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マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス) 単行本(ソフトカバー) – 2005/10/30
- ISBN-104140910429
- ISBN-13978-4140910429
- 出版社NHK出版
- 発売日2005/10/30
- 言語日本語
- 本の長さ309ページ
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登録情報
- 出版社 : NHK出版 (2005/10/30)
- 発売日 : 2005/10/30
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 309ページ
- ISBN-10 : 4140910429
- ISBN-13 : 978-4140910429
- Amazon 売れ筋ランキング: - 161,742位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年12月15日に日本でレビュー済み
大変遅ればせながら、スピノザ関連の本を探索中に出会いました。下巻冒頭の「2-3 マルチチュードの軌跡」、「怪物登場」で登場するヴァンパイアはまさに「鬼滅」の鬼だと感じました。ヴァンパイアと鬼との連想(同定)は誰しも気付くところですが、またヴァンパイア関連の映画や小説のストーリーとの連関をも連想させるところですが、背景に深く横たわるその哲学性も興味深いところです。つまり、「ポスト近代の今日、スピノザは私たちに、どうしたらこの〈肉〉の怪物的な姿態変換を単に危険なものとしてだけでなく、オルタナティヴな社会を創り出すための可能性としても認識できるかを指示しているのだ。」という指摘は、今後の「鬼滅」のストーリー展開を占う上で参考(楽しみ)になるような気もします。「ジル・ドゥールーズはモンスターが人間の中にいることを見抜いた。……モンスターたちの中で愛すべきものは愛し、闘うべきものとは闘うことが必要なのである。」という指摘も、モンスターと同居するのが禰豆子ばかりなく、実は炭治郎の中にもモンスター(鬼)がいるということを連想させます。マクロ的にみれば、鬼舞辻無惨と十二鬼月のネットワーク〈帝国〉対、炭治郎を主人公とした鬼殺隊ネットワーク〈マルチチュード〉という図式が描けるかもしれませんね(?)。 〈共〉性に立脚した二つの特異性の新しい関係性のドラマ。以上、面白い発見でした。
2011年9月19日に日本でレビュー済み
まじめに、いろんなことを思い、体験し、行動して、頂上まで登りつめ、そこから還ってくる人たちは、こんな風に考えざるを得ないんだろうな。楽天的とか、概念の曖昧さとか、批判は多いけど、「そんなことをいってる場合じゃないですよ。今のままじゃこの世界はやっていけませんよ。」という思いが伝わります。「マルチチュード」への過剰な期待は、「たぶん、無理なんだろうけどね」という諦観の裏返しかも。ソ連崩壊後、馬鹿にされがちなマルクスを読み直そうかなとか、アプリオリに価値評価されている民主主義を、まともに考えなきゃいけないなという気持ちになります。
2016年10月5日に日本でレビュー済み
迅速に届き、きれいな状態で、良かったです。
特に言うことはありません。
特に言うことはありません。
2011年9月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は、『<帝国>』の続編として書かれ、<帝国>のオルタナティヴとしての「マルチチュード」の可能性について論じるものである。
上巻の序「共ある生」では、本書の目的と構成について述べる。現在、「グローバルな民主主義」の可能性が生まれている一方、その可能性が「戦争」によって脅かされている。また、<帝国>という新たな「ネットワーク状の権力」、グローバルな主権形態が出現しつつある一方、その中で「マルチチュード」というオルタナティヴが成長しつつある。マルチチュードとは、概念的にpeople, mass, 労働者階級とは異なる。それは、社会的差異を保持したまま、互いにコミュニケートし、行動する<共>性(common)を持つ、包括的で開かれた概念である。このマルチチュードの「生政治的生産」(「経済的」側面)と、ネットワーク状の組織への移行(「政治的」側面)という2つの特徴は、来るべき民主主義の概念的基盤になるという。
下巻では、以上のような前提のもと、第二部「マルチチュード」2-3「マルチチュードの軌跡」から始まる。ここでは、<帝国>の搾取の構造の下で、共性が主体性を産み、また主体性が共性を産む循環の中でオルタナティヴとしてのマルチチュードが形成されると主張する。
第三部「民主主義」では、マルチチュードがいかにして真の民主主義を実現しうるのかというプロジェクトについて論じる。
3-1「民主主義の長い道のり」は、現在の民主主義の危機を乗り越えるため、多数者による統治から全員による統治(絶対的民主主義)への移行が必要と主張する。
3-2「グローバル・システムの改革提言」は、絶対的民主主義を志向するマルチチュードの表現として、<帝国>に対する異議申し立てと改革の提言のいくつかを取り上げる。
3-3「マルチチュードの民主主義」は、こうしたマルチチュードのネットワークがどのように現実的な対抗権力となり、真に民主主義的なグローバル社会を実現できるかについて考察し、最後に、マルチチュードの現実的基盤として政治的「愛」の復活を求める。
簡単な批評) 第一に、序から分かるように、本書は<帝国>の出現が論理的前提となっている。それゆえに、帝国のオルタナティヴたるマルチチュードの証明に、<帝国>それ自体の証明も含むことになり、ある種の循環論法の体をなしている。あるいは、結論先にありきで、それに見合う様々な議論を引き合いに出しているふしがある。
第二に、何を持って非物質的労働が主導的地位に立ったとするのかについて不明である。著者は、労働の量ではなく、社会全体を変容させるとする質的側面から論じているが、物質的労働もまた主体性の生産、生政治的生産は可能である。そもそも非物質的労働それ自体、物質的労働と同じぐらい歴史性のもった概念かもしれない。それにもかかわらず、世界の一部しか占めない現在の中核の非物質的労働を、大部分の周辺をさしおいて重要視するのはなぜか。ある種のエスノセントリズムが見て取れる。
上巻の序「共ある生」では、本書の目的と構成について述べる。現在、「グローバルな民主主義」の可能性が生まれている一方、その可能性が「戦争」によって脅かされている。また、<帝国>という新たな「ネットワーク状の権力」、グローバルな主権形態が出現しつつある一方、その中で「マルチチュード」というオルタナティヴが成長しつつある。マルチチュードとは、概念的にpeople, mass, 労働者階級とは異なる。それは、社会的差異を保持したまま、互いにコミュニケートし、行動する<共>性(common)を持つ、包括的で開かれた概念である。このマルチチュードの「生政治的生産」(「経済的」側面)と、ネットワーク状の組織への移行(「政治的」側面)という2つの特徴は、来るべき民主主義の概念的基盤になるという。
下巻では、以上のような前提のもと、第二部「マルチチュード」2-3「マルチチュードの軌跡」から始まる。ここでは、<帝国>の搾取の構造の下で、共性が主体性を産み、また主体性が共性を産む循環の中でオルタナティヴとしてのマルチチュードが形成されると主張する。
第三部「民主主義」では、マルチチュードがいかにして真の民主主義を実現しうるのかというプロジェクトについて論じる。
3-1「民主主義の長い道のり」は、現在の民主主義の危機を乗り越えるため、多数者による統治から全員による統治(絶対的民主主義)への移行が必要と主張する。
3-2「グローバル・システムの改革提言」は、絶対的民主主義を志向するマルチチュードの表現として、<帝国>に対する異議申し立てと改革の提言のいくつかを取り上げる。
3-3「マルチチュードの民主主義」は、こうしたマルチチュードのネットワークがどのように現実的な対抗権力となり、真に民主主義的なグローバル社会を実現できるかについて考察し、最後に、マルチチュードの現実的基盤として政治的「愛」の復活を求める。
簡単な批評) 第一に、序から分かるように、本書は<帝国>の出現が論理的前提となっている。それゆえに、帝国のオルタナティヴたるマルチチュードの証明に、<帝国>それ自体の証明も含むことになり、ある種の循環論法の体をなしている。あるいは、結論先にありきで、それに見合う様々な議論を引き合いに出しているふしがある。
第二に、何を持って非物質的労働が主導的地位に立ったとするのかについて不明である。著者は、労働の量ではなく、社会全体を変容させるとする質的側面から論じているが、物質的労働もまた主体性の生産、生政治的生産は可能である。そもそも非物質的労働それ自体、物質的労働と同じぐらい歴史性のもった概念かもしれない。それにもかかわらず、世界の一部しか占めない現在の中核の非物質的労働を、大部分の周辺をさしおいて重要視するのはなぜか。ある種のエスノセントリズムが見て取れる。