「資本とは商品や貨幣の形式をとりながら価値の無限の自己増殖を目的とする運動体である」と規定する著者は、この点でマルクス経済学の系譜を踏襲している。グローバリゼーションとは、市場経済がほぼ全地球の経済圏をカバーするという外延的な発展を遂げると同時に、市場原理が内包的な深化を遂げ、共同体的な諸価値や文化が限りなく分解され、労働力も商品化され、最後の共同体である家庭労働も機会費用の概念に従って貨幣換算され、私達を「投資家」という「個」へ還元していく過程だと言う。
この点では、資本の運動が「鉄鎖以外に失うもののない労働者階級」を生み出したというマルクスの認識から離れ、いくばくかの個人資産を保有するようになった現代先進国の労働者階級の意識が「投資家(資本家)化」する傾向が指摘されているわけだ。マルクスが語った「労働者階級の窮乏化」は起こらず、「資本主義経済は自らの根本的な存立条件である労働力商品化のルールそのものを変容させてしまうことで、その長期的停滞の傾向を逆転させ、自己賦活する強靭な生命力を発揮する」と語る点では、古典的なマルクス経済学徒から、かなり離れる。
著者は単純はアンチ・グローバリゼーションの立場も否定する。市場システムの拡大に対する反対運動は産業革命の時から続いていたが(職人階層による機械打ち壊しのラダイット運動などを念頭においているのだろう)、それが解体される側の反作用的な防衛運動にとどまる限り、資本の運動を停止することはできないかったし、今後もできないだろうと語る。
「そればかりか、資本への反動的な拒絶が国家への集約されて遂行されるならば、それは自由の抑圧や異質な人種、・宗教・思想の暴力的な排除など、資本がもたらす以上の惨禍を生み出すに違いない」と続ける。この点では20世紀のファシズムや旧社会主義経済を念頭に置いているのだろう。
また「市場か、計画(国家)か」「自由か、規制か」という2分法的な思考様式も、閉塞しかもたらさない。「市場原理主義」と「集権的計画主義」の双方が解決への道にならないということは、その両極端の直線上には解決の道がないという意味で、両原理の折衷としての「社会民主主義的なアプローチ」も解決にならない。そうしたこと全てを人類は20世紀の試行錯誤の歴史を通じて学んだはずだ、と一気に20世紀をまるごと総括してしまう。
そして市場か計画かの2分法を止揚する道は「貨幣の新たな制度設計の可能性」の中にあると転じる。
このように大変に挑戦的な議論が展開するのだが、解決編としての地域通貨の議論は抽象的であり、それが諸問題を包括的に解決するアプローチになり得るのか、納得感は得られない。例えば、著者が主張する利息を禁止し、地域コミュニティーのメンバーが自由に発行する地域通貨は「参加者の過剰発行によるモラル・ハザードが起こる可能性がある」と自ら指摘しておきながら、その問題を回避する具体策は提示されない。私にはそのやり方では過剰発行は可能性の問題ではなく、必然に思える。
価値の無限増殖を目的とするグローバルな資本に対して、利子を否定した地域通貨が十分に対抗できるほど定着できるのか、それができるのであれば世の中は既に雨後のタケノコのように地域通貨が自生していても良さそうだが、現実はそうではない。
私の目には、地域通貨がグローバル資本への対抗になり得るようには思えないが、デフレ・不況への効果は期待できそうだと思う。
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資本主義はどこへ向かうのか 内部化する市場と自由投資主義 (NHKブックス) 単行本(ソフトカバー) – 2011/2/24
西部 忠
(著)
万人が投資家になる時代に、幸福はあるか。
格差拡大、自殺者増加、孤独死、幼児虐待などに象徴されるように、
いま私たちの社会に多くの暗い重い問題がたちこめている。
これらは、主に経済領域に起源を持ちながら、
それが徐々に価値や倫理の領域を侵食してきた結果といえよう。
グローバリゼーションという現象が、
あらゆる境界や制約を越えて、あらゆるモノの売買と投資を推進し、
私たちの行動とメンタリティをも変えていったのである――。
市場の内部化、資本主義の究極としての自由投資主義など、
全く新たな視覚から資本主義市場経済を批判的に解明し、
そこから決定的な貨幣論が展開される画期的論考。
格差拡大、自殺者増加、孤独死、幼児虐待などに象徴されるように、
いま私たちの社会に多くの暗い重い問題がたちこめている。
これらは、主に経済領域に起源を持ちながら、
それが徐々に価値や倫理の領域を侵食してきた結果といえよう。
グローバリゼーションという現象が、
あらゆる境界や制約を越えて、あらゆるモノの売買と投資を推進し、
私たちの行動とメンタリティをも変えていったのである――。
市場の内部化、資本主義の究極としての自由投資主義など、
全く新たな視覚から資本主義市場経済を批判的に解明し、
そこから決定的な貨幣論が展開される画期的論考。
- ISBN-104140911735
- ISBN-13978-4140911730
- 出版社NHK出版
- 発売日2011/2/24
- 言語日本語
- 寸法13 x 1.3 x 18.4 cm
- 本の長さ256ページ
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商品の説明
著者について
● 西部 忠(にしべ・まこと)
1962年、愛知県生まれ。
1986年、東京大学経済学部卒業、1989年、カナダ・ヨーク大学大学院経済学研究科修士課程修了。
1993年、東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。北海道大学経済学部助教授、イタリア・シエナ大学客員研究員、イギリス・ケンブリッジ大学客員研究員等を経て、現在、北海道大学大学院経済学研究科・経済学部教授。
進化経済学会常任理事。専門は、進化経済学、地域通貨。
1962年、愛知県生まれ。
1986年、東京大学経済学部卒業、1989年、カナダ・ヨーク大学大学院経済学研究科修士課程修了。
1993年、東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。北海道大学経済学部助教授、イタリア・シエナ大学客員研究員、イギリス・ケンブリッジ大学客員研究員等を経て、現在、北海道大学大学院経済学研究科・経済学部教授。
進化経済学会常任理事。専門は、進化経済学、地域通貨。
登録情報
- 出版社 : NHK出版 (2011/2/24)
- 発売日 : 2011/2/24
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 256ページ
- ISBN-10 : 4140911735
- ISBN-13 : 978-4140911730
- 寸法 : 13 x 1.3 x 18.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 684,342位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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- - 65,672位ビジネス・経済 (本)
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2014年1月1日に日本でレビュー済み
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本書には「週刊エコノミスト」(2011年4月26日号)と「週刊読書人」(2011年5月27日号)の2つの一般誌に書評を書かせて頂いた。「季刊経済理論」(経済理論学会機関誌)にも山田鋭夫氏(名古屋大学名誉教授)による詳細な書評がある。私が初めて最初の本書を手にしたとき、「一般書」という形ではなく「専門書(専門的研究書)」として刊行してほしかったというのが率直な印象だった。原型となる論文はいずれも専門的な論文ばかりであり、それを一般読者にも通じるよう平易に書き改めるのは大変に違いなく、またそれによって広い読者を獲得しうる可能性が拡がるとはいえ、内容が十分に伝わるのか疑問だったからだ。
私が2012年度に担当した「歴史・政策特殊講義」で本書をもとに教材を作成し、大学2年生に向けて講義した。新聞やマスメディアを通じて報じられる「グローバリゼーション」というマジックワードについて、既存の経済理論と経済思想の全体を丹念にそして批判的に読み解き、その深層を明らかにしようとした本書の学術的価値はきわめて高い。学生も「グローバリゼーション」という言葉のもつ「重み」を少しは実感してくれたのではないか。経済学の歴史は「市場」と「貨幣」をめぐる認識の対立史であることも講義で強調しているが、そのための文献としても本書は必読文献である。「資本主義はどこへ向かうのか」という問いに対する終章の「地域通貨」論には異論反論あるだろう。ただ経済学者に限らず、社会科学に従事するすべての人はこの問いを自己のものとして位置付ける必要がある。そういう意味では、本書は「終着駅」ではなくむしろ「始発駅」なのかもしれない。
本書の内容を十二分に理解して学生に講義できることができるようになれば、学生の「経済学」に対する興味関心は大きく向上するであろう。なぜならば、本書で議論されている「すべての内容」がわれわれの社会・生活と決して「無関係」でない以上、「無関心」であってはならないからだ。2014年はどんな年になるのか、安倍政権の経済政策の成績評価も行われるだろう。現象を広く深く理解することができれば、「経済学」をこれだけ論じることができると見事に「実証」してくれた本である。
私が2012年度に担当した「歴史・政策特殊講義」で本書をもとに教材を作成し、大学2年生に向けて講義した。新聞やマスメディアを通じて報じられる「グローバリゼーション」というマジックワードについて、既存の経済理論と経済思想の全体を丹念にそして批判的に読み解き、その深層を明らかにしようとした本書の学術的価値はきわめて高い。学生も「グローバリゼーション」という言葉のもつ「重み」を少しは実感してくれたのではないか。経済学の歴史は「市場」と「貨幣」をめぐる認識の対立史であることも講義で強調しているが、そのための文献としても本書は必読文献である。「資本主義はどこへ向かうのか」という問いに対する終章の「地域通貨」論には異論反論あるだろう。ただ経済学者に限らず、社会科学に従事するすべての人はこの問いを自己のものとして位置付ける必要がある。そういう意味では、本書は「終着駅」ではなくむしろ「始発駅」なのかもしれない。
本書の内容を十二分に理解して学生に講義できることができるようになれば、学生の「経済学」に対する興味関心は大きく向上するであろう。なぜならば、本書で議論されている「すべての内容」がわれわれの社会・生活と決して「無関係」でない以上、「無関心」であってはならないからだ。2014年はどんな年になるのか、安倍政権の経済政策の成績評価も行われるだろう。現象を広く深く理解することができれば、「経済学」をこれだけ論じることができると見事に「実証」してくれた本である。
2011年4月2日に日本でレビュー済み
マルクスとハイエク…19世紀と20世紀の“知の巨人”といえる二人の深遠な論理に依拠しつつ、「資本主義を超えるオルタナティブ」まで構想しているのが当書である。著者の西部忠氏(北海道大学教授)について、私は『 市場像の系譜学 』(1996年)以来、「地域通貨」関連の論考などを瞥見していた程度で、正直なところ、暫くご無沙汰気味であった。しかしながら、この資本主義市場経済などを解剖した著書は、『市場像の系譜学』に連なる「市場像」等も考察したテキストとして、一人でも多くの経済学徒に読みこなしてもらいたいと思っている。
さて、本著のポイントを一言で語るのは難しいけれど、主旋律は「貨幣」論であり、「従来の市場像で抑圧されてきた貨幣の意味を問い直す」(本書p.97)ことに力点が置かれている。このことは当然、新古典派(主流派)経済学への批判ともなるのだが、それが平板な“市場(主義)批判”に短絡していない点に著者の独創性があろう。つまり、「市場と計画の二項対立」を起源から問い直し、「貨幣の新たな制度設計の可能性を考えることによってはじめて「市場か、計画か」という二分法の呪縛から自由になることができるはず」(同pp.41‾42)とする。
西部教授は、新古典派経済学が前提とする「市場」を非現実的な「他律集中型」のメカニズムとして否定し、現実の「市場」が「貨幣」によって生成される「自律分散型」のネットワークであることを論証する。そして、「市場経済は、主体が緩やかに相互連結される分散型システムであり、多対多の非線形的な関係により構成される複雑系である」(同p.128)と比定する。教授は、「貨幣」こそ「市場の形成者」「市場のプラットフォーム制度」と論定するのであるが、それに「コミュニケーション・メディア」としての意味を付与し、「貨幣」を再生させるのである。
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マルクスとハイエク…19世紀と20世紀の“知の巨人”といえる二人の深遠な論理に依拠しつつ、「資本主義を超えるオルタナティブ」まで構想しているのが当書である。著者の西部忠氏(北海道大学教授)について、私は『 市場像の系譜学 』(1996年)以来、「地域通貨」関連の論考などを瞥見していた程度で、正直なところ、暫くご無沙汰気味であった。しかしながら、この資本主義市場経済などを解剖した著書は、『市場像の系譜学』に連なる「市場像」等も考察したテキストとして、一人でも多くの経済学徒に読みこなしてもらいたいと思っている。
さて、本著のポイントを一言で語るのは難しいけれど、主旋律は「貨幣」論であり、「従来の市場像で抑圧されてきた貨幣の意味を問い直す」(本書p.97)ことに力点が置かれている。このことは当然、新古典派(主流派)経済学への批判ともなるのだが、それが平板な“市場(主義)批判”に短絡していない点に著者の独創性があろう。つまり、「市場と計画の二項対立」を起源から問い直し、「貨幣の新たな制度設計の可能性を考えることによってはじめて「市場か、計画か」という二分法の呪縛から自由になることができるはず」(同pp.41‾42)とする。
西部教授は、新古典派経済学が前提とする「市場」を非現実的な「他律集中型」のメカニズムとして否定し、現実の「市場」が「貨幣」によって生成される「自律分散型」のネットワークであることを論証する。そして、「市場経済は、主体が緩やかに相互連結される分散型システムであり、多対多の非線形的な関係により構成される複雑系である」(同p.128)と比定する。教授は、「貨幣」こそ「市場の形成者」「市場のプラットフォーム制度」と論定するのであるが、それに「コミュニケーション・メディア」としての意味を付与し、「貨幣」を再生させるのである。