日中戦争がはじまった頃の上海租界の姿を描いた本である。
第1章では租界についての歴史的な成り立ちや社会状況が紹介されている。当時の上海租界はアジア唯一の国際都市として、日本人にとって憧れの地であるとともに、国内旅行と同じ感覚で行ける身近な存在でもあったようだ。
第2章では北京郊外で日中が戦争をはじめた経緯と、上海に戦火が飛火して日本租界が戦場になったころの混乱ぶりを紹介し、第3章以降は新聞や雑誌社の特派員として日本から上海に派遣された作家たち(木村毅、林房雄、榊山潤、吉屋信子)のエピソードなどを通して、日中戦争初期の上海租界を描くとともに、彼らが書いた文章の行間の事情を追求している。
印象に残ったのは、「租界」の中でも、日本人の多い紅口地区や越界路と、フランス租界、旧英米租界にいろんな意味での地域差が大きかったこと、多くの日本人住民は貧しく、中国人はさらに貧しかったこと、戦乱慣れした中国人住民の逃げ足の速さ、河に浮かんだ死体にむらがるウナギの話、高彩英という女学生の抗日作文の話など。
防衛庁戦史叢書の「支那事変陸軍作戦<1>」257~8頁によると、日本政府は昭和12年「7月28日には揚子江沿岸在留居留民29,230名の引き揚げを訓令、上海においては8月6日租界への退避を指示した」、「上海の居留民は現地保護の方針であったが、 … 危険が加わったので、奥地からの引揚者のほか、上海居留民約3万のうち、婦女子等約2万が13日以降19日ころまでに逐次帰国し、上海には1万人を残すのみとなった」とのことだが、本書を読んで具体的にどういう状況だったのかがイメージできた。
本書を読む際には当時の上海地図が必須であり、Webで無料公開されている「日文研の地図データベース」に上海の古地図が何枚かあるのを利用させて頂いた。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
上海狂想曲 (文春新書 521) 新書 – 2006/8/1
高崎 隆治
(著)
- 本の長さ198ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2006/8/1
- ISBN-104166605216
- ISBN-13978-4166605217
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2006/8/1)
- 発売日 : 2006/8/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 198ページ
- ISBN-10 : 4166605216
- ISBN-13 : 978-4166605217
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,023,680位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中4.5つ
5つのうち4.5つ
全体的な星の数と星別のパーセンテージの内訳を計算するにあたり、単純平均は使用されていません。当システムでは、レビューがどの程度新しいか、レビュー担当者がAmazonで購入したかどうかなど、特定の要素をより重視しています。 詳細はこちら
4グローバルレーティング
虚偽のレビューは一切容認しません
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2019年3月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
・上海は憧れのモダンな都会ではなく、日本で食い詰めた棄民の流れ着くところで、日本人の捨て場だった。日本租界 はみずぼらしかった。
・日本の一流企業は旧イギリス租界の一等地にビルを構えていた。支那人は支那を食いモノにするのは日本だと気が付 いた。
→ イギリスの一流企業はイギリス租界の一等地にビルを構えていなかったのか?
・英語でShanghaは、誘拐する、欺くの意味がある。
→ イギリス人はそれだけ犯罪的な悪事を働いて来たと言う事である。
・1931年(満州事変)から1945年までを15年戦争と呼びたがる左巻きがいるが、日華事変が始まるまでは、統制経済 に縛られていたわけでもなく、徴用令による強制労働もなく、戦争状態と言える世相ではなかった。
・盧溝橋事件で、日本は支那が発砲したので直ちに反撃したと発表した。日本軍は夜間演習には空砲を持って行く。軍隊経験者はどうして直ちに反撃できたのかと不審がった。
・南京の住民は人の良い素朴な人たちばかりで、日本軍を知らなかったので、無抵抗の市民を殺すとは思いもよらかっ
た。しかし上海の住民は日頃日本人を見たり接触していたので、何をするかわからない連中だとと知っていた。
→ 雰囲気的南京大虐殺ねつ造派。
・日本軍がじりじり土のうを進めて来たので、支那は発砲するしかない。こういう状況ではどちらが先に撃ったかでは ない。仕掛けたのは日本軍である。
→ 大局を無視している。上海周辺に強力なトーチカを多数作り、上海へ日本軍を誘引したのは支那軍である。
参考図書がいろいろ引用してあるが、検索してもすでに出回っていなかったり、あっても高価なものが多い。
・日本の一流企業は旧イギリス租界の一等地にビルを構えていた。支那人は支那を食いモノにするのは日本だと気が付 いた。
→ イギリスの一流企業はイギリス租界の一等地にビルを構えていなかったのか?
・英語でShanghaは、誘拐する、欺くの意味がある。
→ イギリス人はそれだけ犯罪的な悪事を働いて来たと言う事である。
・1931年(満州事変)から1945年までを15年戦争と呼びたがる左巻きがいるが、日華事変が始まるまでは、統制経済 に縛られていたわけでもなく、徴用令による強制労働もなく、戦争状態と言える世相ではなかった。
・盧溝橋事件で、日本は支那が発砲したので直ちに反撃したと発表した。日本軍は夜間演習には空砲を持って行く。軍隊経験者はどうして直ちに反撃できたのかと不審がった。
・南京の住民は人の良い素朴な人たちばかりで、日本軍を知らなかったので、無抵抗の市民を殺すとは思いもよらかっ
た。しかし上海の住民は日頃日本人を見たり接触していたので、何をするかわからない連中だとと知っていた。
→ 雰囲気的南京大虐殺ねつ造派。
・日本軍がじりじり土のうを進めて来たので、支那は発砲するしかない。こういう状況ではどちらが先に撃ったかでは ない。仕掛けたのは日本軍である。
→ 大局を無視している。上海周辺に強力なトーチカを多数作り、上海へ日本軍を誘引したのは支那軍である。
参考図書がいろいろ引用してあるが、検索してもすでに出回っていなかったり、あっても高価なものが多い。
2010年2月13日に日本でレビュー済み
上海に行く成田空港の待合室の売店で買った本。
何も中国行きの便が発着するウイングだからという訳でもないだろうが。
後輩のO君が教えてくれた。「フィレンツェで塩野七生の本を読むと面白いですよ」って。町並みは中世そのままのマチ、確かにそうかもしれないと思った。
で、今回は上海。その手を使わぬこともないかと読んでいた。
第二次上海事変のころの話である。
当時はいろんな作家や新聞記者が上海を訪れてルポを書いている。
そんな中である者は街娼を買い、ある者は国民党軍の空襲に遭い、また某・朝日新聞社は前線の記者に缶詰しか送ってこなかったとか。
ちょうど今回の上海行き、初日の用事が外灘だった。
ガーデンブリッジ(外白渡橋)の辺りを歩き、工事中で中に入れなかった黄浦公園を眺め、車の巻き上げる埃にロマンもヘチマもないと思いながら歩いた。
ちょうど仕事先は戦前は郵船埠頭と呼ばれた辺りか、あるいはこの真ん中に戦艦出雲が浮かんでいたのかなど思いを巡らせるのは結構、楽しかった。
中で、長崎〜上海間の海底電線が不通になった後、当時の新聞記者が、記事を送るのに4通、同じ無線電文を日本にあてて打ったというのが興味深かった。上海から日本にダイレクトで無線はつながらなかった当時のこと。1通目は台北に打ち、中継してもらう。2通目は天津に打ち、中継してもらう。3通目は敵対している中国の電報局に転電を頼む、4通目はロンドンに向けてうち、地球を1周して日本に届ける、という方法だったという。重要な記事はこんな風に送ったよし。今ではインターネット経由で写真でも瞬時の時代だけどね。
ということで、今も外灘は中国銀行などの大厦高楼は戦前のままの姿を残しているし、対岸の浦東には近代的な金融関係の会社の摩天楼が並ぶ。ということで、黄浦江は上海の中心ですな。
何も中国行きの便が発着するウイングだからという訳でもないだろうが。
後輩のO君が教えてくれた。「フィレンツェで塩野七生の本を読むと面白いですよ」って。町並みは中世そのままのマチ、確かにそうかもしれないと思った。
で、今回は上海。その手を使わぬこともないかと読んでいた。
第二次上海事変のころの話である。
当時はいろんな作家や新聞記者が上海を訪れてルポを書いている。
そんな中である者は街娼を買い、ある者は国民党軍の空襲に遭い、また某・朝日新聞社は前線の記者に缶詰しか送ってこなかったとか。
ちょうど今回の上海行き、初日の用事が外灘だった。
ガーデンブリッジ(外白渡橋)の辺りを歩き、工事中で中に入れなかった黄浦公園を眺め、車の巻き上げる埃にロマンもヘチマもないと思いながら歩いた。
ちょうど仕事先は戦前は郵船埠頭と呼ばれた辺りか、あるいはこの真ん中に戦艦出雲が浮かんでいたのかなど思いを巡らせるのは結構、楽しかった。
中で、長崎〜上海間の海底電線が不通になった後、当時の新聞記者が、記事を送るのに4通、同じ無線電文を日本にあてて打ったというのが興味深かった。上海から日本にダイレクトで無線はつながらなかった当時のこと。1通目は台北に打ち、中継してもらう。2通目は天津に打ち、中継してもらう。3通目は敵対している中国の電報局に転電を頼む、4通目はロンドンに向けてうち、地球を1周して日本に届ける、という方法だったという。重要な記事はこんな風に送ったよし。今ではインターネット経由で写真でも瞬時の時代だけどね。
ということで、今も外灘は中国銀行などの大厦高楼は戦前のままの姿を残しているし、対岸の浦東には近代的な金融関係の会社の摩天楼が並ぶ。ということで、黄浦江は上海の中心ですな。