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百年の孤独 ニッポンの小説 単行本 – 2007/1/11

4.5 5つ星のうち4.5 13個の評価

今、ニッポンの小説が元気だ! 変幻自在、巧みな仕組みと語り口で現代日本の言葉・文学・小説の可能性を喝破した驚異の評論
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登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 文藝春秋 (2007/1/11)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2007/1/11
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 451ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 416368610X
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163686103
  • カスタマーレビュー:
    4.5 5つ星のうち4.5 13個の評価

著者について

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高橋 源一郎
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1951年、広島県生まれ。81年、『さようなら、ギャングたち』で第4回群像新人長編小説賞優秀作を受賞しデビュー。88年、『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞、02年、『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞を受賞。著書に『いつかソウル・トレインに乗る日まで』『一億三千万人のための小説教室』『ニッポンの小説―百年の孤独』他多数ある。10年5月には、『「悪」と戦う』も刊行された。

カスタマーレビュー

星5つ中4.5つ
5つのうち4.5つ
13グローバルレーティング

この商品をレビュー

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上位レビュー、対象国: 日本

2018年12月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ニッポンの小説2も文庫化してくれないかなあ。高すぎるよ。めっちゃ読みたいよ。これ読んだらそう思わずにいられないよ。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年2月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
 学生に講義を聴かせる、という形式で書かれているので、
内容の割に読みやすい作品だと思う。
百年というのは、日本でいわゆる小説が生まれて百年ということから。

1)小説の多くはたいてい、恋愛か死が題材になっているのには理由があるの?
2)「文学的な作品である」、「文学的に劣る」というときの「文学的」とは一体なんだ?
3)片山恭一さんの「世界の中心で、愛をさけぶ」や、Yoshiさんの「Deep Love」など、
  売れているのに、いわゆる文壇からは無視されている気がするのはなぜ?
4)ニッポンの小説の源流は誰が作ったの?
5)読まれる詩や小説って時代背景に影響されたりするの?
などといった、漠然とした疑問に答えを示さんとしてくれています。
 ただ前提として、著者自身が、小説や言葉には限界があるという見地に立っているので
「僕自身よくわかっていないのですが」というエクスキューズも多い。
 そして、引用する小説についても、引用する理由や、作品が書かれた背景など
付随する話題をどんどん展開し脱線するので、何についての話だったか
読者だけでなく著者本人も忘れてしまうこともしばしば(^ー^;)。

 読み終わって、平安時代や江戸時代の作品が文学史上で位置づけられる
のと同じように、近代小説がどのような役割を担ったと位置づけられるのか
非常に楽しみになった。同時に私の中で、近代文学史をもっと知りたいという欲求が芽生えた。
小説の別の楽しみ方を教わったような気がする。
34人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年6月9日に日本でレビュー済み
はじめに高橋源一郎さんの他の作品の熱心な読者ではないことをお許しください。

プロローグ、エピローグにはさまれ、4つの講義にわかれています。

 その小説はどこにあるのですか?

 死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?

 それは、文学ではありません

 ちからが足りなくて

他の3つは、難しかったということもあったのですが
「その小説はどこにあるのですか?」はとっても感銘を受けた。

ヨシダシュウイチという小説家が、
ファッション誌JJで「キャラメルポップコーン」という小説を連載しているが
情報が氾濫しすぎていて、小説が埋もれてしまっていて、小説がどこにあるのかわからない、
というタカハシゲンイチロウ氏の戸惑いを綴ったものだ。

ようやっと見つかっても、ファッション礼賛のJJ界では、小説は色あせて見える。

やっぱり小説は、そのようなハタケ違いの場所で書くものではなく、
ある程度おなじ世界観のところで書かれるべきではないか。

だけど、
この作者は、おそらく無意識のなかに、外部との接触を望んだのではないでしょうか。
とタカハシ氏は話す。

つまり作者は、ブランド情報の混乱する渦中で、
弱い立場ながら小説を書くことをあえて選んだ、と。

また
タカハシ氏は、明治40年の朝日新聞をめくり、
やはり同じように
「その小説はどこにあるのですか?」と、そこに載ってるはずの小説を探す。

 彼の友人たちは、その作者に、そんな場所で小説を書くなんて馬鹿げていると忠告しました。
 きみの小説は、文学ならざるものの中に埋没することになるのだ、と。

 だが、結局、その作者は、その場所で書きはじめることを選びました。
 小説というものは、とりたてて小説に興味を持たない、単なる通行人にすぎない読者に向かってこそ書かれるべきだと
 彼は考えたのです。

この彼が誰なのか、ここでは言及されておらず
鈍い私は読了後も分からずにいました。

そして、平成の朝日新聞のある連載を読んで
ふっと気付いたとき
 
 あああ、ああ、そうかー!!

と叫びたくなった。

これは、明治時代に
日本語で文学を行なう価値をその自らの筆致で証明した
夏目漱石先生だったのですから。

活字で表現すること、紙に文字を書きつける、ということの
ちから強さを感じる本。
7人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2010年11月7日に日本でレビュー済み
 哲学では、答えを出すことよりも問題を見つけ出すことの方が大切だと、どこかで読んだことがあった。
 この本でも、著者は文学のいろいろな問題点や主題となる対象を丁寧に分かりやすくほじくり出してくれる。
 時々は著者自身何を言いたいのか分からなくなる時もあるようだ。だが、ここでは著者の言うことに耳を傾けることが、すでに実りとして存在しているように思われる。
 「ゴーストバスターズ」を読んで、面白いところは確かにあるけど、見方によっては福田和也に「恥知らず」と言われるのも仕方ないかなあと思ったりした私だった。
 だがこの高橋さんは、不器用だがまじめに取り組んでいるのではないか。あるいは、あえて稚拙に見える書き方をやった上で、表現を成そうとしているのではないか。
 この本を読むと、文学に対して熱心だと分かるからだ。
 読後、「うわさのベーコン」なども読みたくなる。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年1月15日に日本でレビュー済み
高橋源一郎氏の久々の著作です。

もっとも、小説ではなく評論なので彼のアヴァンギャルドな小説を期待している人には

オススメできないかもしれませんが……。

高橋源一郎の評論のすばらしいトコロは、

<言葉>を使う時に彼独特の言語感覚で細心の注意を払って用いること、

誰かの借り物の考え方のときは正直にその出自を記すところ、

権威づけられた近代文学も流行の小説も同じように取り扱うこと、

そして、評論でありながらどこかリリック(詩的、抒情的)で、

「まるで小説のよう」であることです。

それから、文学評論の中には読み終わると滅入ってしまうものも多い中、

彼の評論は最終的には「希望のある」終わり方になっていることです。

もちろん、それは単なるリップサービスかもしれない、

でも、読み終えたとき快感を感じるかどうかは、評論であれ小説であれ、

けっこう大事なことだと思うのです。

ある程度知識がないと読むのに苦労する本かもしれませんが、

私は★5つけさせていただきました。
21人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年8月24日に日本でレビュー済み
高橋源一郎は、大好きなもの書きの一人だが、小説の出来不出来は(非常に)激しい。『ジョンレノン対火星人』とか、『日本文学盛衰史』なんかは感動的なまでの出来だが、『ゴースト・バスターズ』なんかにはほんとうにがっかりした。

しかし、高橋源一郎本人も認めているように(出所忘れた)、彼は読み手としては抜群に優れている。書評は常におもしろい。

そんな高橋源一郎が、始めて本格的に本腰を入れて小説を論じようとしたのが本書。おもしろくないはずがない。特に、テロと言葉の関係についての第一章はぶるぶるくるね。

ニッポンの小説、百年の歴史が一冊でまとまるはずもなく、本書も取り留めのない終わり方になってはいるが、もちろんこれで終わるはずがないでしょう。

日本語に興味のある全ての人向け。
19人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2012年9月30日に日本でレビュー済み
こんなに突き詰めて考えてれば胃潰瘍にもなりますよ。途中で文体を変えてくれたからよかったけれど、読んでるこちらまで胃潰瘍になりそうだった。

こんなにも言葉や小説のことを考え抜いた人は今までいたんだろうか。いたんだろうけど、それをどこかの誰かに伝えようとした人はいたんだろうか。

考え抜いたその結果絶望的な場所にたどり着いた時に、まだその先を未来を考えようという意志を持ち続けられる人はいるんだろうか。何人くらいいるんだろうか。

そんなことを読みながら、考えた。私自身は、これからも日々、ただ漫然と書物を読んでいくと思うのだけれど、時々高橋さんから刺激を受けたいな。高橋さんはそんなこと思ってないかもしれないけど、高橋さんの文章を読むと希望が沸いてくるんだ。これからも読み続けようという希望が沸いてくるんだ。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2009年5月3日に日本でレビュー済み
 僕がこれまで読んだ著者の文学評論は、良くも悪くも「ポスト・モダン」的であり、どこか正面から「ブンガク」を扱うことに対する照れ臭さや違和感を表現しようとして、もがいているような印象があった。しかし、この本は比較的ストレートに「日本文学」のコアを語ろうと頑張っており、いつもの「源一郎節」が抑えられた結果、明快な読み心地である。

 日本の小説は「女が死ぬ」話ばっかり描いてきたが、常に文学は「死」を扱うことに失敗し続けてきた。でも、そんなことがそもそも可能なのか、という疑問を9.11の記憶を背景に、内田樹のレヴィナス論を引きながら著者は考える。そういった不可能性を隠蔽することが言語表現のコアであるとしたら、そういった「語り得ぬもの」と「言表行為」のズレという問題意識は、実は二葉亭四迷が既に言文一致期から表明していたことである。残念ながら、今の時代では「へたくそな作家」のみが、そのズレを無意識のうちに表しているに過ぎない一方で、批評の不在も深刻で、唯一まともな文学批評は、詩人・荒川洋治によるものだけだったのではないか。。

 以上のように、80年代にポスト・モダン思想をかじったことのある読者にとっては、実は新しいことは何も書かれていないと言える内容ではある。だが、この「目新しさの無さ」は著者に問題があるのではなく、まさしく「ニッポンの小説」の抱える反復の構造そのものなのだ。むしろ、現代の人気作家から二葉亭や漱石、ベネディクト・アンダーソン等を引きつつ、過去百年に「日本の小説」の繰り返してきた「反復」を整理した高橋源一郎のお手並みは見事であると言って良い。そして、それを可能にしたのは、この作家が現代詩の熱心な読者であったことと、失読症の経験にあることが、印象深い。

 
7人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート