著者が人気のミステリ作家であることは知っていたが、その作品を読んだことはなかった。本書に関しては、その書名に惹かれて手にとってみた。
全体は序章を含め6章に分かれており、それらとは別に「日本版に寄せて 拷問とスピーチと沈黙」が冒頭に置かれている。全体を通して、アメリカという国にひどく“異常”な部分があるということで分かる。著者がオバマ大統領・民主党の支持者で、かなり戦闘的に見えるフェミニストであるので、示された事例を100パーセント信じるかどうかは躊躇する人もいるかもしれないが、読んだ限り、それぞれにリアリティがあり、とても虚構を書いているとは思えない。というよりも、アメリカの“異常”さもここまで来ているのかというのが実感である。
前半部分では、幼少時代から、学生・社会人時代を経て、デビューするまでのことが、家族や社会とのかかわりの中で描かれており、著者が作りだした探偵像がより理解しやすいものとなっている。最終章は、サブタイトルにある「ポスト9・11〜」に寄り添ったもので、より一層に“異常”さを増したアメリカへの違和感と、作家として自らに課した責務が書かれている。ここを読む限りアメリカが“民主主義”の国であるかどうか疑問に感じるが、そんな中でも闘い続ける人がいることも理解できるし、そのことに勇気づけられる。
ただ、著者はユダヤ系ということなので、アメリカのイスラエル政策についてどう考えているのか書かれていれば、もっと良かった(こういったことを望んでしまうのは、意地が悪いのかもしれないが…)
ハードボイルドは苦手だが、著者のミステリ作品を読んでみることにした。
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沈黙の時代に書くということ: ポスト9・11を生きる作家の選択 単行本 – 2010/9/1
- 本の長さ219ページ
- 言語日本語
- 出版社早川書房
- 発売日2010/9/1
- ISBN-10415209155X
- ISBN-13978-4152091550
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登録情報
- 出版社 : 早川書房 (2010/9/1)
- 発売日 : 2010/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 219ページ
- ISBN-10 : 415209155X
- ISBN-13 : 978-4152091550
- Amazon 売れ筋ランキング: - 692,542位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 177,912位文学・評論 (本)
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2010年10月28日に日本でレビュー済み
2011年9月2日に日本でレビュー済み
ヴィク・ウォーショースキーを主人公とするミステリシリーズの著者である
サラ・パレツキーのエッセイ集です。
どのような経過でヴィク・シリーズが誕生したのか
どんな思想や信条を持って
彼女が作家になっていったのか。
などなどが率直な語り口で綴られています。
世界貿易センタービルのテロを受けて、アメリカが
私たちがイメージしている
「自由の守護者」
としての姿からまるで、開拓時代の
荒くれた世界に逆行していることを赤裸々に
語っていきます。
彼女の物語がヒロイックな、力を誇示するための闘争ではなく
不正や暴力・虐待に対する怒りと悲しみ、まるで自分の痛みのようにそれらを感じて、
事件の周辺にあったものが自分の力で再生に向けて歩きだす様を
語るためのものであることが解ります。
フェミニズムも、自由への希求も、
流行りの洒落たドレスとは違って、
男女どちらもがともに生きるための
絶え間ない努力なのでしょうね。
闇雲な批判や攻撃の色はなく
人間的で穏やかな語り口です。
サラ・パレツキーのエッセイ集です。
どのような経過でヴィク・シリーズが誕生したのか
どんな思想や信条を持って
彼女が作家になっていったのか。
などなどが率直な語り口で綴られています。
世界貿易センタービルのテロを受けて、アメリカが
私たちがイメージしている
「自由の守護者」
としての姿からまるで、開拓時代の
荒くれた世界に逆行していることを赤裸々に
語っていきます。
彼女の物語がヒロイックな、力を誇示するための闘争ではなく
不正や暴力・虐待に対する怒りと悲しみ、まるで自分の痛みのようにそれらを感じて、
事件の周辺にあったものが自分の力で再生に向けて歩きだす様を
語るためのものであることが解ります。
フェミニズムも、自由への希求も、
流行りの洒落たドレスとは違って、
男女どちらもがともに生きるための
絶え間ない努力なのでしょうね。
闇雲な批判や攻撃の色はなく
人間的で穏やかな語り口です。
2010年11月11日に日本でレビュー済み
女流作家の身辺雑記のようなものであるが、米国政治の実態を知る上で参考になる。
Tea-Party運動の実体は「黒人の成功は許せない」という人種差別が根底にあるとすれば良く理解できる。
日本のメディアも表向きの反対理由をそのまま馬鹿のように並び立てている。
根強い人種差別的な感情が動機との解説の努力が足りない。
公立学校や公立図書館も共産主義と考えている米国人も結構多いらしい。
公共交通機関もやめて、プラーベート・ジェット機、それの出来ないのは人生の失敗者という感覚か?
ロンドンタイムスをはじめ、世界のメディアを駄目にしているオーストラリア出身のマードックの率いるFoxテレビの影響力など、衆愚政治の米国は、また馬鹿なBushの時代に戻りそうな気がしてならない。
Tea-Party運動の実体は「黒人の成功は許せない」という人種差別が根底にあるとすれば良く理解できる。
日本のメディアも表向きの反対理由をそのまま馬鹿のように並び立てている。
根強い人種差別的な感情が動機との解説の努力が足りない。
公立学校や公立図書館も共産主義と考えている米国人も結構多いらしい。
公共交通機関もやめて、プラーベート・ジェット機、それの出来ないのは人生の失敗者という感覚か?
ロンドンタイムスをはじめ、世界のメディアを駄目にしているオーストラリア出身のマードックの率いるFoxテレビの影響力など、衆愚政治の米国は、また馬鹿なBushの時代に戻りそうな気がしてならない。
2011年10月9日に日本でレビュー済み
アメリカのミステリー作家サラ・パレツキーのエッセイ集です。
9・11以後、愛国者法成立によって国民のプライバシーが政府によって容易に侵害される社会となったアメリカ。人々が沈黙を強いられる“ビッグ・ブラザー”の世界が広がる中で、著者が物書きとして、そして女性探偵を主人公とする作品群を通して何をなすべきかを熱く語っています。
パレツキーといえば探偵V.I.ウォーショースキーの一連のシリーズもので知られるのでしょうが、私自身はその著作を手に取ったことは実は一度もありません。たまたま縁がなかっただけですが、今日のアメリカ社会を大いに危惧する書を出したと聞き、今回読んでみることにしたのです。
パレツキーは1947年の生まれで、50年代の赤狩り、60年代の公民権運動、70年代の反戦運動と女性の権利拡張運動と、アメリカの価値観が大きくうねる時代とともに歩んできた人物です。ですからこの書でも、ポスト9・11だけを論じるのではなく、そうしたアメリカ戦後史を自分史と重ねて立体的に綴っていて、興味が尽きません。
行きすぎた個人主義によって社会の絆が失われつつあるアメリカ。
個人の自由を制約するものとして、銃規制・徴税・車の制限速度までを槍玉に挙げながら、一方で女性のセクシュアリティ(出産・避妊・中絶)に関する個人的選択権をとりあげるアメリカ。
テロ対策の名のもと、電話やメール、そして図書館の貸出記録まで、個人のプライバシーを侵害するアメリカ。
そうした抑圧状況の広がりに著者は凛とした文章のつぶてを投げるのです。
読んだことはないものの、著者が創造した探偵ウォーショースキーの人物造形を語ったくだりも大変おもしろく読みました。
著者はフィクションの世界とアメリカ社会全体に広がっていた女性キャラクターのイメージを覆そうとウォーショースキーを作り上げ、「声と権力の問題から、そして、その両方が欠けた人々の人生から遠く離れてはならない」(96頁)と自らに言い聞かせながら筆をふるってきたというのです。
時に保守層からは脅迫めいた言葉を投げつけられながらも、こうした勇気ある声をあげる著者の姿に、居住まいを正した読書でした。
9・11以後、愛国者法成立によって国民のプライバシーが政府によって容易に侵害される社会となったアメリカ。人々が沈黙を強いられる“ビッグ・ブラザー”の世界が広がる中で、著者が物書きとして、そして女性探偵を主人公とする作品群を通して何をなすべきかを熱く語っています。
パレツキーといえば探偵V.I.ウォーショースキーの一連のシリーズもので知られるのでしょうが、私自身はその著作を手に取ったことは実は一度もありません。たまたま縁がなかっただけですが、今日のアメリカ社会を大いに危惧する書を出したと聞き、今回読んでみることにしたのです。
パレツキーは1947年の生まれで、50年代の赤狩り、60年代の公民権運動、70年代の反戦運動と女性の権利拡張運動と、アメリカの価値観が大きくうねる時代とともに歩んできた人物です。ですからこの書でも、ポスト9・11だけを論じるのではなく、そうしたアメリカ戦後史を自分史と重ねて立体的に綴っていて、興味が尽きません。
行きすぎた個人主義によって社会の絆が失われつつあるアメリカ。
個人の自由を制約するものとして、銃規制・徴税・車の制限速度までを槍玉に挙げながら、一方で女性のセクシュアリティ(出産・避妊・中絶)に関する個人的選択権をとりあげるアメリカ。
テロ対策の名のもと、電話やメール、そして図書館の貸出記録まで、個人のプライバシーを侵害するアメリカ。
そうした抑圧状況の広がりに著者は凛とした文章のつぶてを投げるのです。
読んだことはないものの、著者が創造した探偵ウォーショースキーの人物造形を語ったくだりも大変おもしろく読みました。
著者はフィクションの世界とアメリカ社会全体に広がっていた女性キャラクターのイメージを覆そうとウォーショースキーを作り上げ、「声と権力の問題から、そして、その両方が欠けた人々の人生から遠く離れてはならない」(96頁)と自らに言い聞かせながら筆をふるってきたというのです。
時に保守層からは脅迫めいた言葉を投げつけられながらも、こうした勇気ある声をあげる著者の姿に、居住まいを正した読書でした。
2011年2月14日に日本でレビュー済み
ウオーショースキーの熱烈な愛読者としては、本書を読んでしまったことは良かったかどうか。
”書く”に至った道のりについてはよく判った。ほぼ一直線の道のりである。
19才の夏にカンザスからシカゴに出て初めて親から離れて1人立ちし、”疾風怒涛”の渦に身を投ずる。それ以来一直線である。
公民権運動も女性解放もブッシュ親子や合衆国愛国者法のひどさも、遠く日本にあってもそれなりに知識としては知っていた。
しかしサラの両親のこのありようは一体どういうものだろう。1947年に生まれたサラをこのように育てるとは信じられない!家庭に閉じ込め、弟の世話をさせて一切の趣味を禁じる。
両親ともそれなりのインテリであるのに。
一旦飛び出したサラはもうがむしゃらである。
そしてウオーショースキーを造型して世に問い、訴え続ける。
立派である。
これもポーランドのゲットーで殺された?祖先の血か。
娘時代に趣味を禁じられたゆえか、サラの作品に音楽・絵画・舞台などへ向かうゆとりが少なく、特に詩歌の世界に触れる潤いに欠けるのは止むを得ないことであるか。
”書く”に至った道のりについてはよく判った。ほぼ一直線の道のりである。
19才の夏にカンザスからシカゴに出て初めて親から離れて1人立ちし、”疾風怒涛”の渦に身を投ずる。それ以来一直線である。
公民権運動も女性解放もブッシュ親子や合衆国愛国者法のひどさも、遠く日本にあってもそれなりに知識としては知っていた。
しかしサラの両親のこのありようは一体どういうものだろう。1947年に生まれたサラをこのように育てるとは信じられない!家庭に閉じ込め、弟の世話をさせて一切の趣味を禁じる。
両親ともそれなりのインテリであるのに。
一旦飛び出したサラはもうがむしゃらである。
そしてウオーショースキーを造型して世に問い、訴え続ける。
立派である。
これもポーランドのゲットーで殺された?祖先の血か。
娘時代に趣味を禁じられたゆえか、サラの作品に音楽・絵画・舞台などへ向かうゆとりが少なく、特に詩歌の世界に触れる潤いに欠けるのは止むを得ないことであるか。
2011年2月11日に日本でレビュー済み
『サブカルチャー反戦論』で大塚英志氏も述べているが、「なんだかキナ臭い」9.11以後の社会情勢に、「もの書き」というものは何を、如何に語るべきか。というのがテーマの自伝的エッセイ集である。
どんな市井の一般人でもすぐに感想や意見をつぶやける現代にあって、それでも公の場で発言できる権利を持つ「もの書き」、しかもパレツキーの場合はその書いたものが数多くの人々に読まれ、さらに国境をも越えて届くという恵まれた立場にある作家として、「発言する」というのはどういう意味を持つのか。それを真摯に自らに問うた、非常に真面目なエッセイである。
作家と言えど人の子、彼女は自分が無力であると感じることや、拷問や脅迫といった極限状態におかれた場合には目をそらしてしまうのではないかという恐怖を率直に語る。そしてその作者に足りない勇敢さを持ち合わせ、常に権力に屈することなく進んでいく彼女の小説の主人公、V・Iを、「彼女は私の声だ」と語る。もちろんそれは読者にとっても同じことで、私たちも作中で暴かれる社会の不正、権力の横暴に対し、徒手空拳で闘いを挑むV・Iに、束の間のカタルシスを得ているのだ。
著者が自らの小説の中で取り上げる背景は、だから常に「現実」を告発している。それをもって「発言」とすることは、当然様々な軋轢を生むだろう。それでもそれこそが著者の「闘い」であり、そこに我々は、「もの書き」としての著者の良心、良識、大文字でない正義、覚悟、決意、希望を見る。
ただ、1つ困ったことには、V・Iシリーズの愛読者としては、このエッセイで語られる作者自身の自伝的記述が、どうしても設定としてのV・Iの経歴とだぶってしまい、「あれ、違うのでは」という印象を持ってしまうのが難点。しかし、作者が自身の経験を、作中の複数の登場人物に割り振っていることが分かった(当然と言えば当然であるが)ことは、創作の過程が垣間見られた気がして、それも1つの収穫であった。
どんな市井の一般人でもすぐに感想や意見をつぶやける現代にあって、それでも公の場で発言できる権利を持つ「もの書き」、しかもパレツキーの場合はその書いたものが数多くの人々に読まれ、さらに国境をも越えて届くという恵まれた立場にある作家として、「発言する」というのはどういう意味を持つのか。それを真摯に自らに問うた、非常に真面目なエッセイである。
作家と言えど人の子、彼女は自分が無力であると感じることや、拷問や脅迫といった極限状態におかれた場合には目をそらしてしまうのではないかという恐怖を率直に語る。そしてその作者に足りない勇敢さを持ち合わせ、常に権力に屈することなく進んでいく彼女の小説の主人公、V・Iを、「彼女は私の声だ」と語る。もちろんそれは読者にとっても同じことで、私たちも作中で暴かれる社会の不正、権力の横暴に対し、徒手空拳で闘いを挑むV・Iに、束の間のカタルシスを得ているのだ。
著者が自らの小説の中で取り上げる背景は、だから常に「現実」を告発している。それをもって「発言」とすることは、当然様々な軋轢を生むだろう。それでもそれこそが著者の「闘い」であり、そこに我々は、「もの書き」としての著者の良心、良識、大文字でない正義、覚悟、決意、希望を見る。
ただ、1つ困ったことには、V・Iシリーズの愛読者としては、このエッセイで語られる作者自身の自伝的記述が、どうしても設定としてのV・Iの経歴とだぶってしまい、「あれ、違うのでは」という印象を持ってしまうのが難点。しかし、作者が自身の経験を、作中の複数の登場人物に割り振っていることが分かった(当然と言えば当然であるが)ことは、創作の過程が垣間見られた気がして、それも1つの収穫であった。
2010年10月30日に日本でレビュー済み
「わたしが自分の作品のなかで重視しているのはー人生のなかでも同じだがー’発言’である。誰が声をあげるのか、誰が沈黙させられるのか。」。
自身の家族の中での生い立ち、60年代の学生時代を経て、どのような思いで小説を書いていたかがこの本で分かりました。
ただの娯楽小説ではない、著者の意識的、無意識的な思いが溢れ出ていたよう。
アメリカの負の面をとらえ、それと向き合おうとする著者の姿が描かれています。
改めて、デビュー作、「サマータイムブルース」を読み直したくなりました。
自身の家族の中での生い立ち、60年代の学生時代を経て、どのような思いで小説を書いていたかがこの本で分かりました。
ただの娯楽小説ではない、著者の意識的、無意識的な思いが溢れ出ていたよう。
アメリカの負の面をとらえ、それと向き合おうとする著者の姿が描かれています。
改めて、デビュー作、「サマータイムブルース」を読み直したくなりました。