読みやすくはずれのない佳作が並ぶ、アシモフの短編集。
ロボットとひとくちに言っても、これだけタイプのまったく異なるロボットをそれぞれ魅力的にユーモラスに書き分ける手腕とアイデアは見事のひとことだ。
「AL76号失踪す」に登場するロボットの、職務に対して勤勉・忠実でありながら融通の利かない頑固さ。
「思わざる勝利」に登場するロボットの、度肝を抜く怪力と装甲、知性を併せ持ちながら、子供のように稚気にあふれた愛らしさ。
そのまま現代マンガの原作として通用しそうな、完璧なる執事ロボットが登場するロマンス「お気に召すことうけあい」。
どれもこれも、機械でありながら。人間よりもどこか人間的で、愛すべき存在としてロボットたちが描かれている。
一方で、ディックあたりも影響を受けたであろう、知的SFサスペンスの傑作「みんな集まれ」なども収録されており、油断できない。
ロボット裁判劇「校正」もミステリ×SFというアシモフの持ち味が最大限に発揮されている。
創造物が創造主を滅ぼすというフランケンシュタイン・コンプレックスの流れを汲む作品群とは真逆の方向性を指し示し、以後登場するSF小説やSF漫画の原型を形作った歴史的にも価値ある短編集である。
しかもその作風について、本短編集内に作者から直接の言及があるのだが、それも非常に感慨深い。
かれが掲げたロボット三原則は、単に物語をおもしろくするために作られたガジェットでなく、作者本人の深い思想に根差したものであることがわかる。
ロボットを描くことで、逆説的に人間性への深い愛情と未来への希望を示したSF小説の至宝ともいえる短編集だ。
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ロボットの時代 〔決定版〕 アシモフのロボット傑作集 (ハヤカワ文庫 SF) 文庫 – 2004/8/6
アイザック・アシモフ
(著),
小尾 芙佐
(翻訳)
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- 本の長さ319ページ
- 言語日本語
- 出版社早川書房
- 発売日2004/8/6
- ISBN-104150114862
- ISBN-13978-4150114862
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- 出版社 : 早川書房 (2004/8/6)
- 発売日 : 2004/8/6
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 319ページ
- ISBN-10 : 4150114862
- ISBN-13 : 978-4150114862
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2017年3月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
アシモフのは、子供、学生、中年、50代と何度も読め新しい読み方が出来る。
2022年1月10日に日本でレビュー済み
本書は、『われはロボット』に次いで1964年にまとめられたアシモフの“ロボットもの”短編集の第二弾。
原題“The Rest of the Robots”は、第一短編集『われはロボット』から漏れた作品集という意味で、『残りのロボット』と訳されているようだが、評者は『ロボットたちの休暇』と訳して、ロボット・テーマの作品集だが本書の主役はロボットではないよ、というような意味だととらえた。
1942年から1958年に発表された8篇の短編にそれぞれの作品を紹介する文章が付けられている。
評者はアシモフの“ロボット物”に対して二律背反する感情を抱いている。長編はジュヴナイル作品から親しんでいたので思い入れもあるし大好きだけど、短編は若い頃最初に読んだ数篇で愛想を尽かしてしまって、その後読まず嫌いのまま数十年経ってしまった。最近思い直して読み始めたところ。
思ってもいないことに気づくこともある。本書を読んで気づいたのは結局そういうことだった。
アシモフの“ロボット物”の多くの短編で主役を務めているスーザン・キャルヴィン博士というロボ心理学者がいる。
評者は、長い間その人となりを知らなかったのだが、『われはロボット』と『ロボットの時代』を読んで、その概略を知った。かなり特殊な人物である。彼女が登場する短編群は基本的にロボットに起こった問題の原因を探る物語。そこで彼女が果たしている役割は推理小説で言えば一種の“アームチェア・ディテクティブ”。当代唯一のロボット知能の専門家。生粋の学者であり、頭脳で勝負するタイプの知的女性である。
問題は彼女を創作したアシモフである。アシモフはしばしば彼女が気に入っていると語っている。ということは、その表現内容がどうであれ彼女について書かれている場合、アシモフが彼女をけなそうと思って書いていないことは明らかだろう。むしろ、彼女の欠点と見える側面を描いている場合でも、実はその美点を描いているという場合も少なくない。にもかかわらず、本書を読んでいて気になるのは、しばしば彼女が揶揄されていると思われる描写があることだ。
作品には作者個人の想いとは別に時代が反映される。アシモフ個人がどう思っていようとも、作品が一般を対象としているものである限り、その描写は世間一般の常識、いわば“受け”を反映したものとならざるを得ない。つまり、そこに描かれているのはアシモフが許せる範囲で標準的な彼女に対する反応だろう。
その意識が現代の感覚とは少々ずれていると感じるのは評者だけではないと思う。それとも評者が過敏すぎるのだろうか?
半世紀以上前の人々の意識が現代人と異なっていることはまったく不思議なことではない。むしろ変わっていなかったとしたらその方が不思議と言えるだろう。だからこそ、その違和感を大事にしたい。それこそが時代が変わったということを示しているのだから。
もう一点。評者は、この時代のアシモフが発表した“ロボット物”のほとんどが気に入らない。描かれているロボットのほとんどが能力的にご都合主義的に過ぎると思うからだ。
60年以上前に考えられたロボットが現代から見て時代遅れに見えるのはやむを得ない。しかし、評者が気になるのは、アシモフの考えるロボット、というよりもその陽電子脳(すなわち人工知能)が人間的過ぎることだ。
単なる機械の寄せ集めの筈なのに“陽電子脳”という言葉を与えられたとたんにまるで人間のように動き始める。科学から魔法に置き換わったように。それは工学ではないと思う。
それにもかかわらず評者がアシモフの“ロボット物”を読み続けようと思うのは、科学者作家と呼ばれたアシモフのロボットが時代とともにどのように変わって行ったのかに興味があるためだ。
アシモフが初期に発表した“ロボット物”は1940年代に21世紀初頭を想定して書いている。その時代であれば、ロボットの能力が現在から見て違和感があってもやむを得ないと思う。しかし、アシモフはその後も1990年までずっと継続的に“ロボット物”を発表している。“ロボット物”ならアシモフ。との評価もある。
そんなアシモフが描くロボットは、書かれた時代に合わせてどのようにアップデートされていったのか? それとも変わらなかったのかもしれない。なにせ、水鏡子氏も言っているように硬骨漢なのだから。いつか、その結果を読むのを楽しみにしている。
巻末の水鏡子氏によるアシモフ愛があふれる解説には、そういう見方もあるのだと胸を打たれた。
以下、各篇について簡単に紹介して評者の感想を記す。()内は発表年月。(一部にネタバレ有り)
AL76号失踪す(1942/2)
月での作業用に作られたロボットの1台が逃げ出し、アメリカの片田舎でガラクタを集めて凄い機械を作るが、発見した男が驚いて出した命令に従ったためにすべてが失われてしまうという話。
思慮を欠く行動が積み重なった結果、千載一隅のチャンスが失われてしまうという教訓的な展開、あるいはナンセンス。
人間に作られたロボットが未知の技術を使って勝手に凄い機械を作ってしまうということで技術的特異点(シンギュラリティー)の訪れを予言していたといえば格好良いが、そこに至るプロセスが想定・記述されていないので科学的空想とは言えない。
アシモフは、この短編のロボットは道化ものとして描いたと言っているが、そもそも、AL767号がなぜそんな場所に居るのかという最初の問題が無視されていることが気に入らない。
思わざる勝利(1942/8)
木星に着陸したロボット調査隊が排他的で強圧的な木星人と接触する。ロボットは平和的な調査を試みるが、木星人は一方的に攻撃したあげくにロボットの頑強さを見てこんな種族にはとてもかなわないと降参する。木星人は調査用のロボットを単なる道具だと思わず、敵である人間そのものと思ったらしいというオチ。
単なる道具であろうと召使いであろうと、戦うとなったらそれが相手なのだから関係ないはず。そのことに気付いていないのか作為的に無視しているのか、ロジックをすり替えてしまっていることが気に入らない。
第一条(1956/10)
ある夜、酒の席でマイク・ドノヴァンは第一条に従わなかったタイタン開発用のロボットの話を始める。それは自分の子供を守るために人間の命令に従わなかったロボットの話だった。
酒の場での冗談ということらしい。問題なのは、本気の話とふざけた話が同じ設定で混在して語られていること。分かっている人は当然分かっているので、文句を言うのは無粋なことなのだろう。
みんな集まれ(1957/2) (発表の2年後にプレイボーイ誌に再掲載されたらしい。)
昔は東側と呼ばれていた彼らとわれわれの間で平和と言える状態が1世紀以上続いていたある日、彼らが人間そっくりのヒューマノイド・ロボットを完成させ、10体の体内に高性能爆弾の部品を隠して我が国に潜入させたという。10体がどこかに集まったらその都市は消滅するだろう。われわれにはそれを人間と区別する方法はない。どうすればよいのだろうかという話。
久しぶりにアシモフらしいSFを読んだ気がする。大きなロジックのミスは見当たらない。鉄のカーテンの向こう側の情報が全く伝わってこず、疑心暗鬼が続いていた時代にふさわしい作品だろう。アイデア的に『ミクロの決死圏』に繋がる作品と言えるかもしれない。
彼らのヒューマノイド・ロボットが三原則の適用外ということはウィキを読むまで気が付かなかった。
お気に召すことうけあい(1951/4)
若い夫婦が試作された家庭用ロボットの実用試験を請け負う。夫はロボット会社の技術者で、期間中は会社の命令で出張しなければならない。家にはロボットに対して恐怖感を持っている妻だけが残される。若い男性型のロボットは誠意を尽くして仕事に励み、妻も次第にロボットを受け入れるようになるが、その関係が消極的だった妻の性格にも影響を与えていく。
有名な作品なのでタイトルだけは知っていた。これはロボットの話というよりも、ロボットをネタにした人間心理の話である。ロボットの話として見るとその能力は現実離れしているとしか思えない。その能力は理論や技術で実現できるものとは思えない。一方、人間心理の話として見ると、ロボットに恋をする人間という、後にひとつのジャンルにまで発展するテーマのかなり初期の作品の一つだと思う。ただし、狙って書かれたものではないのでオタク的な側面はまったく感じられない。
危険(1955/5)
小惑星のハイパー基地でロボットを乗せた人類史上初の超空間航法の実験が行われようとしていた。実験動物を乗せた実験では航行には成功したものの動物の脳が破壊されたため、今回はロボットが乗せられた。
しかし実験は失敗した。原因調査のために誰かが危険な現場に行かなければならない。ロボットを派遣することについてはキャルヴィン博士が反対して、逆に若手の優秀なエンジニアであるジェラルド・ブラックを指名する。ブラックは、キャルヴィン博士は人間の命よりもロボットの安全を重視するのかと反発するが・・・
この短編も、むしろロボットを巡る人間、もしくは人間間の感情をテーマにした話ではないか。スーザン・キャルヴィン博士はロボ心理学者ではあるが、本作ではロボットに関する人間心理の専門家という感じ。まあ、それもロボ心理学者の守備範囲の一つか。しかし、こういう話を読むにつけ、キャルヴィン博士の“上から目線”というか、“一人だけ全部わかっていて、周りの単細胞達を見下している感“に反感を抱く者は多いだろうなあと思う。アシモフはそういうキャラクターを作り上げておいて、しかもそういう彼女が好みだという!
ところで、この超空間航法は、コードウェイナー・スミスやル・グィンの超空間航法とよく似ているが、二人はこの設定を流用したのだろうか?
レニイ(1958/1)
USロボット会社は優秀な職員の不足に悩んでおり、会社紹介のために工場内に一般見学コースを設けていたが、見学に来た一人の少年がコース内の装置に手をふれたばかりに一台のLNE型ロボットに障害が発生してしまう。完成検査で必要な知能が育っていないことが判明したそのロボットについて、誰もが廃棄処分しかないと考えるがキャルヴィン博士だけは違っていた。それまでのロボットはそれぞれ専門知識を教え込まれ専用機として完成して出荷されていたが、彼女はその知恵遅れのロボットに専門知識を持たない素体としてのロボット、汎用性を持つロボットの可能性を発見し、それを育てることに熱中する。しかし、ある日、そのロボットが若手技術者に障害を負わせるという事件が発生する・・・という話。
バカの連続で読んでいて嫌になる。しょうもないミスの連鎖で貴重なロボットに影響が及び、それが途中で発見されず最終工程まで進んでしまう。バカな技師の行動でロボットが人間を傷つけてしまう。しかも彼は自分の行動を反省するどころかロボットのせいにする。彼はロボット工場で働く専門家の一人でありながらロボットがどういうものか分かっていない。
クライマックスでは、研究所長たちはレニイを赤ちゃん扱いして母親気取りになっているキャルヴィン博士を揶揄するのだが、これも読んでいて嫌な気分になった。ほほえましい気分になることが良いのかどうかわからないが、揶揄する表現には当時のアシモフの認識を反映しているのではないだろうか。
校正(1957/12)
USロボット会社はロボット普及の弾みをつけるために、大学に安い価格で校正作業を請け負うロボットを売り込む。負担の大きい校正作業をロボットに代行させることができれば正確だし誰もが喜ぶだろう。しかし、試験運用が始まって1年4か月後、ある教授がロボットに校正を任せたところ改竄が行われて信用を失墜したとしてUSロボット会社に高額の損害賠償を請求する裁判を起こす。なぜ改竄行為は起こったのか。それはロボットの責任なのか。
本編中、USロボット会社によって電子計算機と陽電子ロボットの違いが説明される。電子計算機に校正作業をさせようとするとプログラムやコーディング作業等に膨大な手数がかかるが、陽電子ロボットならば簡単な命令を受けたら自分で原稿を読み取り、依頼者と対話しながら校正を進めることができる。
裁判の結果、改竄の責任はロボットにはないことが明らかになる。
結審後、キャルヴィン博士は裁判を起こした大学教授を訪ねてその真意を確認する。彼はロボットが行った完璧な校正結果を見て、このままでは人間の創造的な業務のほとんどがロボットに奪われてしまうと考えてロボットの普及を妨げようとしたのだった。
キャルヴィン博士は教授にロボットはあなたを守ろうとしていたのだと諭すが、その思いは届かなかった。
本編を読んで、アシモフも校正作業に対して二律背反の感情をもっているのだと理解する。校正作業は時間を喰って面倒だけれどその作業には創造的要素が含まれており、校正によって質の向上が図られることがあるとわかっていること。校正作業もまた楽しいと思うこと。
アシモフにとってロボットとは、自動制御機械のことではなく陽電子脳のことなのだなと理解する。
原題“The Rest of the Robots”は、第一短編集『われはロボット』から漏れた作品集という意味で、『残りのロボット』と訳されているようだが、評者は『ロボットたちの休暇』と訳して、ロボット・テーマの作品集だが本書の主役はロボットではないよ、というような意味だととらえた。
1942年から1958年に発表された8篇の短編にそれぞれの作品を紹介する文章が付けられている。
評者はアシモフの“ロボット物”に対して二律背反する感情を抱いている。長編はジュヴナイル作品から親しんでいたので思い入れもあるし大好きだけど、短編は若い頃最初に読んだ数篇で愛想を尽かしてしまって、その後読まず嫌いのまま数十年経ってしまった。最近思い直して読み始めたところ。
思ってもいないことに気づくこともある。本書を読んで気づいたのは結局そういうことだった。
アシモフの“ロボット物”の多くの短編で主役を務めているスーザン・キャルヴィン博士というロボ心理学者がいる。
評者は、長い間その人となりを知らなかったのだが、『われはロボット』と『ロボットの時代』を読んで、その概略を知った。かなり特殊な人物である。彼女が登場する短編群は基本的にロボットに起こった問題の原因を探る物語。そこで彼女が果たしている役割は推理小説で言えば一種の“アームチェア・ディテクティブ”。当代唯一のロボット知能の専門家。生粋の学者であり、頭脳で勝負するタイプの知的女性である。
問題は彼女を創作したアシモフである。アシモフはしばしば彼女が気に入っていると語っている。ということは、その表現内容がどうであれ彼女について書かれている場合、アシモフが彼女をけなそうと思って書いていないことは明らかだろう。むしろ、彼女の欠点と見える側面を描いている場合でも、実はその美点を描いているという場合も少なくない。にもかかわらず、本書を読んでいて気になるのは、しばしば彼女が揶揄されていると思われる描写があることだ。
作品には作者個人の想いとは別に時代が反映される。アシモフ個人がどう思っていようとも、作品が一般を対象としているものである限り、その描写は世間一般の常識、いわば“受け”を反映したものとならざるを得ない。つまり、そこに描かれているのはアシモフが許せる範囲で標準的な彼女に対する反応だろう。
その意識が現代の感覚とは少々ずれていると感じるのは評者だけではないと思う。それとも評者が過敏すぎるのだろうか?
半世紀以上前の人々の意識が現代人と異なっていることはまったく不思議なことではない。むしろ変わっていなかったとしたらその方が不思議と言えるだろう。だからこそ、その違和感を大事にしたい。それこそが時代が変わったということを示しているのだから。
もう一点。評者は、この時代のアシモフが発表した“ロボット物”のほとんどが気に入らない。描かれているロボットのほとんどが能力的にご都合主義的に過ぎると思うからだ。
60年以上前に考えられたロボットが現代から見て時代遅れに見えるのはやむを得ない。しかし、評者が気になるのは、アシモフの考えるロボット、というよりもその陽電子脳(すなわち人工知能)が人間的過ぎることだ。
単なる機械の寄せ集めの筈なのに“陽電子脳”という言葉を与えられたとたんにまるで人間のように動き始める。科学から魔法に置き換わったように。それは工学ではないと思う。
それにもかかわらず評者がアシモフの“ロボット物”を読み続けようと思うのは、科学者作家と呼ばれたアシモフのロボットが時代とともにどのように変わって行ったのかに興味があるためだ。
アシモフが初期に発表した“ロボット物”は1940年代に21世紀初頭を想定して書いている。その時代であれば、ロボットの能力が現在から見て違和感があってもやむを得ないと思う。しかし、アシモフはその後も1990年までずっと継続的に“ロボット物”を発表している。“ロボット物”ならアシモフ。との評価もある。
そんなアシモフが描くロボットは、書かれた時代に合わせてどのようにアップデートされていったのか? それとも変わらなかったのかもしれない。なにせ、水鏡子氏も言っているように硬骨漢なのだから。いつか、その結果を読むのを楽しみにしている。
巻末の水鏡子氏によるアシモフ愛があふれる解説には、そういう見方もあるのだと胸を打たれた。
以下、各篇について簡単に紹介して評者の感想を記す。()内は発表年月。(一部にネタバレ有り)
AL76号失踪す(1942/2)
月での作業用に作られたロボットの1台が逃げ出し、アメリカの片田舎でガラクタを集めて凄い機械を作るが、発見した男が驚いて出した命令に従ったためにすべてが失われてしまうという話。
思慮を欠く行動が積み重なった結果、千載一隅のチャンスが失われてしまうという教訓的な展開、あるいはナンセンス。
人間に作られたロボットが未知の技術を使って勝手に凄い機械を作ってしまうということで技術的特異点(シンギュラリティー)の訪れを予言していたといえば格好良いが、そこに至るプロセスが想定・記述されていないので科学的空想とは言えない。
アシモフは、この短編のロボットは道化ものとして描いたと言っているが、そもそも、AL767号がなぜそんな場所に居るのかという最初の問題が無視されていることが気に入らない。
思わざる勝利(1942/8)
木星に着陸したロボット調査隊が排他的で強圧的な木星人と接触する。ロボットは平和的な調査を試みるが、木星人は一方的に攻撃したあげくにロボットの頑強さを見てこんな種族にはとてもかなわないと降参する。木星人は調査用のロボットを単なる道具だと思わず、敵である人間そのものと思ったらしいというオチ。
単なる道具であろうと召使いであろうと、戦うとなったらそれが相手なのだから関係ないはず。そのことに気付いていないのか作為的に無視しているのか、ロジックをすり替えてしまっていることが気に入らない。
第一条(1956/10)
ある夜、酒の席でマイク・ドノヴァンは第一条に従わなかったタイタン開発用のロボットの話を始める。それは自分の子供を守るために人間の命令に従わなかったロボットの話だった。
酒の場での冗談ということらしい。問題なのは、本気の話とふざけた話が同じ設定で混在して語られていること。分かっている人は当然分かっているので、文句を言うのは無粋なことなのだろう。
みんな集まれ(1957/2) (発表の2年後にプレイボーイ誌に再掲載されたらしい。)
昔は東側と呼ばれていた彼らとわれわれの間で平和と言える状態が1世紀以上続いていたある日、彼らが人間そっくりのヒューマノイド・ロボットを完成させ、10体の体内に高性能爆弾の部品を隠して我が国に潜入させたという。10体がどこかに集まったらその都市は消滅するだろう。われわれにはそれを人間と区別する方法はない。どうすればよいのだろうかという話。
久しぶりにアシモフらしいSFを読んだ気がする。大きなロジックのミスは見当たらない。鉄のカーテンの向こう側の情報が全く伝わってこず、疑心暗鬼が続いていた時代にふさわしい作品だろう。アイデア的に『ミクロの決死圏』に繋がる作品と言えるかもしれない。
彼らのヒューマノイド・ロボットが三原則の適用外ということはウィキを読むまで気が付かなかった。
お気に召すことうけあい(1951/4)
若い夫婦が試作された家庭用ロボットの実用試験を請け負う。夫はロボット会社の技術者で、期間中は会社の命令で出張しなければならない。家にはロボットに対して恐怖感を持っている妻だけが残される。若い男性型のロボットは誠意を尽くして仕事に励み、妻も次第にロボットを受け入れるようになるが、その関係が消極的だった妻の性格にも影響を与えていく。
有名な作品なのでタイトルだけは知っていた。これはロボットの話というよりも、ロボットをネタにした人間心理の話である。ロボットの話として見るとその能力は現実離れしているとしか思えない。その能力は理論や技術で実現できるものとは思えない。一方、人間心理の話として見ると、ロボットに恋をする人間という、後にひとつのジャンルにまで発展するテーマのかなり初期の作品の一つだと思う。ただし、狙って書かれたものではないのでオタク的な側面はまったく感じられない。
危険(1955/5)
小惑星のハイパー基地でロボットを乗せた人類史上初の超空間航法の実験が行われようとしていた。実験動物を乗せた実験では航行には成功したものの動物の脳が破壊されたため、今回はロボットが乗せられた。
しかし実験は失敗した。原因調査のために誰かが危険な現場に行かなければならない。ロボットを派遣することについてはキャルヴィン博士が反対して、逆に若手の優秀なエンジニアであるジェラルド・ブラックを指名する。ブラックは、キャルヴィン博士は人間の命よりもロボットの安全を重視するのかと反発するが・・・
この短編も、むしろロボットを巡る人間、もしくは人間間の感情をテーマにした話ではないか。スーザン・キャルヴィン博士はロボ心理学者ではあるが、本作ではロボットに関する人間心理の専門家という感じ。まあ、それもロボ心理学者の守備範囲の一つか。しかし、こういう話を読むにつけ、キャルヴィン博士の“上から目線”というか、“一人だけ全部わかっていて、周りの単細胞達を見下している感“に反感を抱く者は多いだろうなあと思う。アシモフはそういうキャラクターを作り上げておいて、しかもそういう彼女が好みだという!
ところで、この超空間航法は、コードウェイナー・スミスやル・グィンの超空間航法とよく似ているが、二人はこの設定を流用したのだろうか?
レニイ(1958/1)
USロボット会社は優秀な職員の不足に悩んでおり、会社紹介のために工場内に一般見学コースを設けていたが、見学に来た一人の少年がコース内の装置に手をふれたばかりに一台のLNE型ロボットに障害が発生してしまう。完成検査で必要な知能が育っていないことが判明したそのロボットについて、誰もが廃棄処分しかないと考えるがキャルヴィン博士だけは違っていた。それまでのロボットはそれぞれ専門知識を教え込まれ専用機として完成して出荷されていたが、彼女はその知恵遅れのロボットに専門知識を持たない素体としてのロボット、汎用性を持つロボットの可能性を発見し、それを育てることに熱中する。しかし、ある日、そのロボットが若手技術者に障害を負わせるという事件が発生する・・・という話。
バカの連続で読んでいて嫌になる。しょうもないミスの連鎖で貴重なロボットに影響が及び、それが途中で発見されず最終工程まで進んでしまう。バカな技師の行動でロボットが人間を傷つけてしまう。しかも彼は自分の行動を反省するどころかロボットのせいにする。彼はロボット工場で働く専門家の一人でありながらロボットがどういうものか分かっていない。
クライマックスでは、研究所長たちはレニイを赤ちゃん扱いして母親気取りになっているキャルヴィン博士を揶揄するのだが、これも読んでいて嫌な気分になった。ほほえましい気分になることが良いのかどうかわからないが、揶揄する表現には当時のアシモフの認識を反映しているのではないだろうか。
校正(1957/12)
USロボット会社はロボット普及の弾みをつけるために、大学に安い価格で校正作業を請け負うロボットを売り込む。負担の大きい校正作業をロボットに代行させることができれば正確だし誰もが喜ぶだろう。しかし、試験運用が始まって1年4か月後、ある教授がロボットに校正を任せたところ改竄が行われて信用を失墜したとしてUSロボット会社に高額の損害賠償を請求する裁判を起こす。なぜ改竄行為は起こったのか。それはロボットの責任なのか。
本編中、USロボット会社によって電子計算機と陽電子ロボットの違いが説明される。電子計算機に校正作業をさせようとするとプログラムやコーディング作業等に膨大な手数がかかるが、陽電子ロボットならば簡単な命令を受けたら自分で原稿を読み取り、依頼者と対話しながら校正を進めることができる。
裁判の結果、改竄の責任はロボットにはないことが明らかになる。
結審後、キャルヴィン博士は裁判を起こした大学教授を訪ねてその真意を確認する。彼はロボットが行った完璧な校正結果を見て、このままでは人間の創造的な業務のほとんどがロボットに奪われてしまうと考えてロボットの普及を妨げようとしたのだった。
キャルヴィン博士は教授にロボットはあなたを守ろうとしていたのだと諭すが、その思いは届かなかった。
本編を読んで、アシモフも校正作業に対して二律背反の感情をもっているのだと理解する。校正作業は時間を喰って面倒だけれどその作業には創造的要素が含まれており、校正によって質の向上が図られることがあるとわかっていること。校正作業もまた楽しいと思うこと。
アシモフにとってロボットとは、自動制御機械のことではなく陽電子脳のことなのだなと理解する。
2015年10月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本に黒いシミがありましたので、気になって取り除きました。でも88円という価格から言えば、この程度のものと思っています。
2005年6月7日に日本でレビュー済み
短編8編の中にはちょっとこれは・・・という作品もありますが、木星人のすることがすべて裏目に出てしまう”思わざる勝利”とロボットが完璧ゆえに扱う人間が原因で思わぬ事態がおきてしまう’お気にめすことうけあい”はくすっと笑える面白い作品だと思います。
2015年6月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
これも読んでみましたが、「われは」ほどのわくわく感はなかったです。もちろん時代の流れで古くさくなってしまうのはどの作品にもあることなのですが、この作品集の収録作品にはアシモフ独特のひねりもろくにないというか、いったいどこを楽しめばいいのかわからないままに読み終わってしまいました。「傑作集」というよりは「われはロボット 未収録作品」といったところですね。やっぱり「われは」のパウエルとドノヴァンのコンビの大冒険がおもしろかったんだなあ、と今更のように思い返しています。
2015年6月27日に日本でレビュー済み
アシモフ自身の解説を挟みながら楽しめるロボット短編集。
ロボット三原則の抜け穴のようなオチや、三原則を悪用しようとして思わぬボロが出る事件などが楽しめる。
三原則は単純なものであるが、様々な面から物語を紡ぎだすアシモフに圧倒される。
SFでありながら、理解が困難な技術はあまりでてこない。科学技術で勝負せず、三原則関連の論理と人間性で勝負する特徴が良く出ている。
ロボット三原則の抜け穴のようなオチや、三原則を悪用しようとして思わぬボロが出る事件などが楽しめる。
三原則は単純なものであるが、様々な面から物語を紡ぎだすアシモフに圧倒される。
SFでありながら、理解が困難な技術はあまりでてこない。科学技術で勝負せず、三原則関連の論理と人間性で勝負する特徴が良く出ている。
2011年7月28日に日本でレビュー済み
アシモフのロボット短編集『われはロボット』がキャルヴィン博士の回想という形でひとまとまりの作品となっているのに対して、本書はそういったひとまとまりにくくれない"残りのロボットもの"の作品を集めた短編集となっている。
まとまりがない分、気楽にいろんな話が読めるというところもある。
ロボット心理学者、スーザン・キャルヴィンが登場する「危険」「校正」などもあるし、「AL76号失踪す」や「思わざる勝利」のような初期のどこかユーモアの香りただよう作品も楽しい。
「われはロボット」に収録されなかった「第一条」「みんな集まれ」も唐突感はあるが、アシモフのロボットものをコンプリートするためにはぜひ読んでおきたい。
まとまりがない分、気楽にいろんな話が読めるというところもある。
ロボット心理学者、スーザン・キャルヴィンが登場する「危険」「校正」などもあるし、「AL76号失踪す」や「思わざる勝利」のような初期のどこかユーモアの香りただよう作品も楽しい。
「われはロボット」に収録されなかった「第一条」「みんな集まれ」も唐突感はあるが、アシモフのロボットものをコンプリートするためにはぜひ読んでおきたい。