杉並の反原発デモ以来,デモというものがみなおされている. この本では日本におけるデモの歴史と当時の政治状況などに関する記述を中心として,アメリカにおける 「オキュパイ・ウォールストリート」 にも目をむける.
しかし,現在の政治状況やそのもとでのデモがもつホットさがこの本からは感じられない. むしろ,ふるくささがただよっている. 過去のデモについても,もうすこし現在の状況からみなおしができなかったものかとおもう.
プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
¥1,045¥1,045 税込
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
¥1,045¥1,045 税込
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
¥1¥1 税込
配送料 ¥320 6月9日-11日にお届け
発送元: ネットオフ 販売者: ネットオフ
¥1¥1 税込
配送料 ¥320 6月9日-11日にお届け
発送元: ネットオフ
販売者: ネットオフ
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
「デモ」とは何か 変貌する直接民主主義 (NHKブックス) 単行本(ソフトカバー) – 2012/4/26
五野井 郁夫
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,045","priceAmount":1045.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,045","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"Yphl29K1s%2FN5gVf8jmYoGtNl7WdOdGjm73NAvKPxsc%2BzTemcaQ10abxWy9RkY0yWlkkM3FdRJtp1tahhciEVPE0j3HGCj9KttKKlrsM33Wq%2F1gic1om47HCzz35u%2FcSbP4sJYEcbJXY%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥1","priceAmount":1.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"Yphl29K1s%2FN5gVf8jmYoGtNl7WdOdGjm99q1nx2GsJOVUXDv7rXP5Lq%2F9%2Fi0h921lN7ScNFhY0Stg00BndS00fHQoaOeA6HYSJF7ig2zh468O2mcQZbHgxrmG%2FRXU91uh4RTbanJONG4EN1qu6TJQjTOT8zF%2F5cGlE04cYMLls%2FEy%2FYeD9xtmw%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
今、政治に何がおきているのか!
オキュパイ・ウォールストリートから反原発デモまで、人々が世界中で声を挙げはじめている。日本で、そして世界で広がる直接民主主義の最新動向を、戦後から今日にいたる歴史的な視座も踏まえ描き出す。デモの功罪を分析しながら、日本人が今たどりつくべき民主主義の姿を示す、若き俊英渾身の書!
オキュパイ・ウォールストリートから反原発デモまで、人々が世界中で声を挙げはじめている。日本で、そして世界で広がる直接民主主義の最新動向を、戦後から今日にいたる歴史的な視座も踏まえ描き出す。デモの功罪を分析しながら、日本人が今たどりつくべき民主主義の姿を示す、若き俊英渾身の書!
- ISBN-104140911905
- ISBN-13978-4140911907
- 出版社NHK出版
- 発売日2012/4/26
- 言語日本語
- 寸法13 x 1.2 x 18.2 cm
- 本の長さ216ページ
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : NHK出版 (2012/4/26)
- 発売日 : 2012/4/26
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 216ページ
- ISBN-10 : 4140911905
- ISBN-13 : 978-4140911907
- 寸法 : 13 x 1.2 x 18.2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 138,816位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 17,947位社会・政治 (本)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2012年8月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2012年5月3日に日本でレビュー済み
現在各所で開催されている「デモ」について、その本質は何か?今までと何が違うのか?を考えるために購読した。著者は自らもデモの現場に身を置く実践する学者である。内容は期待以上である。アメリカで現在進行形のオキュパイ・ウオールストリートとの意義・運営方法から日本のデモ・社会運動の歴史的変遷とその特質、そして、3.11後のデモの姿へと、「院外政治としてのデモ」の実質が次々に浮き彫りになっていく。著者は、日本のデモについて、過去の暴力的な忌まわしき経験を得て、今や参加者にとってはハードルが低く、「非暴力」と「祝祭性」を特徴とする直接民主主義の表現と実践へと進化したとする。従来の「デモ」のイメージが払拭され、現代の「デモ」の新たな実像が浮かび上がってくる。
2018年12月21日に日本でレビュー済み
本書の大部分を占めるのは、日本における「デモ」の通史的記述である。五野井自身が前置きするように、これは、「日本の社会運動における人びとの非暴力直接行動の系譜につらなる主要なもの(p.67)」をたどるという観点からおこなわれている。だとすれば、本書に「デモ」に関する歴史すべてを期待することはできないのかもしれない。書くことのできなかった、あるいは省略された出来事がでてきてしまうのは、仕方のないことなのかもしれない。
そのうえで、わたしは五野井の記述が歴史修正主義者のものであると評したい。本書には単なる見落としだと片づけられない、重大な誤りが数多くあるのである。それらは、専門家として精通していなくても、基本的な文献を読んでいればするはずのない間違いだ。研究者ならばなおさら知っているはず、そうでなかったとしても、書くうえで必ず確認しておかねばならないことがらである。にもかかわらず犯した間違いだからこそ、これが改竄と言える類の事実に基づかない記述だ、とはっきり断じておきたい。
このレビューでは、「米騒動」の描かれ方に注目して、本書のいかなる点が歴史修正主義なのかを明らかにしたい。「米騒動」に言及した箇所はp.67からp.70までのほんの4頁ほどの分量である。読み飛ばしてしまいそうな部分ではあるが、きちんと読んでみるならば、そこに決定的な誤りがあることがすぐにわかる。
以下では、五野井が「米騒動」をどのように記述しているのかを確認しつつ、その問題点を指摘したい。「一九一四(大正三)年のいわゆる『米騒動』(p.68)」という何に依拠したのか全くわからない記述はさておくとして、五野井の「米騒動」理解の特徴は、おおむね次の3点にまとめられる。すなわち、①米騒動の参加主体について、②米騒動と「大正デモクラシー」との関連について、③近代天皇制の不自然な見落としについて、である。
①について、五野井は、「直接行動によって政府を動かしたという米騒動の経験は、中小企業主や商店主といった旧中間層にくわえて、都市におけるホワイトカラーなどの新中間層、さらに労働者もくわわった『大衆』の誕生を確認させることとなった(p.69-70)」としている。つまり、「旧中間層」と「新中間層」が米騒動の主体とされ、「労働者」はそこに「くわわった」とものとして従属的な位置に置かれている。
米騒動には種々の人々が参加し、都市、農村、漁村、炭鉱地帯といった場所に応じて、その現れ方は異なっている。とはいえ、井上清ら執筆の『米騒動の研究』が指摘するように、騒動参加者の主な階層が、人夫や車夫、仲仕といった労役者や職人、あるいは手工業的な工場の労働者であった点は明白である。すなわち、「無産大衆」が米騒動の主力を占めたのである。さらに、場所によってはこれらの階層による群衆行動が、工場や鉱山、交通機関などの労働者らの資本家に対する労働争議や、小作人による地主争議に波及したし、被差別部落民や在日朝鮮人、女性の参加もあった。このとき被差別部落民には不当な弾圧が加えられると共に、一般民衆の差別感情を煽る報道も行われていた。これらは、米騒動を記述するうえで、決して見落としてはならない点であるはずだ。
次に、②についてである。67頁以降の記述が、「米騒動から大正デモクラシーへ」で始まっている点からすると、どうやら五野井は、米騒動を起点に「大正デモクラシー」が展開していったと認識しているようである。具体的には、米騒動が「大衆」の誕生を政府に確認させ、この大衆が、デモクラシーを実現させる運動の主役となって藩閥政権からの脱却をうながし、大山郁夫の民衆文化主義や吉野作造の民本主義へと後につながっていった。その結果が1925年の普通選挙法の成立だ(p.70)と、五野井は捉えている。
通説である松尾尊兌の定義によれば、「大正デモクラシー」とは、日露戦争後の1905年から護憲三派内閣による諸改革の行われた1925年までのあいだに展開した民主化傾向を指す。松尾はこの定義のもとで、米騒動を大正デモクラシーの転機として捉えた。米騒動で、当初は「内に立憲主義、外に帝国主義」という限界を持っていた民主化傾向が、いまだ問題を孕みつつも徐々に開かれていったのである。その先に、労働組合の発達や、学生団体、新婦人協会、全国水平社、日本農民組合といった組織の結成があった。
しかし、五野井の認識ではなぜか「内に立憲主義、外に帝国主義」と評された日露戦争講和反対運動、日比谷焼打事件が含まれていない。また、米騒動から普通選挙法へと単線的に展開していったかのような記述には、上述のような運動の広がりを見いだすことはもちろんできない。普通選挙法が治安維持法との抱き合わせであったという指摘がない点も、問題である。さらには、「大正デモクラシー」期の労働運動や社会運動に内在していた天皇制国家を支持する論理の指摘もないため、五野井の記述は、「先進的なはずの諸運動が弾圧によって潰えた」というきわめて平板な歴史記述になってしまっている。しかし、諸運動が潰えたのは、はたして弾圧のためだけなのだろうか。
最後に③である。近代期を記述するうえで最も不自然であるのが、天皇制への言及がまったくない点である。天皇制を欠落させた歴史認識から生まれる五野井の歴史修正主義が最もあらわれているものとしては、「民本主義」に対する理解が挙げられるだろう。五野井は、「吉野作造の唱えた主権の行使たる人民主権としての民本主義」と、かなり不明瞭な表現をしているが、これが致命的な間違いなのである。大日本帝国憲法において唯一の主権者は、他ならぬ天皇であった。「民本主義」は、この主権が天皇にあることを前提としたうえで、「一般民衆の利益幸福」と「意向」とに重きを置くという「政権運用上の方針」であった。これは、「国家の主権は人民に在り」とする「民主主義」とはかけ離れたものである。前述した点ともかかわるが、この点を見落としては、天皇制を乗り越えることのできなかった近代期の「デモクラシー」を問うことはできない。ともすれば、近代天皇制のもとでの「大正デモクラシー」を、象徴天皇制のもとでの「戦後民主主義」の底流や苗床として、手放しに称賛することになりかねない。
以上を踏まえて、次の点を強調したい。これらの問題含みの記述こそが、五野井の求める「非暴力直接行動の系譜」というテーマを支える重要な素材となっているのである。このような事実の歪曲が、歴史修正主義でないのならいったい何だろうか。歴史修正主義者は極右やネトウヨだけではないのである。
そのうえで、わたしは五野井の記述が歴史修正主義者のものであると評したい。本書には単なる見落としだと片づけられない、重大な誤りが数多くあるのである。それらは、専門家として精通していなくても、基本的な文献を読んでいればするはずのない間違いだ。研究者ならばなおさら知っているはず、そうでなかったとしても、書くうえで必ず確認しておかねばならないことがらである。にもかかわらず犯した間違いだからこそ、これが改竄と言える類の事実に基づかない記述だ、とはっきり断じておきたい。
このレビューでは、「米騒動」の描かれ方に注目して、本書のいかなる点が歴史修正主義なのかを明らかにしたい。「米騒動」に言及した箇所はp.67からp.70までのほんの4頁ほどの分量である。読み飛ばしてしまいそうな部分ではあるが、きちんと読んでみるならば、そこに決定的な誤りがあることがすぐにわかる。
以下では、五野井が「米騒動」をどのように記述しているのかを確認しつつ、その問題点を指摘したい。「一九一四(大正三)年のいわゆる『米騒動』(p.68)」という何に依拠したのか全くわからない記述はさておくとして、五野井の「米騒動」理解の特徴は、おおむね次の3点にまとめられる。すなわち、①米騒動の参加主体について、②米騒動と「大正デモクラシー」との関連について、③近代天皇制の不自然な見落としについて、である。
①について、五野井は、「直接行動によって政府を動かしたという米騒動の経験は、中小企業主や商店主といった旧中間層にくわえて、都市におけるホワイトカラーなどの新中間層、さらに労働者もくわわった『大衆』の誕生を確認させることとなった(p.69-70)」としている。つまり、「旧中間層」と「新中間層」が米騒動の主体とされ、「労働者」はそこに「くわわった」とものとして従属的な位置に置かれている。
米騒動には種々の人々が参加し、都市、農村、漁村、炭鉱地帯といった場所に応じて、その現れ方は異なっている。とはいえ、井上清ら執筆の『米騒動の研究』が指摘するように、騒動参加者の主な階層が、人夫や車夫、仲仕といった労役者や職人、あるいは手工業的な工場の労働者であった点は明白である。すなわち、「無産大衆」が米騒動の主力を占めたのである。さらに、場所によってはこれらの階層による群衆行動が、工場や鉱山、交通機関などの労働者らの資本家に対する労働争議や、小作人による地主争議に波及したし、被差別部落民や在日朝鮮人、女性の参加もあった。このとき被差別部落民には不当な弾圧が加えられると共に、一般民衆の差別感情を煽る報道も行われていた。これらは、米騒動を記述するうえで、決して見落としてはならない点であるはずだ。
次に、②についてである。67頁以降の記述が、「米騒動から大正デモクラシーへ」で始まっている点からすると、どうやら五野井は、米騒動を起点に「大正デモクラシー」が展開していったと認識しているようである。具体的には、米騒動が「大衆」の誕生を政府に確認させ、この大衆が、デモクラシーを実現させる運動の主役となって藩閥政権からの脱却をうながし、大山郁夫の民衆文化主義や吉野作造の民本主義へと後につながっていった。その結果が1925年の普通選挙法の成立だ(p.70)と、五野井は捉えている。
通説である松尾尊兌の定義によれば、「大正デモクラシー」とは、日露戦争後の1905年から護憲三派内閣による諸改革の行われた1925年までのあいだに展開した民主化傾向を指す。松尾はこの定義のもとで、米騒動を大正デモクラシーの転機として捉えた。米騒動で、当初は「内に立憲主義、外に帝国主義」という限界を持っていた民主化傾向が、いまだ問題を孕みつつも徐々に開かれていったのである。その先に、労働組合の発達や、学生団体、新婦人協会、全国水平社、日本農民組合といった組織の結成があった。
しかし、五野井の認識ではなぜか「内に立憲主義、外に帝国主義」と評された日露戦争講和反対運動、日比谷焼打事件が含まれていない。また、米騒動から普通選挙法へと単線的に展開していったかのような記述には、上述のような運動の広がりを見いだすことはもちろんできない。普通選挙法が治安維持法との抱き合わせであったという指摘がない点も、問題である。さらには、「大正デモクラシー」期の労働運動や社会運動に内在していた天皇制国家を支持する論理の指摘もないため、五野井の記述は、「先進的なはずの諸運動が弾圧によって潰えた」というきわめて平板な歴史記述になってしまっている。しかし、諸運動が潰えたのは、はたして弾圧のためだけなのだろうか。
最後に③である。近代期を記述するうえで最も不自然であるのが、天皇制への言及がまったくない点である。天皇制を欠落させた歴史認識から生まれる五野井の歴史修正主義が最もあらわれているものとしては、「民本主義」に対する理解が挙げられるだろう。五野井は、「吉野作造の唱えた主権の行使たる人民主権としての民本主義」と、かなり不明瞭な表現をしているが、これが致命的な間違いなのである。大日本帝国憲法において唯一の主権者は、他ならぬ天皇であった。「民本主義」は、この主権が天皇にあることを前提としたうえで、「一般民衆の利益幸福」と「意向」とに重きを置くという「政権運用上の方針」であった。これは、「国家の主権は人民に在り」とする「民主主義」とはかけ離れたものである。前述した点ともかかわるが、この点を見落としては、天皇制を乗り越えることのできなかった近代期の「デモクラシー」を問うことはできない。ともすれば、近代天皇制のもとでの「大正デモクラシー」を、象徴天皇制のもとでの「戦後民主主義」の底流や苗床として、手放しに称賛することになりかねない。
以上を踏まえて、次の点を強調したい。これらの問題含みの記述こそが、五野井の求める「非暴力直接行動の系譜」というテーマを支える重要な素材となっているのである。このような事実の歪曲が、歴史修正主義でないのならいったい何だろうか。歴史修正主義者は極右やネトウヨだけではないのである。
2012年5月9日に日本でレビュー済み
テレビの映像や、街中で見かけるデモ。
世界各地や日本でもさまざまな形で多くの人間が
集まり行動を起こしている。デモとは何か?
言葉の裏側にあるものは何か?を求めて考察している。
デモに参加する(集まる)には何かしらの想いがある。
それらは「類縁集団」として定義されているとのことだ。
政治学などでも定義されているとのことだが、
仲良くなった友人同士が階層を作らず、水平的に繋がり
それが自律的に増えていくような活動を行う集団とのことだ。
そこには現代のツールであるインターネットも威力を発揮する。
デモにはその中心的な役割を果たすリーダーの存在が
必要不可欠と思ってしまうが意外にもそうではないらしい。
デモの規模にもよるだろうが、リーダーは不在が重要とのこと。
理由はそれにより階層が取り払われ、全員で意見を交わす
全員参加型の合意形成を成し、みんながリーダーという
意識を高められるとのこと。
集団の中の小さい個人同士やグループで、
納得がゆくまで話し合いが行われる。
これを直接民主主義と言い、代議制社会では
うまくいかないから直接民主主義で行くとのことだろう。
また日本のデモの歴史についても触れており
大正デモクラシーや60・70年代の社会的な出来事からの
デモへの移行についてなど、歴史的な背景と考察しながら
デモとリンクして語っている事も考えさせられ勉強にもなります。
世界各地や日本でもさまざまな形で多くの人間が
集まり行動を起こしている。デモとは何か?
言葉の裏側にあるものは何か?を求めて考察している。
デモに参加する(集まる)には何かしらの想いがある。
それらは「類縁集団」として定義されているとのことだ。
政治学などでも定義されているとのことだが、
仲良くなった友人同士が階層を作らず、水平的に繋がり
それが自律的に増えていくような活動を行う集団とのことだ。
そこには現代のツールであるインターネットも威力を発揮する。
デモにはその中心的な役割を果たすリーダーの存在が
必要不可欠と思ってしまうが意外にもそうではないらしい。
デモの規模にもよるだろうが、リーダーは不在が重要とのこと。
理由はそれにより階層が取り払われ、全員で意見を交わす
全員参加型の合意形成を成し、みんながリーダーという
意識を高められるとのこと。
集団の中の小さい個人同士やグループで、
納得がゆくまで話し合いが行われる。
これを直接民主主義と言い、代議制社会では
うまくいかないから直接民主主義で行くとのことだろう。
また日本のデモの歴史についても触れており
大正デモクラシーや60・70年代の社会的な出来事からの
デモへの移行についてなど、歴史的な背景と考察しながら
デモとリンクして語っている事も考えさせられ勉強にもなります。
2014年4月24日に日本でレビュー済み
この本は2011年の反原発運動の高揚の中で書かれた。そのような歴史的な文書になり得るが、内容がかなりおかしい。
60年代からの日本の社会運動の歴史を追いながら、1988年の反原発運動の高揚をなかったことかのように一言も触れない。恐らくは、最近の運動以外は総括された歴史についての本がない運動について調べていない。そのため非常に頭でっかちに運動の歴史が描き出され、間違いが多すぎる。
そして最近御運動についてもたとえば、好意的に紹介している「素人の乱」について、「三人デモ」と「自転車返せデモ」を混同した記述があって、事実確認をしてないのではないかという疑問がある。
歴史の見方としてかなり外れていると思うのは、「権力の暴力」に対して「民衆の非暴力」を対置させるのではなく、「暴力的運動」と「非暴力の運動」という見立てになっていることだ。特に結論で唐突に日本国憲法によって非暴力を貫く日本独自の運動が作られたとか言い出すのはもう何と言っていいか。手軽に読める類書がないために社会運動の歴史に対する誤解を広める本であると思います。
60年代からの日本の社会運動の歴史を追いながら、1988年の反原発運動の高揚をなかったことかのように一言も触れない。恐らくは、最近の運動以外は総括された歴史についての本がない運動について調べていない。そのため非常に頭でっかちに運動の歴史が描き出され、間違いが多すぎる。
そして最近御運動についてもたとえば、好意的に紹介している「素人の乱」について、「三人デモ」と「自転車返せデモ」を混同した記述があって、事実確認をしてないのではないかという疑問がある。
歴史の見方としてかなり外れていると思うのは、「権力の暴力」に対して「民衆の非暴力」を対置させるのではなく、「暴力的運動」と「非暴力の運動」という見立てになっていることだ。特に結論で唐突に日本国憲法によって非暴力を貫く日本独自の運動が作られたとか言い出すのはもう何と言っていいか。手軽に読める類書がないために社会運動の歴史に対する誤解を広める本であると思います。
2014年10月24日に日本でレビュー済み
OWSデモを皮切りに日本のデモの歴史を振り返り、デモとは何かを考察する。
OWSデモがいかに民主主義の理想を体現する可能性にあふれていたかに改めて驚かされる。
デモの歴史を振り返る中で、日本の60年代から80年代のデモ(やそれに準ずるもの)の中にもそういった片鱗が多く見えたように思えた。
それだけに脱原発デモがOWSデモのような多様性や直接民主主義的なものがほとんど見えなかったことが残念でならず、なぜああなってしまったかの考察が待たれる。
OWSデモがいかに民主主義の理想を体現する可能性にあふれていたかに改めて驚かされる。
デモの歴史を振り返る中で、日本の60年代から80年代のデモ(やそれに準ずるもの)の中にもそういった片鱗が多く見えたように思えた。
それだけに脱原発デモがOWSデモのような多様性や直接民主主義的なものがほとんど見えなかったことが残念でならず、なぜああなってしまったかの考察が待たれる。