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民主主義とは何なのか (文春新書 191) 新書 – 2001/9/20
- ISBN-104166601911
- ISBN-13978-4166601912
- 出版社文藝春秋
- 発売日2001/9/20
- 言語日本語
- 本の長さ230ページ
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商品の説明
商品説明
近代民主主義を語るとき、まず思い浮かべるのは「人権宣言」である。しかし、フランス革命が人権の名のもとに「共同体の伝統的生活」を破壊し、ジェノサイドを行うのを間近に見た当時のヨーロッパ人にとって、デモクラシーは「無気味なもの」であった。その「いかがわしいデモクラシー」を「紛れもなく正当な言葉」に大転換させたのは、第1次世界大戦の戦勝国だった、と著者はいう。
もともと「だれも欲しなかった戦争」を大戦にまで煽り立てたのは、かつてトクヴィルが恐れた「民主主義の大洪水」にほかならない。民衆は戦争の大義に「デモクラシー」を求め、いつしか戦争は「軍国主義ドイツ対民主主義国」に図式化され、そして軍国主義に勝利した民主主義は「おそろしく強引な論法」によって「よい意味を確立」した。その「いかがわしさ」はナチズムの誕生で頂点に達するのだが、著者はこのように民主主義にビルトインされた僭主制の危険性をアテナイの民主政治にさかのぼって説き明かす。
民主主義の根幹である「人権」に対しても、著者の目は容赦ない。「人権」の概念を初めて提示したのは、17世紀イギリスの思想家トマス・ホッブスである。個人が己の「自然権(人権)」を放棄し、人間相互の「安全保障契約」を結ぶプロセスを保証するのが、ホッブスのいう「主権」で、これは「独立宣言」と「人権宣言」が「創造主」ないし「至高の存在」によって与えられたとする「人権」とは正反対のものだった。
ホッブスの主権は2つの宣言を通る過程で闘争的権利に変質する。その結果、現代民主主義社会は「悪玉」を求めて「権利」が増殖する混乱状態に陥ってしまった。ホッブスの思想をこのように倒錯させた張本人はジョン・ロックである。この思考停止状態を抜け出して「国民のための政治」を考える出発点に立つには、ロックのペテンにいち早く気づくことである、と著者は言うのである。(伊藤延司)
登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2001/9/20)
- 発売日 : 2001/9/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 230ページ
- ISBN-10 : 4166601911
- ISBN-13 : 978-4166601912
- Amazon 売れ筋ランキング: - 21,114位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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私達は、戦後教育で「民主主義は良きこと」と小学校から大学に至るまで刷り込まれて来た。しかし、五代において民主主義は如何わしいものであった。いや、それは第一次世界大戦のころまで続いていたのである……。
このようにして、本書は「民主主義」の本質に迫っていく。ぜひもと本書は、民主主義を正しいと考えている人にこそ読んでほしい。
実のところ、私は自由民主主義を正しい政治体制だと考えている。しかし、だからこそ、その出生の由来は知っておくべきに思う。
古代ギリシャの「ポリス」からひも解いていくと、なかなか、一筋縄ではいかない言葉である事がわかる。
その欺瞞性。日本人がごく普通に使っている認識とはかけ離れたものである。
「始めに対立軸ありき」の「議論」を、一度捨て去ってみる事を考えさせられる。
しかし、ようやく脱落を得た。不安定な衝動は、霧が晴れるように失せた。それは戦後、平和憲法によって、金科玉条として批判を許されずに有無を言わさず植え込まれてきた、「平和主義」と「民主主義」のお題目を根底から疑い抜き、それを否定したときである。「仏に会えば仏を殺す」という禅の極意にも通じる、パラドックスな不立文字の世界をこの著作に感ずる。これは単なるニヒリズムではない。むしろ、わが国体への絶対的信頼に基づく心の平安である。
ここ数カ月の夜を日に継ぐ和辻哲郎の「倫理学」、「日本倫理思想史」等への没頭そして総仕上げとしての、「沙門道元」、長谷川三千子教授の「からごころ」、「日本語の哲学へ」、「神やぶれたまわず」と読み進めてきたゴールとして集約した成果である。
これからは、ツァラトゥストラの下山の時が始まり、また、ガザに盲いたサムソンのごとく、頚木を自ら解き放つ時がくるのであろう。
そのような思想を持った著者が民主主義について本書で論じている。彼女によると民主主義とは人間の不和と傲慢の心を煽りたて、人間の理性に目隠しをかけて、ただその欲望と憎しみを原動力とするシステムだとのこと。フランス革命からロックの「市民政府論」をもって民主主義を否定、人権と民意についての否定はやや宗教がかっていた。民主主義を否定した先にそのようなシステムが提示されているかというと、道徳心に頼るあいまいな理想論が展開されている。
民主主義が不完全であることはある程度同意できるものの、その対案が稚拙。独裁、絶対王政、などに流れていくリスクが語られていない。根拠となる論理にロックを出されても、現実感に乏しく、言葉遊びをしているようで響くものがなかった。現実を否定した先に曖昧な夢を語って、人を思い通りに動かそうとする詐欺師を思わせる。安倍首相にはたいそう気に入られているようだが、彼の政治思想が本書のようであるならそら恐ろしいものである。
しかし、最後に「理性」の復権こそが解決するというところでがっかりしてしまった。。
バークが民主主義を評して、「理性しか使わせないシステム」として、人間の「理性」は、神を疑い、すべての慣習を無意味な偏見として投げ捨てさせるための強力な武器として、大いに活躍したのであった、としているが(213p)、私もバークの論に賛同する者です。
長谷川氏は、バークを引用しながらも、「このような理性は本当の意味での理性ではない」(214p)というのですが無理があるでしょう。それを云うなら、民主主義についても「このような民主主義は本当の意味での民主主義ではない」などと云ってしまえそうでそんなことをしていたら
単なる言葉あそびかといわれそうです。それまでの民主主義を歴史的に捉え考えて来た論が無駄になります。
日本語で「理にかなう」「事理自ずからに通ふ」という「理(天地のことわり)」と個人に云う時の「理性」の「理」とをつなげるのには、何か無理を感じます。
私自身は、人間に備わった本能から湧き出る「大和心」や「慈愛」などで先人の残した慣習や叡智によって解決するしかないのではと思っています。そのために歴史を学ぶのであり、これこそが保守と云う考え方であり、極端な失敗を避ける知性智慧なのだと思います。
わが国は、本来そうやって先人に学んで(世界最長に)続いて来た国であると思います。
神武天皇の肇国の詔にあるように。