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日本への遺言: 福田恆存語録 (文春文庫 ふ 9-2) 文庫 – 1998/4/1
流行のイデオロギーに与せず、独自の道を貫いた孤高の思想家の入門篇。本当に信ずべき言葉とは何か、自分の目で確かめてください
- 本の長さ382ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日1998/4/1
- ISBN-104167258056
- ISBN-13978-4167258054
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (1998/4/1)
- 発売日 : 1998/4/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 382ページ
- ISBN-10 : 4167258056
- ISBN-13 : 978-4167258054
- Amazon 売れ筋ランキング: - 392,813位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,906位社会一般関連書籍
- - 5,049位文春文庫
- - 6,660位近現代日本のエッセー・随筆
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年1月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「意識のゆがみは、・・・まづ言葉の誤用から始る」といつた指摘からも理解されるやうに、我々日本人が人生のあらゆる局面で直面する問題に對し、どう考へたらよいかが示唆される、現在でも十分有用な福田恆存の指南の書である。
2016年1月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
凡百の保守派知識人とは異なる、文學者ならではの人間への洞察。「民主主義とは為政者の側が最も大事なことを隠すために詰らぬことを隠さぬやうにする政治制度である」
2018年4月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
経年劣化は覚悟していましたが、シミ、日焼け、カビ…さすがにひどいレベルでした
2015年10月16日に日本でレビュー済み
大正元年生まれの福田恆存は平和論への批判を早くから行つた保守派の論客で、同時にシェイクスピア戯曲作品の飜譯・上演でもよく知られ、戰後の昭和期を代表する思想家と言つてよいだらう。福田恆存の名を世間で有名にしたのは、進歩派全盛の中で昭和二十九年に『中央公論』に發表した「平和論の進め方についての疑問」で、進歩派の平和論を徹底的に批判した。また戰後の國語國字改革を批判し、金田一京助等との論争で「現代かなづかい」・「当用漢字」の不合理を指摘した。その集大成が歴史的假名遣ひのすゝめを説く『私の國語教室』である。
評者が最初に氏の著書に接したのも『私の國語教室』であつた。氏の考へに傾倒し、『福田恆存全集』を讀破しやうと思つても、凡人には甚だ荷が重い。その點、本書はこの全集に輯録されてゐる多岐に亙る論考を一旦全部を「解體」し、拔萃された文章を一頁以下に纏め直して輯録してゐるので、この本一册を讀めば、福田恆存が分かつた氣分になれる。編輯の仕方も「文化」、「政治」、「社會」等と言つた一般的な區分けをせずに、斷章が一見脈絡のない章の中に收められてゐるのが、新鮮で面白い。例へば、第一章の「惡」の中に「機會均等」といふ斷章が入つてゐる。現代日本の社會通念ではそれは「善」かもしれないが、この斷章の中で福田恆存は「自分でものを見、自分で考へる力を失つた社會集團にたいしては、機會均等ほど畫一主義の出現に都合のいい原理はない」と述べ、この文脈では、機會均等の手段はマス・コミといふ形をとつてゐて、マス・コミほど獨裁者に便利な機構はないといふことになり、「機會均等=惡」なのである。
印象に殘つた箇所を二、三紹介して見る。「民主主義の心理」といふ斷章の中で「民主主義政治の原理は、自分が獨裁者になりたくないといふ心理に基いてゐるのではなく、他人を獨裁者にしたくないといふ心理に基いてゐるのである。一口に言へば、その根本には他人に對する輕蔑と不信と警戒心とがある。さうと氣づいて貰へれば、『正義の主張は犯罪と心得べし』といふ私の忠告は極く素直に受入れられるだらう。(中略)民主主義の名の下に暴力を犯し、あるいは暴力を犯してそれを肯定するために民主主義を口實にする。さうかと思ふと、暴力は民主主義ではない、それに反するものだと言ひ、民主主義をもつてそれを説伏しよふとする。民主主義とはそれほど便利なものか」と述べてゐるが、誠に福田恆存らしい。
國語關係の論考は多い。「表音主義の誤ち」の斷章では、「明治以來の言語學者は西洋の體系をそのまま鵜呑みにして、大きな間違ひをしてゐる。大體、西洋では、まづ言葉があつて、といふのは音の集合體があって、それを文字に書き表すことを思ひつき、ローマ字のやうな表音文字を發明した。ところが日本では、なるほど原始生活をそのまゝ反映した和語はあつたが、それを文字に表はさうなどと思ひつかないうちに、支那の文字と言葉とが入つて來て、しかもそれが言葉よりは文字を中心に取入れられ、擴がつて行つたのである」と、西洋の言葉と日本語との違ひを述べ、漢字を追放することは日本語になつてゐる漢字の言葉を追放することになると、西洋の公式一つで國字改革を企てる表音主義者を窘めてゐる。
また、「言文一致」の斷章では、「明治以來の言文一致はその動機において正しかつたが、結果的には大變な誤りを犯したと、私は考へてをります。なによりの證據は私たちの文學が詩を失つてしまつたことです。といふことは、私たちが文學を失つたといふことです」と述べ、言文一致において、音聲言語の文語による鍛錬と格上げを考へることなしに、一方的に文字言語の口語による破壞と格下げしか考へなかつたからだと分析してゐる。
此の本を讀んで、もし物足りないと感じた方は是非とも『福田恆存全集』に挑戰されたい。
評者が最初に氏の著書に接したのも『私の國語教室』であつた。氏の考へに傾倒し、『福田恆存全集』を讀破しやうと思つても、凡人には甚だ荷が重い。その點、本書はこの全集に輯録されてゐる多岐に亙る論考を一旦全部を「解體」し、拔萃された文章を一頁以下に纏め直して輯録してゐるので、この本一册を讀めば、福田恆存が分かつた氣分になれる。編輯の仕方も「文化」、「政治」、「社會」等と言つた一般的な區分けをせずに、斷章が一見脈絡のない章の中に收められてゐるのが、新鮮で面白い。例へば、第一章の「惡」の中に「機會均等」といふ斷章が入つてゐる。現代日本の社會通念ではそれは「善」かもしれないが、この斷章の中で福田恆存は「自分でものを見、自分で考へる力を失つた社會集團にたいしては、機會均等ほど畫一主義の出現に都合のいい原理はない」と述べ、この文脈では、機會均等の手段はマス・コミといふ形をとつてゐて、マス・コミほど獨裁者に便利な機構はないといふことになり、「機會均等=惡」なのである。
印象に殘つた箇所を二、三紹介して見る。「民主主義の心理」といふ斷章の中で「民主主義政治の原理は、自分が獨裁者になりたくないといふ心理に基いてゐるのではなく、他人を獨裁者にしたくないといふ心理に基いてゐるのである。一口に言へば、その根本には他人に對する輕蔑と不信と警戒心とがある。さうと氣づいて貰へれば、『正義の主張は犯罪と心得べし』といふ私の忠告は極く素直に受入れられるだらう。(中略)民主主義の名の下に暴力を犯し、あるいは暴力を犯してそれを肯定するために民主主義を口實にする。さうかと思ふと、暴力は民主主義ではない、それに反するものだと言ひ、民主主義をもつてそれを説伏しよふとする。民主主義とはそれほど便利なものか」と述べてゐるが、誠に福田恆存らしい。
國語關係の論考は多い。「表音主義の誤ち」の斷章では、「明治以來の言語學者は西洋の體系をそのまま鵜呑みにして、大きな間違ひをしてゐる。大體、西洋では、まづ言葉があつて、といふのは音の集合體があって、それを文字に書き表すことを思ひつき、ローマ字のやうな表音文字を發明した。ところが日本では、なるほど原始生活をそのまゝ反映した和語はあつたが、それを文字に表はさうなどと思ひつかないうちに、支那の文字と言葉とが入つて來て、しかもそれが言葉よりは文字を中心に取入れられ、擴がつて行つたのである」と、西洋の言葉と日本語との違ひを述べ、漢字を追放することは日本語になつてゐる漢字の言葉を追放することになると、西洋の公式一つで國字改革を企てる表音主義者を窘めてゐる。
また、「言文一致」の斷章では、「明治以來の言文一致はその動機において正しかつたが、結果的には大變な誤りを犯したと、私は考へてをります。なによりの證據は私たちの文學が詩を失つてしまつたことです。といふことは、私たちが文學を失つたといふことです」と述べ、言文一致において、音聲言語の文語による鍛錬と格上げを考へることなしに、一方的に文字言語の口語による破壞と格下げしか考へなかつたからだと分析してゐる。
此の本を讀んで、もし物足りないと感じた方は是非とも『福田恆存全集』に挑戰されたい。
2010年12月14日に日本でレビュー済み
初めて著者の本を手に取った。その動機は「保守派」として名前があがることが多いのでその考えに触れてみたいと思ったから。「まだ一冊も著書を読んだことのない人などに、手ごろな入門書を提供できたら」のという編者の意図の下に、一ページごとにテーマに沿った文章の抜粋という形式がとられている。よって細切れされすぎている印象はぬぐえない。しかし実際私にとって、著者の落ち着きのある文章と縦横に本質を語っていく姿はとても勉強になった。そして何より読みやすい。
読んでいくにつれて感想として、著者は「保守派」という肩書きは超越していると感じた。言葉や社会的な趨勢に鋭く疑う姿勢を目の当たりにするので、とてもじゃないがそのような単純な枠だけで著者を理解できるとは思わないし、逆に貶めることに当たるかもしれない。「私は…特定の肩書きを自分につけずに人間として生きたい」との著者の言葉は、まず最初に著者を思い浮かべるうえで、一番大切なことではないだろうか。
読んでいくにつれて感想として、著者は「保守派」という肩書きは超越していると感じた。言葉や社会的な趨勢に鋭く疑う姿勢を目の当たりにするので、とてもじゃないがそのような単純な枠だけで著者を理解できるとは思わないし、逆に貶めることに当たるかもしれない。「私は…特定の肩書きを自分につけずに人間として生きたい」との著者の言葉は、まず最初に著者を思い浮かべるうえで、一番大切なことではないだろうか。
2008年6月18日に日本でレビュー済み
福田氏の「日本への遺言」を10年ぶりに読んでみた。
以前は、日本をされに理解するため、そして海外の人間に日本を説明するために。批判精神旺盛な当時の私は、この本の読みやすさもあって、多いの影響され、外人について日本を説いてまわったものだ。
今見ると、多少抽象的な点はあるものの、今だにポイントが「新しさ」感じさせる不思議な重みを持つ。自分の成長に合わせて、新たな発見させてくれる洞察力の富む貴重な「遺言」。
以前は、日本をされに理解するため、そして海外の人間に日本を説明するために。批判精神旺盛な当時の私は、この本の読みやすさもあって、多いの影響され、外人について日本を説いてまわったものだ。
今見ると、多少抽象的な点はあるものの、今だにポイントが「新しさ」感じさせる不思議な重みを持つ。自分の成長に合わせて、新たな発見させてくれる洞察力の富む貴重な「遺言」。
2002年5月2日に日本でレビュー済み
8巻にわたる全集だってある福田恒存さんの名言を、編者が選り抜き、小見出しをつけてまとめた本です。すべての言葉は、1ページ内におさまるものとなっています。福田さんの名言集ですから、深い言葉ばかりが掲載されているのは当然といえば当然です。が、いかんせん「1ページ以内に収まる量」という制約のもとでまとめられたものであるため、やや深みに欠け、原典が読みたくなってしまいます。また、小見出しも、「?」と少し首を傾げたくなるようなものもあります。それでも興味深い本であることには変わりはなく、福田氏の思想にわずかなお金でアクセスする事のできる、貴重な書ではあるでしょう。(他に『日本への遺言』『わたしの幸福論』『人間・この劇的なるもの』があります)
私としては、はじめて!!福田恒存さんの本を読まれるという方には、この本は薦められないと思います。理由は、福田さんの思想が断片的に納められているにとどまるからです。はじめてのかたには、前述の3冊の方がよろしいかとおもいます。
私としては、はじめて!!福田恒存さんの本を読まれるという方には、この本は薦められないと思います。理由は、福田さんの思想が断片的に納められているにとどまるからです。はじめてのかたには、前述の3冊の方がよろしいかとおもいます。
2004年7月8日に日本でレビュー済み
福田恆存。人は彼の名前から何を連想するだろうか。保守。右翼。歴史的仮名遣い。シェイクスピアの翻訳者。などなど。いずれにせよ、旧い人として認識されているのではないだろうか。
無思慮な右翼が幅を利かせ、コスチュームプレイとしての歴史的仮名遣いがにわかに流行っているようだ。しかしながら、福田恆存は右翼は右翼でも、妄信的な懐古主義・復古主義を奉ずる輩とは一線を画している。合理的な手続きをちゃんと踏んでいる。その上で、安易で、欺瞞的で、自虐的な革新派の意見を退けているだけのことである。仮名遣いの問題にしても、単なるノスタルジーに由来するものではない。やはり合理主義に立脚するものである。
右翼は合理的ではない。そういった偏見があるようだが、福田恆存の意見に触れるたびに、それが嘘だとわかる。右翼であれ、左翼であれ、本物は必ず理にのっとっているのである。ただ福田恆存は、既成のものを理知的に評価しなおしているだけである。徒に伝統的なものを崇め奉っているわけではない。
福田恆存アンソロジーたる本書を読むと、あっと驚くような警句に触れることもあろう。しかし、極めて真っ当な手続きによるものである。少し古くなり、今では受け入れられないような意見もあるかもしれないが、一度は読んでいただきたい一冊である。筋を通した人の姿がそこにある。
無思慮な右翼が幅を利かせ、コスチュームプレイとしての歴史的仮名遣いがにわかに流行っているようだ。しかしながら、福田恆存は右翼は右翼でも、妄信的な懐古主義・復古主義を奉ずる輩とは一線を画している。合理的な手続きをちゃんと踏んでいる。その上で、安易で、欺瞞的で、自虐的な革新派の意見を退けているだけのことである。仮名遣いの問題にしても、単なるノスタルジーに由来するものではない。やはり合理主義に立脚するものである。
右翼は合理的ではない。そういった偏見があるようだが、福田恆存の意見に触れるたびに、それが嘘だとわかる。右翼であれ、左翼であれ、本物は必ず理にのっとっているのである。ただ福田恆存は、既成のものを理知的に評価しなおしているだけである。徒に伝統的なものを崇め奉っているわけではない。
福田恆存アンソロジーたる本書を読むと、あっと驚くような警句に触れることもあろう。しかし、極めて真っ当な手続きによるものである。少し古くなり、今では受け入れられないような意見もあるかもしれないが、一度は読んでいただきたい一冊である。筋を通した人の姿がそこにある。