漢字一文字をタイトルとする短編集である本書は、そのタイトルがテーマそのものとなっており明快この上ない。わかりやすい、そして自分の心に馴染みやすいがゆえ、哀しくもあった。長崎市役所の原爆関連の部署で働く作者らしい視点、そして忘れ目を背けたい一方で、決して風化させまいとする努力が伝わってきた。人間はいつの時代でも人間であるしかないのだなと改めて思う。
しかし、なぜ日本における「きりしたん信仰」というある種特異な中心地に、世界で二つしか投下されていない(今のところ)原子爆弾は炸裂したのか。祈りと怒りが静かに渦巻く土地、長崎。何か悲しい運命を感じてしまう。
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爆心 単行本 – 2006/11/28
青来 有一
(著)
被爆したその日から「生」が始まった男が過去と行く末に思いをはせる「鳥」ほか、長崎の爆心地周辺で生きる人々を描く連作短篇集
- 本の長さ284ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2006/11/28
- ISBN-104163254706
- ISBN-13978-4163254708
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2006/11/28)
- 発売日 : 2006/11/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 284ページ
- ISBN-10 : 4163254706
- ISBN-13 : 978-4163254708
- Amazon 売れ筋ランキング: - 966,435位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 22,150位日本文学
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2007年1月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2014年1月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
初めての作家なのでちょっと心配でしたが、
短編集、全て長崎が舞台で原爆はまだ終わってないと実感しました。
若い世代にも読んでほしいですね。
短編集、全て長崎が舞台で原爆はまだ終わってないと実感しました。
若い世代にも読んでほしいですね。
2014年6月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
色々と考えさせられる作品です。生々しいものもあるので特別気に入った!!とはなりませんが、一読はお勧めします。
2010年9月25日に日本でレビュー済み
本作は青来有一氏による谷崎潤一郎賞及び伊藤整文学賞を受賞した短編集である。
「長崎原爆」と「キリシタン」という2つの共通したモチーフを背景にし、現在を生きる主人公達を描く。
個人的に最も深く心に残ったのは「虫」である。
直接被爆した主人公は、心身共に深い傷を負いながらもなんとか立ち直る。
しかし自らが負った傷の為にまた傷つき、さらには人をも傷つけてしまう。
そして人を傷つけてしまったことに、また傷ついてしまう。
そんな傷の連鎖の中、主人公が犯すたった一度の過ちは、さらに深い傷であると同時に唯一の救いとなり得たのだろうか。
また、本書の中で唯一異色とも思えたのは「蜜」である。
他の作品と背景を同じくしつつも、語り手はそれらをまるで「他人事」として遠まきに見ているのである。
本編の主人公は不謹慎な女性であることは間違いない。
しかし彼女こそが読み手である我々に最も近い存在ではないだろうか。
ある意味、最も考えさせられた一編である。
本来、九州の方言は、活字にすると陽気な明るさを持つことが多い。
しかし本作の語り手達がつむぎ出す言葉は、素朴な暖かみを醸し出しつつも、心に冷たく重く染み入るようだった。
それは、語り手達が決して強い人間ではなかったからかも知れない。
本書を通じて「戦争反対」という直接のメッセージはなかった。
ただ弱い人間が傷つき、その傷の先で起こった出来事を、淡々と書き綴ったフィクションである。
過去の記憶を未来へと送り続ける新しい手段として、是非読まれ続けてほしい作品。
「長崎原爆」と「キリシタン」という2つの共通したモチーフを背景にし、現在を生きる主人公達を描く。
個人的に最も深く心に残ったのは「虫」である。
直接被爆した主人公は、心身共に深い傷を負いながらもなんとか立ち直る。
しかし自らが負った傷の為にまた傷つき、さらには人をも傷つけてしまう。
そして人を傷つけてしまったことに、また傷ついてしまう。
そんな傷の連鎖の中、主人公が犯すたった一度の過ちは、さらに深い傷であると同時に唯一の救いとなり得たのだろうか。
また、本書の中で唯一異色とも思えたのは「蜜」である。
他の作品と背景を同じくしつつも、語り手はそれらをまるで「他人事」として遠まきに見ているのである。
本編の主人公は不謹慎な女性であることは間違いない。
しかし彼女こそが読み手である我々に最も近い存在ではないだろうか。
ある意味、最も考えさせられた一編である。
本来、九州の方言は、活字にすると陽気な明るさを持つことが多い。
しかし本作の語り手達がつむぎ出す言葉は、素朴な暖かみを醸し出しつつも、心に冷たく重く染み入るようだった。
それは、語り手達が決して強い人間ではなかったからかも知れない。
本書を通じて「戦争反対」という直接のメッセージはなかった。
ただ弱い人間が傷つき、その傷の先で起こった出来事を、淡々と書き綴ったフィクションである。
過去の記憶を未来へと送り続ける新しい手段として、是非読まれ続けてほしい作品。
2007年1月16日に日本でレビュー済み
これぞ小説!! と言わしめる短編集です。
登場人物はそれぞれまったく異なりますが、その根底に流れるのは
長崎原爆とキリシタン(過去の弾圧の経緯)が人々にもたらした「痛み」。
それが押しけではなく、ふわりと頬を撫でていく風のように、かすかな、
しかしいつまでもその余韻を感じる、そんな仕上がりになっています。
著者の以前の作品と比べて読み易い文体で、硬質な印象もなく、ポツポツ
と紡ぎだされたお話という感じでした。
信仰を持つが故の苦しみというものも感じられました。
素晴らしい作品だと思います。
登場人物はそれぞれまったく異なりますが、その根底に流れるのは
長崎原爆とキリシタン(過去の弾圧の経緯)が人々にもたらした「痛み」。
それが押しけではなく、ふわりと頬を撫でていく風のように、かすかな、
しかしいつまでもその余韻を感じる、そんな仕上がりになっています。
著者の以前の作品と比べて読み易い文体で、硬質な印象もなく、ポツポツ
と紡ぎだされたお話という感じでした。
信仰を持つが故の苦しみというものも感じられました。
素晴らしい作品だと思います。
2011年6月3日に日本でレビュー済み
詩のように美しい言葉で紡がれた切ない短編集。被爆者の心情をこんなにも人間的に現せるなんて。主人公たちはみんなどこか病んでいる。そして少しづつ私自身の分身であったりする。何度も「うん・・うん」とうなずきながら読んでいた「虫」のなかの、「あのひとはウマオイなのです。飛びそこねて爆心地におりてきたウマオイなのです。ウマオイは神をしりません」という言葉、「マリアさまはただの白磁の人形たい。中は空洞」という男の言葉。圧巻は「まだ生きておるね?」ととうウマオイの声。凄いなあ〜深い。手放せない一冊です。
2016年2月6日に日本でレビュー済み
この小説に出てくる人はみんないい人である。いい人であるが故に過ちを犯し、狂気に陥ってしまう。いい人であるが故に、原爆の記憶を抱え、自分を責め、神にすがる。いい人たちはキリシタン弾圧を背負い、原爆の記憶を背負う。そうして、やはり自分を責め、神にすがり神に問う。
ぼくはいい人じゃないから、こういう人物たちばかりがでてきて、正直いって入り込めなかった。
そういう小説なんだからといってしまえばそれまでなのだが、例えば原爆の被害や記憶や被爆者の苦しみは、ドキュメンタリー番組を見れば痛切に伝わってくる。それをなぜ、敢えて小説なのか? 小説に可能性があるとすれば、想像力である。時に現実を凌駕してしまうほど読む人の心に迫る想像力。
キリシタン弾圧ということなら、踏み絵をしてキリシタンを弾圧する側にまわった人(そういうひともいたらしい)、原爆ということなら原爆が落ちた後に死体から金品を奪い取った人や長崎の原爆ドームを解体することに尽力した人、彼らこそが文学の対象であるのではないか。いいとか悪いということではなく、そういう人間もいたのだ、そういう人間も現にいるのだ。それは、文学なら描ける。ドキュメンタリーやノンフィクションでは踏み込めない。それはまさに想像力で立ち向かうことでしか、社会の表舞台に現れない。
この作者は市役所勤めをしながら作家をしているようだが、ぼくは中上健次のような人がこういう題材を描いたならと空想してしまった。
ネタバレ注意・・・
「貝」は恐ろしい話である。貝が見えるのは狂っているからであり、『ぼく』と『おじさんの妹』は狂っている。でも、ではなぜ『ぼくの娘』は貝が見えたのか? 死期がそうさせたのか? ふたりは偶然同じ夜に死ぬが、原爆の悲しみを抱えて生きてきた老女とまだ四歳の病気を患った少女が同じ貝を見るのは、どうなのか? しかも、少女はその時はまだ病気ではないのである。老女の原爆の記憶を聞く役割がこの少女に与えられたことを、ぼくは残酷だと思った。しかも同じ日に死ぬなんて、あまりにも……。そして、なぜ『ぼく』は最後に正気に戻るのか? 最後まで恐ろしいままで終わるべきだったのではないか。『ぼくの娘』の死は、『ぼく』が狂って人生を台無しにしてしまうに値するほどの重さなのだから。そうでないと、ただの狂言回しに堕してしまう。
キリシタンの弾圧や原爆が日常の背後にある、という生活。それは普通のことではない。作者の意図で、日常の営みの中にそれらを垣間見せるのだが、やりすぎると不自然になるし、でもやらなければこういう重い主題を日常の中に描けない。そのへんの配慮の難しさを感じた。
「釘」「石」「蜜」はそういう意味でやりすぎだと思った。
「鳥」は素晴らしいと思った。日常の細部にまで原爆の影響が忍び込み、否応なく意識させられずるずると引きずりこまれてしまう恐ろしさが、あくまでも日常の中に描かれている。
「貝」は恐ろしい話である。貝が見えるのは狂っているからであり、『ぼく』と『おじさんの妹』は狂っている。でも、ではなぜ『ぼくの娘』は貝が見えたのか? 死期がそうさせたのか? そして、なぜ『ぼく』は最後に正気に戻るのか? 最後まで恐ろしいままで終わるべきだったのではないか。『ぼくの娘』の死は、『ぼく』が狂って人生を台無しにしてしまうに値するほどの重さなのだから。そうでないと、ただの狂言回しに堕してしまう。
この連作小説に出てくる人物はみんな、いい人たちだと思った。いい人たち故に現実の過酷さに耐えきれずに狂ってしまったり人を殺めてしまったり、性欲にながされてしまったりする。原爆に苦しむのも、自分だけが生き残ってしまったからであり、虫のようにただ生きていればいいとは思えない。彼らの先祖であるキリシタンも、踏み絵をして信仰を捨てた人ではなく、弾圧に耐え抜いて信仰を守り通した先祖たちだ。
みんな一生懸命に真面目である。高貴な人間たちだ。ドストエフスキーの「罪と罰」でいうならドゥーニャやソーニャのような人たちだ、ラスコーリニコフだっていたって真面目な青年である。もし「爆心」にスヴィドリガイロフみたいな男が出てきたら、どうなっただろうと想像してみたくなった。キリシタンだったのに弾圧されると即座に平気で踏み絵をし、しかもキリシタンを弾圧する側にまわるような男(実際にそういう人間はいたらしい)、原爆の跡地で死体から金目のものを盗んでまわった者、家族を見殺しにして自分だけ助かってもぬくぬくと生を謳歌して、原爆なんていう重苦しい記憶はすっかり忘れ去られてしまえばいい、明るく楽しく飲んだくれて生きればいいじゃんと思っている者。
もしキリスト教の神がいるならば、そういうろくでなしは地獄に落とすのだろう。「爆心」の人物たちはみな天国に導くだろう。でも、だとしたら神はあまりに残酷だ、人間を作っておいて人間を試し、駄目だった奴は地獄に落とすのだから。
みんないい人過ぎて、自分にはまぶしすぎた。よって星三つ。
ぼくはいい人じゃないから、こういう人物たちばかりがでてきて、正直いって入り込めなかった。
そういう小説なんだからといってしまえばそれまでなのだが、例えば原爆の被害や記憶や被爆者の苦しみは、ドキュメンタリー番組を見れば痛切に伝わってくる。それをなぜ、敢えて小説なのか? 小説に可能性があるとすれば、想像力である。時に現実を凌駕してしまうほど読む人の心に迫る想像力。
キリシタン弾圧ということなら、踏み絵をしてキリシタンを弾圧する側にまわった人(そういうひともいたらしい)、原爆ということなら原爆が落ちた後に死体から金品を奪い取った人や長崎の原爆ドームを解体することに尽力した人、彼らこそが文学の対象であるのではないか。いいとか悪いということではなく、そういう人間もいたのだ、そういう人間も現にいるのだ。それは、文学なら描ける。ドキュメンタリーやノンフィクションでは踏み込めない。それはまさに想像力で立ち向かうことでしか、社会の表舞台に現れない。
この作者は市役所勤めをしながら作家をしているようだが、ぼくは中上健次のような人がこういう題材を描いたならと空想してしまった。
ネタバレ注意・・・
「貝」は恐ろしい話である。貝が見えるのは狂っているからであり、『ぼく』と『おじさんの妹』は狂っている。でも、ではなぜ『ぼくの娘』は貝が見えたのか? 死期がそうさせたのか? ふたりは偶然同じ夜に死ぬが、原爆の悲しみを抱えて生きてきた老女とまだ四歳の病気を患った少女が同じ貝を見るのは、どうなのか? しかも、少女はその時はまだ病気ではないのである。老女の原爆の記憶を聞く役割がこの少女に与えられたことを、ぼくは残酷だと思った。しかも同じ日に死ぬなんて、あまりにも……。そして、なぜ『ぼく』は最後に正気に戻るのか? 最後まで恐ろしいままで終わるべきだったのではないか。『ぼくの娘』の死は、『ぼく』が狂って人生を台無しにしてしまうに値するほどの重さなのだから。そうでないと、ただの狂言回しに堕してしまう。
キリシタンの弾圧や原爆が日常の背後にある、という生活。それは普通のことではない。作者の意図で、日常の営みの中にそれらを垣間見せるのだが、やりすぎると不自然になるし、でもやらなければこういう重い主題を日常の中に描けない。そのへんの配慮の難しさを感じた。
「釘」「石」「蜜」はそういう意味でやりすぎだと思った。
「鳥」は素晴らしいと思った。日常の細部にまで原爆の影響が忍び込み、否応なく意識させられずるずると引きずりこまれてしまう恐ろしさが、あくまでも日常の中に描かれている。
「貝」は恐ろしい話である。貝が見えるのは狂っているからであり、『ぼく』と『おじさんの妹』は狂っている。でも、ではなぜ『ぼくの娘』は貝が見えたのか? 死期がそうさせたのか? そして、なぜ『ぼく』は最後に正気に戻るのか? 最後まで恐ろしいままで終わるべきだったのではないか。『ぼくの娘』の死は、『ぼく』が狂って人生を台無しにしてしまうに値するほどの重さなのだから。そうでないと、ただの狂言回しに堕してしまう。
この連作小説に出てくる人物はみんな、いい人たちだと思った。いい人たち故に現実の過酷さに耐えきれずに狂ってしまったり人を殺めてしまったり、性欲にながされてしまったりする。原爆に苦しむのも、自分だけが生き残ってしまったからであり、虫のようにただ生きていればいいとは思えない。彼らの先祖であるキリシタンも、踏み絵をして信仰を捨てた人ではなく、弾圧に耐え抜いて信仰を守り通した先祖たちだ。
みんな一生懸命に真面目である。高貴な人間たちだ。ドストエフスキーの「罪と罰」でいうならドゥーニャやソーニャのような人たちだ、ラスコーリニコフだっていたって真面目な青年である。もし「爆心」にスヴィドリガイロフみたいな男が出てきたら、どうなっただろうと想像してみたくなった。キリシタンだったのに弾圧されると即座に平気で踏み絵をし、しかもキリシタンを弾圧する側にまわるような男(実際にそういう人間はいたらしい)、原爆の跡地で死体から金目のものを盗んでまわった者、家族を見殺しにして自分だけ助かってもぬくぬくと生を謳歌して、原爆なんていう重苦しい記憶はすっかり忘れ去られてしまえばいい、明るく楽しく飲んだくれて生きればいいじゃんと思っている者。
もしキリスト教の神がいるならば、そういうろくでなしは地獄に落とすのだろう。「爆心」の人物たちはみな天国に導くだろう。でも、だとしたら神はあまりに残酷だ、人間を作っておいて人間を試し、駄目だった奴は地獄に落とすのだから。
みんないい人過ぎて、自分にはまぶしすぎた。よって星三つ。