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ある補佐役の生涯 豊臣秀長 下 (文春文庫 さ 1-15) 文庫 – 1993/4/9
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- 本の長さ345ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日1993/4/9
- ISBN-104167193159
- ISBN-13978-4167193157
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (1993/4/9)
- 発売日 : 1993/4/9
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 345ページ
- ISBN-10 : 4167193159
- ISBN-13 : 978-4167193157
- Amazon 売れ筋ランキング: - 180,476位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
作家、元経済企画庁長官。1935年大阪府生まれ。60年東京大学経済学部卒業後、通商産業省(現・経済産業省)入省。62年の通商白書で「水平分業論」 を展開して注目され、70年には日本万国博覧会を手がけた。78年同省を退官し、作家としての執筆活動を開始。98年7月から2000年12月まで、小渕 恵三内閣、森喜朗内閣で経済企画庁長官を務めた(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『東大講義録 文明を解く』(ISBN-10:4532195632)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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イメージ付きのレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
想像以上に面白かったです。私自身2通りの楽しみ方を味わいました。
1つ目は、ビジネス書としての楽しみ方。組織論や調整、根回しなど非常に勉強になる内容でした。
織田信長先輩みたいな方が会社のリーダーとして変革を与えていくのだと感じました。
2つ目は、歴史書としての楽しみ方。歴史知識の乏しい私は、大阪城の豊臣秀吉(羽柴って名前なんで付いてるの?)、
明智光秀(信長を裏切った人だっけ?)くらいのレベルしか把握しておりませんでした。
史実に基づいた内容で学校で習った教科書以上に当時の状況が分かりやすく記載されています。
登場人物が多くて相関関係などを整理しながら読むのも楽しかったですが、時々出てくる城(または現在は城跡)を
ネット地図で調べながら、当時のこんなとこでこんな戦があったのかあとしみじみ感じました。
何回でも読み直したいくらいの内容です。
合わせて、本に出てきた城めぐりをしてみたいなあと改めて思いました。
上下巻の2巻セット。
下巻は、元亀四年(1573年)の足利義昭による信長包囲網から、
天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」終了までが対象です。
つまり「賤ヶ岳の戦い」以降の過程は描かれていません。
同じ著者の作品「秀吉−夢を超えた男」に準じた内容で、上巻と同じく、、
1つ1つの歴的事実(丹波攻略、播磨攻め、毛利攻め、中国大返し、賤ヶ岳の戦い...etc)について、
「秀吉」視点であったものを「秀長」視点に変え、秀長の行動そして心情を描写しています。
構成も上巻と同様に、約8割が信長・秀吉が中心となって進む歴史的事実の記述であり、
秀長を中心とした行動と心情の描写は2割程度です。
兄・秀吉が関白そして太閤となる過程、利休との関係、四国攻め、九州征伐、
豊臣政権における武官・文官の間の対立の抑制などなど、
秀長の本領が発揮されたであろう出来事が描かれていないのは残念です。
しかし、秀長の行動・心情描写が全体の2割程度といっても、その2割の中に、、
会社勤めの人間として会社組織の中における身の処し方のヒントが詰まっています。
そのあたりの描写は、流石は堺屋太一氏です。
組織の中における身の処し方を考え始めた方にオススメの1冊です。
きっと、本書が良いヒントになるはずです。
今後の指針として、検討していきたいと思います。
秀吉の軍団は慢性人材不足。浅井の家来たちは織田家に直結したがるし、親類縁者も少ないので血族からの登用も厳しい。その一方、信長は怖いので旧浅井家の侍たちの中には身を隠している者も多い。秀吉の得た北近江は治めにくい地でもある。秀長は温厚という評判があったため、少しずつ浅井家の旧臣を抱えられるようになった。
織田信長は秀吉に筑前守の官位をもらってくる。織田信長がこのころにもらってきた官位から推測すると、羽柴、明智、丹羽には九州、柴田、滝川、徳川には東の端、奥羽、関東くらいを与え、残りの広大な部分を織田家直轄とする中央集権体制を信長は構想していたらしい。
毛利家は徐々に信長への警戒心を高めていく。信長はへり下っていたが毛利はもう誤魔化されない。毛利は、播磨や摂津の諸侯から雑賀、根来などまでつなげた共同戦線を計画する。播磨の豪族たちはどちらにつくべきか迷う。姫路にあった黒田如水は支持者の少ない織田についた方が高く評価されると考え、主君の小寺政職を秀吉に売り込む。
近江には近江式の帳簿があり、秀長はこれに感嘆する。これがきっかけとなって秀吉・秀長は近江者に対する見方を変える。利口そうな少年を探し出しては治世の忠臣にしようとした。福島正則や加藤清正らはこのときに集まってきた少年たち。石田三成や片桐且元、脇坂安治らもこのころの採用。
秀吉は毛利攻めの総司令官に任命される。このころ秀吉は息子・秀勝を7歳で失う。
上杉謙信が能登・加賀に侵攻してくると、秀吉は柴田勝家の指揮下に入れられるが、勝家と仲違いして許しもなく近江に戻る。叛意がないことを示すため長浜では連日酒宴を開く。このあたりの芸の細やかさに秀長は舌を巻く。秀長は必死に信長に詫びる。秀吉は許され、播磨に向かう。
信長の機嫌を取り結ぶため、長年の蓄えを吐き出す。秀吉は高利貸しから借金をして軍資金を集める。中国攻めに失敗すれば滅びるし、勝てば中国十カ国が手に入るので借金くらい返せる。
信長は物欲旺盛であり、部下からの献上品が多いのを子どもっぽく喜ぶ。だから、秀吉は戦のたびに多くの戦利品を上納した。それゆえに信長も秀吉を可愛がった。
播磨の別所長治らは毛利につく。秀吉は毛利軍の侵攻と別所らの反抗を実態以上に大袈裟に信長に伝える。直面した問題の困難性を過大に宣伝しておかなければ解決したあとの功賞が小さくなる。
毛利としては、味方である宇喜多直家の向背を見極めがたいのがネック。宇喜多をつなぎとめ播磨の諸侯を励ますために出兵せざるを得ないが、毛利家の基本は安全第一。
宇喜多直家は、備前浦上家を乗っ取って独立自営の大名となったが毛利家と主従関係にあったわけではない。尼子と組んで毛利と戦ったこともある。毛利が大きいので屈しただけで義理はない。秀吉は宇喜多を調略しようとするが直家も簡単には寝返らない。
上杉謙信は加賀や越前の一向一揆と結び、毛利とも連携して織田挟撃体制をつくる。この戦略は武田信玄の案の焼き直しであり、足利義昭の示唆によるものだろう。上杉謙信の西進に呼応して毛利水軍は本願寺に兵糧を運び込む。雑賀は決起し、松永久秀も反乱を起こす。しかし、おそらくは積雪のため、謙信は引き返した挙句、脳卒中で死んでしまう。
織田信長の基本戦略は、各方面に常任総司令官を持つ軍団を置き、間断なく戦いを挑ませるとともに、敵主力が出現したときには機動的に大軍を結集して兵力で圧倒するというもの。専業兵士団のため、兵農分離できていない他国はこれには音を上げた。
荒木村重が謀反を起こすが、なぜか村重の動きは遅い。織田信長は村重を重用しており、謀反の理由は不明。高山右近らが明智光秀の慰留工作によって村重に加担せず、村重の謀反はあっけなく終息する。
秀吉は、宇喜多直家のお気に入りの出入り商人である魚屋弥九郎(後の小西行長)を通じて直家に寝返りをすすめ、直家は村重の謀反の帰趨が決まった頃に織田に帰順。信長は直家を許さなかったが秀吉がとりなし、直家は許される。直家は、その子の八郎を秀吉に差し出す。この八郎が後の宇喜多秀家であり、秀吉の猶子となった。秀長も秀家を可愛がった。直家が死ぬと、秀吉は事実上、宇喜多家の大軍を直属化できた。
武田勝頼が自刃し、大敵が消えていく。大敵が消えれば誰かが粛清されていく、という不安も秀吉にはある。秀吉は、中国征伐のあと九州征伐をして朝鮮・唐・天竺に攻め入ると公言。自分の有用性を宣伝することで身の安泰を守ろうとする真剣な演技。
秀吉は、五カ国程度の割譲を条件として和議を申し入れつつ、信長の出馬を促す。信長が来るからこそ毛利も和議に応じる可能性がある。早急に決戦をしては不利だから時間稼ぎの和議談判を提唱する。信長が早急に来るようなら和議の条件を吊り上げて決裂させればいい。信長が来れないならそこそこの条件で和議を結んで備中一国なりとも確保する。無理な金策をしているため、何としても領地を広げて金主の商人たちの期待に応えねばならない。秀長は兄の政治センスに感心する。
ところが毛利はあっさりと五カ国割譲に応じる。秀吉は屁理屈をつけてごねる。こうなれば信長が出てこない方がいいが、信長は毛利を殲滅すべく出陣。
信長は、自分の死後についても明確な構想があった。後継者を信忠とし、他の兄弟たちは他家の養子に出す。その信長も本能寺の変で自分だけでなく信忠まで死んでしまうという事態だけは想定していなかった。
信長亡き後、柴田勝家と滝川一益は秀吉嫌いであり、味方してくれそうなのは丹羽長秀くらいだが頼りにならない。もっともマシな子である神戸信孝もどうやら秀吉を嫌っているらしい。そんなとき滝川一益が北条家に大敗し、これ以来、一益はすっかり精彩を欠いてしまう。
秀吉は、摂津などを池田恒興に攻めさせて恒興の格をアップさせた上で清洲会議に臨む。清洲会議後も、秀吉は丹羽長秀を饗応し、二人は盟友関係となる。
秀吉が長久手の戦いで負けながら有利な講和を結べたのは、秀長が伊勢・伊賀を攻めて信雄を抗戦不能状態に追い込んだから。秀長は、根来・雑賀や長宗我部元親を征伐し、九州全土を平定している。秀長が四隣をまたたくまに平定してしまったため、家康は小牧・長久手で局地的勝利を得ながら、秀吉の軍門に下らざるを得なくなる。秀長は軍事的才能にも恵まれていた。
秀長が生きていた間、秀吉は部下を斬ることはほとんどなかった。秀吉が残忍な処刑を多発させるのは秀長の死の直後から。
秀長にはおもしろいエピソードもないし、恋の話もないし、子どももいない。秀長はひっそりと病死している。