日本語のローマ字化が、日本文明のすすむべきみちなのかは、わたしにはわからない。
しかし、梅棹忠夫が指摘しているように、コンピュータに漢字がのったことによって、日本語の文章がめちゃくちゃになったのは、たしかだろう。かけもしない漢字を検索によってもちい、自己満足な文章をかく。よみてのことをかんがえていない。自分だけが満足できる文章をかくのである。これは漢字によるしわざであることが、おおいだろう。
個人的な漢字についての不満をかく。
用言について漢字をもちいると、おくりがなで苦労する。おくりがなについては原則がたっておらず、長文であれば、次第におくりがなにばらつきがでる。
そのばらつきを訂正するために、ほんとうにムダな仕事をおこなっているのだ。Wordであれば、コントロールFで、いちいち検索をかけるのだ。なんと、ばかばかしい。はじめから、梅棹忠夫のように、用言はひらがなでかくという原則をたてておれば、そんなばかな苦労はない。これが合理化するというこもであろう。
日本語はいまだ、合理化されていない。ひとびとは、日本語の文章をかくとき、「美文」という意識をもつ。感性によって、うつくしいかどうかを基準としている。よって、かれらの意識には、合理化という思想は拒絶されるのだ。
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日本語の将来 (NHKブックス) 単行本 – 2004/6/24
梅棹 忠夫
(著)
ダブルポイント 詳細
- 本の長さ304ページ
- 言語日本語
- 出版社NHK出版
- 発売日2004/6/24
- ISBN-104140910011
- ISBN-13978-4140910016
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
旧来の「漢字かなまじり」表記では、もう国際社会に対応できない! 現在及び未来の日本文明を運転してゆく道具である日本語の表記として「ローマ字表記」を提案。日本ローマ字会の活動として行った講演や対談などをまとめる。
登録情報
- 出版社 : NHK出版 (2004/6/24)
- 発売日 : 2004/6/24
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 304ページ
- ISBN-10 : 4140910011
- ISBN-13 : 978-4140910016
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,127,413位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2004年7月6日に日本でレビュー済み
99さんへの反論になってしまうけどごめんね。
この本を読んで「目からウロコ」なんて人、出てくるのかな?
私はこの本は、実につまらない本だと思った。
(1)対決がない
著者と真っ向から対立した意見なども載せ、それに対する反論などもあれば少しは興味も生まれるとは思うが、それがない。「ローマ字論」などを突きつけられれば、反論したくなるのも人情。それに対して説得力ある論拠を出してくるのなら、それはそれで認めたくなるかもしれない。でも、そういう記述はない。
(2)実用情報に乏しい
ローマ字を代書のための方便と考え、99式を推すのならそれでよい。
だったら、「こういう場面は99式ローマ字だろう」とか、具体的な場面を現代のパソコン社会ですごしている人間にわかるように例示しろといいたい。
対談の中にそういう記述があるとか言うかもしれないが、それは違うだろう。
せっかく横書き形式にしているのだから、図や表も入れながら図解しろと言いたい。
(3)現状、実情の洗い出しがない
もし、「ローマ字を国字にする」という前提を納得させたいのなら、当然いろいろな問題点があり、それを洗い出した上で言うのが当然というもの。ところが漢字の同音異義語は工夫すれば避けられるとか、なんか簡単すぎる。
(4)各国のローマ字事情などの紹介が薄弱
中国がラテン化するというのは、一部の人の考えだろう。世界各国のローマ字事情(正書法、代書法とも)は、客観的なデータを集めて呈示すべし。都合のよい情報だけをチョイスするのは八百長である。
要するに
・深みがない
・説得力が無い
・興味をわかせない
そういう本です。
この本を読んで「目からウロコ」なんて人、出てくるのかな?
私はこの本は、実につまらない本だと思った。
(1)対決がない
著者と真っ向から対立した意見なども載せ、それに対する反論などもあれば少しは興味も生まれるとは思うが、それがない。「ローマ字論」などを突きつけられれば、反論したくなるのも人情。それに対して説得力ある論拠を出してくるのなら、それはそれで認めたくなるかもしれない。でも、そういう記述はない。
(2)実用情報に乏しい
ローマ字を代書のための方便と考え、99式を推すのならそれでよい。
だったら、「こういう場面は99式ローマ字だろう」とか、具体的な場面を現代のパソコン社会ですごしている人間にわかるように例示しろといいたい。
対談の中にそういう記述があるとか言うかもしれないが、それは違うだろう。
せっかく横書き形式にしているのだから、図や表も入れながら図解しろと言いたい。
(3)現状、実情の洗い出しがない
もし、「ローマ字を国字にする」という前提を納得させたいのなら、当然いろいろな問題点があり、それを洗い出した上で言うのが当然というもの。ところが漢字の同音異義語は工夫すれば避けられるとか、なんか簡単すぎる。
(4)各国のローマ字事情などの紹介が薄弱
中国がラテン化するというのは、一部の人の考えだろう。世界各国のローマ字事情(正書法、代書法とも)は、客観的なデータを集めて呈示すべし。都合のよい情報だけをチョイスするのは八百長である。
要するに
・深みがない
・説得力が無い
・興味をわかせない
そういう本です。
2006年3月5日に日本でレビュー済み
普通につかっている「漢字仮名まじり文」は、なんとも機械になじまないものか。私は、手書き・和文タイプライター・ワープロで日本語を書いてきた。和文タイプライターとワープロで日本語を取りあつかおうとすると不便きわまりがない。和文タイプライターは、日本語を清書する機械で文章をつくる機械ではない。ワープロはどうか。一見、便利そうではある。私自身かなり早い時期からワープロをつかってきた。最初は、便利だと思っていた。しかし、入力はローマ字変換・漢字変換の2つの変換を経て初めて目的の文字になり、検索エンジンで長い文章を検索することは非常にむずかしい。英語と比較すると、非効率だと実感している。この原因は、「漢字仮名まじり文」の仕組みと運用にあることが本書を読んで理解することができた。
日本語をつくる効率や検索をする効率が悪いというのは、ビジネスや社会を運営するうえで大きな欠点であるとおもわれる。日本語の仕組み中でどの部分が欠点があり、その解決案(本書ではローマ字であるが。)を提示している本書は、他にあまり類がないだけにその価値は大きい。
日本語をつくる効率や検索をする効率が悪いというのは、ビジネスや社会を運営するうえで大きな欠点であるとおもわれる。日本語の仕組み中でどの部分が欠点があり、その解決案(本書ではローマ字であるが。)を提示している本書は、他にあまり類がないだけにその価値は大きい。
2021年3月7日に日本でレビュー済み
ローマ字で日本語を書くことに賛成・反対を問わず、だれにでもわかりやすいものにする事を考える人にとっては今でもやくにたつと思います。
対談をあつめたものであるせいか、梅棹氏のほかの本にくらべて詰めの甘さがかんじられます。「ひらがなカタカナタイプライタ」がどのように「ぐあいが悪」かったのかわかりません。「日本式、訓令式は破産した」というわけもはっきりしません。
ローマ字についてもっと理論的な事をしりたい人は田丸卓郎氏の「ローマ字國字論」を読むとよいと思います。その中でのローマ字に反対する立場への反論はみごとな切れ味です。
99式には反対です。長音符号が要らないのは益のあることかもしれませんが。訓令式にも母音文字を重ねる方法があるのに仮名遣いにあわせる必要があったのでしょうか?ワープロでの入力方法にあわせると99式にもないほかのつづり(dhi, xeなど)も使いたいとの声もでることでしょう。ヘボン式がならび使われているだけでもややこしいのに、このうえ新たに増やすのはいかがなものでしょう。99式が考案された時とはちがい、いまでは長音符号をコンピューターであつかうことは入力も表示も簡単にできるので国際標準規格 ISO3602 になっている訓令式に統一するのがすじだとおもいます。ただしこれは、規格が既に定まっている以上は従わないと意味がないと考えるからで、規格そのものが見直されて別の書き表し方が定まるならば例えば99式やヘボン式をベースにしたものでも変更するにやぶさかではありません。大切なのは規格の使用の徹底だと思います。
対談をあつめたものであるせいか、梅棹氏のほかの本にくらべて詰めの甘さがかんじられます。「ひらがなカタカナタイプライタ」がどのように「ぐあいが悪」かったのかわかりません。「日本式、訓令式は破産した」というわけもはっきりしません。
ローマ字についてもっと理論的な事をしりたい人は田丸卓郎氏の「ローマ字國字論」を読むとよいと思います。その中でのローマ字に反対する立場への反論はみごとな切れ味です。
99式には反対です。長音符号が要らないのは益のあることかもしれませんが。訓令式にも母音文字を重ねる方法があるのに仮名遣いにあわせる必要があったのでしょうか?ワープロでの入力方法にあわせると99式にもないほかのつづり(dhi, xeなど)も使いたいとの声もでることでしょう。ヘボン式がならび使われているだけでもややこしいのに、このうえ新たに増やすのはいかがなものでしょう。99式が考案された時とはちがい、いまでは長音符号をコンピューターであつかうことは入力も表示も簡単にできるので国際標準規格 ISO3602 になっている訓令式に統一するのがすじだとおもいます。ただしこれは、規格が既に定まっている以上は従わないと意味がないと考えるからで、規格そのものが見直されて別の書き表し方が定まるならば例えば99式やヘボン式をベースにしたものでも変更するにやぶさかではありません。大切なのは規格の使用の徹底だと思います。
2008年6月7日に日本でレビュー済み
この本のレビューを見て、著者の主張を否定する人が多いことに驚きました。
著者は、自分で書くこともできず、場合によっては読むこともできない表記で文章や手紙を書くこと自体おかしいのではないかと言っていますが、確かに同意します。
著者の主張は、話せるのであれば、同時に読み書きできる表記を国語(日本語のみならず)において採用することが重要ではないかというものです。
ネット環境において、キーワード検索が当たり前ですが日本語の場合、一発でヒット出来ない経験が多くの人にあるはずです。「あかるい未来」と検索する場合、ひらがなで「あかるい」、「明るい」、「明かるい」、「明い」が混在します。おまけに「アカルイ」と表記する場合もあります。実際その5つのどれをキーワードにしても検索結果が出てきます。さらに同音異義語がある場合、それは大変です。
単にブログならいいとしても、研究論文等、将来的に検索対象になるものでは検索できないとなると、これは多いなハンディキャップになります。
大いに耳を傾ける価値があると思います。
著者は、自分で書くこともできず、場合によっては読むこともできない表記で文章や手紙を書くこと自体おかしいのではないかと言っていますが、確かに同意します。
著者の主張は、話せるのであれば、同時に読み書きできる表記を国語(日本語のみならず)において採用することが重要ではないかというものです。
ネット環境において、キーワード検索が当たり前ですが日本語の場合、一発でヒット出来ない経験が多くの人にあるはずです。「あかるい未来」と検索する場合、ひらがなで「あかるい」、「明るい」、「明かるい」、「明い」が混在します。おまけに「アカルイ」と表記する場合もあります。実際その5つのどれをキーワードにしても検索結果が出てきます。さらに同音異義語がある場合、それは大変です。
単にブログならいいとしても、研究論文等、将来的に検索対象になるものでは検索できないとなると、これは多いなハンディキャップになります。
大いに耳を傾ける価値があると思います。
2004年7月4日に日本でレビュー済み
日本語、日本文化、日本民族、日本国家…、およそ日本というものを、これからの国際化社会でいきのこらせたければ、日本語をローマ字でもかけるように表記システムを整備するべきであることは、自明である。
ただ、明治以来の伝統的ローマ字論は、いわゆる旧かなづかいの時代のはなしで、言文一致運動、発音と文字表記を一致させるいうことと一体になっていた。つまり、発音転写としてのローマ字表記である。ということは、まずは、エ列長音の問題(経済は/ケーザイ/か/ケイザイ/か)など、日本語の標準発音をさだめなければならないということである。
しかし、この本のなかで提案されている「99式」は、とにかく文字をローマ字におきかえること、つまり翻字を主眼に、とにかくまよわずかんたんにローマ字でかけるようにという、実用的な方式である。
文明論的には、とにかく文字がローマ字になるだけで、ブラインド・タッチができない、本の索引の作成がたいへ、目が不自由なひとに意味がつたわらない漢字のかきわけ、朗読のときによめない人名・地名など、ほとんどの問題は解決する。発音とつづりの関係(現代仮名遣いにおいても一貫性がない)や、同音異義語(というか同綴異義語)の問題は、ローマ字化されることにより顕在化し(いまもあるのだから)、解決されるであろうというしくみである。といっても、漢字が導入されて現在の日本語になるまで100年単位の年月がかかっているのと同様、ローマ字表記日本語が整備されるのも100年単位の年月がかかるだろうが。
このことが理解できないひとは、文化と文明を混同しているか、言語と文字を混同しているかのどちらかである。この本は、その辺のことが対談形式で平易なことばでかかれている。日本語を理解するほとんどのひとにとっては、目からウロコの連続であるはずである。かな漢字まじりでかかれているので、ローマ字文になれていないひとでもよみやすい。もっとも、ローマ字文になれているようなひとには、よむ必要のない内容であるが。
ただ、明治以来の伝統的ローマ字論は、いわゆる旧かなづかいの時代のはなしで、言文一致運動、発音と文字表記を一致させるいうことと一体になっていた。つまり、発音転写としてのローマ字表記である。ということは、まずは、エ列長音の問題(経済は/ケーザイ/か/ケイザイ/か)など、日本語の標準発音をさだめなければならないということである。
しかし、この本のなかで提案されている「99式」は、とにかく文字をローマ字におきかえること、つまり翻字を主眼に、とにかくまよわずかんたんにローマ字でかけるようにという、実用的な方式である。
文明論的には、とにかく文字がローマ字になるだけで、ブラインド・タッチができない、本の索引の作成がたいへ、目が不自由なひとに意味がつたわらない漢字のかきわけ、朗読のときによめない人名・地名など、ほとんどの問題は解決する。発音とつづりの関係(現代仮名遣いにおいても一貫性がない)や、同音異義語(というか同綴異義語)の問題は、ローマ字化されることにより顕在化し(いまもあるのだから)、解決されるであろうというしくみである。といっても、漢字が導入されて現在の日本語になるまで100年単位の年月がかかっているのと同様、ローマ字表記日本語が整備されるのも100年単位の年月がかかるだろうが。
このことが理解できないひとは、文化と文明を混同しているか、言語と文字を混同しているかのどちらかである。この本は、その辺のことが対談形式で平易なことばでかかれている。日本語を理解するほとんどのひとにとっては、目からウロコの連続であるはずである。かな漢字まじりでかかれているので、ローマ字文になれていないひとでもよみやすい。もっとも、ローマ字文になれているようなひとには、よむ必要のない内容であるが。
2004年6月25日に日本でレビュー済み
著者近年の「日本語の漢字仮名交じり表記を捨て、ローマ字表記にしろ」という主張の繰り返し。
同様の主張は、明治以降130年以上にわたり、幾多の政治家・文化人によりなされているが、まったく無視されているのは現在の状況を見れば明らか。また、それらと同じく本書もまた、「捨てよ」と言っている漢字仮名交じり表記により発行されているという自己矛盾に陥っている。
国際競争云々を言うのであれば、日本語そのものを捨てて英語を国語にするほうが効果的(これも明治以来多くのひとが主張し、当然、すべて無視されている)ということにさえ気付かぬほどに、梅棹せんせーはも耄碌してしまった。
と思うのは、ぼくが国語表記史の学生だからでしょうか?
同様の主張は、明治以降130年以上にわたり、幾多の政治家・文化人によりなされているが、まったく無視されているのは現在の状況を見れば明らか。また、それらと同じく本書もまた、「捨てよ」と言っている漢字仮名交じり表記により発行されているという自己矛盾に陥っている。
国際競争云々を言うのであれば、日本語そのものを捨てて英語を国語にするほうが効果的(これも明治以来多くのひとが主張し、当然、すべて無視されている)ということにさえ気付かぬほどに、梅棹せんせーはも耄碌してしまった。
と思うのは、ぼくが国語表記史の学生だからでしょうか?
2004年6月22日に日本でレビュー済み
ほとんどが梅棹氏と誰かの対談(全部で8件)の再録。見事なまでに同じような内容ばかり。しかも相手は梅棹氏の意見に同調する人ばかり。偉大な学者で、しかもお年寄りということもあって気をきかせているつもりなのかもしれないが、正直うんざりした。