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黄門さまと犬公方 (文春新書 10) 新書 – 1998/10/1
- 本の長さ254ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日1998/10/1
- ISBN-104166600109
- ISBN-13978-4166600106
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商品の説明
メディア掲載レビューほか
歴史好きの人に西暦1600年に何があったかと聞けば、たちどころに関ヶ原の合戦と答えるだろう。それでは1700年は、と聞かれたら何と答えるか。
答えは、国民的人気者、水戸黄門の没年である。
西暦1700年は元禄13年にあたる。5代将軍徳川綱吉の治世。綱吉は約30年間将軍職に在位したが、元禄はそのまんなかの17年間だけであるのに、元禄というとなぜか綱吉の在位の間すべてのような気がする。和服の元禄袖に名を残し福田元首相の「昭和元禄」の評言でうわついた時代の代表というイメージになった元禄時代であるが、貝原益軒、井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉、菱川師信、初代坂田藤十郎、竹本義太夫などの名を思い浮かべるだけで絢爛たる文化が花開いた時代であることがわかる。
本書はそんな時代のリーダーとして生きた水戸光圀と徳川綱吉の2人、つまり当代に至る人気者水戸黄門と、生類憐れみの令で奇矯な将軍として名を残してしまった犬公方綱吉について、一般に持たれている通念が正しいかどうかの検証を試みたものである。
「三百年の時空を超えた歴史ミステリー」と宣伝文にある。確かに正しい黄門像、綱吉像を探索するものであるが、ミステリーと言って片付けてしまうのは、著者の地道な努力に対して失礼ではないかと思ってしまうほど、丹念に史料が読みこまれている。手法はあくまで正攻法である。
しかも、とかく小難しくなりがちな話の内容だが、古文書はすべて読みやすい現代文に訳し、所論は軽妙な筆の運びによって、全体を肩が凝らない気楽な読み物にしている。
ミステリーと称している書物の中身を語ってしまうのは野暮であるからやめておくが、私にとって残念なのは、元禄という時代なのに、黄門様以上のスーパースター「忠臣蔵」に触れられていないことである。
儒学に熱中していた綱吉が、なぜ赤穂浪士を死罪にしたのか。儒教的人治の世界では、忠義のための義挙としておとがめなしにすませそうなのに、なぜ断固たる法治主義的処分としたのか。著者の卓越した見解を聞きたかった。
これまた新刊書である湯川裕光の『瑶泉院』(新潮社)――これもなかなか面白い――によると、綱吉は面倒くさくなって柳沢吉保にまかせ、吉保は荻生徂徠の意見書に従って処分したとなっている。
「仁心の涵養」に心を砕いた綱吉が、どうして赤穂浪士の義挙についての判断を面倒くさがったのか。たまたま、この2冊を続けて読んだので、なんだか腑に落ちないままでいる。
(国民金融公庫総裁 尾崎 護)
(日経ビジネス1999/1/4号 Copyright©日経BP社.All rights reserved.)
-- 日経ビジネス
登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (1998/10/1)
- 発売日 : 1998/10/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 254ページ
- ISBN-10 : 4166600109
- ISBN-13 : 978-4166600106
- Amazon 売れ筋ランキング: - 310,677位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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個人情報的なものの混入はふさわしく無いと思う
水戸徳川家初代・徳川頼房が、長男・松平頼重(幼名・竹丸)の誕生を認知しなかったのは、尾張、紀伊、両徳川家の兄貴たち2人に男子がいないのに遠慮したからだって?
まさかね。
このような論旨のベースとなる資料、『水戸紀年(水戸徳川家の系図)』の存在をスッポかしておいて、何が歴史学者だってのさ。
基本資料も確かめず、ぐだぐだと、よく書くね。
恥ずかしくないのかね。
頼房の長男・頼重と、三男「黄門さま」こと徳川光圀(幼名・長丸)のあいだには、公式にも他に1男4女がいたって事実をどう説明するつもりなのかい?
5人も子供を作っておいて「遠慮した」もあるもんじゃない。著者は、つまり、光圀たち水戸家の系図すら確認せず、想像で書き立てたってことじゃないか。
江戸時代は一夫多妻制の社会なんで、お大名は正妻側室とりまぜて配偶者が何人いたって構わないんだけど、でも、配偶者でない、なさぬなかの女性(乳母の娘に手を出した)を押倒したんじゃ、やっぱり不味いんだよな。女性を妊娠させておいて(扶養)家族に迎えるでもなし、頼房くんはズルを決込んで、お惚けに出たというわけさ。それが長男の頼重。
ところが三男・光圀誕生のときは、頼房の養母・英勝院(徳川家康夫人の1人=実子がなかったので頼房を養子分にした)が、せがれの横着を見るに見かねて必要な手続きをとったんで、頼房の男子として光圀が公式に認知されることになった。のち、別の女性(側室・佐々木氏=頼房は生涯、正妻を持たなかったので実質的に正妻同然だった)に産ませた次男「亀丸」が夭折し、三男・光圀が世子に繰上がることになったんだけど、そのときはまだ長男・頼重の存在を公儀に届けていなかったので、それで光圀が水戸家を継ぐ立場になったと、そういうわけだね。
著者の想像するところなど、系図1枚で、まるでアサッテのまと外れと解ること。
それでも一丁前に研究者づらするつもりかね。
好い度胸しているんじゃないの。
「犬公方」こと5代将軍綱吉の相続にしたって、有栖川宮云々なんていう法螺話を真に受けるようじゃ話にならない。甲府宰相綱豊(のちの6代将軍家宣)19歳、館林宰相綱吉35歳と、2人も候補適格者がいるのに、また何で宮様なんぞ頼みにしなければならないのかね? よし、権臣が宮様を将軍に戴こうとしたって、御三家はじめ周りが誰も承知しないよ。
そんなの、幕府が一度断絶した有栖川宮家(元は高松宮家)を再興してくれた御礼に幸仁親王が、たまたま江戸に来ていたのに託けた稗史小説(『三王外記』)。
いくらなんでも常識を欠きすぎるよ。
このケースで問題になったのは、綱豊と綱吉、どっちを次代の将軍に推すかだった。
もしも、輩行(世代)の交代を優先する儒教式(中国式)相続法を選ぶなら、4代将軍・家綱と同輩行の綱吉ではなく、次世代にあたる甥の綱豊のほうが後継者となるのが順序(11代将軍・家斉のケースがこれにあたる)。だが、日本では兄弟相続の例も多く、徳川家には長子相続という決まり以外、定まった相続ルールがなかったので、綱豊と綱吉、両者に資格の優劣が付けられず、将軍継嗣として衆目の一致する徳川家後継者が中々決められなかったと言うのが本当のところ。
たぶん、死期の迫った家綱自身の指名によったんだろう。
弟の綱吉のほうが年長で、若い甥の綱豊を将軍に据えたんじゃ、まったく綱吉にはチャンスがなくなるしするので、中継ぎ的な意味合いで綱吉のほうを先に将軍にすると。
将軍となった綱吉が、息子「徳松(館林徳川家を継ぐことになっていた)」を江戸城に入れたとき、光圀が「裏切られた」と口走ったのも、綱吉は「中継ぎ将軍」にすぎないと見られていた証し。
5代将軍徳川綱吉の治世の傾向をみると、自分が将軍家を継いだ正当性に、つねに疑問符が付けられ、中継ぎと見られていることへのインフェリオリティー・コンプレックスが看て取れると言って間違いない。
とてものことじゃないが、本書の著者さん、日本の歴史について素養のレベルが低すぎて研究者なんかに向くとは思えないな。ま、悪いことは言わない。大怪我するまえに(もう大怪我している?)、さっさと歴史家なんて稼業は辞めるに如くはないよと、お薦めしたいと思うね。
■追注.)11代将軍を選ぶとき、有力視されていた松平定信の将軍家相続を、老中・田沼意次が一橋家と組んで邪魔したので将軍になりそこなったというのが、巷間、流布している俗説。
だか、もともと定信には、その可能性がなかったというのが真実。
なぜなら、10代将軍・家治の世子・家基18歳が亡くなったとき、田安家には定信の兄たち二人も含め、亡くなった家基と同輩行の男子が一人もいなかったということが田安家に将軍継嗣が行かなかった理由だからだ。もしも、俗説のとおりだとすると、なぜ、親父の一橋治済(家治、定信の従兄弟)でなく、息子の家斉のほうが、将軍家世子に選ばれたのか? 説明がつかないでしょ。
江戸時代も、この時代くらいになると、もう日本でも儒学の理解が深化して、家名の相続にあたっては、中国式に輩行の交代のほうを、より重視するようになっていたのが本当の理由(徳川氏系図ご参照)。しかし、歴史家でも近世史を専門とするなら、そんなのは、ごく初歩的な常識じゃないかなぁ。
この本は歴史学者の方が、物語のおもしろさを、という編集者の側からの注文を踏まえつつ書いた本です。ですから、歴史学者の書く論文や本の文章に慣れている方には、少々イかれた書き方のようにも感じるでしょう。また、歴史小説や歴史小説家の文章に慣れている人には、いちいち「証拠はない」とか書かなくていいから、という感じを受けるとは思います。
しかし、この「学問」と「物語」の間を揺れ動く書き方、そして、著者独特の言い回しにはまる人は、少なくないんじゃないかと僕は思います。
独特の言い回しをいくつかあげると、「ウソツキ!!黄門さまのウソツキ!!」「もはや妄説として、ゴミ箱行きにして良かろう。」
これらの言葉が具体的にどんな文脈で使われていたかは、読んでからのお楽しみ。