帯に「155冊の体験」とある。確かに体験するような重さがある。書評集なので何か統一したテーマがあるわけではないのだが、読み通すとぐったりしてしまうのはなぜか。
ここでとりあげたどの本も、「人」を扱っているからだろう。それぞれの本が取り上げているテーマそのものか、または本の著者自身の生か、どちらかを深掘りして、時代や社会に翻弄されたりそれに抗う人々の生きざまを感じようとする。だからどこか生々しくて、刺激が強いのだ。取り上げられた本そのものを読む前に何かしら「構え」みたいなものができてしまう。だから必ずしも読んでみたい、とはすぐに思えない。でも、いつかそのうち読んでみたい気にさせる、マイナスとプラスの磁力を両方備えているような書物への招待状。
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人間を守る読書 (文春新書 592) 新書 – 2007/9/21
四方田 犬彦
(著)
古典からサブカルチャーまで約160冊の書物を紹介。「決して情報に還元されることのない思考」のすばらしさを読者に提案する
- 本の長さ321ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2007/9/21
- ISBN-104166605925
- ISBN-13978-4166605927
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2007/9/21)
- 発売日 : 2007/9/21
- 言語 : 日本語
- 新書 : 321ページ
- ISBN-10 : 4166605925
- ISBN-13 : 978-4166605927
- Amazon 売れ筋ランキング: - 636,881位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2017年7月22日に日本でレビュー済み
所蔵のロリータ評を某サイトにて読んだのですが、(以下引用)
『子供には子供のもつ独自の媚態も美もわからない。「内なる目が乗り越えようと興奮する距離、倒錯した歓喜のあえぎをもらしながら心が認識する対照の問題」が大切なのだ。このナボコフの立場からすれば、成熟した女性との性的交渉を重ねたすえにそれに絶望した体験もないまま、幼げな女の子に熱中している日本の年少者の「おたく」たちは、真にロリータの魅惑を理解できるまでに、目の焦点を鍛えていないことになる。本格ロリータへの道はかくも厳しいのだ。読者よ、ナボコフの小説に学べ。』
との事なのですが、ロリータという小説が中年男性の自己愛や承認欲求の満たされなさについて論じているならばまさに「キモい」としか表現のしようがないですし、私がこの小説を忌避した理由もここにあります。
つまるところいくら修飾を重ねたところでロリータという少女が魅力的に描かれていないところが『ロリータ』という小説の妙なのでしょう。
ところでこの書評の結び、なんか似たようなのを最近見たなあ、としばし記憶をたどったのですが、思い当たったのは
<元LEON編集長が美術館ナンパを指南で炎上>というネット記事でした。
中年男性が人生経験の豊富さをアピールして女性を未熟さの象徴のように取り上げ、生暖かい目線をまとわりつかせるあの厭な感じは、この書評にとてもよく似ていますし、であるならば、ロリータが描いているのは文化人の倒錯した性じゃなくて、ただの油の浮き出た中年のキモさなのではないかと思いました。
『子供には子供のもつ独自の媚態も美もわからない。「内なる目が乗り越えようと興奮する距離、倒錯した歓喜のあえぎをもらしながら心が認識する対照の問題」が大切なのだ。このナボコフの立場からすれば、成熟した女性との性的交渉を重ねたすえにそれに絶望した体験もないまま、幼げな女の子に熱中している日本の年少者の「おたく」たちは、真にロリータの魅惑を理解できるまでに、目の焦点を鍛えていないことになる。本格ロリータへの道はかくも厳しいのだ。読者よ、ナボコフの小説に学べ。』
との事なのですが、ロリータという小説が中年男性の自己愛や承認欲求の満たされなさについて論じているならばまさに「キモい」としか表現のしようがないですし、私がこの小説を忌避した理由もここにあります。
つまるところいくら修飾を重ねたところでロリータという少女が魅力的に描かれていないところが『ロリータ』という小説の妙なのでしょう。
ところでこの書評の結び、なんか似たようなのを最近見たなあ、としばし記憶をたどったのですが、思い当たったのは
<元LEON編集長が美術館ナンパを指南で炎上>というネット記事でした。
中年男性が人生経験の豊富さをアピールして女性を未熟さの象徴のように取り上げ、生暖かい目線をまとわりつかせるあの厭な感じは、この書評にとてもよく似ていますし、であるならば、ロリータが描いているのは文化人の倒錯した性じゃなくて、ただの油の浮き出た中年のキモさなのではないかと思いました。
2007年11月27日に日本でレビュー済み
タイトルにひかれて、読んでみた本。タイトルは筆者が作った言葉ではなかったが深い。
沢山の書評がまとめられた本で、さらさらと良い勢いで読み進められた。
さすがにプロが書いている書評はすばらしいまとまりで、本の内容と筆者の感想がいい具合にまじりあい、読み進めやすい。
自分の駄文と比べてはいけないが、情けなくなるというか。プロじゃないから仕方ないというか。
何か読みたい本を探している時に、この本から探してみるといいと思います。僕も何冊か読んでみたい本が見つかりました。
特に「前書きにかえて」は、読書を趣味とする人間にはたまらない内容で、うなづくこと必至です。
沢山の書評がまとめられた本で、さらさらと良い勢いで読み進められた。
さすがにプロが書いている書評はすばらしいまとまりで、本の内容と筆者の感想がいい具合にまじりあい、読み進めやすい。
自分の駄文と比べてはいけないが、情けなくなるというか。プロじゃないから仕方ないというか。
何か読みたい本を探している時に、この本から探してみるといいと思います。僕も何冊か読んでみたい本が見つかりました。
特に「前書きにかえて」は、読書を趣味とする人間にはたまらない内容で、うなづくこと必至です。
2007年9月21日に日本でレビュー済み
雑誌・新聞等で発表された書評・短めの作家論を集めたもの。
著者の専門である映画はもとより、最近のテーマであるパレスチナ問題、ほか人類学、現代音楽から料理や漫画まで縦横無尽。
そもそも本は情報の束ではない。本は何かを伝えようとする意思や情熱であり、インターネットの情報収集と比べるものではない。
文化を持ちたいという思う気持ちが、文化を持っている人間の態度だ、と。
著者は、現代では古臭くもみえる読書という文化的営為の豊穣さに、
旧制高校的な教養主義とは異なる新しい可能性を見出そうとしている。
グーグル時代に本を読むとはどういう行為なのか、おぼろげながら見えてくる。
著者の専門である映画はもとより、最近のテーマであるパレスチナ問題、ほか人類学、現代音楽から料理や漫画まで縦横無尽。
そもそも本は情報の束ではない。本は何かを伝えようとする意思や情熱であり、インターネットの情報収集と比べるものではない。
文化を持ちたいという思う気持ちが、文化を持っている人間の態度だ、と。
著者は、現代では古臭くもみえる読書という文化的営為の豊穣さに、
旧制高校的な教養主義とは異なる新しい可能性を見出そうとしている。
グーグル時代に本を読むとはどういう行為なのか、おぼろげながら見えてくる。
2007年10月12日に日本でレビュー済み
本書は様々な媒体に公表された書評およびエッセイを集めた1冊。多様なカルチャー、サブカルチャーの大海から硬軟軽重、誠に幅広い選択による「本の本」である。
なるほど、凄まじいインプット! そしてそれを軽やかにアウトプットしてみせたのが本書というわけで、四方田の良い読者とはいえない評者には判らない面もあるが、なるほど「大衆文化論者の成れの果て」というような感想もあるのか。
しかし、それでも本書を擁護したいのは、エミール・ハービビー著『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』といった奇作を知り得たのは、四方田が「週刊読書人」(初出)の書評で紹介してくれたからである。ポール・ボウルズだって四方田が精力的に取り上げなければ、決して作品集が翻訳されることはなかっただろう。こういう紹介者には敬意を払うべきである。ボウルズの『シャルタリングスカイ』は、映画化されたことに伴って文庫でも刊行されはしたが・・・。考えてみれば、あの頃までの日本の出版業界は志があった。
しかし、ビートたけしがボウルズを「偽者」呼ばわりした(ブコウスキーをもちあげるため)こともあってか(?)、その作品集は早々に店頭から消えていった。ボウルズは大作家ですよ。評者が言うまでもないが。
『人間を守る読書』というタイトルについては、前書きでも述べられているとおり、ジョージ・スタイナーの『言語と沈黙』のなかの言葉である。この文芸批評の金字塔のなかの言葉は、批評の使命を端的に示す。「人間を守る」読書、書物の擁護、翻って「人間を破壊する」活動・宣伝への糾弾。
本書に取り上げられる書物はあまりに幅広いために、評者にはとてもその全てを評価することはできない。
が、少なくとも、どの批評も「人間を守る」側の言葉だと思われる。
ヴァレリー・ラルボーの「罰せられざる悪癖」としての読書の位置を、一歩踏み込んだ境位にまで引き上げている面もあろう。その悪癖が「人間を守る」というマニフェストでもあろう。
三島由紀夫に対する高評価などは、違和感を感じるところも少なからずあるにしても。
なるほど、凄まじいインプット! そしてそれを軽やかにアウトプットしてみせたのが本書というわけで、四方田の良い読者とはいえない評者には判らない面もあるが、なるほど「大衆文化論者の成れの果て」というような感想もあるのか。
しかし、それでも本書を擁護したいのは、エミール・ハービビー著『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』といった奇作を知り得たのは、四方田が「週刊読書人」(初出)の書評で紹介してくれたからである。ポール・ボウルズだって四方田が精力的に取り上げなければ、決して作品集が翻訳されることはなかっただろう。こういう紹介者には敬意を払うべきである。ボウルズの『シャルタリングスカイ』は、映画化されたことに伴って文庫でも刊行されはしたが・・・。考えてみれば、あの頃までの日本の出版業界は志があった。
しかし、ビートたけしがボウルズを「偽者」呼ばわりした(ブコウスキーをもちあげるため)こともあってか(?)、その作品集は早々に店頭から消えていった。ボウルズは大作家ですよ。評者が言うまでもないが。
『人間を守る読書』というタイトルについては、前書きでも述べられているとおり、ジョージ・スタイナーの『言語と沈黙』のなかの言葉である。この文芸批評の金字塔のなかの言葉は、批評の使命を端的に示す。「人間を守る」読書、書物の擁護、翻って「人間を破壊する」活動・宣伝への糾弾。
本書に取り上げられる書物はあまりに幅広いために、評者にはとてもその全てを評価することはできない。
が、少なくとも、どの批評も「人間を守る」側の言葉だと思われる。
ヴァレリー・ラルボーの「罰せられざる悪癖」としての読書の位置を、一歩踏み込んだ境位にまで引き上げている面もあろう。その悪癖が「人間を守る」というマニフェストでもあろう。
三島由紀夫に対する高評価などは、違和感を感じるところも少なからずあるにしても。
2008年2月25日に日本でレビュー済み
初出の時期順の配列ではないこの書評集で、第1章冒頭を飾っているのがサイード『オリエンタリズム』。そこには「知識人と学者とは違う。知識人の本質とは、自分の学問的な専門領域をひとたび離れて、アマチュアとして現下に生じている世界の矛盾にたいして発言をすること」という言葉も引かれる(p21)。
続いてジョー・サッコ、若松孝二と、著者のパレスチナ問題への特段の関心が明示された後、蜂飼耳における「日本人を日本という枠組から解放して、ある生の原型を与えてくれる」(p32)ような神話的古層や地理的始原への遡行に触れ、次に村上春樹を手がかりに「文化的なコスモポリタニズムと、それに対するローカリティの問題」(p41)に一瞥をくれる。そして再び、鈴木道彦の在日朝鮮人問題への「関わり」に触れて、「知識人」として「関わる」ことの重要性の再認識を迫る。ここではサルトルの名が想起されて然るべきだろう。
次に20世紀音楽史における「ジャンルの越境と横断」(p46)の話題を経由して、重信房子の歌集。またもやパレスチナだ。次が伊健次『ソウルで考えたこと』。一転して福間健二の詩論集が取り上げられるが、「直線距離を選ばないこと。近道をしないこと。あえて思いきり遠回りをして、それから本来の場所に戻ってみること」(p57)という一節が、いかにも著者らしい。岡崎京子・村上龍・黒田硫黄を論じた後、吉増剛造と高銀の往復書簡集、その次は読書日記の形式で、『比較の亡霊』や『コーランの新しい読み方』と並べて絵本『てんしちゃん』の画家・南塚直子がハンガリーで学んだことに触れ、ここでも文化的越境の主題が顔を覗かせる…と続けていくとキリがないのだが、主題的一貫性を秘めた読み応えのある書評集。
著者に寝台での読書を薦められて、ナルホド読書と寝台の縁は深いと気づかされた。論文の1本も書けそうな気がする。それから、蓮實重彦への皮肉や当て擦りが随所に見えるのも実に笑えた。『オリエンタリズム』的な表象の政治性を問題にする立場からすれば、当然だろう。
続いてジョー・サッコ、若松孝二と、著者のパレスチナ問題への特段の関心が明示された後、蜂飼耳における「日本人を日本という枠組から解放して、ある生の原型を与えてくれる」(p32)ような神話的古層や地理的始原への遡行に触れ、次に村上春樹を手がかりに「文化的なコスモポリタニズムと、それに対するローカリティの問題」(p41)に一瞥をくれる。そして再び、鈴木道彦の在日朝鮮人問題への「関わり」に触れて、「知識人」として「関わる」ことの重要性の再認識を迫る。ここではサルトルの名が想起されて然るべきだろう。
次に20世紀音楽史における「ジャンルの越境と横断」(p46)の話題を経由して、重信房子の歌集。またもやパレスチナだ。次が伊健次『ソウルで考えたこと』。一転して福間健二の詩論集が取り上げられるが、「直線距離を選ばないこと。近道をしないこと。あえて思いきり遠回りをして、それから本来の場所に戻ってみること」(p57)という一節が、いかにも著者らしい。岡崎京子・村上龍・黒田硫黄を論じた後、吉増剛造と高銀の往復書簡集、その次は読書日記の形式で、『比較の亡霊』や『コーランの新しい読み方』と並べて絵本『てんしちゃん』の画家・南塚直子がハンガリーで学んだことに触れ、ここでも文化的越境の主題が顔を覗かせる…と続けていくとキリがないのだが、主題的一貫性を秘めた読み応えのある書評集。
著者に寝台での読書を薦められて、ナルホド読書と寝台の縁は深いと気づかされた。論文の1本も書けそうな気がする。それから、蓮實重彦への皮肉や当て擦りが随所に見えるのも実に笑えた。『オリエンタリズム』的な表象の政治性を問題にする立場からすれば、当然だろう。
2007年9月29日に日本でレビュー済み
四方多犬彦はかつては映画、漫画、文学、政治、その他のマイナー大衆文化を積極的に解釈紹介する文化リーダーだったが、いまや何の専門家でもなければ、なんの面白みもない一エッセイストに堕落してしまった。
該博な知識と経験をどんどん披露してくれるのは良いが、それがどんどん中身薄味のものになってきている。
これだけアウトプットが多すぎれば、インプットする時間もないのは理の当然。
まして筆が荒れて、本書もまったく読める代物ではない。
もっと自己限定して、きちんと対象と正面から勝負したものを読みたい。
昔の四方田は良かったのだが。
該博な知識と経験をどんどん披露してくれるのは良いが、それがどんどん中身薄味のものになってきている。
これだけアウトプットが多すぎれば、インプットする時間もないのは理の当然。
まして筆が荒れて、本書もまったく読める代物ではない。
もっと自己限定して、きちんと対象と正面から勝負したものを読みたい。
昔の四方田は良かったのだが。
2007年12月6日に日本でレビュー済み
「本を読むさいにもっとも悪い読み方とは、勉強のために、仕事のために読むことである。(中略)本を読むさいにもっとも理想的な読み方とは、勉強とも仕事とも無関係に読むことである」
深く共感する言葉だ。ヨモタ氏は旅と書物について、こうも語っている。「つまり、わたしにとって書物を読むということは、実際にその場所に足を踏み入れることと平行した、対等な行為なのであって、両方が不可欠なのです」。書物は現実に従属している存在ではないってことだよね。「繰り返していいますが、書物を読むということは現実の体験なのです。体験の代替物ではありません」。一方でヨモタ氏は「わたしは書物しか読まない怠け者を憎む」というニーチェの言葉も引用している。
あるいは、「書物というのは他人が考えていることです」という言葉は当たり前のように見えて盲点だ。「書物のない世界になってしまったら、人間が書物になるしかないんだ」って言葉もあるけど、つまり、書物イコール人間、書物=他者ってことだよな。
このように、本書はヨモタ氏の書物論、読書論になっている。ブックガイドとしては評価が大きく分かれるだろう。ヨモタ氏の存在が大きすぎて、紹介される著書が隠蔽されるっていうか。ブックガイドとして読むよりは、結局ヨモタを読む感がある。もちろんヨモタを構成している背景に紹介されている書物の世界が広がっている訳だけど。ヨモタ氏は紹介する本に対して明確な視点を持ち、自らのモノとして咀嚼して読者に提示する。だからこそ、この書評に目を通しただけで読んだ気になっちゃ駄目、鵜呑みにしちゃ駄目だよね。知を身に着けるってのはストイックなものなんだろうな。ヨモタ氏は平岡正明同様、ケンカの常套で、スキを見せず常に攻撃を仕掛けていくタイプである。そのスキの無さ、ストイックさは、正直しんどいところもあるけど、僕にとっては畏敬の存在であり続けるのだ。
深く共感する言葉だ。ヨモタ氏は旅と書物について、こうも語っている。「つまり、わたしにとって書物を読むということは、実際にその場所に足を踏み入れることと平行した、対等な行為なのであって、両方が不可欠なのです」。書物は現実に従属している存在ではないってことだよね。「繰り返していいますが、書物を読むということは現実の体験なのです。体験の代替物ではありません」。一方でヨモタ氏は「わたしは書物しか読まない怠け者を憎む」というニーチェの言葉も引用している。
あるいは、「書物というのは他人が考えていることです」という言葉は当たり前のように見えて盲点だ。「書物のない世界になってしまったら、人間が書物になるしかないんだ」って言葉もあるけど、つまり、書物イコール人間、書物=他者ってことだよな。
このように、本書はヨモタ氏の書物論、読書論になっている。ブックガイドとしては評価が大きく分かれるだろう。ヨモタ氏の存在が大きすぎて、紹介される著書が隠蔽されるっていうか。ブックガイドとして読むよりは、結局ヨモタを読む感がある。もちろんヨモタを構成している背景に紹介されている書物の世界が広がっている訳だけど。ヨモタ氏は紹介する本に対して明確な視点を持ち、自らのモノとして咀嚼して読者に提示する。だからこそ、この書評に目を通しただけで読んだ気になっちゃ駄目、鵜呑みにしちゃ駄目だよね。知を身に着けるってのはストイックなものなんだろうな。ヨモタ氏は平岡正明同様、ケンカの常套で、スキを見せず常に攻撃を仕掛けていくタイプである。そのスキの無さ、ストイックさは、正直しんどいところもあるけど、僕にとっては畏敬の存在であり続けるのだ。