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翻訳夜話 (文春新書 129) 新書 – 2000/10/20
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- ISBN-104166601296
- ISBN-13978-4166601295
- 出版社文藝春秋
- 発売日2000/10/20
- 言語日本語
- 本の長さ264ページ
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商品の説明
商品説明
柴田が書いたあとがきに、「翻訳の神様から見れば、我々はすべてアマチュアなのだ」とあるように、両者の回答は、体系化された技術・翻訳論議に向かうのではなく、翻訳を行う際の、動機や心構えを説明することに費やされている。例えば「大事なのは偏見のある愛情」(村上)とか、「ひたすら主人の声に耳を澄ます」(柴田)とか、あるいは「(翻訳することによって、原文の世界に)主体的に参加したい」(村上)といった具合だ。
途中に、「海彦山彦」と題したカーヴァーとオースターの同一の小品(巻末に原文がある)の競訳が掲載されており、プロ翻訳家たちとの最後のフォーラムでは、これを巡った質疑が展開する。文脈や文体のうねりといった、一般論では語り尽くせない領域で具体的な論議が進行するこの部分からは、競訳ゲームのおもしろさという以上に、テキストと翻訳家との間で生じる本質的なスリルが伝わってきて、非常におもしろい。劇的な魅力たっぷりの、本書の白眉と言っていいだろう。(玉川達哉)
登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2000/10/20)
- 発売日 : 2000/10/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 264ページ
- ISBN-10 : 4166601296
- ISBN-13 : 978-4166601295
- Amazon 売れ筋ランキング: - 44,552位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
1949(昭和24)年、京都府生れ。早稲田大学文学部卒業。
1979年、『風の歌を聴け』でデビュー、群像新人文学賞受賞。主著に『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞受賞)、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『ノルウェイの森』、『アンダーグラウンド』、『スプートニクの恋人』、『神の子どもたちはみな踊る』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』など。『レイモンド・カーヴァー全集』、『心臓を貫かれて』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『ロング・グッドバイ』など訳書も多数。
1954年生まれ。大学教師、翻訳家 (「BOOK著者紹介情報」より:本データは『モンキービジネス 2010』(ISBN-10:4863322828) が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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カーヴァーとオースターの短編のそれぞれの訳も収められていて、ちょとしたお得感もある。
村上柴田翻訳堂を始め、お二人の訳書は割と読んでいるほうだと思う。
なので、違和感のようなものはなく、なるほどねー、やっぱりねー、という感じで読み進める。
当たり前だけど、英文から和文へ置き換える際の姿勢はそれぞれ異なる。
けれど、その小説が好きだ!というのはお二人とも変わらない。
その訳が直訳調と言われる村上さんが文のリズムを重視している、というのが興味深かった。
グルーヴという言葉も。
村上さんにとって翻訳作業は原作者とのセッションのようなものなのかな、と思った。
そう思わせてれくれる、翻訳の苦労がうかがえる本でした。
翻訳について愛していたり興味ある人物だけが登場する本なので楽しく読んだ。
娯楽として翻訳本をよく読むので、翻訳者様方には感謝しかない。
若いころ「映画はだれのものか」とか「古典落語やクラシック音楽は演者のものか」と不思議に思ったことがあった。楽曲はベートーベンでも楽団や指揮者のものではないか、などと悩んだこともあった。考えてみれば、翻訳もその国の言葉やその言葉の使い手や研究者によって感覚的なちがいがあるはずだが微細なのもとして無視していいものかと考え込むのだ。同じ本でも確かに訳者によって微妙にニュアンスはちがう。ここでも村上春樹のカーヴァーと柴田元幸のカーヴァーではかなり印象がちがってくることが分かる。古典落語の「文七元結」でも談志と志ん朝のそれはちがっているし、同じ楽曲でもバーンスタインと小澤征爾やカラヤンではやはり雰囲気も印象もちがうのではないか。
それでもこの本「翻訳夜話」を読んでいると、とにかく翻訳することが好きで文学も好きなんだ、ということは共通しているように思える。
村上)わからないことってあるんですよね、絶対に。柴田さんと僕で一緒に一つのテキストを読んでいて、ぜんぜん何のことかわからないときってありますよね。
柴田)グレイス・ベイリーとか。
村上)いくつかあるよね。それでもう二人でね、ずーっと何時間も考えて、ああでもないこうでもないって・・・
柴田)そんなに考えないですよ(笑)。
村上)うん、考えない。ごめんなさい、五分か十五分くらい(笑)。
柴田)まあもうちょっと長いかも(笑)。そういうのって、ネイティヴスピーカーに聞けばわかるというものでもないしね。
村上)ネイティヴスピーカーに聞いてもほとんどわからない。そういうことがすごく多いんですよね。そういうときどうするか。あのう・・・勘でやっちゃうな(笑)。というかね。ジーッと考えていると勘が研ぎ澄まされてくるし、それでやったものって意外に合っているんですよね。それからさっき、いま質問された方がおっしゃったような、一種のシンクロニシティーみたいなものはね、必ず出てくるんですよね。ジーッと考えているとね、ハッとね、何かが、ヒントが空から降りてくるっていうことがありますよね。
柴田)あります、ありますね。
村上)これはでも、ものすごく真剣に考えないと来ません。
柴田)だんだん宗教めいて来たな(笑)(p75)
と、まあこんな調子だから本当に好きなんだなあということが伝わってくる。村上春樹はこれまでにもいろいろなところで文章のリズムについて語っているけれど、翻訳でも原文のリズムを日本語に移し換えることを意識する、とたいへん興味深いことをいっている。
質問者c)自分の小説を書くときでもそれは一緒なんですか。小説でも、自分の好きな音楽をやっているということと一緒なんですか。
村上)そうですね。書くときはやはり音楽的に書きますね。だから、コンピューターになってすごく楽になった。キーボードでリズムとれるから。(p30)
また、「ビートとうねり」の大切さについて次のようにいう。
質問者k)(・・・略)村上さんの作品のなかには、すごく自分の生き方みたいなのがちゃんとあって、それによって。翻訳も含めてトーンがどこか一貫していて、全部「村上春樹の文章」というような感じがするんですが。
村上)(・・・略)やはりひとりの人間が文章を書いているわけだから、どうしても匂いのようなものはついてしまうんでしょうね。うーん、それはそうかもしれない。しかしそれは、繰り返すようだけど、決して意図的なものではないんです。(略・・・)
柴田)(・・・略)たとえば村上さんの場合、翻訳でもご自分の作品でも、「くぐもった」という言葉が出てくることが非常に多いですね。そういう表面的なレベルで、これはやっぱり村上さんの文章だなと思うことはありますけどね。
村上)そうか、なるほど。それとは逆のケースですが、自分が全く使わない言葉というのはたくさんあるんですよね。(・・・略)たとえば「鑑みて」なんて僕は使ったことないです(笑)。よく使う言葉というのはわかんないけど、使わない言葉というのはたくさんありますね。(p44)
(・・・略)いくら綺麗な言葉を綺麗に並べてみても、ビートとうねりがないと、文章はうまく呼吸しないから、かなり読みづらいです。それで、ビートというのは、意識すれば身につけられるんです。ただ、うねりに関して言えば、これはすごく難しいです。ビートとうねりを一緒につけられるようになれば、もうプロの文章家になれます。ただこのうねりばかりは、身体で覚えるしかないですね。いっぱい文章を書いて、身体で覚えるしかない。(p45)
これらのことをふまえて、村上訳の「収集」(レイモンド・カーヴァ―)と柴田訳の「集める人たち」(レーモンド・カーヴァ―)を読んでみると同じ原文でもかなり雰囲気がちがうし、それはポール・オースターの「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」でも同様にちがった印象をうける。柴田訳の「集める人たち」はすごく良かったし新鮮な気がした。
フォーラム3ではさらに具体的な例を取り上げ原文の読み解きや感覚、また解釈を含めて翻訳のダイナミズムついて具体的な意見が交わされる。とにかく、翻訳することが好きで文学も好きだということは共有されているようでおもしろい。
164ページ「店の雑誌をぱらぱらめくっていた」、165ページ「それらのアルバムをぱらぱらとめくって」(柴田元幸氏訳)。2ページ連続で、「ぱらぱら(と)めくって」と同じ表現が使われるのは少し能がないな。また「それらの」という言葉は「これらの」「あれらの」とならび、現代の翻訳では死語になっているかと思っていました。で、柴田氏はかなりご高齢なのかと思い、御経歴を拝見すると村上春樹氏よりかなり若いんだ。
「ぱらぱら(と)めくって」を、原文ではどう表現しているのか確認してみました。巻末に原文が掲載されていて親切です。初めのはⅷページ looking through a magazine 後のはⅸページ I flipped through the albumとあります。
まず、look through は、look through a book 本をざっと調べる(研究社 新英和中辞典)。 探るように(じろじろ)見る 〔書類など〕を通して(ざっと)読む(研究社 リーダーズ英和辞典) Oxford Advanced Learner’s Dictionary (OALD) によれば look though sth は to examine or read sth quickly. とあります。
一方、 flipp throughは、(本などの)ページをぱらぱらめくる。さっと読む(研究社 新英和中辞典)。パラパラめくる(研究社 リーダーズ英和辞典)。 OALDにはflip through sth は to turn the pages of a book ,etc. quickly and look at them without reading everything. となっています。
とくに、あとの「ぱらぱらめくって」いるのは沢山の写真が貼られているアルバムで、たぶん厚い台紙でできているのでしょうから「ぱらぱらめくって」は、ちょっと軽すぎる表現ではないでしょうか。いくら英和辞典に出ているからといって、それをそのまま使うなんて中学生ではあるまいし、と思います。翻訳の権威の先生なら、もう一工夫あってしかるべきではないでしょうか。
ちなみに村上春樹氏の訳では前が「雑誌をぱらぱらめくっていて」、後のは「そのアルバムのページをめくって」とあります。
と、重箱の隅を突っつきましたが、実は柴田氏ではなく、村上春樹氏の翻訳のことについて言いたかったのです。前から感じていたことを、本書の例によらず、2つ挙げてみます。
例1.
I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods.
For instance, there is a brownstone in the East Seventies where ,during the early years of the war, I had my first New York apartment. It was one room crowded with attic furniture, a sofa and fat chairs upholstered in that itchy, particular red velvet that one associates with hot days on a train. The walls were stucco, and a color rather like tobacco-spit. Everywhere, in the bathroom too, there were prints of Roman ruins freckled brown with age. The single window looked out on a fire escape. Even so, my spirits heightened whenever I felt in my pocket the key to this apartment; with all its gloom, it still was a place of my own, the first, and my books were there, and jars of pencils to sharpen, everything I needed, so I felt, to become the writer I wanted to be. (Truman Capote Breakfast at Tiffany’s 講談社英語文庫)
拙訳
僕はいつも自分が住んでいた場所、家やそのまわりを思い出す。たとえば東70丁目にブラウンストーンがあって、そこは大戦初期、ずっと僕が住んでいたニューヨークで最初のアパートだった。ワンルームで、ひどい家具でいっぱいで、ソファとかぶくぶくした、かゆくなるような変な赤いベルベットの椅子とか、まるで暑い日の電車の中みたいだった。壁はスタッコで、色はまるで噛み煙草の汁みたい。どこにも、バスルームの中にも、時代がかってしみだらけのローマの廃墟の版画がかかっていた。たった一つの窓は避難階段に面していた。そんな部屋でも、僕はポケットのなかの部屋のキーにさわって元気づけられた。そこは僕自身が所有した最初の場所であり、そこに僕の本があり、鉛筆立てには削る鉛筆がある。小説家になりたかった当時の僕にとって、そこには必要なものすべてがあった。
村上春樹訳
以前暮らしていた場所のことを、何かにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたのか、近辺にどんなものがあったか、そんなことを。たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド72丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。戦争が始まってまだ間もない頃だ。一部屋しかなくて、屋根裏からひっぱり出してきたようなほこりくさい家具で足の踏み場もなかった。ソファがひとつに、いくつかのむくむくの椅子、それらはへんてこな色あいの赤いビロード張りで、いやにちくちくして、まるで暑い日に電車に乗っているような気がした。壁はスタッコ塗りで、色あいは噛み煙草の吐き汁そっくりだ。浴室も含めて、いたるところにローマの遺跡を描いた版画がかかっていたが、ずいぶんな時代もので、そこかしこに茶色のしみが浮き出ている。窓はひとつしかなく、それは非常階段に面していた。とはいえ、ポケットに手を入れてそのアパートメントの鍵に触れるたびに、僕の心は浮き立った。たしかにさえない部屋ではあったものの、そこは僕が生まれて初めて手にした自分だけの場所だった。僕の蔵書が置かれ、ひとつかみの鉛筆が鉛筆立ての中で削られるのを待っていた。作家志望の青年が志を遂げるために必要なものはすべてそこに備わっているように、少なくとも僕の目には見えた。 (「ティファニーで朝食を」 新潮文庫)
例2.
Who are they for? (Truman Capote A Christmas Memory TALE BLAZERS)
ケーキはいったい誰のために焼かれたのだろう? 村上春樹訳 (「クリスマスの思い出」「ティファニーで朝食を」新潮文庫 所収)
例1.村上氏の訳と拙訳(僕の英語力は中学生程度です)とを比較してみると、拙訳が8行、村上氏の訳は13行です。僕の訳なんか話にもなりませんが、原文の簡潔な英語表現に比べ、村上氏訳はなんだかなあと思ってしまいます。
ー everything I needed, so I felt, to become the writer I wanted to be.
ー 作家志望の青年が志を遂げるために必要なものはすべてそこに備わっているように、少なくとも僕の目には見えた。
まず、原文を音読して頂ければと思います。訳文には原文の持っているリズム感もなく、かつ冗長に感じます。これが村上調名訳というのかもしれませんが、原文を参照せずに訳文だけを読み、カポーティの文体はこういうのだろうなと、読者が思われるのが残念です。
例2.主人公たちがケーキを作り、知人(ルーズヴェルト大統領にも)に贈るという部分です。原文はたった4つの単語で、勢いよく表現しています。この Who are they for? に対しての答えはたった一語、Friends.です。村上氏の訳は単調かつ説明的で長すぎるように思いますし、応答の言葉も「友人たちのためだ」です。たとえば、「で、誰のため?」「友達」くらいではいけないのでしょうか。僕はこの訳の疑問から、「クリスマスの思い出」を全訳してみた程です。
村上氏の翻訳は、原文の意を読み取り、それを、原文の長さ、リズム、勢いなどはあまり重要視せず、自分なりの表現、言葉に置き換えている作業に思えます。これも1つの翻訳のスタイルでしょうし、異議申し立てはいたしませんが、村上春樹氏の作品の40年来の愛読者が、氏の翻訳は読まないようになってしまったのが残念です。
村上春樹としてよりも、翻訳家の村上春樹と、東大教授で英文学者の
柴田元幸とが小説の翻訳というものについて行った対談であり、なか
なか面白い。
村上の翻訳は、もともとは仕事ではなく趣味として行ったもので
あり、いまでは、翻訳がうまいから、というよりも有名な村上春樹
の翻訳だから、ということで売れているのではないか、と勝手に
思っていたが、自分が好きな作品をえり好みして翻訳しているわけ
で、他の翻訳家とはその点が大きく違うわけだが、そのへんが対談
の中で意見が異なるのが面白い。
この二人が同じ作品を翻訳したものが載っているが、私としては
そういうものにはあまり興味がないけれども、翻訳というものの奥深さ
はよくわかった。
両者への質問に答えながらの対談である点も、臨場感があって
良い。東大教授が役に立つ辞書を紹介している場面もあったが、
ついでも、もうちょっといろいろと勧めてくれたら、今後の英語の勉強
の役に立つのに、と思った。
それぞれの翻訳に対する考え方とか…色々と興味深い内容でした!