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ゼロ年代の想像力 ハードカバー – 2008/7/25
宮台真司氏推薦
「若い書き手による、単なる「好きなもの擁護」を超えた、時代を切り拓くサブ・カルチャー批評を、僕らは長いあいだ待っていた。それが本書である。政治思想の最先端とも響きあう高度な内容は、その期待に応え得るはずだ。」
■本書で論じた作品
青山真治/池袋ウエストゲートパーク/犬夜叉/ウォーターボーイズ/ALWAYS 三丁目の夕日/仮面ライダー龍騎/仮面ライダー電王/木皿泉/木更津キャッツアイ/オトナ帝国の逆襲/蹴りたい背中/犬身/恋空/コードギアス/宮藤官九郎/小林よしのり/最終兵器彼女/桜庭一樹/佐藤友哉/戯言シリーズ/下妻物語/女王の教室/ジョゼと虎と魚たち/新世紀エヴァンゲリオン/永遠の仔/すいか/世界の中心で、愛をさけぶ/セクシーボイスアンドロボ/涼宮ハルヒの憂鬱/西洋骨董洋菓子店/DEATH NOTE/電脳コイル/時をかける少女/ドラゴン桜/NANA/野ブタ。をプロデュース/鋼の錬金術師/ハチミツとクローバー/パッチギ!/バトル・ロワイアル/ファウスト/古川日出男/フラガール/冬のソナタ/マンハッタンラブストーリー/松尾スズキ/浜崎あゆみ/メゾン・ド・ヒミコ/よしながふみ/よつばと!/ライフ/らき☆すた/ラスト・フレンズ/リンダリンダリンダ/ONE PIECE
- 本の長さ352ページ
- 言語日本語
- 出版社早川書房
- 発売日2008/7/25
- ISBN-104152089415
- ISBN-13978-4152089410
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商品の説明
著者について
登録情報
- 出版社 : 早川書房 (2008/7/25)
- 発売日 : 2008/7/25
- 言語 : 日本語
- ハードカバー : 352ページ
- ISBN-10 : 4152089415
- ISBN-13 : 978-4152089410
- Amazon 売れ筋ランキング: - 456,693位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 125,251位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。
著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『原子爆弾とジョーカーなき世界』(メディアファクトリー)、『楽器と武器だけが人を殺すことができる』(KADOKAWA/メディアファクトリー)。
共著に石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント――この国の未来をつくる七つの対話』(共編著、河出書房新社)など。
企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)。NHK討論番組への出演、J-WAVE「THE HANGOUT」月曜日レギュラーパーソナリティとしても知られる。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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他のレビュアーの方に譲るとして、本書の意義について。
「評論」というものが、人々の生活から思い切り遠い存在になってしまった今、
若い層が「評論的なるもの」に触れる機会は激減した。
文学批評を読もうにも、そもそも「文学」というものが絶対数として少なく、
映画批評を読もうにも、映画評論家は死にかけのジジイ共が安全なサークル内で
仲良し馴れ合い学級会を行っているだけ(のように見える)。
少なくとも、外に向けた言語では綴られていない。
では、今の日本で、体系的批評をしうる素材として
潤沢に「数」が用意されているものは何かと言えば
国産アニメと、TVゲームと、ライトノベルである。
宇野氏は、それらを実際に浴びるように体験した
「中の住人」としての経験値を携えながら、
ちゃんと「外部の言葉」で縦横無尽に体系化していく。
これが、批評だ。
しかも、俎上に上がっている素材は、中学生でも触れられるものばかり。
普段慣れ親しみ愛玩している対象が、オトナの言葉で「規定」された時、
中学生の彼らは、はじめて「批評」というものの意味を知る。
物事に太い輪郭をつけることの快楽を味わうのだ。
若人の批評体験を提供してくれる書として、
その意義を大きく評価して良いと思う。
内容が多少強引なところもあろう、主観に寄り過ぎた決め付けがなくもない。
しかし批評など、思い込みと偏りの産物だ。
むしろ、極論ほど読んでいて面白いものはない。
若人は、偏りの快感を入り口に、言葉と戯れる快感に気づくのだから。
個人的には、著者の、「グローバルな視点を持とうとする姿勢」には好感が持てました。ここで言うグローバルとは、「特定のジャンルによるバイアスを廃する」という意味です。人は誰でも、自らのアイデンティティによるバイアスから自由になることができません。それは無理がないことだし、全く知らない分野について言及することもできない。したがって、従来のサブカル批評は、圧倒的に男性の書き手が多い(しかいない?)ことから、たいていは「男目線」になってしまっている(ジェンダー・バイアスに自覚的でない)ことが不満でした。「どうして女性のサブカル批評の書き手がなかなか現れないのか」という疑問はさておき、そういった「男性の、男性による、男性のためのサブカル批評」では、この社会を構成する半数は女性であるはずなのに、「今の時代は、今の若者は……」と語られることに対する違和感がつきまといます。
その点、著者は、部分的であるにしても、一応少女マンガや携帯小説にも目を配ろうとし、そこに「セクシュアリティの問題」があることを指摘しています。さらに、サブカルに潜む「肥大した母性の暴力」に触れ、「『母性』のサブカル史が必要」と言う。これは大切な視点だと思います。今日の日本の青少年、特に文字通り少年の精神形成史を考える上で、「過干渉な母親」を無視することはできない。そういう目配りができる点で、著者は江藤淳や大塚英志と同様に評価できると思います。(著者が「セカイ系」の小説やゲームを「女性差別的なレイプ・ファンタジー」と断じていることに対し、「フェミニズム的」などと評価するわけではありません。それが正しいかどうかはよくわからないし、まして「フェミニズム」はそんなに簡単なものではありません。)
さらに、「『大きな物語』を失ってしまった今、成熟はいかにして可能か」という問題について、真摯に考える姿勢にも好感が持てました。
しかし家父長的、男性的価値観を「レイプファンタジー」といったレッテルで断ずるように、作品の是非に対する姿勢にはやや一方的な感じがします。
また著者は社会、歴史による個人の認証(平たく言えば社会に認められる=成長)、や父性の復権といった価値観を旧来のものとして、それらを主張する作品に対して、商業的な失敗を以てこれを批判している様に見受けられますが、そうした批判自体「社会的価値観(この場合市場原理)」による「家父長的」な断定なのではないでしょうか?
時代に迎合しない価値観を一種のマイノリティ、とでも言うなら、流れに沿うかどうかで是非論を主張する著者の姿勢に、私は馴染めないものを感じました。
作品論は特に面白い。
ボリュームもあり、読んで損は無いと思います。良本です。
若い学生にはぜひ読んでほしいと思います。
時代を画する新しい評論家の誕生を決定づけたものとして
後世に記憶されるべき著作である。
2008年の単行本刊行直後からメディアの関心を集め、
御厨貴(「読売新聞」)から福嶋亮大(「新潮」)まで幅広い年代の評者が取り上げ、
好意的な評価をしている。
しかしながら、注目すべきは、多くの評者やメディアが(あえて)ふれていない点にこそある。
それは本書(第1刷)P277の以下の記述である。
《つまりは、小林秀雄「復初の説」に対する江藤淳の批判のような「当事者性の問題」への意識こそが、
「安全に痛い」ものでしかあり得ないものへのアプローチを決定するのだ。》
この箇所は、著者が歴史的なコンテクストを犠牲にしても、
自身の知識と感性のみを武器に突っ走ることができる、無邪気な評論家であることを証している。
いうまでなく、《小林秀雄「復初の説」に対する江藤淳の批判》などというものは存在しない。
「復初の説」は六〇年安保当時、小林秀雄ではなく丸山眞男が行った講演で、
雑誌「世界」に掲載されたもの。
それを江藤淳が評論「『戦後』知識人の破産」(「文藝春秋」)で批判したのだ。
上記の引用箇所を読むかぎり、小林秀雄と丸山眞男を混同するくらい、著者にとって彼らが遠い存在であり、
江藤の論文も歴史的なコンテクストぬきに読まれていることがはっきりとわかる。
もはや小林秀雄も、丸山眞男も、江藤淳も過去の人なのだ!
おそらく、ゼロ年代以前には、上記のような誤記をする評論家はいなかっただろうし、
また、いたとしてもすぐに消え去る運命であったにちがいない。
しかしながら、著者はその後もしっかりと生き延び、ますます活躍している。
「劣化コピー」などではなく、これはまさに新しい評論家の誕生である。
未確認だが、増刷あるいは文庫化にあたって
「小林秀雄」は「丸山眞男」に改められているかもしれない。
しかし、上記の箇所にこそ宇野常寛登場の歴史的な意味があるし、
宇野は評論家であるかぎり、デビュー作におけるこの誤植を引き受けるべきだろう。