なぜ日本には運動会があるのか?
なぜサッカーにはオフサイドのルールができたのか?
なぜ高校野球がこんなにも人気になったのか?
これまで私は「スポーツマネジメント」「スポーツビジネス・マジック」など
現在のスポーツマネジメントがどのような状況にあるのか、
今後どうなるのか、という本ばかりを見てきました。
今回、『スポーツ解体新書』を読んだことで、「なぜ○○なのか?」ということを改めて考えることが出来ました。
現在のスポーツマネジメントに繋がるルーツを知ることができます。
スポーツの本質を考えている・考えたい人にお勧めの本です。
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スポーツ解体新書 単行本 – 2003/1/1
玉木 正之
(著)
- 本の長さ246ページ
- 言語日本語
- 出版社NHK出版
- 発売日2003/1/1
- ISBN-104140807490
- ISBN-13978-4140807491
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
スポーツ本来のもつ意味は、いまだ日本に根付いたとは言えない。危機に立つ日本のスポーツ事情を解剖し、新たな未来像を提示する。NHK人間講座のテキスト「日本人とスポーツ」を元に書き下ろした。
登録情報
- 出版社 : NHK出版 (2003/1/1)
- 発売日 : 2003/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 246ページ
- ISBN-10 : 4140807490
- ISBN-13 : 978-4140807491
- Amazon 売れ筋ランキング: - 128,572位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年7月8日に日本でレビュー済み
スポーツには我慢比べの要素があります.
ですが,人はなぜ我慢をしてまでスポーツをするのか?
それは,スポーツで得られる達成感が「楽しい」からです.
野球を例に取れば,ホームランを打って「楽しい」,
相手を三振に打ち取って「楽しい」,
そう思えるから,またそうなりたいから
苦しい走り込みにも耐えられるわけです.
したがって,スポーツの本質は「楽しい」ことであって
けっして「苦しいことを我慢する」ことではありません.
玉木氏はこの「楽しさ」こそ忘れてはならない大事な要素であると主張しています.
もし「苦しいことを我慢する」ことをスポーツの本質だと思ってしまうと
親や教師から強制されてやる本人にとっては苦しいだけのトレーニングもスポーツだということになってしまいます.
そうではなくて,自分が楽しいからやる,やりたいからやる.
それが大事なことなんだと.
それが玉木氏の「スポーツの本質とは遊びである」という言葉の意味だと思います.
ですが,人はなぜ我慢をしてまでスポーツをするのか?
それは,スポーツで得られる達成感が「楽しい」からです.
野球を例に取れば,ホームランを打って「楽しい」,
相手を三振に打ち取って「楽しい」,
そう思えるから,またそうなりたいから
苦しい走り込みにも耐えられるわけです.
したがって,スポーツの本質は「楽しい」ことであって
けっして「苦しいことを我慢する」ことではありません.
玉木氏はこの「楽しさ」こそ忘れてはならない大事な要素であると主張しています.
もし「苦しいことを我慢する」ことをスポーツの本質だと思ってしまうと
親や教師から強制されてやる本人にとっては苦しいだけのトレーニングもスポーツだということになってしまいます.
そうではなくて,自分が楽しいからやる,やりたいからやる.
それが大事なことなんだと.
それが玉木氏の「スポーツの本質とは遊びである」という言葉の意味だと思います.
2023年4月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者はスポーツがこれからの日本の経済的発展に重要で、スポーツをやったり見ることが人を豊かにする文化である、ということを強調し、さらに、分断された人々(南北朝鮮、日韓関係など)が和解、統合される方向に進むだろうということを、なぜか五輪委員会の人々の言葉を根拠に挙げたりしながら述べていますが、大方、著者の予想は外れていますね。スポーツが資本主義、新自由主義に飲み込まれ、人々を熱狂的に煽り、儲かる商売として利用されているのを見て、著者は自分の予想をどのように総括しているのでしょうか。著者の言う、日本の経済的発展にスポーツが貢献するだろうという見解と、スポーツは「ゲームの中での遊び」であると言う見解が、そもそも同時に成立しないということを推論できなかったのでしょうか。著者の見解は五輪礼賛なんですよ。「新・スポーツ解体新書」で言及しているのかもしれませんが、またがっくりするような内容に出くわすのが怖くて購入して読むのを迷ってしまいます。
2012年8月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
メジャーリーグやオリンピックが毎日TVのニュースに上る現在、我々の思考はいやでもスポーツから何らかの影響を受けています。そんな事情から、スポーツの事を知ろうと取った一冊。開いてみると、実に多くの事の勉強になります。
本書の優れた点としては、'(1).フットボールが、14世紀頃の、町中を暴動のように駆け回る遊びから、「決められた場所」、「統一されたルール」「誰もが認める組織の管理」「誰もが参加できる条件」といったルールによって整備されていったという歴史的事実から、ルールや組織の存在が近代スポーツにとって決定的に重要な要素である事(本書、p.72)、'(2).現代世界に、世界オリンピック委員会、国際サッカー連盟、アメリカスポーツ文化圏という複数の「スポーツ文化圏」が存在し、それらはスポーツとそこに適用されるルールにも大きな影響を与えていること(pp.164-165)、といった近代スポーツを取り巻く「縦線」と「横線」を明らかにしているところがあるでしょう。スポーツに関して殆ど知識皆無な筆者でも、大まかな見取り図を知ることができました。また、スポーツ文化の主導権を握ろうと、イギリス、フランス、アメリカがそれぞれ独自の価値観と戦略を持ってスポーツを主導してきた事実には(pp.198-202)、スポーツという「熱狂」を取り巻く社会や政治の現実を知ることができます。
また、本書の大きな特徴としては、著者が日本の企業スポーツ文化体制を大きく批判している事が挙げられるでしょう。企業がスポーツの土壌となっていることが、日本スポーツ界の閉鎖性につながっていること、また、そこには近代日本が西洋スポーツを輸入するときに広まった「体育的な考え方」が大きな影響力を持っている、と著者は指摘しています(pp.250‐257)。生憎、筆者にはこれらの著者の見解を正当に評価するだけの知識はありませんが、確かに著者が主張するように、オリンピックの時だけ熱狂し、それらを取り巻く社会の状況や、選手たちの置かれている環境に関して無知である、という日本人の状況(pp.3‐15、p.270)は問題だと筆者も思います。スポーツの歴史やルール、その文化的、政治的文脈を知ることで、はるかに深く我々はスポーツを楽しむ事が出来るのではないでしょうか。
最後に、個人的に重要だと思った点について。スポーツを考えることは身体観を考える事だという著者の見解(p.34)や、日本人はルールをただ遵守するものだと考えて、つくるものだという意識がないことが問題だ(p.60)という著者の指摘には筆者も大賛成ですが、その原因となっている日本の文化的な考察に関しては、いまいち深さが足りないように思われます。また、そのため、それらの打開策として提示されている地方に密着したスポーツクラブの運営といった方針もヨーロッパへの単純な追従という印象は拭えません(勿論、いいものはドンドン取り入れればいいのですが)。また、スポーツ文化が「地球」や「地方」を新たに繋げるかけ橋となりうるという主張も、一般書なのでまあリップサービスの類と受け取ってもいいのですが、現代でもスポーツが担っている国威発揚としての側面を軽視しすぎている気がしました。また、ニーチェやメルロ・ポンティを引用して、精神に対する肉体の重要性を訴えるのはいいのですが、精神と肉体という哲学の歴史における大問題について、著者がさして真剣な考察を払っているようには思われません。細かいようですが、精神と肉体とは如何なる関係にあるのかを考察する事は、著者自身が指摘している遺伝子ドーピングの問題も相まって(pp.38‐40)、「一体何が人間にとって「自然」で望ましいのか、という問題とも絡んでくる問題なので、おざなりにしてはいけないと思います。
本書の優れた点としては、'(1).フットボールが、14世紀頃の、町中を暴動のように駆け回る遊びから、「決められた場所」、「統一されたルール」「誰もが認める組織の管理」「誰もが参加できる条件」といったルールによって整備されていったという歴史的事実から、ルールや組織の存在が近代スポーツにとって決定的に重要な要素である事(本書、p.72)、'(2).現代世界に、世界オリンピック委員会、国際サッカー連盟、アメリカスポーツ文化圏という複数の「スポーツ文化圏」が存在し、それらはスポーツとそこに適用されるルールにも大きな影響を与えていること(pp.164-165)、といった近代スポーツを取り巻く「縦線」と「横線」を明らかにしているところがあるでしょう。スポーツに関して殆ど知識皆無な筆者でも、大まかな見取り図を知ることができました。また、スポーツ文化の主導権を握ろうと、イギリス、フランス、アメリカがそれぞれ独自の価値観と戦略を持ってスポーツを主導してきた事実には(pp.198-202)、スポーツという「熱狂」を取り巻く社会や政治の現実を知ることができます。
また、本書の大きな特徴としては、著者が日本の企業スポーツ文化体制を大きく批判している事が挙げられるでしょう。企業がスポーツの土壌となっていることが、日本スポーツ界の閉鎖性につながっていること、また、そこには近代日本が西洋スポーツを輸入するときに広まった「体育的な考え方」が大きな影響力を持っている、と著者は指摘しています(pp.250‐257)。生憎、筆者にはこれらの著者の見解を正当に評価するだけの知識はありませんが、確かに著者が主張するように、オリンピックの時だけ熱狂し、それらを取り巻く社会の状況や、選手たちの置かれている環境に関して無知である、という日本人の状況(pp.3‐15、p.270)は問題だと筆者も思います。スポーツの歴史やルール、その文化的、政治的文脈を知ることで、はるかに深く我々はスポーツを楽しむ事が出来るのではないでしょうか。
最後に、個人的に重要だと思った点について。スポーツを考えることは身体観を考える事だという著者の見解(p.34)や、日本人はルールをただ遵守するものだと考えて、つくるものだという意識がないことが問題だ(p.60)という著者の指摘には筆者も大賛成ですが、その原因となっている日本の文化的な考察に関しては、いまいち深さが足りないように思われます。また、そのため、それらの打開策として提示されている地方に密着したスポーツクラブの運営といった方針もヨーロッパへの単純な追従という印象は拭えません(勿論、いいものはドンドン取り入れればいいのですが)。また、スポーツ文化が「地球」や「地方」を新たに繋げるかけ橋となりうるという主張も、一般書なのでまあリップサービスの類と受け取ってもいいのですが、現代でもスポーツが担っている国威発揚としての側面を軽視しすぎている気がしました。また、ニーチェやメルロ・ポンティを引用して、精神に対する肉体の重要性を訴えるのはいいのですが、精神と肉体という哲学の歴史における大問題について、著者がさして真剣な考察を払っているようには思われません。細かいようですが、精神と肉体とは如何なる関係にあるのかを考察する事は、著者自身が指摘している遺伝子ドーピングの問題も相まって(pp.38‐40)、「一体何が人間にとって「自然」で望ましいのか、という問題とも絡んでくる問題なので、おざなりにしてはいけないと思います。
2013年1月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
汚れあり(外観でなく中身に)落書きが多くあり.........
2008年1月23日に日本でレビュー済み
スポーツについて論じられた書籍が世に出回ることは少ない。あるのはスポーツの方法論か専門雑誌くらいである。超大型書店に行ってみると初めて「スポーツ」と書かれた箇所で細々と遠慮気味に置かれている程度だ。しかし、大学の図書館などに行ってみるとそのような類の書籍や論考が溢れんばかりにある。スポーツを専門に研究している学者も意外に多いが、それらの成果が中学や高校、一般レベルにおりることはほとんどない。要するに閉鎖的なのである。これはいかに日本にスポーツ文化が根付いていないかを如実に表している。
本書は書かれていることの多くは基本的なことではあるが、大学や一部の競技関係者たちによって独占状態だったスポーツ文化の知識を大衆レベルにまで拡大したその功績は大きい。中高生でも読める文体なのでとりあえずスポーツについて知りたいと思った人は本書を手に取るのが堅実だろう。
翻って(?)、本書の気になる点。筆者は野球好きの野球批判者だからなのか欧米の地域密着型のクラブチームをそのまま日本に当てはめようとしている節がある。しかし、地域密着型というと聞こえはいいが閉鎖的な部分が多分にある。欧米ではもともと家族への帰属心が非常に強いし、キリスト教という明確な指針もあったので成功しただけかもしれない。逆に日本では高度経済成長以降、共同体は悉く破壊され、人数だけの集団となっているほとんどだ。宗教に関しても、戦後まもなくから無宗教という人種があれわれる国民性だ。そこで地域密着型のクラブは成功するのか?私見では微妙というほかにないが、取り越し苦労であることを願うばかりだ。
本書は書かれていることの多くは基本的なことではあるが、大学や一部の競技関係者たちによって独占状態だったスポーツ文化の知識を大衆レベルにまで拡大したその功績は大きい。中高生でも読める文体なのでとりあえずスポーツについて知りたいと思った人は本書を手に取るのが堅実だろう。
翻って(?)、本書の気になる点。筆者は野球好きの野球批判者だからなのか欧米の地域密着型のクラブチームをそのまま日本に当てはめようとしている節がある。しかし、地域密着型というと聞こえはいいが閉鎖的な部分が多分にある。欧米ではもともと家族への帰属心が非常に強いし、キリスト教という明確な指針もあったので成功しただけかもしれない。逆に日本では高度経済成長以降、共同体は悉く破壊され、人数だけの集団となっているほとんどだ。宗教に関しても、戦後まもなくから無宗教という人種があれわれる国民性だ。そこで地域密着型のクラブは成功するのか?私見では微妙というほかにないが、取り越し苦労であることを願うばかりだ。
2009年1月22日に日本でレビュー済み
スポーツノンフィクションのような特定の試合や選手についてではなく、スポーツ文化について知りたい人に向けられた良書です。
近代スポーツの多くはなぜ英国発なのか。ベースボールやアメリカンフットボールのような米国のスポーツと、ラグビーやサッカーのような欧州のスポーツにはどのような特徴と差異があるのか。野球発祥の地はクーパーズタウンではなかったのか。野球のWBCに日本が参加することで得をするのは誰なのか。こうしたことに興味がある人は、示唆に富んだ指摘や考えるヒントを見出すことでしょう。スポーツ団体のお偉いさんや選手ではなく、古今東西の文献の精読に基づいた記述には厚みがあります。
日本におけるスポーツについて、著者は2つの問題点を指摘します。ひとつめは、その行為自体を楽しむべき西洋のスポーツを、教育目的の「体育」として受容してしまったこと。もうひとつは、プロ野球をはじめとする日本のスポーツ界で企業の論理が強すぎるという現状です。言い換えれば、スポーツ自体の魅力より、教育だとか企業利益だとかスポーツ以外の論理がスポーツを利用しすぎており、それが長い目で見ればスポーツの魅力を損ねてしまうというわけです。
すでにそれなりの歴史を持つ日本のスポーツ文化の問題点を一朝一夕に変えられるわけではありませんが、各自が問題意識を持つことが変化への第一歩なのは間違いありません。
近代スポーツの多くはなぜ英国発なのか。ベースボールやアメリカンフットボールのような米国のスポーツと、ラグビーやサッカーのような欧州のスポーツにはどのような特徴と差異があるのか。野球発祥の地はクーパーズタウンではなかったのか。野球のWBCに日本が参加することで得をするのは誰なのか。こうしたことに興味がある人は、示唆に富んだ指摘や考えるヒントを見出すことでしょう。スポーツ団体のお偉いさんや選手ではなく、古今東西の文献の精読に基づいた記述には厚みがあります。
日本におけるスポーツについて、著者は2つの問題点を指摘します。ひとつめは、その行為自体を楽しむべき西洋のスポーツを、教育目的の「体育」として受容してしまったこと。もうひとつは、プロ野球をはじめとする日本のスポーツ界で企業の論理が強すぎるという現状です。言い換えれば、スポーツ自体の魅力より、教育だとか企業利益だとかスポーツ以外の論理がスポーツを利用しすぎており、それが長い目で見ればスポーツの魅力を損ねてしまうというわけです。
すでにそれなりの歴史を持つ日本のスポーツ文化の問題点を一朝一夕に変えられるわけではありませんが、各自が問題意識を持つことが変化への第一歩なのは間違いありません。
2007年2月17日に日本でレビュー済み
スポーツライターの草分け的存在の著者が自らのスポーツ観を披露。斬新な、しかし必要な視点が多くありとても面白かった。文庫用に書き直したおかげで、旬なネタもたっぷり。しかし、巻末に紹介されている参考文献の中の何冊かを読んだことがあるが、その本の内容がところどころ出てきており、すべてが著者のオリジナルな意見ではないのが分かる。別に悪いことではないのだが。また、「スポーツ人口の増加=競技力の向上」ということを謳っているが、ほんとうにそうだろうか?確かにその可能性は広がるだろうが。今現在、世界的に活躍しているプレーヤーたちは、どちらかというと英才教育による特別な訓練を受けている人が少なくない。内容として表面的で薄いと感じるところもあった。一般の人たちに広く読まれることを意識しているからかもしれないが、「解体新書」なのだから、真髄がみえるような深い部分も語って欲しい。