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新・国富論 グローバル経済の教科書 (文春新書 894) 新書 – 2012/12/17

3.8 5つ星のうち3.8 22個の評価

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2008年のリーマン・ショックに始まる「グローバル恐慌」は、現在もなお続き、その第2幕は「ユーロ危機」となって現れました。グローバル資本主義の時代にあっては、いかなる事象も「対岸の火事」ではありません。日本はどう生き延びていけばいいのか。浜氏が現状を分析し、日本が進むべき道を提示します。
現在の「グローバル恐慌」の根源には、国境を越えて自由に動き増殖する資本と国民国家体制の齟齬があります。それぞれの国民国家が切磋琢磨し、国富を増やすことで国民を豊かにできた時代は終わりました。しかし、先進諸国は、いまだにその齟齬に気づきながらも、新しい「国富論」を見いだせずにいます。
たとえば、グローバルな資本が安価な労働力によって作った安価な商品が外国からもたらされ、国内の雇用が奪われ、税収が減少するなか、福祉を維持しようとすれば、財政赤字が蓄積していく。そんなとき、自国出身のグローバル資本(たとえばユニクロ)に「出て行かないでくれ」といっても、聞く耳を持ってはくれません。こうして先進諸国はグローバル資本主義に対して、緊縮財政、自由貿易の規制(保護主義)と「愛国消費」によって対抗しようとしますが、この「自分さえよければ」という発想からなされる行動を先進諸国がとればとるほど、国際貿易は縮小し、それぞれの国民は窮乏化していきます。
しかし、逆に人間活動のすべてを市場原理に任せよ、というグローバル資本の要請にしたがって、国民国家が国民生活のインフラ(教育、医療、福祉など)から手を引けば、超格差社会が出現するのは目に見えています。「自分さえよければ」ではなく、「あなた(君)さえよければ」という発想で、経済活動を構築しなおすときが来ています。そのためにはどうすればいいか。根源的な考察と大胆な提案を問う新しい「国富論」です。
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登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 文藝春秋 (2012/12/17)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2012/12/17
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 新書 ‏ : ‎ 250ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4166608940
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4166608942
  • カスタマーレビュー:
    3.8 5つ星のうち3.8 22個の評価

著者について

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浜 矩子
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同志社大学大学院ビジネス研究科教授。1952年生まれ。一橋大学経済学部卒業。1975年、三菱総合研究所入社。ロンドン駐在員事務所所長、同研究所主席研究員を経て、2002年より現職。専攻はマクロ経済分析、国際経済(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『誰も書かなかった 世界経済の真実 地球経済は再び斬り刻まれる(ISBN-10: 4776207389)』が刊行された当時に掲載されていたものです)

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上位レビュー、対象国: 日本

2016年8月11日に日本でレビュー済み
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期待していたとうりの商品を届けていただき、感謝しています。
以上
2021年1月12日に日本でレビュー済み
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リーマンショック辺りの白熱した資本主義の様子が結構分かりやすいなと思いました。
リーマンショック前年、大学の講義で、資本主義の何か勉強しているとき、
こんな成長が永久に続くのだろうか?恐ろしいな。と漠然と不安におもっていました。
デジタル化しリミットのなくなった金融市場で実体経済と乖離したマネーゲームが始まり、歯止めがかからない状況なのですね。今のバブルはいつはじけるのやら。でもまたバブルがはじけないように、、更に実体のないものでカバーしたり、するのかな?
これを読んで、少し前の歴史に触れた気持ちになりました。そしていま、やっぱり現物資産が一番かなぁと思っています。お金はいつ紙切れになってもおかしくないので、、。
2013年4月25日に日本でレビュー済み
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近年の経済環境においては国が定義できないのはよくわかったが、
それだけである。
こんごの行動の指針になるかと思ったが、
期待外れ。
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2013年3月9日に日本でレビュー済み
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国民目線の批評が大好きです。辛口トークでメディアでも頑張ってください。
日本の政治は永年の自民党支配が腐敗を招いた。
原発も危機管理示唆kが無いままに政官業癒着の結果であり、野党時代にTPPで当時の与党批判をしていた。
政治家がまずやることは、身を切る改革・定数削減・政党交付金見直しなど優先課題は多い。
野党のせいにせずに早期に決着すべし。
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レポート
2012年12月26日に日本でレビュー済み
「ユニクロ栄えて国滅ぶ」という論文を数年前に読んで関心した著者の新作で期待して購入した。
本位通貨制・管理通貨制、国際市場・グローバル市場、「みえざる手」の意味、バブルの根本原因などの基本が分かりやすく、かつ、日本の閉塞した状況のみならず、他の先進国での状況をも踏まえて、大きな視点から考えるヒントを与えてくれる。

この著作に刺激され、「国富論」を読みこんで、そもそも経済の根本を理解したい気もしてきた。

全体として、分析という観点からは素晴らしい著作であるが、本書の最終章で示される今後への展望に関しては、「みえざる手」ではなく他人へ「差し伸べる手」が重要という結論であり、道徳観念的で、それをいかに経済の実情で実現するかに関しての考察が具体的で無いのが不満。その意味で星は四つ。
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レポート
2013年2月23日に日本でレビュー済み
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 経済学の古典は得てして難解である。そのため、読むのに一苦労するばかりか、都合よく解釈してしまう人がいる。そして、ここにもイイカゲンな読者がいる。なぜか浜氏が言及していない山岡洋一訳『国富論』(日本経済新聞社出版局)を参考に批判してみよう。
 まず、アダム・スミス先生が見たピン工場について

「ところで、少々余談になるが、この物語の中のピンなるものがいかなるピンなのかということは、いまひとつよくわからない。何しろ十八世紀の話だし、先生がその仕様や姿形をあまりはっきりとは説明してくれていないので、どうも判然としないものが残る。頭がついているらしいから、持ち針のようなものか。あるいは、戦争ばかりしていた時代であるから、地図上に敵味方の位置を示すための虫ピンのようなものかもしれない。後世の皆さんが我々の『新・国富論』を読んで下さる場合にも、このようなことが起きるかもしれない。「スマホ」とは一体どのような形状のものか。そんなことで、読者たちが頭を悩ますのだろうか。それも困るが、かといって何世紀も先の人々のために脚注や補足説明を付していたのでは切りがない。スミス先生もこんなことで悩んだのだろうか」(『新・国富論』pp.83-4)

「そこで、きわめて小規模ではあるが、分業が注目された産業を例にとってみよう。ピン、つまり裁縫用の待ち針を作る製造業の例である」(『国富論』上巻p.7)

 浜氏は、『国富論』をちゃんと読んだのであろうか?さらに

「ここで、さらに今一度、前出の引用箇所を振り返って頂きたい。そこには、「(経済活動)に携わる個人が)……外国の産業より国内の産業を支持するのは、ただ自身の安全を意図してのことである」という件りがある。この言い方には、明らかに、暗黙の大前提がある。それは、人が収益最大化を目指して行動する時、彼は自ずと自国産業を優先的にサポートするということだ。今の世の中、これが言えるか」(『新・国富論』p.123)

 として、スミス先生への攻撃を始める。だが、この記述には然るべき理由がある。『国富論』に刺激されて経済学者になったデイヴィッド・リカードは、決してうまくないながらも、そのわけを書いている。

「他のどのケースにおいても、もし資本が一番儲かる使われ方をする国に向かって自由に流れるとすると、利潤率に違いはないかもしれず、商品の真の価格もしくは労働価格は、それが売られるあちこちの市場に運ばれるのに追加でかかった労働の量以外には違いがないはずだ。
 しかしながら、経験は示している。直接、所有者の手中にない場合、資本が想像上もしくは現実上の不安を抱くこと、そして生まれた国およびその国との繋がりを捨て去って体に染み付いた習慣すべてを身に付けたまま異国の政府と新しい法律に身を委ねることに対して全ての人々が当然ながら嫌がることとが合わさって、資本の移動を阻むのである。私が衰退したのを見るのが気の毒な、これらの感情が大多数の資産家に、その富をより有利な用途を外国に求めるよりも自国で低い利潤率に甘んじるように導くのである」(デイヴィッド・リカード著『政治経済学・課税の原理』第七章の私訳)

 法律・言語・生活習慣などの違いによって、資本の移動にはリミットがかかる。資本家は不安を抱くから、自分が一番熟知している自国内へ優先的に投資をする。外国へ投資をする場合、自国では想像だにできない「落とし穴」にはまって、思わぬ形で損失を被る可能性がある。そしてリスク回避の思考が働く。だから、いくらグローバル化が進んだ現代でも、ヒト・モノ・カネすべてが簡単に国境を越えるとは言えないのである。
 そして、このことと関連して、浜氏は致命的なミスを犯している。

「この点との関連で、さらにもう一箇所、是非とも、ご覧いただきたい『国富論』の一節がある。前出部分のすぐ前の件りだ。直接引用はやめて、筆者の勝手翻訳的概要紹介で行きたい。スミス先生には申し訳ないが、それなりに冗長な箇所でもあるので、どうぞご勘弁を。
「ある一つの社会の年間収入は、常にその社会を構成する産業が生み出す年間産出額に等しい。ということは、要するに個々の社会構成員が地元産業の振興に向けて資本を懸命になって投下し、それらの産業の算出物の価値の最大化を目指して頑張れば頑張るほど、かれらは社会全体の年間収入の最大化にも自ずと貢献していることになるわけだ」
 この件りを読むと、「見えざる手」の箇所の意味が一段とよくわかる。要するに、『国富論』の世界は、基本的に国民経済が自己完結的な経済体系であることを前提にしている。人々の経済活動は、必ず、国内産業の生産水準の高まりと活力の向上につながる。なぜか。それは人々の経済活動が国境を超えないからである」(『新・国富論』pp.125-6)

「ところで、どの社会でも年間の収入はつねに、労働による年間の総生産物の交換価値に正確に一致する。というより、この交換価値とまったく同じものである。このため、各人が自分の資本をできるかぎり国内の労働を支えるために使い、しかも労働を生産物の価値がもっとも高くなるものに振り向けようと努力することになる。もっとも、各人が社会全体の利益のために努力しようと考えているわけでないし、自分の努力がどれほど社会のためになっているのかを知っているわけもない。外国の労働よりも自国の労働を支えるのを選ぶのは、自分が安全に利益をあげられるようにするためにすぎない」(『国富論』下巻p.31)

 なぜ、経済活動が国境を越えない、あるいは越えにくいのかは、スミスもリカードも明快に説明している。この点だけをとっても、浜氏が『新・国富論』などというタイトルの本を書く資格がないことがわかるだろう。
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2013年1月7日に日本でレビュー済み
浜矩子著、「新・国富論」を読む:
経済学説というものは、その時代が色濃く反映されたものであり、その時代背景を十分認識していないと、確かに、理解出来ないし、その価値の今日的な再認識なり、応用は、出来ないものであろう。何故、アダム・スミスなのであろうか?今日、ヒト・モノ・カネ(順番に注意!)が、簡単に、国境を越えて移動するグローバル経済では、カネが、ヒト、モノを引っ張り回し、企業が成長しても、必ずしも、人々はしあわせになるとは限らない。今や、国民国家も機能不全に陥っている。そもそも、国富論のタイトルは、An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations 「諸国民の富の性質と原因についての研究」であって、国民国家なくして、その経済学の誕生は、なされなかった。因みに、刊行された年には、アメリカ合衆国が、イギリスから独立するという時代背景があったことも見逃せない事実である。諸国民の富であって、諸国家の富ではない。それでは、「諸国民の富」の概念とは、一体何なのだろうか?国民国家とは、何なのであろうか?それは、国富という概念自体が、一国で、一定の自己完結性をもって初めて確立していることを前提としているのであれば、今日のこのグローバル社会とは、どのように、違うのであろうか?今日のグローバル社会とは、即ち、グローバル・サプライ・チェーンという巨大な構図そのものであると言い換えても過言ではない。モノづくりのためのヒトの役割分担は、今や、その中に、組み込まれていて、カネは、ヒトによるモノづくりの世界と袂を分かち、自分勝手に、一人歩きし始めてしまったと、アダム・スミスが、厳しく戒めた当時の重商主義者と今日の泥棒貴族達(ポール・クルーグマン教授が、こう表現しているが)とが、重なって見えてくるが、、、、、。労働価値説や見えざる手は今日、どのように理解したら良いのであろうか?
本書とともに、旅をすることにする。
グローバル長屋を、地球という長屋に例えて、ヨーロッパ長屋、アメリカ長屋等と呼称して話を現状分析しながら進めてゆく。但し、このグローバル長屋には、嘗てのパックス・アメリカーナや、ブリタニカのように、確固たる大屋が今や、不在で在り、皆んな店子ばかりであると。火消し役の欧州中央銀行もFRBも、本来の火消し役のはずが、火種を消すのではなくて、飲み込みながら、超えてはならない一線を、今や、超えつつ在り、不良債権を手許に抱え込み、本来、民間企業が、潰れるべき所を、国毎、倒産の危機に、陥りかねず、財政の壁から、更には、財政の崖へと、事態は、悪化の一途を辿りつつあるのが、現状であると。市場の失敗を補うのが、財政の主たる役目であるが、アメリカ長屋もニッポン長屋も、悩みは同じであり金利が、事実上、ゼロの近い所に押さえ込まれれば、体温計は、体温計の役目を果たさなくなりつつあると。次々と、財政出動しても、容易に、カネが、国境を越えるグローバル時代だから、高収益を求めて、どんどん国外に流出してしまい、金融緩和してもカネは国内には廻らないことになると、中央銀行が、事実上の国債買取機関化してしまい、財政から、規律というものがなくなり、独立性が失われつつある結果に陥ると、更には、LIBOの不正操作の件を引き合いにだしながら、究極の自主規制的な国際的な金融ガバナンスが、傷つけられ、人の褌で、相撲を取るところのウィンブルドン化現象が、とりわけ、金融ビッグバン以後に、顕在化してきたと。
(ヒト・モノ・カネ)の順ではなくて、今や、まず、カネが国境をいとも簡単に、何の未練もなく、超える以上、(カネ・モノ・ヒト)の順番に変質しつつあるようである。要するに、世界的な標準規格というグローバル化と称する流れは、おおいに、カネ先行で進行し、通商というテーマが廃れて、通貨が、全面に、押し出されてきた訳である。更に、それが、IT化の波と共に、ミセス・日本人妻という名前の一億総デイトレーダー化というFX等の為替取引とも相俟って、カネは、実体経済のモノからかけ離れたところで、一人歩きを始める訳である。そして、それに一番キリキリ舞いさせられるのが、実は、国民国家なのであると。それが、如実に色濃く反映させたものが、90年代のアメリカン・スタンダード(世界標準)であり、ゴールディロックス・エコノミーとその後のリーマン・ショックを経て、果てしなき安売り合戦や格差や貧困などの今日的な課題へと、導かれるのである。一時期、想い出せば、マスコミは、こぞって、「ストックから、フローへ」、或いは、「貯蓄から投資へ」(実際には、銀行預金=貯蓄で、証券、株や債券の購入=投資・投機へという大いなる誤解)と、掛け声も、勇ましく、まるで、開戦前夜の戦争待望論を鼓舞するかの如き様相であったことを想い起こす。カジノ金融へと変質してしまった。
筆者が、総括するように、確かに、
1. グローバル時代は、必ずしも、グローバル・スタンダードの時代ではない。
2. グローバル化とは、均一化ではなく、多様性である。
3. グローバル化は、巨大化ではなく、極小化である。
4. グローバル時代は、国民国家の危機である。
5. 地球時代は、逆に、地域の時代に他ならない。
そんな観点で、今日的な欧州EU危機や、超メタボ・キリギリスであるアメリカの財政の崖や、老青年のアリさん国家である日本のアベノミックス、天才子役の中国経済のハード・ランディング問題などを別の角度から、眺めるのもどうやら、価値がありそうである。よく考えてみれば、中国の富裕層と貧困の問題も、別の形で、日本にも程度の差はあれども、実際に、存在するし、アメリカにも、(we are the 99%)という反Wall Streetデモでもみられるような豊かさの中に併存する貧困問題の底流があるのは、事実である。新たなバランスというものは、如何にしたら、可能なのであろうか?
 再び、筆者は、アダム・スミスが異を唱えた当時の重商主義・労働価値説を考察する。商品の価値は、その生産にどれ程の労働が投下されたかによって、決まると、だとすれば、当時は、カネ=金貨をより多く獲得出来た人間が勝利者である以上、売る物の量が多ければ多いほど、代金が入手可能であるから、自ずと、保護主義(見えざる手に対するところの見える手である:権力)、植民地貿易の独占権という覇権争いの戦いに陥ることになる。これまで、人類は、三回のグローバル時代を経験しているが、国富論の時代は、第一次の大航海時代ではなくて、第二次の産業革命(蒸気機関と機械化)の18世紀から19世紀の初期の時代であり、我々は、今日、IT主役の第三次グローバル化時代である。これらに共通するものは、何なのであろうか?それは、著者によれば、「労働・市場・通貨」の三点セット:分業の利益であると、今日のスマホの分業生産の例を挙げつつ、説明してゆくことになる。分業の効率を確立化した上で、市場概念を導入し、これらが、結びつくことにより、一段の分業の高度化と生産性の向上に繋がる。市場は、広ければ広いほど、自由であれば自由であるほど、ベターであり、何人も何物も作意や恣意や裁量を施さないのに、社会の利益が促進され、国富は、極大化することになる。ところが、こうした見えざる手による結果的には最善のところに物事が落ちついて行く筈の「合成の勝利」は、実は、「合成の誤謬」という現象を招来してしまうと著者は云う。つまり、誰しもが、個別的にみれば、正しい選択をしているのに、正しい解答を誰もが選択する結果、全体としては、極めて不合理で不正解な結果に至ってしまうと。今日では、自己完結的な一国主義化ではなくて、グローバル・サプライ・チェーンという名前の究極の国際分業体制なのであり、交換動機こそが、国際分業を生み出す本源的な原動力であると。「見えざる手」への盲目的なお任せ主義ではなく、或いは、弱肉強食的な市場礼賛・原理主義でもなく、又、市場が、無謬性を有していることを主張しているのではなくて、むしろ、アダム・スミスは、分業に発達に伴う「人間の知性の退化」について、警告を発しているのではないかと、著者は、推論する。未開社会の思わぬ利点にも言及しながら、「選択と集中」ばかり、流行ったり、視野狭窄と大局観の欠如が、やたらはびこり、究極の国際分業の果てに透けて見えてくる低水準労働による極限的な人間疎外の問題の中で、何をすべきなのか、何が出来るのか、そして、何が出来なくなってしまったのかを、再度、「国富論」を読み解くことによって、考え直すことは、意義深いことであろうと。その意味で、「知性の退化」という問題提起は、現在のほとんど麻痺した我々の感性にとっては、大変、痛い言葉のように感じられるが、、、、、、、、。
 タイの大洪水や東日本大震災を通じて初めて垣間見えたグローバル市場のサプライ・チェーンの危うさは、これまでの一国市場主義や、所謂「国際競争力」や「○○立国」という言葉を、今や、何処かへ、置き去りにしてしまったのである。収益性と継続性を追求することこそが、企業の本質である以上、「公共の利益」を促進するということは、可能なのであろうか?第三次グローバル化時代は、「全体最適」は、「部分最適」を必ずしも保障する訳ではないし、明らかに、今や、そうではないことは、誰の眼にも、明らかである。国際分業が究極化し、自国の雇用が減少し、技術は流出し、風化して、地域経済は疲弊してしまい、空洞化と潜在的な金融リスクは、金融工学的な手法の下で、拡大し、通貨価値が上がるにも関わらず、その逆の成果に陥るという「解体の誤謬」という「全体は天国、個別は地獄」という大不正解な現象が、生じているのが、現実であると。国破れて、山河ありではなくて、今や、国破れて、或いは、企業敗れて、何もなしという状況に陥ってしまう。
 アップルのiPhoneやiPadを例に挙げつつ、羊羹チャートで、「その財の生産地と製造元企業の国籍が必ずしも一致しない」という現実を、複雑な第三次グローバル化時代の複雑なサプライ・チェーンの構造を、具体的に、詳細且つ、立体的に、解説する。
想い起こせば、生まれた年には、為替レートは、365円だったが、社会人になる頃には、308円、この間、金本位制の崩壊、国際基軸通貨であるドルの崩壊による管理通貨制に、オイル・ショック等、250円から、100円へ、更には、80円へ、そして、金融リスク・ヘッジの極小化の為に編み出されたはずの金融工学的な手法が、逆に、リターン極大化の為に、形を変えて、逆襲し始めて、為替デリバティブやら、FX取引(外国為替証拠金取引)や超円高、サブプライム・ローンによる不良債権の問題や、更には、超低金利、ゼロ金利政策による量的緩和金融政策までを招来してしまった。
 どうやら、どこのグローバル長屋も不甲斐なく、肝心のG8やG20という管理組合さんも、出来の悪い魔法使い同様、全く、当てにならず、もっぱら、経済成長優先のお題目を唱えながら、財政再建にこだわる処の話ではなさそうである。財政面でも金融面でも政策が窮地に陥り、次の一手が、期待されているが、具体的な効果が現れるような舵取りが、この著作の中でも、残念乍ら、示されていない。スミスの時代に考証された「労働価値説」も、今日では、クルーグマン教授が呼称した泥棒男爵やカジノ金融界の傲慢不遜なディーラー達の不当な高額所得に較べると、非正規雇用採用労働者の労働価値は、一体、如何ほどの違いがあるというのであろうか?今日的な労働価値説とは、このグローバル・サプライ・チェーンの真っ只中で、どういう意味合いを有するのであろうか?どうやら、我々は、知性の退化という現実の中で、形を変えて生き続ける見えざる手を見透かすだけの知性を身につけない限り、いつまでたっても、本質をみることが出来ないであろう。アダム・スミスやマルクスが生きていた時代やケインズが提唱した経済学も、今や、余りに、可動変数の増大化と多層化・複雑化が、国境を越えて進行した結果、因果関係の連鎖が、見極められなくなり、一長屋の利益が、他の長屋の足枷にもなり得る今日、どのように、地球規模での長屋の共通利益を、考えたら良いのであろうか?それとも、一国市場主義の自己完結的な保護主義的なブロック経済へと再び、舞い戻らざるを得ないのであろうか?そうした観点から、竹島や尖閣や、TPP議論を眺めることは、決して、意味のないことではなさそうである。
ケインジアンが前提としていたところの国民国家の政策機能も、今や、機能不全に陥りつつある以上、国民国家の経済運営、そのもの自体が、国民国家の存在を脅かしていると云えなくはない。それは、丁度、EUと個別加盟国との今日的な問題とも、何故か、不思議と重なり合わされる。
 著者は、最終章で、個別にリスト・アップされてきた42個に及ぶキーワードを基にして、ジグソー・パズルのピースを選り分け、組み合わせる作業に入ってゆくのである。ヒトの箱、モノの箱、カネの箱、クニの箱、そして、ワクの箱へと、、、、、、、、。ヒト・モノ・カネが、国境を越えることが、クニの自己完結性とその政策の効力を脅かしている以上、ワクを、改めて、考察し直す必要があると、著者は、展望する。そして、更に、その箱毎に、仕切りで区分を入れながら、小箱を並べ替えながら、ネーミングしてゆくことになる。どうやら、その形が、おぼろげながら、全体像が見えてきたようである。それは、要するに、どうやら、ドーナッツ状の(ヒト・モノ・カネ・クニの四つのアメーバー)が、連なる輪のようなもので、その穴が、どうも、(ワク)のブロックのようである。ワクの形は、これらの四つのアメーバー・ブロックの形によって、決定されるようで、逆に、その形が変化すれば、自ずと、ワクの形も可変すると、、、、、、、、、。本来、ワクというモノは、外側にあるから、枠であって、その中の世界の姿を規定するものである。そして、それが、枠の枠たる所以であるはずであるにも関わらず、今日の世界では、どうも、そうではないように思えてならないと著者は云う。このパズルは、動くパズルで、常に、連続的な目まぐるしく形を変えつつ浮遊するアメーバー・ドーナッツのようなものであると、、、、、、。
 どうやら、旅の行く末が、見えてきたようである。高度な社会的な分業は、実は、分かち合いそれぞれに得意分野毎に特化して、分割担当することで、効率を上げ、成果を高める支え合い、分かち合うことのようである。寄せ木細工的な生産体系が、グローバル・サプライ・チェーンの本質であるようだ。これまでの古典的な分業を基にした貿易理論や、二国二財モデル、比較優位理論では、今や、時代適合性を欠いていることは、間違いなさそうである。想えば、65年の構造不況も、その後の複合不況という名称も、景気循環を待ちつつ、どこかに、先進国の仲間入りをする上での構造的に通らなければならないひとつの日本と言うクニの枠内で議論されていたのかも知れない。結局の所、所得税が、或いは、法人税が安く、相続税もないクニへ、資産が最も効率的に運用できる場所へ、ヒト・モノ・カネが、いとも簡単に、国境を越えて、どんどん、吸収されていってしまい、富を求めて、国境を越えられない者達だけが、その内側に残されてしまうのか?こうなると、もはや、「国富論」ではなくて、皮肉にも、「国負論」状態になってしまう。著者は、最終的には、金融に如何にしてマトモさを呼び戻したらよいのか、金融の在り方を再現させるのには。動物園でもジャングルでもなく、むしろ、サファリパーク方式の体制が向いているのではないかと方向付け、そこに、ヒトの知恵と良識に、依存せざるを得ないとする。そして、最終的には、ヒトの価値に、労働価値に、舞い戻る。しかしながら、今日、国境を越えてどんどん、低レベルでフラット化してゆき、低位横並びであるとも云う。確かに、アダム・スミスは、「諸国民の富」と言っているのであって、決して、「諸国家の富」とか、「自国民」、「自国」とは言っていないのである。飽くまでも、「諸国民」なのである。「富」とは、国家に帰属するのではなくて、国民に帰属するモノなのである。そのことこそが、本のタイトルに潜む、今日的な課題なのかも知れない。'ケ小平が、生きていたら、習金平にどう言うであろうか?複雑な今日的なパズルの隠しピースは、どのようにはめられたら良いのであろうか?「見えざる手」は、権力による「見える手」ではなくて、「差し伸べる手」、やさしさのある、勇気ある手、知恵のある手であると、著者は云うが、、、、、、、、、。そして、今日の「新・重商主義」に対抗すべき基軸は、グローバル市民が、依って立つところの「地域共同体」であると云う。どうも、旅の最期は、何か、いつものように、学者先生に煙に巻かれたような結論であり、何か抽象的なユートピア的手法のような感がなくはない。現状分析には、成る程、ある程度は、役立つものの、今日的な課題を解決する処方箋を、この本の中に、期待することは、やや、難しいことであるかも知れない。まさに、著者が云う如く、我々は、未だ、「動くパズル」の中で、もがき、あがいているだけで、確たる処方箋が、示されているとは、どうやら、云えないのではないかと、思われてならない。余り、具体的な処方箋を期待しすぎると、読み終わった後に、若干、ガッカリするかも知れない。
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2013年1月24日に日本でレビュー済み
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以前から、浜さんの歯切れ良さが好きで、何冊か読みましたが、この本が一番分かりやすかったです。安部首相の経済政策の危うさが分かりました。一読の価値あり!!
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