この本の何が面白いのか意味不明。
文学論をぶちかますのが好きなゼミで持て囃されそうだが、面白くないものは面白くない。
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ニートピア2010 単行本 – 2008/2/18
中原 昌也
(著)
- 本の長さ314ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2008/2/18
- ISBN-104163266607
- ISBN-13978-4163266602
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2008/2/18)
- 発売日 : 2008/2/18
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 314ページ
- ISBN-10 : 4163266607
- ISBN-13 : 978-4163266602
- Amazon 売れ筋ランキング: - 628,663位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 14,302位日本文学
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年3月1日に日本でレビュー済み
「舞台動物」「怪力の文芸編集者」「ブン殴って犯すぞ!」
「誰が見ても人でなし」「中間小説」「声に出して読みたい名前」
「フンペ・フンペ」「ニートピア2010」「忌まわしき湖の畔で」
「誰も映っていない」「時代は悪化する」「新売春組織『割れ目』」
「放っておけば、やがて未来」
……以上13編、収録された小説の題名を読むだけでわくわくしてきます。
たとえば、「忌まわしき湖の畔で」のこんな一文:
「まるで春が来て、花弁が一枚ずつ落ちていくように、妻の着ているものが足下の闇に吸い込まれていった。」
いまこんなすごい(ひどい?)文章が書ける人は、この作者しか絶対いないと思います。
日本語で書かれた本当に面白い小説とは、こういうものだと思います。
あと、装丁(著者自身が描いた絵)も最高。
「誰が見ても人でなし」「中間小説」「声に出して読みたい名前」
「フンペ・フンペ」「ニートピア2010」「忌まわしき湖の畔で」
「誰も映っていない」「時代は悪化する」「新売春組織『割れ目』」
「放っておけば、やがて未来」
……以上13編、収録された小説の題名を読むだけでわくわくしてきます。
たとえば、「忌まわしき湖の畔で」のこんな一文:
「まるで春が来て、花弁が一枚ずつ落ちていくように、妻の着ているものが足下の闇に吸い込まれていった。」
いまこんなすごい(ひどい?)文章が書ける人は、この作者しか絶対いないと思います。
日本語で書かれた本当に面白い小説とは、こういうものだと思います。
あと、装丁(著者自身が描いた絵)も最高。
2008年2月21日に日本でレビュー済み
いつもと一緒と言えば一緒だが、ただ投げやりなだけでなく、
一つの話に一つずつくらいは仕掛けというかチャレンジというかサービスというか…
みたいなものがあるようで、やはり上手くなってきていると感じられる。
だから、どうせ同じかななどと思っていても、やはり読まされてしまうし、きっちり楽しめる。
「怪力の文芸編集者」のリズムはとても気持ちよく、
「事態は悪化する」では雑誌掲載時に井伊直行氏が
「かなり上手い人じゃないとできないと思う」と評していた、超長尺の一文が楽しめる。
装丁もとてもすばらしく、2100円も高くない。
意味不明なオビコピーも好き。
一つの話に一つずつくらいは仕掛けというかチャレンジというかサービスというか…
みたいなものがあるようで、やはり上手くなってきていると感じられる。
だから、どうせ同じかななどと思っていても、やはり読まされてしまうし、きっちり楽しめる。
「怪力の文芸編集者」のリズムはとても気持ちよく、
「事態は悪化する」では雑誌掲載時に井伊直行氏が
「かなり上手い人じゃないとできないと思う」と評していた、超長尺の一文が楽しめる。
装丁もとてもすばらしく、2100円も高くない。
意味不明なオビコピーも好き。
2009年1月17日に日本でレビュー済み
これまでの作品もそうですけど、相変わらず中原昌也という人は嘘をつこうとしない。どこまでも正直で、言っちゃって良いの?ということまで言っています。
小説の形式について言えば、事態は悪化する、みたいに妙にカッチリ、というか、型がはっきりしているのがいくつかあり、ぶっちゃけ芸だけでなく、技術的な面から見ても面白いです。
とにかく、妙に深刻ぶった「文学」というのが、いかに偽善で、強者の戯言か、ということがよくわかります。
小説の形式について言えば、事態は悪化する、みたいに妙にカッチリ、というか、型がはっきりしているのがいくつかあり、ぶっちゃけ芸だけでなく、技術的な面から見ても面白いです。
とにかく、妙に深刻ぶった「文学」というのが、いかに偽善で、強者の戯言か、ということがよくわかります。
2008年2月18日に日本でレビュー済み
最新短編集。
とりわけ前半の数編は、奇妙な文体やトリッキーな記述によって、ニヤニヤさせられ、時には吹き出してしまうほどの異様な面白さを醸し出している。
氏の文体は、同時代の他の作家に見られるような、現代的でカジュアルな口語表現を織り込んでいるというものではなく、普遍的な面白さが仕掛けられた文体であり、時代を経ても本書の面白さは古びることがないだろう。
とはいえ、特に後半に収録されている数編にて描かれているモチーフは、本書の題名どおり、極めて現代的である。我々を取り巻く情況をシビアに見つめ、その現代認識から紡ぎだされる、ある種の覚悟さえ感じられる言葉は、感動的でさえある。
現時点での最高傑作だと思う。
とりわけ前半の数編は、奇妙な文体やトリッキーな記述によって、ニヤニヤさせられ、時には吹き出してしまうほどの異様な面白さを醸し出している。
氏の文体は、同時代の他の作家に見られるような、現代的でカジュアルな口語表現を織り込んでいるというものではなく、普遍的な面白さが仕掛けられた文体であり、時代を経ても本書の面白さは古びることがないだろう。
とはいえ、特に後半に収録されている数編にて描かれているモチーフは、本書の題名どおり、極めて現代的である。我々を取り巻く情況をシビアに見つめ、その現代認識から紡ぎだされる、ある種の覚悟さえ感じられる言葉は、感動的でさえある。
現時点での最高傑作だと思う。
2008年3月30日に日本でレビュー済み
最新の短編集。昨年末、文芸五誌全てに中原昌也の短編が掲載されていて、溜まっていた依頼を一気に片づけたのかどうか、そういう舞台裏は知らないけど、単に現象だけ見れば、いかに人気作家であっても、明治期以来こんな事態ってあるのか?!とびっくりした。(←調べてません。小谷野先生か、坪内先生、教えてください) だから何?って……つまり、それだけの作家です。凄いです。
勿論、ふいに挿まれる創作への嫌悪感はいつもながらで、「救い」を求めて書き続けてきたが、「ただグッタリするだけ」「救いがない。なさ過ぎる」、どのような人にホメられても「実は嬉しくも何ともない」し、こんな「自己憐憫を書き連ねる」ことは「読者に言われるまえに自分が一番退屈している」。「書けば書くほどに事態は悪化する」が、「ただ書いていれば幸せと感じるような、自己実現だけのために書いているような連中」「権威に憧れて、浮かれているような田舎者」が書いた本と同じ棚には並べられたくない。才能がないので同じことしか書けない。いい加減違うことが書きたいが、「違うこと」などない……そう、中原昌也の小説を読むと、気づくのだ。常に新しいもの、違うものを求める「読者」のほうがまちがっている。「違うこと」など何もないのだと。
何の才能もない、と中原自身は言い切るが、作品に描かれる独特の、狂気を孕んだ時間感覚、恐怖を与える不条理感や邪悪な世界観は、他の誰にも生み出すことはできない。94ページから98ページまで続く、吐き気を催すような露悪的な言葉の連なりを、他の誰が書けるだろう?そして179ページから語られる、作者すら介在しない、純粋に自立する文字によって、絵画の域にまで高められた「言語表現」は、古今のあらゆる天才作家が夢見たものだろう。「小説など真の意味で誰も必要とはしていない」という一節は逆説で、小説は中原昌也のためにある。
勿論、ふいに挿まれる創作への嫌悪感はいつもながらで、「救い」を求めて書き続けてきたが、「ただグッタリするだけ」「救いがない。なさ過ぎる」、どのような人にホメられても「実は嬉しくも何ともない」し、こんな「自己憐憫を書き連ねる」ことは「読者に言われるまえに自分が一番退屈している」。「書けば書くほどに事態は悪化する」が、「ただ書いていれば幸せと感じるような、自己実現だけのために書いているような連中」「権威に憧れて、浮かれているような田舎者」が書いた本と同じ棚には並べられたくない。才能がないので同じことしか書けない。いい加減違うことが書きたいが、「違うこと」などない……そう、中原昌也の小説を読むと、気づくのだ。常に新しいもの、違うものを求める「読者」のほうがまちがっている。「違うこと」など何もないのだと。
何の才能もない、と中原自身は言い切るが、作品に描かれる独特の、狂気を孕んだ時間感覚、恐怖を与える不条理感や邪悪な世界観は、他の誰にも生み出すことはできない。94ページから98ページまで続く、吐き気を催すような露悪的な言葉の連なりを、他の誰が書けるだろう?そして179ページから語られる、作者すら介在しない、純粋に自立する文字によって、絵画の域にまで高められた「言語表現」は、古今のあらゆる天才作家が夢見たものだろう。「小説など真の意味で誰も必要とはしていない」という一節は逆説で、小説は中原昌也のためにある。