福澤諭吉の死後、福澤諭吉名での著作が付け加えられ、その付け加えられた著作により死後数十年を経て弾劾されたとしたら、福澤諭吉もさぞあの世で居心地が悪かろう。
本書は、福澤のアジア観と「脱亜論」を正当に位置づけ、福澤のアジア観と「脱亜論」とされたいたものの正体を解明する言わば歴史探偵(学術的に試行的に)としての役割を担った平山洋による理詰めでスリリングな一冊です。
平山は、初出紙誌、福澤存命中やその死後のそれぞれの時代に発行された『全集』とその発行事情を、福澤の書簡等を詳細に読み込み、相互の関連を明らかにする。そして、「無署名論文」が『全集』収載され、福澤真筆とされていく過程を追う。そして人の嫉妬という病理も。
戦後の価値観の転換の中で、既に歴史の人である福澤は一部から偽著作を材料に弾劾を受ける。身に覚えのない言わば「冤罪」である。
福澤諭吉をめぐる歴史探偵物語は、「冤罪」の構造解明と真犯人とその共犯者(意識的・無意識的を問わず)を明らかにする。それは、福澤諭吉の膨大な顕名著作群に紛れ込まされた無署名論文群に正当な評価を下す物語でもある。
平山洋により、推理小説の様なスリルを味わいながら、文系の科学的論証の方法論の提示を受ける一冊となっている。
「福澤諭吉救出作戦」と言ったところか。
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福沢諭吉の真実 (文春新書 394) 新書 – 2004/8/20
平山 洋
(著)
福沢諭吉をアジアを蔑視する侵略主義者に仕立てあげたのは誰か。定評ある全集と伝記に仕掛けられた周到なトリックを完璧に暴く!
- 本の長さ244ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2004/8/20
- ISBN-104166603949
- ISBN-13978-4166603947
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2004/8/20)
- 発売日 : 2004/8/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 244ページ
- ISBN-10 : 4166603949
- ISBN-13 : 978-4166603947
- Amazon 売れ筋ランキング: - 63,151位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 89位日本の思想(一般)関連書籍
- - 108位東洋哲学入門
- - 143位文春新書
- カスタマーレビュー:
著者について
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1961年神奈川県生まれ。1986年慶應義塾大学文学部哲学科卒業。1992年東北大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。1996年ハーバード大学ライシャワー日本学研究所客員研究員。現在静岡県立大学国際関係学部助教
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年12月29日に日本でレビュー済み
ずいぶん前に買ったこの本をようやく読んだが、10年前のものだとは驚いた。福沢諭吉に興味を持っていたこともあり、
タイトルに惹かれて買ったのだが、こんな内容だとは思わなかった。すなわち、「アジア蔑視主義者」の疑いをかけられた
福沢の汚名を、学問的な調査により晴らすというものだ。
読みながら感じたのは、福沢を擁護する姿勢が過剰な余り、石河幹明なる人物が相当な悪者として描かれているとい
うこと。もし、この本が真実でないならば、石河氏こそ、平山氏によって汚名を着せられたことになる。
もっとも、学問的に素人の私には、この本で述べられていることの真偽は判断できぬ故、印象批評にならざるを得ないが、
読後感は「不自然」といったものだった。なぜなら、誠実に研究した結果こうなったというより、初めに福沢諭吉を徹底して守ろう
という先入観があり、それに合わせて資料や読み方を提示していると思われたからだ。
中でも気になったのが、「時事新報」の無署名記事について、平山氏はそのほとんどが石河氏の考えが述べられたも
のという立場を取っているらしいが、だから、福沢は「アジア蔑視主義者」ではないと考えるのは正しいのかということだ。
つまり、署名記事では極端なアジア蔑視的発言をしていない福沢が無署名記事でしているはずがないということについ
て、私はむしろ逆ではないかと思うのだ。すなわち、無署名だから言いたい放題言えるのではないか? 署名すれば世間
体を考え、美しいことしか言えなくなるが、無署名なら本音を吐露できる。また、無署名記事を石河が書いたとしても、石
河を使って、言いたいことを言わせることだってできるわけだし、石河がアジア蔑視的発言をしていることを自己の信念
と違うと感じたとしても、それを使って日本を文明国にできるならそれもいいと判断したのかもしれない。また、そういう福
沢の態度に接していたからこそ、石河はアジア蔑視記事を全集に入れても問題ないと考えたのではないだろうか?
また、平山氏は「楠公権助論」を展開した福沢が天皇賛美などするはずないと述べているが、天皇賛美の記事を書いた
からと言って本当に賛美していることにはならない。天皇を利用して日本が文明国になるのならそれもいいと割り切って、
つまり、実践の必要上そうしたのかもしれない。
このように、何の学問的根拠もない私にとって、書かれた印象の「不自然さ」から自ずと反論が浮かんできてしまった。
ただし、この本によって、福沢の人間臭さを知ることができたのは良かったし、福沢がアジア蔑視主義者かどうかは興味
深いテーマだったので、知ることができて良かった。
タイトルに惹かれて買ったのだが、こんな内容だとは思わなかった。すなわち、「アジア蔑視主義者」の疑いをかけられた
福沢の汚名を、学問的な調査により晴らすというものだ。
読みながら感じたのは、福沢を擁護する姿勢が過剰な余り、石河幹明なる人物が相当な悪者として描かれているとい
うこと。もし、この本が真実でないならば、石河氏こそ、平山氏によって汚名を着せられたことになる。
もっとも、学問的に素人の私には、この本で述べられていることの真偽は判断できぬ故、印象批評にならざるを得ないが、
読後感は「不自然」といったものだった。なぜなら、誠実に研究した結果こうなったというより、初めに福沢諭吉を徹底して守ろう
という先入観があり、それに合わせて資料や読み方を提示していると思われたからだ。
中でも気になったのが、「時事新報」の無署名記事について、平山氏はそのほとんどが石河氏の考えが述べられたも
のという立場を取っているらしいが、だから、福沢は「アジア蔑視主義者」ではないと考えるのは正しいのかということだ。
つまり、署名記事では極端なアジア蔑視的発言をしていない福沢が無署名記事でしているはずがないということについ
て、私はむしろ逆ではないかと思うのだ。すなわち、無署名だから言いたい放題言えるのではないか? 署名すれば世間
体を考え、美しいことしか言えなくなるが、無署名なら本音を吐露できる。また、無署名記事を石河が書いたとしても、石
河を使って、言いたいことを言わせることだってできるわけだし、石河がアジア蔑視的発言をしていることを自己の信念
と違うと感じたとしても、それを使って日本を文明国にできるならそれもいいと判断したのかもしれない。また、そういう福
沢の態度に接していたからこそ、石河はアジア蔑視記事を全集に入れても問題ないと考えたのではないだろうか?
また、平山氏は「楠公権助論」を展開した福沢が天皇賛美などするはずないと述べているが、天皇賛美の記事を書いた
からと言って本当に賛美していることにはならない。天皇を利用して日本が文明国になるのならそれもいいと割り切って、
つまり、実践の必要上そうしたのかもしれない。
このように、何の学問的根拠もない私にとって、書かれた印象の「不自然さ」から自ずと反論が浮かんできてしまった。
ただし、この本によって、福沢の人間臭さを知ることができたのは良かったし、福沢がアジア蔑視主義者かどうかは興味
深いテーマだったので、知ることができて良かった。
2011年6月21日に日本でレビュー済み
この本には、安川寿之輔氏による反論が出ているので、併読なさることをおすすめする。
私個人は、福沢諭吉は興味深い人間と思っているのだが、その諭吉の「真実」と称して、ここまで憶測ばかりを巡らせるのはどうかと思う。安川氏の著書を読めば分かるが、平山氏の依拠した井田メソッドの枠内でも、この本のような諭吉像は描き切れまい。もちろん、井田メソッドそのものが無理が多くて、信用出来る手法ではないから、ますます安川氏の説が説得的である。
私個人は、諭吉が渡米するために木村喜毅の従者になる手法や、慶應義塾の用地を入手するために取った手法に、政治を私する人間の器の小ささを感じている。しかし、こと政治発言では偉大なオポチュニストと思う。しかし、この本ではそれすら失われてしまいかねない諭吉像となる。
対立する価値観の持ち主から、思想的に対決すべき相手として偉大である諭吉像は、残念だが安川氏の著書にこそ見いだされている。
私個人は、福沢諭吉は興味深い人間と思っているのだが、その諭吉の「真実」と称して、ここまで憶測ばかりを巡らせるのはどうかと思う。安川氏の著書を読めば分かるが、平山氏の依拠した井田メソッドの枠内でも、この本のような諭吉像は描き切れまい。もちろん、井田メソッドそのものが無理が多くて、信用出来る手法ではないから、ますます安川氏の説が説得的である。
私個人は、諭吉が渡米するために木村喜毅の従者になる手法や、慶應義塾の用地を入手するために取った手法に、政治を私する人間の器の小ささを感じている。しかし、こと政治発言では偉大なオポチュニストと思う。しかし、この本ではそれすら失われてしまいかねない諭吉像となる。
対立する価値観の持ち主から、思想的に対決すべき相手として偉大である諭吉像は、残念だが安川氏の著書にこそ見いだされている。
2009年8月3日に日本でレビュー済み
これは日本思想史上の大事件です。私は高校の教師で「倫理」や「日本史」を教えることもあるのですが、確かに前から福沢諭吉が「晩年になって彼はアジア侵略を容認する国権主義者へと転じた」という論調で語られるのに辟易し(なぜそんなことが強調されるのか政治的恣意を感じる)、そして彼の思想的不一致に大きな違和感を覚えて授業で紹介する時に苦吟し、「脱亜論」の原文史料にあたったら皆目喧伝されるほどの論旨でもないし、よく分からないけれど何か変だと思ってきたのです。そしてその第六感こそ本来的な感触だったことがついに証明されました。福沢諭吉は終始一貫して市民的自由主義者だったのです。
本書は社会的欺瞞とも福沢の業績に対する冒涜とも取れる、時事新報主筆石河幹明の思想犯罪を実証的に解き明かします。新書の体裁をとりながらその論旨は明快。文献の読み込み、絞り込みも適切で、常に別の可能性も示唆しておきながらそれを反証し論証を重ねていく論の積み重ね方は「これぞアカデミズム」と言わんばかりの見事さで、凡百の新書の規格を超えています。これは立派な学術書です。そして日本思想界の一巨人に対して浴びせられてきた汚名が今後払拭されることでしょう。反論もあるようですが、平山氏は再反論をし、ネットで見るところそれは明白に平山氏に軍配が上がるものです。これが学問的な「強さ」というものです。コピペ病が蔓延する大学の学びの場の現状があるそうですが、本書の在り方は素晴らしい手本になるでしょう。
それにしても石河幹明氏が書いたとおぼしき文章の拙劣で下品な論展開と言ったら、日本人の血を引くものとして恥ずかしい限りです。こんな文章が「時事新報」に載っていたとしたら現在のアジア諸国に糾弾されても当然ですし、それが福沢名義にされていたとしたら現在の彼の汚名は仕方なかったかも知れません。いまだ記憶に新しい石器捏造事件と同様、許されざる学問犯罪として本件は歴史に残ることでしょう。そして本書を嚆矢として、高校教科書「倫理」「日本史」の記述が書き換えられていくことを期待しています。福沢諭吉はこの日本が誇るべき、真に偉大な思想家であったというように。
本書は社会的欺瞞とも福沢の業績に対する冒涜とも取れる、時事新報主筆石河幹明の思想犯罪を実証的に解き明かします。新書の体裁をとりながらその論旨は明快。文献の読み込み、絞り込みも適切で、常に別の可能性も示唆しておきながらそれを反証し論証を重ねていく論の積み重ね方は「これぞアカデミズム」と言わんばかりの見事さで、凡百の新書の規格を超えています。これは立派な学術書です。そして日本思想界の一巨人に対して浴びせられてきた汚名が今後払拭されることでしょう。反論もあるようですが、平山氏は再反論をし、ネットで見るところそれは明白に平山氏に軍配が上がるものです。これが学問的な「強さ」というものです。コピペ病が蔓延する大学の学びの場の現状があるそうですが、本書の在り方は素晴らしい手本になるでしょう。
それにしても石河幹明氏が書いたとおぼしき文章の拙劣で下品な論展開と言ったら、日本人の血を引くものとして恥ずかしい限りです。こんな文章が「時事新報」に載っていたとしたら現在のアジア諸国に糾弾されても当然ですし、それが福沢名義にされていたとしたら現在の彼の汚名は仕方なかったかも知れません。いまだ記憶に新しい石器捏造事件と同様、許されざる学問犯罪として本件は歴史に残ることでしょう。そして本書を嚆矢として、高校教科書「倫理」「日本史」の記述が書き換えられていくことを期待しています。福沢諭吉はこの日本が誇るべき、真に偉大な思想家であったというように。
2005年11月18日に日本でレビュー済み
『福沢諭吉全集』の中に諭吉以外の人物が書いた文章が入っている、という重大な主張が本書の趣旨である。そのことを井田進也氏の研究を踏まえながら論証している。
ところが242頁にあるように、本書は新書にするにあたり総量を約三分の二にし、考証が省かれてしまっているという。これでは一般読者へその主張が受け入れられても、アカデミックの世界への影響は限定されてしまうだろう。また、本書はこの問題の嚆矢の一つということもあり、まだまだ推論が多い。
できることならば学術書として(例えば著者も出版しているミネルヴァ書房などで)、その後の研究も含めて完全版を出して欲しいと思う。
ところが242頁にあるように、本書は新書にするにあたり総量を約三分の二にし、考証が省かれてしまっているという。これでは一般読者へその主張が受け入れられても、アカデミックの世界への影響は限定されてしまうだろう。また、本書はこの問題の嚆矢の一つということもあり、まだまだ推論が多い。
できることならば学術書として(例えば著者も出版しているミネルヴァ書房などで)、その後の研究も含めて完全版を出して欲しいと思う。
2004年12月19日に日本でレビュー済み
私は今まで福沢諭吉のことをあまり詳しくは知りませんでしたが、
それでもなんとなく胡散臭い人だと理解していました。
いわゆる言行一致しない人というイメージでした。
それがこの本を読んで払拭されました。逆に福沢諭吉像が只一人の男に
より歪められていることに怒りを覚えます。
多くの人がこの本を読んで、素晴らしい思想家である福沢諭吉の外郭に
触れることを望みます。
それでもなんとなく胡散臭い人だと理解していました。
いわゆる言行一致しない人というイメージでした。
それがこの本を読んで払拭されました。逆に福沢諭吉像が只一人の男に
より歪められていることに怒りを覚えます。
多くの人がこの本を読んで、素晴らしい思想家である福沢諭吉の外郭に
触れることを望みます。
2010年12月9日に日本でレビュー済み
福沢諭吉が自ら創刊した日刊新聞『時事新報』の論説から、アジアに対する「侵略主義者」であるとの見方がある一方で、諭吉は初期著作時代から一貫して「市民的自由主義者」であったとする見方もある。本書は、『時事新報』の論説が、福沢が執筆したものではなく、主に社員の石河幹明が執筆したものであり、福沢がやはり「市民的自由主義者」だったと主張している。
本書の著者が頼りにした、論説の真贋を判別する手法である「井田メソッド」とともに、著者の主張は、安川寿之輔『福沢諭吉と丸山真男』(2003年)および『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(2006年)により、完璧に否定されている。要するに、福沢は、たとえ自らが執筆しなくても、『時事新報』の論説の内容に絶大な影響を及ぼしており、書簡など客観的な資料からも、論説の主張は間違いなく福沢の主張そのものなのである。
残念ながら本書の主張は予断と推測が多く、「真実」を明らかにしたとはとても思えない。しかし、学問的な論争は歓迎されるべきなので、安川寿之輔らの論考に対して、新しい著書での再反論を期待したい。
本書の著者が頼りにした、論説の真贋を判別する手法である「井田メソッド」とともに、著者の主張は、安川寿之輔『福沢諭吉と丸山真男』(2003年)および『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(2006年)により、完璧に否定されている。要するに、福沢は、たとえ自らが執筆しなくても、『時事新報』の論説の内容に絶大な影響を及ぼしており、書簡など客観的な資料からも、論説の主張は間違いなく福沢の主張そのものなのである。
残念ながら本書の主張は予断と推測が多く、「真実」を明らかにしたとはとても思えない。しかし、学問的な論争は歓迎されるべきなので、安川寿之輔らの論考に対して、新しい著書での再反論を期待したい。
2006年8月17日に日本でレビュー済み
この新書を徹底的に批判している安川寿之助『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』が上梓された。この新書を読了した人は是非とも読むべき本である。
安川はこの新書を、「福沢の思想への内在的考察を怠った、形をかえた新たな福沢諭吉美化論にすぎない」(p.69)と、平山を論駁している。その根拠の一つとして、石川幹明が福沢の思想に忠実であったことを論証しており(p.73-)、非常に興味深い。
また安川は平山批判にとどまらず、古田武彦の「"天は人の上に…"の出典は『東日流外三郡誌』」説を基本的に支持する意向を表明する(p.369)など、福沢研究を発展させている。
この新書の「あとがき」(p.240-)によれば、安川・平山間での論争が発端となり出版されたということである。以上の点につき、平山の再反論を読んでみたい。
安川はこの新書を、「福沢の思想への内在的考察を怠った、形をかえた新たな福沢諭吉美化論にすぎない」(p.69)と、平山を論駁している。その根拠の一つとして、石川幹明が福沢の思想に忠実であったことを論証しており(p.73-)、非常に興味深い。
また安川は平山批判にとどまらず、古田武彦の「"天は人の上に…"の出典は『東日流外三郡誌』」説を基本的に支持する意向を表明する(p.369)など、福沢研究を発展させている。
この新書の「あとがき」(p.240-)によれば、安川・平山間での論争が発端となり出版されたということである。以上の点につき、平山の再反論を読んでみたい。