どんな形式・内容の小説であっても、読んだ後に「充実感」があればよい。た
とえ後味が悪いものであっても、悲しさだけが残るものであっても、唖然とする
結末であっても構わない。ただ面白くも何ともない小説に付き合わさせられるの
はまっぴらだ。
この「小説」と称する「日記」とも「呪詛」ともとれる駄文、まるで「小説」
の面白さがない。ただひたすらに、仲の悪くなった父親のことをネチネチと愚痴
を言って貶めるだけ。おそらく著者(と書くのも嫌だが)は溜飲を下げるだけの
ために、仏頂面をしたままダラダラと書き連ねているだけなのだろう。
さすが、大学を雇い止めされた、”禁煙ファシズムと闘う会”(だったと思う。
二度とページをめくりたくないので調べていない)なる意味不明の会に参加して
いるだけある。喫煙自体を否定する気はないが、どうせ手前勝手の会だろう。自
分は煙が好きで、他人もそうなれと願う会を麗々しく持ち出す神経には呆れる。
最初から最後まで父親への悪口のオンパレードで、ベタベタとした粘着質の文
章が続くだけの「驚くべき小説」。観念が奔逸するままに過去の思い出(もちろ
ん悪い思い出)を書いたり、他人のことに触れたりするが、それ以外の内容が全
くないのが驚き。とげとげした描写のみを強調した「小説」。
味わいは最低で、後味は「えぐみ」だけが舌の上に残る。読んで(最後は適当
につまみ読み。これで充分)、その後何を食べても(読んでも)、悪臭が漂い口か
ら悪いものを吐き出したくなる。「小説」として「つまらない」にも値しない。「つ
まらない」のは一応内容があるのだが、これは全く内容がない。
この手の「私小説」は一体どのような読者を対象として、作者はどのような思
いで作ったのだろう。「ショッキングなこと」が「真実を表現したこと」である
と思い違いしたのだろう。
悪臭紛々たる作者の嘔吐物を嗅がされた気分になる。
Amazonでふと目にとまり、古本を頼んだが見事に失敗。これほど酷い本はし
ばらくぶりだった。
他の方のレビューで「作者が学者でなかったら」というものがあった。同感で
あり、無名の人の作ならばまず出版などされない。「同人誌的」出版でも失敗し
ただろう。学者としてはどうなのか(興味がないので)どうでもいいが、「作者」
としては四流、五流。三流にも値しない。
購入する意味など全くない。どうしても読みたければ、図書館で借りて読むが
いいだろう。お金はいいので、時間をかえして欲しい。切に思う。
☆?。これに☆を与えることなど到底できない。
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ヌエのいた家 単行本 – 2015/5/29
小谷野 敦
(著)
父は惨めに死にゆく。息子はそれでも許そうとはしない
主人公はどこか箍がはずれた性格の元職人の父親を憎み軽蔑する。父は惨めに死にゆくのだった。その憎しみの元を回想の中に探っていくと、父の姿には愛すべきところもあった。人間の負の部分を徹底した筆致で描いて、複雑な感動を呼ぶ私小説の傑作。
主人公はどこか箍がはずれた性格の元職人の父親を憎み軽蔑する。父は惨めに死にゆくのだった。その憎しみの元を回想の中に探っていくと、父の姿には愛すべきところもあった。人間の負の部分を徹底した筆致で描いて、複雑な感動を呼ぶ私小説の傑作。
- 本の長さ124ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2015/5/29
- ISBN-104163902333
- ISBN-13978-4163902333
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2015/5/29)
- 発売日 : 2015/5/29
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 124ページ
- ISBN-10 : 4163902333
- ISBN-13 : 978-4163902333
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,304,739位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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作家、比較文学者。1962年茨城県生まれ、埼玉県育ち。海城高校卒、東大文学部英文科卒、同大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了、学術博士。大阪大学言語文化部講師、助教授(英語)、国際日本文化研究センター客員助教授、現在は文筆家。博士論文は『<男の恋>の文学史』、1999年『もてない男』がベストセラーに。2002年『聖母のいない国』でサントリー学芸賞。2011年『母子寮前』で芥川賞候補、2014年「ヌエのいた家」で同。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年8月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
変な話だが、著者が立派すぎて、凡人たる私にはついていけなかった。立派、というのは、皮肉ではない。ぶれなさ、迷いのなさ、である。ふつうは父親の介護を全く放棄するということに、多少の迷いとか、世間体に対する用心とかに惑わされるものだが、著者はその点でまっすぐだ。自我がしっかりしているという点で、まるで志賀直哉みたいだと私は感じたのだが…
もっとも、言い訳みたいに心のブレをくどくど書かれても退屈なだけだから、これでいいんだろう。どうせ現代ではたいていの家はいろいろな事情で親を施設に預けっぱなしにするしかない。嫌いだから面倒を見る気がないというのは、いっそすがすがしい
ただ、嫌いだから顔を合わせたくもないというのは一生活人としては理解するが、だから作品の中でもろくに追及せず、父親のどこがどう悪いのかについて納得行く説明がないのは、小説家としてはどうなんだろう。一応前作も読んでいるが、私にはよくわからなかった。父親の像をはっきり浮き上がらせる気がないなら、書かなくてもよい小説としか思えない。だって、介護なんて嫌だから施設に丸投げした、そしたら都合よく死んでくれた、というだけの話でしょ? そこに悩みとかないとしたら、いったい何なのだ、と言いたくなる
読みやすさが面白さの結構重要な要素であることを示してくれている点、あえてアンチテーゼの道を選んでいる点(私小説へのこだわり、また、暴露型の私小説は著者が本当はインテリであることをどこかでそうでないかのように紛らわせているが、進んでインテリぽく書いている)は、評価したい
もっとも、言い訳みたいに心のブレをくどくど書かれても退屈なだけだから、これでいいんだろう。どうせ現代ではたいていの家はいろいろな事情で親を施設に預けっぱなしにするしかない。嫌いだから面倒を見る気がないというのは、いっそすがすがしい
ただ、嫌いだから顔を合わせたくもないというのは一生活人としては理解するが、だから作品の中でもろくに追及せず、父親のどこがどう悪いのかについて納得行く説明がないのは、小説家としてはどうなんだろう。一応前作も読んでいるが、私にはよくわからなかった。父親の像をはっきり浮き上がらせる気がないなら、書かなくてもよい小説としか思えない。だって、介護なんて嫌だから施設に丸投げした、そしたら都合よく死んでくれた、というだけの話でしょ? そこに悩みとかないとしたら、いったい何なのだ、と言いたくなる
読みやすさが面白さの結構重要な要素であることを示してくれている点、あえてアンチテーゼの道を選んでいる点(私小説へのこだわり、また、暴露型の私小説は著者が本当はインテリであることをどこかでそうでないかのように紛らわせているが、進んでインテリぽく書いている)は、評価したい
2017年6月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
近著「芥川賞の偏差値」で、受賞作より優れている自信があるかのようなことを書いていたので興味を持ったが、候補になったのも謎に思うほどつまらない。内容に深みもなければ文章の面白さも美しさも皆無。エッセイでは滑稽でかわいらしくすら思えたルサンチマンがひたすらうっとうしいだけ。この著者は小説はダメだな。
2015年8月26日に日本でレビュー済み
小谷野敦の著作を評しようとすると、「止めておいた方がいいですよ」 と言われるそうだ(『文學界』2015年6月号)。
確かに、「母子寮前」における、芥川賞選考委員に向けたツイートは凄まじいが、小谷野流の黒いユーモアも交えたものと受け取りたい。
宮本輝が「これは小説なのか、看病記録なのか」と書いているが、小谷野自身が実名で登場し、日付が明確だから?
日記でも手記でもかまわないだろう。日記文学、手記文学は昔からあり、それを踏まえたとも思えないが、息も絶え絶えな純文学における私小説の実験的意欲作と捉えられないか。
宮本は、「小説はこうあるべきだ」という意識が強過ぎる気がする。
保守的で頑固なスタンスも、様々なものがなし崩しになってゆく今、必要ではあるが、売れなければならない縛りがあるような大衆小説、市民的な作品とは別に、純文こそ様々な絶望的実験を広く深く、あるいは意識的にやるべきだろう。
しかし、輝ちゃんの助言を素直に受けたとも推測できないが、本作は、父親に焦点を絞り、「母子寮前」の続編なのに、「私」は、「小谷野敦」ではなく、「悲望」「童貞放浪記」の頃の非実名に戻し、「藤井淳」と、なっている。石川ひとみ等、俗っぽい(わざと?)固有名詞は、相変わらず、頻繁に出してはいるが。
そして、小説全体が、父への苛烈な表現とは逆に、うっすらと丸みを帯び、読み易くなっている。
これは、これで、全然悪くない。やはり、年寄り(輝ちゃん、御免!)の言うことには、何かしらあり、耳を傾けるべきという例かも。
本作について、島田雅彦が、「父とは違うとの思い込みに対する批評が欠落」と指摘した。
うーん、小谷野は父親と自分を全く違うと思っているだろうか。
一つ例を挙げれば、P77、城山三郎著『黄金の日々』について、「あらすじみたいな小説」と指摘する勘の良さは、自らの血筋の繋がり、同一化、ある種の誇りだと取れないか。連綿たる父への罵詈雑言記述の中で、ちょっと清々しいオアシスのような効果となっている。
つまり、藤井淳→江藤淳。
傑作『江藤淳と大江健三郎』において、コンプレックスから何かと出自を自慢する江藤を辛口に評しているようにしながら、それは誰にでもありがち、陥りがちなことで、自らもそうだというメタファーであり、自己対象化=批評化がなされているという証ではないか。
小谷野は批判する対象の中に、しばしば自らと同じ資質を感じ取っていると推察できるふしがある。
ただ、照れや仕掛けかもしれぬ廻りくどさがあるために、婉曲的過ぎる表現になったり、必要以上に過激な言い回しを、わざと行ったりしていると思う。
「母子寮前」にも出てくる、法要時における、父の「あけましておめでとうございます」というエピソード、何度電話しても出なかった父から突然「オラ生きてるよー」とかかってきたエピソードなど、小谷野が老いて壊れて行く父に愛着を持ち、故に、二度目の妻と親しみを籠めて笑いモノにしている描写に着目を。
何故なら、長年確執があり、認知症が緩慢に進む我が母も、年々、漫画かアニメのキャラクターみたいになってきたからだ。
熱心に読んだらしい、大江の自虐を含む卓越したユーモア・センスから学んだことを、活かそうとしているふしが窺える。
文芸に興味がありつつ、ロレックスの技術職を長年勤め、一家を支えてきた父への崇敬は、タクシー内の会話場面の数行で、痛いほど伝わってくる。
私小説風でありながら、本作の父は、大江の『ピンチランナー調書』(作品は評価していないようだが)において、極端に戯画化された荒れ狂う「妻」ではないか?
疲弊した妻を、金正日の真似で迎える場面など、黒く笑えない、しかし、本人にとっては説明付きながらも、勇気を振り絞ったユーモアなのだろう。
母の手帳に触れる、ラストが印象的。
小谷野は、「母子寮前」もそうだが、ラストの抛り出し方が、さりげなく巧みだ。
「淳が不幸なら、それはわたしのせい(以下略)」。
小谷野は、それに気づいている。
母親は息子の交通事故のきっかけを作ったという負い目がある。
故に、「お兄ちゃま」と呼んだりするのだろう。
しかし、昭和30年代~40年代の高度成長期、学歴のない夫婦が営む家族が少しでも世間と足並みを揃えたいという想いは切な過ぎるほど伝わってくる。
多かれ少なかれ、あの当時は、ほとんどの家庭が、そんなものだったと記憶する。
そして、小谷野は母を愛する以上に、しこりもあるはずだし、父の暴言と暴力は、脳梗塞の前兆及び、その後遺症でもあるということを知っているはずだ。
我が父親も50歳で、脳血栓で倒れる前後、別人のように同居していた祖父母に当たり散らし、母を殴っていた。
次、否、近い将来の小説は、母への糾弾へと及ぶと、不確かな予言をしておこうっと。
確かに、「母子寮前」における、芥川賞選考委員に向けたツイートは凄まじいが、小谷野流の黒いユーモアも交えたものと受け取りたい。
宮本輝が「これは小説なのか、看病記録なのか」と書いているが、小谷野自身が実名で登場し、日付が明確だから?
日記でも手記でもかまわないだろう。日記文学、手記文学は昔からあり、それを踏まえたとも思えないが、息も絶え絶えな純文学における私小説の実験的意欲作と捉えられないか。
宮本は、「小説はこうあるべきだ」という意識が強過ぎる気がする。
保守的で頑固なスタンスも、様々なものがなし崩しになってゆく今、必要ではあるが、売れなければならない縛りがあるような大衆小説、市民的な作品とは別に、純文こそ様々な絶望的実験を広く深く、あるいは意識的にやるべきだろう。
しかし、輝ちゃんの助言を素直に受けたとも推測できないが、本作は、父親に焦点を絞り、「母子寮前」の続編なのに、「私」は、「小谷野敦」ではなく、「悲望」「童貞放浪記」の頃の非実名に戻し、「藤井淳」と、なっている。石川ひとみ等、俗っぽい(わざと?)固有名詞は、相変わらず、頻繁に出してはいるが。
そして、小説全体が、父への苛烈な表現とは逆に、うっすらと丸みを帯び、読み易くなっている。
これは、これで、全然悪くない。やはり、年寄り(輝ちゃん、御免!)の言うことには、何かしらあり、耳を傾けるべきという例かも。
本作について、島田雅彦が、「父とは違うとの思い込みに対する批評が欠落」と指摘した。
うーん、小谷野は父親と自分を全く違うと思っているだろうか。
一つ例を挙げれば、P77、城山三郎著『黄金の日々』について、「あらすじみたいな小説」と指摘する勘の良さは、自らの血筋の繋がり、同一化、ある種の誇りだと取れないか。連綿たる父への罵詈雑言記述の中で、ちょっと清々しいオアシスのような効果となっている。
つまり、藤井淳→江藤淳。
傑作『江藤淳と大江健三郎』において、コンプレックスから何かと出自を自慢する江藤を辛口に評しているようにしながら、それは誰にでもありがち、陥りがちなことで、自らもそうだというメタファーであり、自己対象化=批評化がなされているという証ではないか。
小谷野は批判する対象の中に、しばしば自らと同じ資質を感じ取っていると推察できるふしがある。
ただ、照れや仕掛けかもしれぬ廻りくどさがあるために、婉曲的過ぎる表現になったり、必要以上に過激な言い回しを、わざと行ったりしていると思う。
「母子寮前」にも出てくる、法要時における、父の「あけましておめでとうございます」というエピソード、何度電話しても出なかった父から突然「オラ生きてるよー」とかかってきたエピソードなど、小谷野が老いて壊れて行く父に愛着を持ち、故に、二度目の妻と親しみを籠めて笑いモノにしている描写に着目を。
何故なら、長年確執があり、認知症が緩慢に進む我が母も、年々、漫画かアニメのキャラクターみたいになってきたからだ。
熱心に読んだらしい、大江の自虐を含む卓越したユーモア・センスから学んだことを、活かそうとしているふしが窺える。
文芸に興味がありつつ、ロレックスの技術職を長年勤め、一家を支えてきた父への崇敬は、タクシー内の会話場面の数行で、痛いほど伝わってくる。
私小説風でありながら、本作の父は、大江の『ピンチランナー調書』(作品は評価していないようだが)において、極端に戯画化された荒れ狂う「妻」ではないか?
疲弊した妻を、金正日の真似で迎える場面など、黒く笑えない、しかし、本人にとっては説明付きながらも、勇気を振り絞ったユーモアなのだろう。
母の手帳に触れる、ラストが印象的。
小谷野は、「母子寮前」もそうだが、ラストの抛り出し方が、さりげなく巧みだ。
「淳が不幸なら、それはわたしのせい(以下略)」。
小谷野は、それに気づいている。
母親は息子の交通事故のきっかけを作ったという負い目がある。
故に、「お兄ちゃま」と呼んだりするのだろう。
しかし、昭和30年代~40年代の高度成長期、学歴のない夫婦が営む家族が少しでも世間と足並みを揃えたいという想いは切な過ぎるほど伝わってくる。
多かれ少なかれ、あの当時は、ほとんどの家庭が、そんなものだったと記憶する。
そして、小谷野は母を愛する以上に、しこりもあるはずだし、父の暴言と暴力は、脳梗塞の前兆及び、その後遺症でもあるということを知っているはずだ。
我が父親も50歳で、脳血栓で倒れる前後、別人のように同居していた祖父母に当たり散らし、母を殴っていた。
次、否、近い将来の小説は、母への糾弾へと及ぶと、不確かな予言をしておこうっと。
2015年6月4日に日本でレビュー済み
著者の芥川賞候補作。みごと落選。(笑) ヌエとは死んだ父親のことで、この小説は主人公である「私」の半生を描きつつ父親との関わりを綴っている私小説である。「私」の小学中学高校からまた中学の頃の話になったり大学の話から小学の頃の話になったり時系列が順番になっていない、回想は思い出したまま書いているのだろうか。二歳で言葉をしゃべった頭のいい自分を確りと書き、自動車教習所の仮免の学科試験に一度落ち、本試験に二度落ちた、ともいう。
全体的にヌエに対して、糞尿まみれになって死ねー死ねー、苦しんで死ねー、という呪詛で満たされている。原因は、病気の母への「死んじまえ」という暴言だというのだが……、文中に介護用語がよく出てくるが、誤嚥はいいにしても胃瘻の説明は欲しかったろう。
個人的には、著者だけが哄笑し父親への怨念で終わったおもしろくない小説であるが、ヌエを権力者とし読むとこの小説は反権力小説、ヌエを天皇に置き換えることで不敬罪小説として読めるようになっている。三島由紀夫の金閣寺を絶対美又は天皇と解釈しての優れた評論文もあるなか、この小説も評論家や読み方によっては傑作になるかもしれないという感じである。チト褒め過ぎか……、(笑)
■追記
レビューは連載誌からのものなのですが単行本では加筆しているようで、哄笑で終わるオチが母の発言をオチに加筆しています。しかし、これだと父の死に哄笑する息子の不敬的不気味な笑みの余韻が母の責任に転化されて中和し、個人的にはおもしろくなくなっています。また「自動車教習所の仮免の学科試験に一度落ち、本試験に二度落ちた」なんかも東大に入学した頭の良さと自動車教習所の試験には数回落ちたというバカさのギャップがおもしろいのですがこれも削除されているのなら、蛇足の改稿と言わざるを得ません。阿部公彦は不満だったラストが単行本では「修正されてよくなった」と言うのだがどうよくなったのかは書いてないし、修正によって私の言う不敬的不気味さが薄れたという意味なら、評論家や読み方によっては傑作という私の評価要素も薄れているということになります。
全体的にヌエに対して、糞尿まみれになって死ねー死ねー、苦しんで死ねー、という呪詛で満たされている。原因は、病気の母への「死んじまえ」という暴言だというのだが……、文中に介護用語がよく出てくるが、誤嚥はいいにしても胃瘻の説明は欲しかったろう。
個人的には、著者だけが哄笑し父親への怨念で終わったおもしろくない小説であるが、ヌエを権力者とし読むとこの小説は反権力小説、ヌエを天皇に置き換えることで不敬罪小説として読めるようになっている。三島由紀夫の金閣寺を絶対美又は天皇と解釈しての優れた評論文もあるなか、この小説も評論家や読み方によっては傑作になるかもしれないという感じである。チト褒め過ぎか……、(笑)
■追記
レビューは連載誌からのものなのですが単行本では加筆しているようで、哄笑で終わるオチが母の発言をオチに加筆しています。しかし、これだと父の死に哄笑する息子の不敬的不気味な笑みの余韻が母の責任に転化されて中和し、個人的にはおもしろくなくなっています。また「自動車教習所の仮免の学科試験に一度落ち、本試験に二度落ちた」なんかも東大に入学した頭の良さと自動車教習所の試験には数回落ちたというバカさのギャップがおもしろいのですがこれも削除されているのなら、蛇足の改稿と言わざるを得ません。阿部公彦は不満だったラストが単行本では「修正されてよくなった」と言うのだがどうよくなったのかは書いてないし、修正によって私の言う不敬的不気味さが薄れたという意味なら、評論家や読み方によっては傑作という私の評価要素も薄れているということになります。
2016年3月30日に日本でレビュー済み
主に純文学方面の小説をぶった切っていたので、楽しみにしていたのだが、残念。過度に期待してしまったのかもしれない。
率直に申し上げて、自費出版に毛が生えたレベルであろう。中年男性が退職後に著しそうな類で、誤字脱字なく一応読みやすいのはバックについた大手出版社の編集者の力量であろう。
読みやすくはあったが、面白みはほとんどなかった。学者としての経歴がなければ、世には出られなかったかもしれない。
私小説の伝統に拠っているのだろうが、面白みが少なければ意味はなさず、単につまらない伝統を一般にひろめているにすぎないのでは。
文学の知識を多々持っていても、実作はなかなか難しいのだろう。
率直に申し上げて、自費出版に毛が生えたレベルであろう。中年男性が退職後に著しそうな類で、誤字脱字なく一応読みやすいのはバックについた大手出版社の編集者の力量であろう。
読みやすくはあったが、面白みはほとんどなかった。学者としての経歴がなければ、世には出られなかったかもしれない。
私小説の伝統に拠っているのだろうが、面白みが少なければ意味はなさず、単につまらない伝統を一般にひろめているにすぎないのでは。
文学の知識を多々持っていても、実作はなかなか難しいのだろう。