2ちゃんねるから現代のSNSへ「内輪での接続指向」や「アイロニカルの視線」は継承されていると感じた。
パロディ、アイロニー、シニシズムで対象を無毒化をしていく必要が常にある円熟というか早熟した文化であると感じた。宮武外骨なども混ぜて欲しかった。
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嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス) 単行本(ソフトカバー) – 2005/2/24
北田 暁大
(著)
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- ISBN-104140910240
- ISBN-13978-4140910245
- 出版社NHK出版
- 発売日2005/2/24
- 言語日本語
- 本の長さ269ページ
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登録情報
- 出版社 : NHK出版 (2005/2/24)
- 発売日 : 2005/2/24
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 269ページ
- ISBN-10 : 4140910240
- ISBN-13 : 978-4140910245
- Amazon 売れ筋ランキング: - 343,049位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,492位社会一般関連書籍
- - 6,509位社会学概論
- - 35,728位ビジネス・経済 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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【自己紹介】1971年神奈川県生まれ。東京大学情報学環教授(社会学、メディア史)。博士(社会情報学)。東京大学文学部社会学科、同大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、博士課程退学。東京大学社会情報研究所助手、筑波大学社会学系講師、東京大学社会情報研究所助教授、同大学情報学環准教授を経て現職。現在は、アメリカ社会調査史を中心に、調査という社会的行為の歴史をたどり返している。ドイツの戦時期にも手を付けないとといけないとびびっています。最新刊は『社会制作の方法』勁草書房。なんとか春までには有斐閣から社会学の教科書(というか講義録)を出したいと思っています。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
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上位レビュー、対象国: 日本
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2020年5月2日に日本でレビュー済み
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2015年7月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
連合赤軍から説き起こして、バブルを経て現在(本書刊行)までの世界観の変化の見取り図を説得力を持って描いています。とくに「ナショナリズム論」に限定することなく、自己言及におけるアイロニーやシニシズムの分析を行っており、わたしにとっては大塚英志「「おたく」の精神史」とならんで、90年代文化論として読み、教えられるところが多かった。ナンシー関をめぐる解析も、今日のテレビ文化の曲がり角(フジテレビの番組が視聴率がとれなくなった)を考えるうえで、興味深いものがあります。
2012年12月26日に日本でレビュー済み
まず北田の主張を理解する上で、彼がルーマンの「社会システム理論」から多くの示唆を得ていることを前提として知っていなければならない。
ルーマン社会学は未だに難解とされる理論構成だが、極端的に言うと「社会はコミュニケーションの連鎖により構成されている」という旨の主張である。 これを踏まえると、序章で述べられた「ナショナリズム」の性質が語られる4章までの、冗長にも思える「流れ」の考察はむしろ不可欠であり、「反省」システムの(コミュニケーション連鎖の)変遷を分析することがいかに重要な課題であるか、ということに気づかされる。
その点で本書はルーマン社会学の正当な系譜上に位置する、純社会学本だと言えるだろう。
ルーマン社会学は未だに難解とされる理論構成だが、極端的に言うと「社会はコミュニケーションの連鎖により構成されている」という旨の主張である。 これを踏まえると、序章で述べられた「ナショナリズム」の性質が語られる4章までの、冗長にも思える「流れ」の考察はむしろ不可欠であり、「反省」システムの(コミュニケーション連鎖の)変遷を分析することがいかに重要な課題であるか、ということに気づかされる。
その点で本書はルーマン社会学の正当な系譜上に位置する、純社会学本だと言えるだろう。
2014年11月21日に日本でレビュー済み
反省(内省)をキーワードに戦後日本史を振り返る。
連合赤軍、糸井重里や田中康夫、80年代テレビ、ナンシー関、2ちゃんねると時代を追いながら私達がいかに前時代を茶化して変化してきたか(?)を考えさせる。
80年代、90年代を生きてきた者にとっては、難解ながらも何となくあーそうだったのかと腑に落ちたような感じを何度も感じることができた。特に、ナンシー関についてその時代的、思想的な位置づけをされていたのがとても感動した。
連合赤軍、糸井重里や田中康夫、80年代テレビ、ナンシー関、2ちゃんねると時代を追いながら私達がいかに前時代を茶化して変化してきたか(?)を考えさせる。
80年代、90年代を生きてきた者にとっては、難解ながらも何となくあーそうだったのかと腑に落ちたような感じを何度も感じることができた。特に、ナンシー関についてその時代的、思想的な位置づけをされていたのがとても感動した。
2008年7月26日に日本でレビュー済み
◆小林よしのりの立場
著者は、小林よしのりを戦前の保田與重郎や横光利一、中井正一、戦後の
福田恆存や江藤淳の系譜に連なる「政治的ロマン主義」(=特定の思想にもとづいて
世界・社会を超越的に捉える態度を拒絶し、自らの立ち位置の偶然性をアイロニカルに
見据える「反思想としての思想」)の立場と位置づけます。
そして、かれが〈左/右をとわず素直にイデオロギーにコミットできてしまう人びと、
つまり「合理性」によって社会を操舵しうると考える人びとから距離をとり、自らの
立場の偶然性、無根拠性を自覚し続けようと努め〉ていることを指摘しています。
◆2ちゃんねらーの一典型
著者は、2ちゃんねらーを〈身も蓋もない本音を語るリアリストというよりは、
「建前に隠された本音を語る」というロマン的な自己像を求めてやまない
イデアリストであるように思われる〉と指摘します。
むろん、この指摘によって、すべての2ちゃんねらーの実態を包括的に
説明できるわけではないのですが、ある種の雰囲気は確実に代弁
されているように思われます。
著者は、小林よしのりを戦前の保田與重郎や横光利一、中井正一、戦後の
福田恆存や江藤淳の系譜に連なる「政治的ロマン主義」(=特定の思想にもとづいて
世界・社会を超越的に捉える態度を拒絶し、自らの立ち位置の偶然性をアイロニカルに
見据える「反思想としての思想」)の立場と位置づけます。
そして、かれが〈左/右をとわず素直にイデオロギーにコミットできてしまう人びと、
つまり「合理性」によって社会を操舵しうると考える人びとから距離をとり、自らの
立場の偶然性、無根拠性を自覚し続けようと努め〉ていることを指摘しています。
◆2ちゃんねらーの一典型
著者は、2ちゃんねらーを〈身も蓋もない本音を語るリアリストというよりは、
「建前に隠された本音を語る」というロマン的な自己像を求めてやまない
イデアリストであるように思われる〉と指摘します。
むろん、この指摘によって、すべての2ちゃんねらーの実態を包括的に
説明できるわけではないのですが、ある種の雰囲気は確実に代弁
されているように思われます。
2006年12月10日に日本でレビュー済み
最近 若手気鋭の社会学者たちの「社会論」を読む機会が増えている。本書もその流れで読んだ。
「社会論」をいくつか読んでふと感じたことは 各時代の「主人公」が 「10代後半から20代までであること」が 極めて多いことである。本書においても 浅間山荘事件〜糸井重里〜ナンシー関という流れは圧巻であるが いずれも その時代の「若者」が主役だ。
当たり前のことながら 「若者」以外の年齢層も 各時代には居る。例えば 僕と同じく40歳台も各時代にはいたわけだが 彼らの視点というものは全く出てこない。糸井のコピーを その時の40代がどう読んでいたのか。ただ時代についていけず 若しくは ついていかず 日々の生活に追われていたのだろうか?
「時代のムード」を若者が造るということは ある意味では歴史には通常のことなのかもしれない。但し そうだとしたら それ以外の人達は どうなっているのかという気もしてきた。
僕自身が中年という時期を迎え「なるほど 今の最先端の時代には疎いのだろうな」と思いつつも 自分が 「現在」に 「参加しているのかどうか」を 考えさせられているところである。
直感的に言って 1960年代〜2000年代の各時代の40歳台に絞った研究も 案外と面白いのかもしれない。
例えば 僕らはバブルの最盛期を経験してきた世代であり そのことが 今の僕らの中年世代には 未だに大きな影響が残っている。かしこい商売人達は 今の40歳台の「経歴」をきちんと研究した上で 各種の「商品」を提案してきている。その辺の「民俗学的分析」は 本当は僕らの手ですべきなのかもしれないのだ。
そんな風に思いながら本書を読んだ。大変勉強になったことも確かだ。
「社会論」をいくつか読んでふと感じたことは 各時代の「主人公」が 「10代後半から20代までであること」が 極めて多いことである。本書においても 浅間山荘事件〜糸井重里〜ナンシー関という流れは圧巻であるが いずれも その時代の「若者」が主役だ。
当たり前のことながら 「若者」以外の年齢層も 各時代には居る。例えば 僕と同じく40歳台も各時代にはいたわけだが 彼らの視点というものは全く出てこない。糸井のコピーを その時の40代がどう読んでいたのか。ただ時代についていけず 若しくは ついていかず 日々の生活に追われていたのだろうか?
「時代のムード」を若者が造るということは ある意味では歴史には通常のことなのかもしれない。但し そうだとしたら それ以外の人達は どうなっているのかという気もしてきた。
僕自身が中年という時期を迎え「なるほど 今の最先端の時代には疎いのだろうな」と思いつつも 自分が 「現在」に 「参加しているのかどうか」を 考えさせられているところである。
直感的に言って 1960年代〜2000年代の各時代の40歳台に絞った研究も 案外と面白いのかもしれない。
例えば 僕らはバブルの最盛期を経験してきた世代であり そのことが 今の僕らの中年世代には 未だに大きな影響が残っている。かしこい商売人達は 今の40歳台の「経歴」をきちんと研究した上で 各種の「商品」を提案してきている。その辺の「民俗学的分析」は 本当は僕らの手ですべきなのかもしれないのだ。
そんな風に思いながら本書を読んだ。大変勉強になったことも確かだ。
2009年2月15日に日本でレビュー済み
既にここでのレビューやネット上での数多のレビューにおいても書かれている批判のうちいくつかの点は、著者自身があとがきにおいて十分に自覚している。つまり、分析対象サンプルの選択の恣意性であるとか、実証性の不足であるとか、適正な社会学的分析が行われたかどうかであるとかの点は、改めて指弾するに及ばない。
そのような批判を措いて、もっと注目されるべき特徴は、(『限界の思考』を参照するに)反省という行為の変遷を「資本の論理」などの外的要因に還元させる態度を封じているらしいという点だ。もっと具体的に言えば、紋切り型の思考停止した分析態度を封じることによってこそ可能な、反省にまつわる固有の歴史をみようとしているのである。この本では、そうした態度はマクルーハンや、津村喬や、中島梓や、江藤淳……などという分析者に託して説明されている。
連想されるのは、宮台真司の『サブカルチャー神話解体』の手法であり、この二つの互いに興味深い著作は、『限界の思考』において当事者間で直接議論されている。これらの著作におけるように、ある分析対象に固有の歴史をみようとする場合、極めて私的なサンプル選択や着目がなされてしまうのは避けられないのではないだろうか。例えばマンガという分析対象の外部に先行して存在する社会学的理論に還元されえない要素をマンガに見出すには、分析者はマンガに対して深く関わって、そこに固有の何かを既に発見していることが当然に要請される(マンガに関しては津村―稲葉論争として本書に挙げられている)。
後半部分は2ちゃんねる的な心性の分析がなされているが、著者は2ちゃんねる的な「ナショナリズム」に嫌悪感よりもむしろある種の共感あるいは理解を見せているように思う。それは、2ちゃんねるの「ナショナリズム」は、所詮コミュニケーションのネタにすぎず、強迫的に複雑さを増したコミュニケーションのゲームによって枯渇した内面(あるいは実存)の潤いを取り戻そうとするための、仮の宿りに過ぎないからだ。
その意味では、先にあげた二つの書物に加えて、萱野稔人・雨宮処凛による『「生きづらさ」について』を参照すれば、有機的な読書ができるかと思う。特に、最近よく議論される、右翼/左翼という二分法の失効について考えるきっかけとして適しているかと思う。
そのような批判を措いて、もっと注目されるべき特徴は、(『限界の思考』を参照するに)反省という行為の変遷を「資本の論理」などの外的要因に還元させる態度を封じているらしいという点だ。もっと具体的に言えば、紋切り型の思考停止した分析態度を封じることによってこそ可能な、反省にまつわる固有の歴史をみようとしているのである。この本では、そうした態度はマクルーハンや、津村喬や、中島梓や、江藤淳……などという分析者に託して説明されている。
連想されるのは、宮台真司の『サブカルチャー神話解体』の手法であり、この二つの互いに興味深い著作は、『限界の思考』において当事者間で直接議論されている。これらの著作におけるように、ある分析対象に固有の歴史をみようとする場合、極めて私的なサンプル選択や着目がなされてしまうのは避けられないのではないだろうか。例えばマンガという分析対象の外部に先行して存在する社会学的理論に還元されえない要素をマンガに見出すには、分析者はマンガに対して深く関わって、そこに固有の何かを既に発見していることが当然に要請される(マンガに関しては津村―稲葉論争として本書に挙げられている)。
後半部分は2ちゃんねる的な心性の分析がなされているが、著者は2ちゃんねる的な「ナショナリズム」に嫌悪感よりもむしろある種の共感あるいは理解を見せているように思う。それは、2ちゃんねるの「ナショナリズム」は、所詮コミュニケーションのネタにすぎず、強迫的に複雑さを増したコミュニケーションのゲームによって枯渇した内面(あるいは実存)の潤いを取り戻そうとするための、仮の宿りに過ぎないからだ。
その意味では、先にあげた二つの書物に加えて、萱野稔人・雨宮処凛による『「生きづらさ」について』を参照すれば、有機的な読書ができるかと思う。特に、最近よく議論される、右翼/左翼という二分法の失効について考えるきっかけとして適しているかと思う。
2005年6月6日に日本でレビュー済み
私は著者の見解の大半に納得してしまった。何がどこがと言われれば逐一具体的に論証することはできないのだが、この書の大半で著者が述べていることも「何が/どこが」といった論証を行うことが決定的に時代遅れなんだという主張につきる(そしてその理由は具体的に明かされているわけではない)。時代遅れという言葉がそれ自体すでに「時代性」という政治的意味を含んでいるように、本書は基本的に政治的なアジビラであり、中年化してゆくこの世代の最後の思い出作りと思い出語りであり、もしそうした背景や文脈に全く不感な若者が本書をどう読むのか、それはそれで知りたくもある。ただ、個人的にはそういった政治性にも時代性にも興味がないし、論証を行ったりすることが個人的には楽しい遊びだと思っているので、著者ほど悲観的に理論の不在に憂える気はない。下のレビューでどなたかが既にのべているように「…でしょ、don't you?(そう思わない?)」という共感を論法として用いている以上、論法それ自体を「温い」と批判しても意味はなく、むしろそうした論法が選択される(された)理由が著者の今後の著作で積極的に展開されることを(個人的には)期待している。