日活ロマンポルノとわいせつ摘発、連合赤軍一連の事件、ローリングストーンズ来日中止、キャロルと南沙織、「日本プロレス」の崩壊、「ぴあ」創刊と「今太閤」田中角栄の登場・・・
30年前の懐かしい日本があります。でも今とあんまり変わってないこともわかります。
中学や高校の日本史の参考書としても使えるのではないでしょうか。
絶対オススメです。
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一九七二: はじまりのおわりとおわりのはじまり 単行本 – 2003/4/1
坪内 祐三
(著)
- 本の長さ413ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2003/4/1
- ISBN-104163596801
- ISBN-13978-4163596808
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
1972年。そのとき私は14歳だった-。日活ロマンポルノが摘発され、南沙織が紅白出場、連合赤軍あさま山荘事件が起こった年を知らない若者におくる新感覚の文化評論。『諸君!』連載。
登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2003/4/1)
- 発売日 : 2003/4/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 413ページ
- ISBN-10 : 4163596801
- ISBN-13 : 978-4163596808
- Amazon 売れ筋ランキング: - 944,683位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 13,680位日本史一般の本
- - 86,380位ビジネス・経済 (本)
- - 135,065位ノンフィクション (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2004年1月8日に日本でレビュー済み
私は71年生まれ。当然72年のことはリアルタイムでは知らない。かといって歴史として取り上げられることもない近すぎる過去である。
高度成長期のピークに生まれ、高校卒業の時に昭和が終わり、大学卒業直前にバブルがはじけて、思想も文学もロックもジャズもアートも盛り上りに乗るには遅すぎており、常に宴の後に遅れてやってきたような間の悪さを味わわされてきた自分としては、今につながる割には意外と知らなかったことが書かれており、何かの答えになるような本であった。
当時の週刊誌の記事を元に、著者自身の少年時代の実体験をからめながら、できるだけ当時の人たちが受けたインパクトのアクチュアリティーを感じ取れるような筆致で、この年の特徴的な出来事を拾っていくのだが、あさま山荘事件、ぴあの創刊、ロックの勃興など単体でも面白いクロニクルとなっている。
この本を読んだ後、自分でも昭和史年表をひもといて、この続きー80年、90年代の出来事と自分の年譜を並べて作ってみたら面白いだろうなと思った。
坪内さんの本はほとんど読んでいるけど、少し年上で自分よりいろんな本を読んでいる人で、興味の対象や感じ方のセンスが自分と重なるところが多く、はずれなく楽しめる。いまどき希少な現役の「庭の離れに住んでいる、面白いお兄さん」である。
高度成長期のピークに生まれ、高校卒業の時に昭和が終わり、大学卒業直前にバブルがはじけて、思想も文学もロックもジャズもアートも盛り上りに乗るには遅すぎており、常に宴の後に遅れてやってきたような間の悪さを味わわされてきた自分としては、今につながる割には意外と知らなかったことが書かれており、何かの答えになるような本であった。
当時の週刊誌の記事を元に、著者自身の少年時代の実体験をからめながら、できるだけ当時の人たちが受けたインパクトのアクチュアリティーを感じ取れるような筆致で、この年の特徴的な出来事を拾っていくのだが、あさま山荘事件、ぴあの創刊、ロックの勃興など単体でも面白いクロニクルとなっている。
この本を読んだ後、自分でも昭和史年表をひもといて、この続きー80年、90年代の出来事と自分の年譜を並べて作ってみたら面白いだろうなと思った。
坪内さんの本はほとんど読んでいるけど、少し年上で自分よりいろんな本を読んでいる人で、興味の対象や感じ方のセンスが自分と重なるところが多く、はずれなく楽しめる。いまどき希少な現役の「庭の離れに住んでいる、面白いお兄さん」である。
2003年9月1日に日本でレビュー済み
1972年は自分が生まれた歳なので、それだけの単純な興味で手に取ってみました。第一章の「なぜ、この年なのか」という問いは、むしろ著者が「諸君!」で連載を開始した2000年時点で既に、1972年生まれが30歳になる2002年を意識していたからと勘繰ってしまいます。
1969年ではないということは読み取れますが、1970年でも1971年でも1972年でもよかったのでは?という疑問が途中から沸いてきて、最後のほうは連載モノの限界か論が流れてしまいとうとう疑問を解消することができませんでした。とは言うものの1971年と1972年の分断は提示されている。終わりが始まった年に生まれた、著者曰く「理解しあうことが予め出来ない」僕達は、どんな世界を目指せばいいのかはやはり示されない。
1969年ではないということは読み取れますが、1970年でも1971年でも1972年でもよかったのでは?という疑問が途中から沸いてきて、最後のほうは連載モノの限界か論が流れてしまいとうとう疑問を解消することができませんでした。とは言うものの1971年と1972年の分断は提示されている。終わりが始まった年に生まれた、著者曰く「理解しあうことが予め出来ない」僕達は、どんな世界を目指せばいいのかはやはり示されない。
2011年4月24日に日本でレビュー済み
この本は著者が雑誌「諸君!」2000年2月号から02年12月号まで連載されていたものをまとめたものである。2年10ヶ月に及んだために大作となっているが、内容はさほど濃い感じではないので意外と読みやすい。
著者自身は川端康成の自殺といった文学の話題にも触れたかったようだが、ロックやプロレス、雑誌「ぴあ」など、単なる著者自身の懐古趣味に流された部分も見受けられ、「もうこのへんで」とストップがかかったのか、きちんとまとまった終わり方をしていない。これで1972年が「はじまりのおわり」で「おわりのはじまり」だという歴史意識の変化や歴史の断絶を描き終えたと著者は思ったのだろうか。
一番読み応えがあったのは連合赤軍事件の部分で、リンチ殺人にまで至る経緯は鋭い分析だと思ったが、最後に田中角栄と金日成を結び付けるあたりは強引な感じがする。
著者自身は川端康成の自殺といった文学の話題にも触れたかったようだが、ロックやプロレス、雑誌「ぴあ」など、単なる著者自身の懐古趣味に流された部分も見受けられ、「もうこのへんで」とストップがかかったのか、きちんとまとまった終わり方をしていない。これで1972年が「はじまりのおわり」で「おわりのはじまり」だという歴史意識の変化や歴史の断絶を描き終えたと著者は思ったのだろうか。
一番読み応えがあったのは連合赤軍事件の部分で、リンチ殺人にまで至る経緯は鋭い分析だと思ったが、最後に田中角栄と金日成を結び付けるあたりは強引な感じがする。
2003年4月25日に日本でレビュー済み
ある年について書かれた本は、読む人の年齢によって受け止められ方が変わるだろう。私は1972年頃の記憶を持ってはいない。1972年頃は、空気ではなく知識でしか知らない時代である。
著者は1972年を、時系列でもなく出来事別でもなく、書きたい順に従ってあちこち寄り道しながら書いている。連載されていたということもあって、書いている時の著者の興味と思考の状況が伝わってくるようなライブ感のある文章である。
ポルノ解禁、あさま山荘事件、海外アーティストの来日、キャロルの衝撃、子供による犯罪、ぴあの創刊、情報文化への移行・・・といった事柄を、同じ時の出来事として捉えることができた。その時代を感じながら事件や出来事を見ていくと、今の視線ではなくその時代の視線を通して事件や出来事を見ることが可能だ。
この評論は、点でもなく線でもなくたくさんの連なりとして、1972年という空気を強く感じさせるものであった。
著者は1972年を、時系列でもなく出来事別でもなく、書きたい順に従ってあちこち寄り道しながら書いている。連載されていたということもあって、書いている時の著者の興味と思考の状況が伝わってくるようなライブ感のある文章である。
ポルノ解禁、あさま山荘事件、海外アーティストの来日、キャロルの衝撃、子供による犯罪、ぴあの創刊、情報文化への移行・・・といった事柄を、同じ時の出来事として捉えることができた。その時代を感じながら事件や出来事を見ていくと、今の視線ではなくその時代の視線を通して事件や出来事を見ることが可能だ。
この評論は、点でもなく線でもなくたくさんの連なりとして、1972年という空気を強く感じさせるものであった。
2003年5月30日に日本でレビュー済み
当時の出来事を実体験として記憶しているのは、僕くらいの年齢がおそらく最後なのではないか。もっとも、南沙織を初めとする当時のアイドル達、せいぜい横井庄一さんくらいしか正確な記憶はないのであるが・・・。
本書では当時を象徴する事件である、連合赤軍に関する著述に多くの頁がさかれている。だが、僕にはその大事件を生で見たのかどうかの記憶がない。僕が大学(よど号の田宮高麿の母校)に入学した頃は、すでに全国的には学生運動は死語になりつつあったのだが、そこにはまだ「ともし火」が残っていた。なんとなくその雰囲気が好きで、ちょっとだけ運動を、単なる傍観者としてではなく垣間見ていた僕にとっては、本書に登場した連合赤軍は単なる過ぎ去った出来事ではなく、多分、今団塊世!代の人々が感じるであろうある種のノスタルジアを、改めてリアリティーをもって感じさせてくれたのである。
通勤電車の中でいつものように新聞をひろげたあの日、ちょっと隣の乗客に気を使いながらも目に飛び込んできた「一九七二・・・」というタイトルのみをてがかりにして、後日書店で買い求めた本書は、再び戻らない過去と現在を僕のもとに運んできてくれたのである。
本書では当時を象徴する事件である、連合赤軍に関する著述に多くの頁がさかれている。だが、僕にはその大事件を生で見たのかどうかの記憶がない。僕が大学(よど号の田宮高麿の母校)に入学した頃は、すでに全国的には学生運動は死語になりつつあったのだが、そこにはまだ「ともし火」が残っていた。なんとなくその雰囲気が好きで、ちょっとだけ運動を、単なる傍観者としてではなく垣間見ていた僕にとっては、本書に登場した連合赤軍は単なる過ぎ去った出来事ではなく、多分、今団塊世!代の人々が感じるであろうある種のノスタルジアを、改めてリアリティーをもって感じさせてくれたのである。
通勤電車の中でいつものように新聞をひろげたあの日、ちょっと隣の乗客に気を使いながらも目に飛び込んできた「一九七二・・・」というタイトルのみをてがかりにして、後日書店で買い求めた本書は、再び戻らない過去と現在を僕のもとに運んできてくれたのである。
2007年7月31日に日本でレビュー済み
とかく後追いの世代にありがちなことだとは思うのですが、この1972年という年、僕は7才で、連合赤軍の騒動についても微かな記憶があるだけ、しかもそれにはあとからなにかで読んだり見たりした知識やなんかが混在しているかもしれなくて、もちろんその混ぜ物をそれはそれこれはこれと選別できるはずもなく、つまりどこからどこまでがリアルタイムな自分の体験なのか判然としないわけです。ただ、1972年当時、僕が東京の大学生だったとしても、果たしてそこにコミットできたかどうかそれもまた怪しいもので、それはバブルに沸き立っていたはずの80年代後半、東京の大学生だった自分が新聞で目にする以上の実感をバブルという言葉に持ち得ず、もっぱらそれをわき目に(さえしていなかったような気もしますが)古書店通いに勤しんでいた経験からもそんな気がするのですが、同時にまたそんな姿勢が体制寄りだ、ブルジョアだと統括されていたのかもしれませんね(そのへんも。ただ、そうなったらそうなったで、太宰治ばりの素早さで転んでいたかもしれないのですが)。
本書は僕のようなへたれな後追いにも、またそこになんらかの思い入れを抱く同世代の人にも、と書いたところでふと考えたのですが、本書の後半に何度も取り上げられるロック・バンドについては同世代の人たちより後追いの人たちのほうがきっとより身近に、手軽に接してきた人が多いと思うので、靄がかかったような記憶しか持ち得なった後追いの人たちこそが、「ああ、あれはそういうことだったんだ」と靄を晴らすように読むのにもってこいの一冊なのではないでしょうか。
本書は僕のようなへたれな後追いにも、またそこになんらかの思い入れを抱く同世代の人にも、と書いたところでふと考えたのですが、本書の後半に何度も取り上げられるロック・バンドについては同世代の人たちより後追いの人たちのほうがきっとより身近に、手軽に接してきた人が多いと思うので、靄がかかったような記憶しか持ち得なった後追いの人たちこそが、「ああ、あれはそういうことだったんだ」と靄を晴らすように読むのにもってこいの一冊なのではないでしょうか。