微妙な形で文章化している。言語化している。そのことに気づき、私はあっと叫んだのである。ことばによって視覚が刺戟され、目覚める。何気なく見ていたものが、もっと具体的に迫ってくのである。そのために、これから始まる視覚の異変が生々しく迫ってくる。
 雨沢の訳が間違っているというつもりはないが、ずいぶん簡略化している。そして、その簡略化された部分に(訳出されていない部分に)、サラマーゴの意識が動いている。雨沢の訳では不十分である。まだるこっしくても、信号の丸いライトが黄色に変わったとか、なんとかして「丸い」を訳文に入れないことには、サラマーゴの工夫(意識)が反映されているとは言えない。
 で。
 文学というのは、やはり原文で読まないといけないのだ、と思った。(私は、原文で読んだわけではないが。)「意味」ではなく、どういう「表現」をするかが文学の基本なのだ。それを知るには「原文」に触れるしかないのである。
 どうでもいいことかもしれないが、付け足し。
 信号の色を、雨沢は最初は「緑」と訳出し、二段落目では「ようやく青に変わり」と「青」と訳している。いまでは、日本語の青と外国語の緑は同じ色と知っているひとは大勢いるが(信号の青を、外国語では緑ということを知っているひとは大勢いるが)、どちらかに統一した方がいいだろうとも思った。

*

 私が読んだ『白い闇』は2001年に出版されている。改訂版が出ているようだが、私は読んでいない。その2001年版なのだが、前回書いたように、訳がサラマーゴの「文体」を十分にくみ取っているとは思えない。ラジオ講座の初級についていくのがやっとの私が言うのは問題があるかもしれないが、その私でさえ、これではサラマーゴがかわいそうと思う「訳文」である。ほんの書き出しを読んだだけだが。
 きょう指摘したいのは、邦訳の8ページ、前のページから始まった段落の最後の部分。止まったままの車に向かって、後続の車から人が降りてくる。窓を叩く。

なかにいる男は人びとのほうに首をめぐらし、それから反対側に顔を向けた。男ははっきりとなにごとか叫んでいる。その口の動かし方から判断すると、いくつかの単語をくりかえしているようだ。一語ではない。ある人がようやく車のドアをあけたとき、なにを言っているのかわかった。目が見えない。

El hombre que está dentro vuelve hacia ellos la cabeza, hacia el otro, se ve que grito algo, por los movimientos de laboca se nota que repite una palabra, una no, dos, así es realmente, como sabremos cuando alguien, al fin, logre abrir una puerta, Estoy ciego.

 雨沢が「一語ではない」と訳している部分は「una no, dos,」である。私なりに訳すと「いや一語ではない、二語だ」である。ことばは音が聞こえないとき、いくつの単語を言っているかわかりにくい。長い単語もあれば短い単語もあるからだ。だからこそ「一語かな? いや違う、二語だ」と書くことで、サラマーゴは、車の外にいる人たちが、男がなんと叫んでいるのか聞き取ろうとしている様子を描いている。そして、その「二語」が、最後の「Estoy ciego 」(私は/盲目、という二つの単語)につながっている。「una no, dos,」は、「目が見えない」(私は盲目だ)の重要な「伏線」なのである。
 雨沢の訳で、もちろん意味は通じる。しかし「一語ではない」では、「二語」のそれぞれがわかったときの衝撃度が違う。「二語だ」とあるからこそ、「Estoy cieg」の二つの単語の重みがわかる。
 さらに、この「Estoy cieg」の「Estoy 」の意味が、本を読み進むうちに重みを増す。「Estoy 」(私は……です)の「私」が次々に増えていき、「estamos 」(われわれ)に変わっていく。「見えない」だけなら「No puedo ver nada 」でも通じる。でも、ここではどうしても「estoy 」という「一人称」が必要なのだ。
 私はこうした「伏線」のことを「呼応」と呼んでいるが、雨沢の訳は「呼応」を見落としている。前回書いた「信号」を「semáforo 」ではなく「disco 」と表現しているのに通じる。文学は「意味」ではなく、「表現」の細部なのだ。
 そして、この表現の細部に関していえば。
 サラマーゴのこの小説にはコンマ「, 」が非常に多い。(この小説にかぎらず、多いのだと思う。「Caín 」という小説もコンマだらけである。「Caín 」は、未読。友人が送ってくれたので、手元に持っているだけ。)サラマーゴはコンマによって「文体」をつくっている。意識の躍動というか、変化そのものをあらわしている。雨沢はコンマを読点「、」ではなく句点「。」にかえて訳出している。ときどき、省略もしている。それはそれでひとつの工夫だし、読みやすいのだが、どうしても「呼吸」がつたわらない。
 たとえば「ある人がようやく車のドアをあけたとき」の「ようやく」は日本語訳では読みとばしそうになる。読みとばしても問題はない。しかし、この「ようやく」をサラマーゴは「, al fin, 」とコンマで挟んで強調している。この強調は「意味」の強調であるだけでなく「呼吸」の強調である。「肉体」全体でことばを動かしているのである。「呼吸(コンマ)」には、とても重要な意味があるのだ。雨沢の訳文では「ようやく」は「あけた」という動詞にかかる。原文では「 asi' es realmente」と呼応しながら「 sabremos 」(わかった)にかかっているようにも感じられる。私はネイティブではないので、これは一種の感覚にすぎないのだが。
 呼吸の重要性は、「una no, dos 」の前後を見るとよくわかる。「 una palabra, una no, dos, así 」とサラマーゴは書いている。「一語をくりかえしている。いや、一語ではない。二語だ」というのが私の考える「訳」である。雨沢は「いくつかの単語をくりかえしているようだ」と訳しているが、サラマーゴは「 unas palabras」と「複数形」では書いていない。最初は「一語」だと思った。それが「二語」だった。その「認識」の変化が呼吸そのものにあらわれている。そして、その「二語」とは「Estoy ciego 」だったと書いている。( そして、この「一」が「二」に増えるというのは、先に書いたことの繰り返しになるが、「私」が「私たち」に増えていくことにつながる。)
 この衝撃。コンマが、その衝撃を高めている。
 このコンマの意味は、簡単な日常会話でもつかみとることができる。
¿Cómo estas?(元気?)
Sí, estoy bien.(もちろん、元気)
 コンマの部分で、どれだけ「呼吸」を置くか。それは「Sí」をどれだけ強く発音するかにもかかわってくる。強く発音し、呼吸をおけば「もちろんだよ/もちろんじゃないか」という強調になる。声の響きが違ってくる。
 思うに、この雨沢というひとは、「ことば」を「声(会話)」から肉体に叩き込んだのではなく、もっぱら「読む」ことだけで理解しているのだろう。この小説は、人間が突然盲目(白い闇につつまれる)という内容なので、「肉体」感覚がどれだけ「文体」として表現されているかが重要になる。私はやっと二段落を読んだだけだが、雨沢の訳は、その重要な「肉体感覚」(肉体のリズム)を伝えきれていないのではないか、と非常に疑問に感じた。
 あえて「二回目」の感想を書いた理由は、そこにある。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2014年8月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
パニック物の小説としては普通に面白いと思う。目が見えなくなる病気が次々と伝染していって、隔離病棟がいっぱいになり、その中で血みどろの抗争が繰り広げられる。一方、外の世界でも着実に病気が蔓延していく・・・。一見安易にも思えるストーリーだけど、想像力を駆使して書かれていて、陳腐な感じがしない。エンターテイメントとして非常によかった。映画化されるのもわかる。
しかし、これがノーベル賞に値する作家の作品として妥当かといえば、疑問を感じる。(そもそもノーベル賞がたいしたことないのかもしれないが)
つまり、文学性はそんなに高くないと感じた。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2022年2月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
村町市県国が疫病で動かなくなると、街の秩序が壊れ、糞尿、ゴミが道路に溢れて異様な臭いになる。人間が正常でいる事がどんなに大変かと思った!今回のコロナはワクチンもでき、国も動いているから文句は言えない、高齢の私はワクチンを早くに打ってもらって有難い事だと思った。白い闇は読んでもらいたい本です。ペスト共に。人間を考える良い機会です。
2020年2月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本当にこうなるかどうかはわかりませんが、圧倒されることは確かです。
2013年3月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この物語のような状況に自分がなったら、どのような行動をとるだろうか?
自治体や、国はこのような政策を行うだろうか?
そんな疑問をたくさん持ちながら、ある意味お笑いストーリーにさえ感じる。
2020年9月9日に日本でレビュー済み
""目が見えない人のなかで最悪なのは、見たいと思わない人だ、という言葉には大きな真理があるわ。でも、わたしは見たい、とサングラスの娘が言った。"1995年発表の本書はポルトガル初のノーベル賞受賞作家による『突然、視力が失われていく世界』を舞台に人間の理性や感情が【極限状態に置かれた際の現実】を描いた寓話的傑作。

個人的にはコロナ渦の今こそ読むべき。と思って、ようやく手にとりましたが。最初に結論を書くと大変に面白かった。

さて、そんな本書は車を運転していた男性の突然の失明から始まり、それが伝染病『ミルクの海』として、男性を診察した目医者や患者たちの間と次々に広がっていく中で、非人道的な収容所隔離、暴動や無秩序の発生など【当然に起こりうる最悪の事態】が起きていくわけですが。

目が見えることを前提に設計された【町や社会の日常が次々と崩壊していく】様子が登場人物達に善人、悪人といった分かりやすい設定を与えず(名前すら匿名性にして)【人間の価値は善意と悪意の狭間で試される】として"たった1人目が見えたままの目医者の妻を中心にしたグループ"の視点で描いている本書。【改行やセリフの括弧書きもない流れるような独特な文体】とともに終始リアリティをもって伝わってきて、没入感と共に一気に読み終えてしまいました。

また本書では、まるで登場人物たちが試練を与えられているかの様に、収容所を巡る食料配布問題や亡骸をどう扱うかなど、幾度も【人間の良心や尊厳に訴えかけてくる】重たい場面があるわけですが。苦悩する登場人物たちの心情に同化しながら【果たして自分ならどうするだろう】と何度も考えさせられました。

自粛警察やネットポピュリズムが横行する現在で【人間の良心や尊厳】を立ち止まって考えたい全ての方にオススメ。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2013年10月11日に日本でレビュー済み
ノーベル文学賞の受賞理由は「想像、哀れみ、アイロニーを盛り込んだ寓話によって我々がとらえにくい現実を描いた」だそうで、読み出してみたら止まらなかったです。安部公房とか好きな人は気に入るのではないかと思います。私たちは普段、身体的には目が見えていてそれが当たり前だと気にはしません。しかし同時に、全く盲目なのではないかと考えさせられました。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2008年6月17日に日本でレビュー済み
ある日、突然原因不明の病が、感染症のように人々を襲っていく。
眼が見えなくなくなってしまうのである。
眼が見えなくなった社会は、その機能を失い、無秩序な世界へ変わっていく。

その中でも良心を失わないものや、自分の欲望を満たすことだけに
翻弄するもの等、様々な人間模様が描かれている。
それは、まるで戦争や大災害の後の様子を思わせる。

あらすじを聞くと非常に重い感じがするのであるが、
各登場人物やエピソードについて丁寧に描かれており
読み始めるとすぐに話に引き込まれた。

ただひとつの人間の器官が失われるだけで
引き起こされるこのような話を考えついた
作者の想像力はすごいなと思った。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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