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大丈夫な日本 (文春新書 500) 新書 – 2006/4/20
福田 和也
(著)
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米中の二大国に翻弄され、人口減少にも悩むこの国に未来はあるか。日本という国家が再建し、発展していくためのグランドデザイン
- 本の長さ203ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2006/4/20
- ISBN-104166605003
- ISBN-13978-4166605002
登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2006/4/20)
- 発売日 : 2006/4/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 203ページ
- ISBN-10 : 4166605003
- ISBN-13 : 978-4166605002
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,422,008位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1960(昭和35)年東京生まれ。文芸評論家。慶應義塾大学環境情報学部教授。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。1993年『日本の家郷』で三島由紀夫賞、2002年『地ひらく』で山本七平賞受賞。著書に『日本の近代(上・下)』『昭和天皇』など多数。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年7月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
いい本です。間違いなし。世界史の入り口論として,面白い切り口だし,福田の本は面白い。切り口がいいです。
2008年10月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
・無限の自由、富、正義を求めるのでなく、限界の中で生きる。
・現時点での平等や豊かさのみにこだわる水平倫理から、次世代への継承に重点を置く垂直倫理への転換。
・進歩・成長・発展から、存続・持続・維持へ。
と言ったところが本書の主旨であろうか。
上記の価値観に基づく社会のモデルケースとして、江戸時代が挙げられている。たしかに日本が過去、そう言った社会を実現させたと言う事実は高く評価すべきだろう。
しかし、当時のエネルギー源が木炭だったからこそ実現できたのであり、海外からの石油やウラン、鉱物資源の上に成り立つ、快適で豊かな生活に慣れてしまった現在の日本人に、それが出来るのかと言う不安も残る。
・現時点での平等や豊かさのみにこだわる水平倫理から、次世代への継承に重点を置く垂直倫理への転換。
・進歩・成長・発展から、存続・持続・維持へ。
と言ったところが本書の主旨であろうか。
上記の価値観に基づく社会のモデルケースとして、江戸時代が挙げられている。たしかに日本が過去、そう言った社会を実現させたと言う事実は高く評価すべきだろう。
しかし、当時のエネルギー源が木炭だったからこそ実現できたのであり、海外からの石油やウラン、鉱物資源の上に成り立つ、快適で豊かな生活に慣れてしまった現在の日本人に、それが出来るのかと言う不安も残る。
2014年9月14日に日本でレビュー済み
名が売れた人物で,慶応義塾大学の教授ともなれば,書いている内容に疑いをもたず,そのまま信用してしまう人が少なくないだろう。そういった人も学術論文であれば,何も証拠をしめさずに断定的に決めつけるような書き方をしないだろうが,一般読者向けの評論だと,気を抜いて,自分の好悪の感情を素直に表現してしまう。残念ながらこの本にもそういったところが散見される。
たとえば,福田和也氏は本書『大丈夫な日本』の中で,何の根拠もしめさずに,次のように,ラッセルは「同性愛」者だと決めつけている。
「・・・。ロレンス自身は,第一次世界大戦のときには2つの大きなショックを受けています。彼は反戦的だったし,友人であった哲学者バートランド・ラッセル,経済学者ケインズもそうでしたが,★このふたりは同性愛関係でした★。戦争中,ラッセルらの招きに応じて,ケンブリッジ大学に滞在したときのことです。ある晩,ラッセル邸に宿泊したロレンスは,寝室から降りてきたケインズのパジャマ姿を目撃する。ロレンスは,ケインズの姿に,かつて見たことのないような醜悪さを見出します。それは単純に,同性愛の匂いに反応したのではない。むしろ20世紀の天才経済学者,おそらく当時のイギリスの,最高の知性人のなかに, 底知れぬ醜悪なものを見てしまった。その知性の核心から匂ってくる腐臭をまざまざと嗅いでしまったのではないでしょうか。・・・。いずれにせよ,ケインズやラッセルのような,一国の経済政策を左右し,あるいは世界平和を唱えて活躍するような知識人たちこそが,人間から生気を奪い,技術と金銭のもとで生命を衰 退させ,人間性を消毒し,自由や平和の名のもとに大量破壊を誘発する,真の生命と無縁な怪物ではないのか,とロレンスは疑うようになるのです。・・・。要するに,文明の進歩の先には人間の居場所はどこにもない,というような感覚をロレンスは持ったわけです。・・・。」(同書pp.125-127)
この記述をそのまま真に受けて,ブログにそのことを書いたりしている人がいる。多分福田氏の読者は多いことから,ラッセル=同性愛者と思ってしまった人はけっこういるのではないか? ケインズは同性愛で有名だが,ラッセルはまったく違う。それに,ラッセルは自分が同性愛者であれば,隠すようなことはしない。 素直に『ラッセル自伝』などを読めば誤解することはないはずだが,人には好き嫌いがあり,先入観をもって読むために,福田氏のような誤解(曲解に近い)が生まれてしまう。福田氏はPHP文庫で『ひと月百冊読み,三百枚書く私の方法』という本を出しているが,このような杜撰な読み方で,月百冊読んで書き散らしているようでは,困ったものである。
ラッセルの思想の発展及び生涯は複雑であり,また毀誉褒貶がはげしいため,誤解されることも多く,そのために,食わず嫌いでラッセルの著書を読んで見ようとしない人も少なくない。
ラッセルは,どちらかといえば,同性愛に対し嫌悪感をもっていた。しかし,人様々であり,多様な権利を認めるべきだとの思いから,同性愛者を擁護する発言を何度かしている。それも早とちりの原因かもしれない。ラッセルが同性愛者をむしろ嫌悪していたことについては『オットリン,破天荒な生涯-ある英国貴婦人の肖像』(彩流社)を読めば容易に理解していただけるだろう。しかし,700ページ以上の大冊なので,次のページに抜き書きした。福田氏の指摘が誤解あるいは曲解であることがよく理解していただけると思われる。http://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2013.html#br2013-3
たとえば,福田和也氏は本書『大丈夫な日本』の中で,何の根拠もしめさずに,次のように,ラッセルは「同性愛」者だと決めつけている。
「・・・。ロレンス自身は,第一次世界大戦のときには2つの大きなショックを受けています。彼は反戦的だったし,友人であった哲学者バートランド・ラッセル,経済学者ケインズもそうでしたが,★このふたりは同性愛関係でした★。戦争中,ラッセルらの招きに応じて,ケンブリッジ大学に滞在したときのことです。ある晩,ラッセル邸に宿泊したロレンスは,寝室から降りてきたケインズのパジャマ姿を目撃する。ロレンスは,ケインズの姿に,かつて見たことのないような醜悪さを見出します。それは単純に,同性愛の匂いに反応したのではない。むしろ20世紀の天才経済学者,おそらく当時のイギリスの,最高の知性人のなかに, 底知れぬ醜悪なものを見てしまった。その知性の核心から匂ってくる腐臭をまざまざと嗅いでしまったのではないでしょうか。・・・。いずれにせよ,ケインズやラッセルのような,一国の経済政策を左右し,あるいは世界平和を唱えて活躍するような知識人たちこそが,人間から生気を奪い,技術と金銭のもとで生命を衰 退させ,人間性を消毒し,自由や平和の名のもとに大量破壊を誘発する,真の生命と無縁な怪物ではないのか,とロレンスは疑うようになるのです。・・・。要するに,文明の進歩の先には人間の居場所はどこにもない,というような感覚をロレンスは持ったわけです。・・・。」(同書pp.125-127)
この記述をそのまま真に受けて,ブログにそのことを書いたりしている人がいる。多分福田氏の読者は多いことから,ラッセル=同性愛者と思ってしまった人はけっこういるのではないか? ケインズは同性愛で有名だが,ラッセルはまったく違う。それに,ラッセルは自分が同性愛者であれば,隠すようなことはしない。 素直に『ラッセル自伝』などを読めば誤解することはないはずだが,人には好き嫌いがあり,先入観をもって読むために,福田氏のような誤解(曲解に近い)が生まれてしまう。福田氏はPHP文庫で『ひと月百冊読み,三百枚書く私の方法』という本を出しているが,このような杜撰な読み方で,月百冊読んで書き散らしているようでは,困ったものである。
ラッセルの思想の発展及び生涯は複雑であり,また毀誉褒貶がはげしいため,誤解されることも多く,そのために,食わず嫌いでラッセルの著書を読んで見ようとしない人も少なくない。
ラッセルは,どちらかといえば,同性愛に対し嫌悪感をもっていた。しかし,人様々であり,多様な権利を認めるべきだとの思いから,同性愛者を擁護する発言を何度かしている。それも早とちりの原因かもしれない。ラッセルが同性愛者をむしろ嫌悪していたことについては『オットリン,破天荒な生涯-ある英国貴婦人の肖像』(彩流社)を読めば容易に理解していただけるだろう。しかし,700ページ以上の大冊なので,次のページに抜き書きした。福田氏の指摘が誤解あるいは曲解であることがよく理解していただけると思われる。http://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2013.html#br2013-3
2006年4月27日に日本でレビュー済み
保守の論客、福田和也氏による日本の将来への提案である。
ついに人口が減少し始めた日本は何を目指すべきなのか。
著者は過去に学べば大丈夫だとして、江戸時代にヒントがあるという。
江戸期は鎖国により閉じたシステムでありながら、250年も続いた。
その循環型のエネルギーシステムや
自由が制限されながらも安定していた社会を再評価している。
右上がりの成長はなくとも充実していた、と。
後半ではアメリカに偏った外交・安全保障は危険だとして、
ここでも歴史に学べという。
そして国益の観点から
多くの選択肢を用意しておかなくてはならないと指摘する。
賛否はあろうが、日本の将来を考える時に参考になる書だと思う。
ついに人口が減少し始めた日本は何を目指すべきなのか。
著者は過去に学べば大丈夫だとして、江戸時代にヒントがあるという。
江戸期は鎖国により閉じたシステムでありながら、250年も続いた。
その循環型のエネルギーシステムや
自由が制限されながらも安定していた社会を再評価している。
右上がりの成長はなくとも充実していた、と。
後半ではアメリカに偏った外交・安全保障は危険だとして、
ここでも歴史に学べという。
そして国益の観点から
多くの選択肢を用意しておかなくてはならないと指摘する。
賛否はあろうが、日本の将来を考える時に参考になる書だと思う。
2006年8月1日に日本でレビュー済み
バブル経済崩壊後、経済をはじめ、社会的にも日本という国がおかしくなっている。
このままで日本はいいのだろうか。
日本という国は崩壊してしまうのではないか。
そんな、不安に対し著者は深く心配することはないと論じている。
今は、近代文明の終焉であると著者は言う。
そして、これまでも近代を終わらせ安定した時代を築いたことがあるという。
それは、戦国時代から江戸時代への移行のときだ。
確かに、戦国時代は鉄砲の伝来や、海上交通の発展など近代文明の時代であった。
しかし、江戸時代はそれらを鎖国政策で断ち切り、日本独自の生き方をしてきた。
故に、270年物の安定した時代だった。
かといって、文化的に遅れてもいなく、日本人の知識レベルも高かった。
近代文明ばかりが、高度な文明ではないのだ。
しかし、一つ忘れてはならないことがある。
それは「垂直論理」の志向を持たなければいけないということだと著者は言う。
「垂直論理」とは時間軸をたてに見て、その時間軸の上で、国家・社会・民族のことを考えることである。
つまり未来の人びとに何を残すかを考えることだ。
近代というのは「水平論理」であり、「現在」においての最大幸福を追求している。
故に、自分さえ良ければいいという考えが蔓延してしまう。
そして、その経済的利潤がなくなった今、幸福感の感じることが出来ない社会になってしまった。
今さえ良ければいい、自分さえ良ければいいという刹那的な幸福を求めても、それは虚しく、その幸福を後世に残すことは出来ない。
持続可能な社会が叫ばれているが、そんな今、垂直論理で考えることが大事である。
このままで日本はいいのだろうか。
日本という国は崩壊してしまうのではないか。
そんな、不安に対し著者は深く心配することはないと論じている。
今は、近代文明の終焉であると著者は言う。
そして、これまでも近代を終わらせ安定した時代を築いたことがあるという。
それは、戦国時代から江戸時代への移行のときだ。
確かに、戦国時代は鉄砲の伝来や、海上交通の発展など近代文明の時代であった。
しかし、江戸時代はそれらを鎖国政策で断ち切り、日本独自の生き方をしてきた。
故に、270年物の安定した時代だった。
かといって、文化的に遅れてもいなく、日本人の知識レベルも高かった。
近代文明ばかりが、高度な文明ではないのだ。
しかし、一つ忘れてはならないことがある。
それは「垂直論理」の志向を持たなければいけないということだと著者は言う。
「垂直論理」とは時間軸をたてに見て、その時間軸の上で、国家・社会・民族のことを考えることである。
つまり未来の人びとに何を残すかを考えることだ。
近代というのは「水平論理」であり、「現在」においての最大幸福を追求している。
故に、自分さえ良ければいいという考えが蔓延してしまう。
そして、その経済的利潤がなくなった今、幸福感の感じることが出来ない社会になってしまった。
今さえ良ければいい、自分さえ良ければいいという刹那的な幸福を求めても、それは虚しく、その幸福を後世に残すことは出来ない。
持続可能な社会が叫ばれているが、そんな今、垂直論理で考えることが大事である。
2006年4月26日に日本でレビュー済み
福田和也の、「国家の品格」に対する自分なりの回答書、のように思えた。たしかに「国家の品格」は面白い、ベストセラーも納得の内容であるが、「武士道精神が大事」と言われても、この厳しい日常で、具体的にはどうして生活していけばいいの?と思う人は少なくないだろう。福田和也は、その解答を「過去」に求め、右肩上がりの成長期を意識的に終結させた江戸時代にこそ、そのヒントがあると述べている。
たしかに江戸時代のような士農工商の階級社会は、決して差別だらけの暗い時代ではなかっただろうし、現代のようなフラットな社会でこそ、かえって人は他者との違いに敏感になり、ねたみを抱きやすくなったりするものだ。「江戸は世界史のなかでも画期的な「限界」の中の文明を提示した」という福田論は、少なくても私には納得できる論法である。
個人的には第4章の「世界の覇者アメリカが堕ちるとき」がとても勉強になった。
「ボーア戦争って、どんな戦争?」と聞かれて即答できないような人(かくいう私もその一人)は、この本を読んで損は無いはずです。
たしかに江戸時代のような士農工商の階級社会は、決して差別だらけの暗い時代ではなかっただろうし、現代のようなフラットな社会でこそ、かえって人は他者との違いに敏感になり、ねたみを抱きやすくなったりするものだ。「江戸は世界史のなかでも画期的な「限界」の中の文明を提示した」という福田論は、少なくても私には納得できる論法である。
個人的には第4章の「世界の覇者アメリカが堕ちるとき」がとても勉強になった。
「ボーア戦争って、どんな戦争?」と聞かれて即答できないような人(かくいう私もその一人)は、この本を読んで損は無いはずです。
2007年7月10日に日本でレビュー済み
歴史を総括的・構造的に掴む博識、そこから国のビジョンを示そうとする姿勢は尊敬に値する。江戸の経験に学べば大量生産・消費から脱却し物質循環型で精神的豊かさを追求する社会を実現できるという指摘は非常に魅力的、それには孫子の代の事まで考える「垂直倫理p.189」で社会を構築する必要ありという主張もおおいにうなずける。しかし、無限の進歩という幻想を捨てる必要性を、自分の手の届く範囲の人だけの幸福を追求する閉鎖的思想へ結実させたことは重大な誤りp.101。他人の犠牲の上にしか生きられないと開き直れれば楽だ、しかし、それは日本人らしくない。明治23年遭難したトルコ軍艦エルトゥールル号を紀伊大島住民は献身的に救助したのでは?。また、まちづくりには開放的な社会倫理が必要と松尾匡先生が現場の体験から説いている(市民参加のまちづくり コミュニティ・ビジネス編:創成社)。代表的な思想家がこれでは「大丈夫か日本」
2006年4月29日に日本でレビュー済み
いかにして近代を終わらせ新しい文明を作り出すか。成長を前提とした社会からどのように抜け出すか?魅力的なテーマが主題となっています。そこでは一度、戦略的な選択として鎖国を選んだ江戸時代の歴史がたどられることになります。しかし、鎖国の先鋭的な価値は、すでに西尾幹二氏によりすでに指摘されており、それ自体は必ずしも目新しい視角ではありません。むしろこの作品の面白い部分は4章のアメリカ、5章の中国を扱った部分です。近代の技術主義の延長に絶望したローレンスやハイデッガーを第一次大戦と絡めて解釈した部分ははなかなかユニークです。中国の変わることのない独善性を指摘し、中国とのかかわりは最小限にとどめるべきであるという部分も納得のいく部分です。どのようにして、現代の科学技術の下で、”鎖国”を創造的に実施するのか、今の人口の減少もある意味では無意識のうちの日本人の本能的な対応なのかもしれません。