星野博美は1996年から98年まで中国への返還前後の香港にどっぷり浸かった。本書は帰国後の東京での3年間。ほぼ書き下ろしのエッセイ。
住み慣れたはずの東京、なのにどこもかしこもおかしく感じられる。一種のカルチャーショック。そのなかで、香港のルポをまとめるという孤独な作業に取り組む。待っていたのはバーンアウト。燃え尽きてしまったのかもしれない。
エッセイの舞台は西荻や吉祥寺のファミレスや銭湯。ファミレスの店員の対応がどうしても理不尽に感じられる(それは星野の鬱屈した心の反映なのかもしれない)。行きつけの銭湯では、どっしりとしたアフロディーテに遭遇し、感動したりもする。
全体的なトーンは明るくない。でも、この長いトンネルを抜けてゆかなければ、次の星野博美はやってこなかった。『コンニャク屋漂流記』、『みんな彗星を見ていた』や『世界は五反田から始まった』をいま読めるのは、このトンネルがあったからだ。トンネルの果て、最後は少しだけ光が見えてくる。
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銭湯の女神 (文春文庫 ほ 11-1) 文庫 – 2003/12/1
星野 博美
(著)
三十を過ぎてから銭湯通いなんて、十年前には考えてもいなかった
いとしい香港から戻ってみれば、異和感のなかに生きる私がいた。銭湯とファミレスから透視した、「東京」をめぐる39の名エッセイ
いとしい香港から戻ってみれば、異和感のなかに生きる私がいた。銭湯とファミレスから透視した、「東京」をめぐる39の名エッセイ
- 本の長さ283ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2003/12/1
- ISBN-104167656884
- ISBN-13978-4167656881
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2003/12/1)
- 発売日 : 2003/12/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 283ページ
- ISBN-10 : 4167656884
- ISBN-13 : 978-4167656881
- Amazon 売れ筋ランキング: - 604,619位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 7,063位文春文庫
- - 9,698位近現代日本のエッセー・随筆
- - 13,739位日本文学
- カスタマーレビュー:
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2024年3月8日に日本でレビュー済み
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2004年7月18日に日本でレビュー済み
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~一読して、まず感じたのは、年相応で等身大の、誠実な文章だなあということでした。
長い海外旅行や人生経験のなかで感じたこと、思ったことを、友人のくちから直接きいているような気分になることがあって、それが私には嬉しかったし、気持ちよかったです。
信頼できそうな友人の、まっすぐで心のこもった信用に足る話。それを酒でも飲みながら聞いている~~ような気分。
はっきりいって「おい、それは違うだろ」とツッコミを入れたくなるような部分もあったし、こんなことをいうのは、じつにじつにまことにすいませんが、年上のオヤジの私の目には「若いなあ」と思うところも、多々あった。もちろん、「すばらしいなあ、かなわないなあ」と感心するところも、あった。しかし書き手の未熟さも成熟した部分もふくめ~~て、「ありのまま」の等身大の著者が、そのまま本のなかで息づいているのが、とっても素晴らしい。
器用じゃなくて、よかったね。文章のテクが先行しなくて、よかったね。いや、皮肉じゃなくて、ほんとうに。
たくさん損をしたり失敗したりしながらも、うんざりするほどの回り道をしながらも、まっすぐに生きようとしているひとは、素晴らしいなあ。そして~~それを一生懸命に書いて、表現して、それがこういう本にまとまっているのは、素晴らしいなあと思いました。~
長い海外旅行や人生経験のなかで感じたこと、思ったことを、友人のくちから直接きいているような気分になることがあって、それが私には嬉しかったし、気持ちよかったです。
信頼できそうな友人の、まっすぐで心のこもった信用に足る話。それを酒でも飲みながら聞いている~~ような気分。
はっきりいって「おい、それは違うだろ」とツッコミを入れたくなるような部分もあったし、こんなことをいうのは、じつにじつにまことにすいませんが、年上のオヤジの私の目には「若いなあ」と思うところも、多々あった。もちろん、「すばらしいなあ、かなわないなあ」と感心するところも、あった。しかし書き手の未熟さも成熟した部分もふくめ~~て、「ありのまま」の等身大の著者が、そのまま本のなかで息づいているのが、とっても素晴らしい。
器用じゃなくて、よかったね。文章のテクが先行しなくて、よかったね。いや、皮肉じゃなくて、ほんとうに。
たくさん損をしたり失敗したりしながらも、うんざりするほどの回り道をしながらも、まっすぐに生きようとしているひとは、素晴らしいなあ。そして~~それを一生懸命に書いて、表現して、それがこういう本にまとまっているのは、素晴らしいなあと思いました。~
2015年12月7日に日本でレビュー済み
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「転がる香港」から帰ってきて、「のりたま」と同時期に書かれたであろう作品集。
星野さんのカメラワークは健在で、救われる文章が多くて好きだ。「のりたま」よりもホッとする。
個人的には「ぼんくら」が大好きだ。思い出の場所に行ってみれば情けない事ばかり思い出すんだよなぁ。
星野さんのカメラワークは健在で、救われる文章が多くて好きだ。「のりたま」よりもホッとする。
個人的には「ぼんくら」が大好きだ。思い出の場所に行ってみれば情けない事ばかり思い出すんだよなぁ。
2012年4月6日に日本でレビュー済み
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本書は銭湯とファミレスを周遊する暮らしから芽生えた思いを綴った29のエッセイです。
表題作「銭湯の女神」では銭湯好きな筆者が人前で裸になる、人の裸を見ることで様々な
人間模様がわかり、銭湯だからこそ味わうことができることを語っている。
そしてファミレスに通い、店員、客、それぞれの人生の一瞬を垣間見ながら、シャープな
文章力で描いている。しかし筆者は銭湯でもファミレスでも誰かと話すことはない、ただ
観察してるだけである。そして筆者はファミレスに通う理由として次のように語っており
それが筆者の思いが伝わってくる。
「人とつながっていたい、でも魂に触れたいわけではない、誰とも接触したくないし、し
ゃべりたくない、ただ人がいる場所にいたい、それだけ」
表題作「銭湯の女神」では銭湯好きな筆者が人前で裸になる、人の裸を見ることで様々な
人間模様がわかり、銭湯だからこそ味わうことができることを語っている。
そしてファミレスに通い、店員、客、それぞれの人生の一瞬を垣間見ながら、シャープな
文章力で描いている。しかし筆者は銭湯でもファミレスでも誰かと話すことはない、ただ
観察してるだけである。そして筆者はファミレスに通う理由として次のように語っており
それが筆者の思いが伝わってくる。
「人とつながっていたい、でも魂に触れたいわけではない、誰とも接触したくないし、し
ゃべりたくない、ただ人がいる場所にいたい、それだけ」
2002年5月2日に日本でレビュー済み
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「転がる香港に・・・」続き、一気に半日で読み終えてしまった。
今20代、30代の方達にはぜひ読んで頂きたい一冊です。この裕福と思われる日本に生きている私たちをもう一度考え直させるものです。
作者の人物観察には特に優れた繊細さがあり、それにどんどん引き込まれていき、最後には読者自分自身をも考えさせるものとなっているのです。今の私たちに足りない物はモノは何なのか、この本を読んだ後にまた考えてほしい。次の世代の親になる私たちにまた、人間として人らしく生きることをもう一度考えて欲しい人たちに読んで欲しい一冊です。
今20代、30代の方達にはぜひ読んで頂きたい一冊です。この裕福と思われる日本に生きている私たちをもう一度考え直させるものです。
作者の人物観察には特に優れた繊細さがあり、それにどんどん引き込まれていき、最後には読者自分自身をも考えさせるものとなっているのです。今の私たちに足りない物はモノは何なのか、この本を読んだ後にまた考えてほしい。次の世代の親になる私たちにまた、人間として人らしく生きることをもう一度考えて欲しい人たちに読んで欲しい一冊です。
2020年10月30日に日本でレビュー済み
エッセイ集『銭湯の女神』(星野博美著、文春文庫)は、一言で言えば、文句なしに面白い。
「私がテーブルを買う時」は、こんな文章で結ばれています。「勤め人でないという理由ではなく、フリーランスという理由でもなく、裕福でないという理由でもなく、世間の潮流に懐疑的という理由でもなく、結婚していないという理由でもなく、女だという理由でもなく、日常が旅に侵食されているというただ一つの理由だけで、多くの人々が当然のように送っている日常生活を自分は送ることができない。それが、時々こたえる。私にもいつか、自然な欲求からテーブルを買いたいと思う日が来るのだろうか? そしてそれはどんな時なのだろう? その日が来るのが楽しみでもあるし、もし本当にそんな日が来たら、案外落ち込みそうな気もする」。
「大女」とは、著者自身を指しています。「体の大きさをコメントされるだけならまだいいが、困るのは男と間違えられることだ、女子トイレで女性をたじろがせたことは数知れず。銭湯で女湯に入ろうとしたところを止められる。・・・性別・女性、年齢・三十五歳、国籍・日本。どうしたら、誰から何もいわれずに、そのように見られるのだろうか。私は放っておいてほしいだけなのだ。そしてそう見られるためにどれだけの努力が必要なのかと考えると、人生を根本からやり直さなければならないような気がする。大きく生まれてしまったことがすべての原因だ。もし自分が小女に生まれていたら? 私が『もし』を考えるのは、そんな時である」。
「ストレスを おふろで流す きゅうもまた」は、銭湯大好き人間の面目躍如です。「銭湯に通っている。酔狂ではなく、切実に。正直いって、三十を過ぎてから銭湯通いをするという将来を十年前には想定していなかった。十年前も銭湯に通っていた。が、それは自分が若いから貧乏なだけで、これからの人生は、急激とはいえずとも緩やかなカーブを描いて自然に上昇していくはずだと、何の根拠もなくそう考えていた。安定した将来というものは、特に努力をしなくても自然と向こうからやって来る類いのものだと思っていた。確かに何の根拠もない無邪気な将来設計だった。・・・現在は開き直って銭湯生活を楽しんでいる。・・・『ストレスを おふろで流す きょうもまた』。これは玉の湯の壁に貼ってあった、東京都公衆浴場業生活衛生同業組合の銭湯推進キャンペーンのうたい文句である。結局、金を貯めてストレスもためるか、ストレスを流して金も流すか、どちらかを選べということなんだろう」。
「銭湯の女神」は、本書の白眉です。「人は一生の間に、一体何人の生身の裸を見るのだろう?・・・(銭湯で)裸の人々を眺めていると、その行動のあまりの多様さに、希望か絶望かよくわからない、底なし沼のような感情に陥ることがある。・・・最近私は銭湯通いにささやかな喜びを見出した。お気に入りのアイドルが出現したのだ。銭湯へ行って彼女の姿を見つければ、それだけで嬉しくなり、彼女がいないだけで損をしたような気分になる。・・・私は勝手に、彼女に『ふき子』という名を付けた。・・・ふき子は身長一六三センチの体重七二キロと私は踏んでいる。一重まぶたにぼったりしたおかめのような顔、髪は明るい茶色に染め、肌はひな人形のように白い。日本的スタンダードからいえば肥りすぎだし、彼女自身もそれを気にしているようで、いつもだっぷりしたジャンパースカートを穿いている。しかし私には、縄文土器のようなふき子の豊満な体は、本来女体が備え持つべきたくましさと気高さをすべて内包した輝かしい肉体に思える。もう一度生まれ変わることができるなら、ふき子の赤ん坊として生まれ、あの豊満な肉の塊に抱きしめられて眠りたい。属性としては一応女性に属する私にそう思わしめるほど、彼女の肉体は神々しい。彼女は、私の本能部分での憧れの女性である。・・・(ある土曜日の午後、近所で見かけた女性の服装、髪は)美しくなろうと力を入れれば入れるほど奇妙になっていくという、究極的なセンスの悪さのようなものが彼女にはあった。突然私は猛烈な不安に襲われた。彼女の体つきが、ふき子とよく似ていたのだ。・・・やはりふき子だった。ほほえんだらヒビ割れができそうなほどファンデーションを厚く塗りたくり、真っ赤な口紅をさした、私が見たことのないふき子だった。・・・私は大声を上げたくなった。あなたの素晴らしさを私は知っている。誰よりも、一番よく知っている。あなたには服をまとう必要なんてない。あなたは裸のままで十分だ。どうか。そんな自信のなさそうな顔はしないで。裸のあなたはあれほど自信に満ち溢れているのに。私は裸のあなたが好きだ。裸のあなたが、大好きだ」。
星野博美という書き手を好きになってしまいました。私はあなたの文章が好きだ。自由気ままな文集が、大好きだ。
「私がテーブルを買う時」は、こんな文章で結ばれています。「勤め人でないという理由ではなく、フリーランスという理由でもなく、裕福でないという理由でもなく、世間の潮流に懐疑的という理由でもなく、結婚していないという理由でもなく、女だという理由でもなく、日常が旅に侵食されているというただ一つの理由だけで、多くの人々が当然のように送っている日常生活を自分は送ることができない。それが、時々こたえる。私にもいつか、自然な欲求からテーブルを買いたいと思う日が来るのだろうか? そしてそれはどんな時なのだろう? その日が来るのが楽しみでもあるし、もし本当にそんな日が来たら、案外落ち込みそうな気もする」。
「大女」とは、著者自身を指しています。「体の大きさをコメントされるだけならまだいいが、困るのは男と間違えられることだ、女子トイレで女性をたじろがせたことは数知れず。銭湯で女湯に入ろうとしたところを止められる。・・・性別・女性、年齢・三十五歳、国籍・日本。どうしたら、誰から何もいわれずに、そのように見られるのだろうか。私は放っておいてほしいだけなのだ。そしてそう見られるためにどれだけの努力が必要なのかと考えると、人生を根本からやり直さなければならないような気がする。大きく生まれてしまったことがすべての原因だ。もし自分が小女に生まれていたら? 私が『もし』を考えるのは、そんな時である」。
「ストレスを おふろで流す きゅうもまた」は、銭湯大好き人間の面目躍如です。「銭湯に通っている。酔狂ではなく、切実に。正直いって、三十を過ぎてから銭湯通いをするという将来を十年前には想定していなかった。十年前も銭湯に通っていた。が、それは自分が若いから貧乏なだけで、これからの人生は、急激とはいえずとも緩やかなカーブを描いて自然に上昇していくはずだと、何の根拠もなくそう考えていた。安定した将来というものは、特に努力をしなくても自然と向こうからやって来る類いのものだと思っていた。確かに何の根拠もない無邪気な将来設計だった。・・・現在は開き直って銭湯生活を楽しんでいる。・・・『ストレスを おふろで流す きょうもまた』。これは玉の湯の壁に貼ってあった、東京都公衆浴場業生活衛生同業組合の銭湯推進キャンペーンのうたい文句である。結局、金を貯めてストレスもためるか、ストレスを流して金も流すか、どちらかを選べということなんだろう」。
「銭湯の女神」は、本書の白眉です。「人は一生の間に、一体何人の生身の裸を見るのだろう?・・・(銭湯で)裸の人々を眺めていると、その行動のあまりの多様さに、希望か絶望かよくわからない、底なし沼のような感情に陥ることがある。・・・最近私は銭湯通いにささやかな喜びを見出した。お気に入りのアイドルが出現したのだ。銭湯へ行って彼女の姿を見つければ、それだけで嬉しくなり、彼女がいないだけで損をしたような気分になる。・・・私は勝手に、彼女に『ふき子』という名を付けた。・・・ふき子は身長一六三センチの体重七二キロと私は踏んでいる。一重まぶたにぼったりしたおかめのような顔、髪は明るい茶色に染め、肌はひな人形のように白い。日本的スタンダードからいえば肥りすぎだし、彼女自身もそれを気にしているようで、いつもだっぷりしたジャンパースカートを穿いている。しかし私には、縄文土器のようなふき子の豊満な体は、本来女体が備え持つべきたくましさと気高さをすべて内包した輝かしい肉体に思える。もう一度生まれ変わることができるなら、ふき子の赤ん坊として生まれ、あの豊満な肉の塊に抱きしめられて眠りたい。属性としては一応女性に属する私にそう思わしめるほど、彼女の肉体は神々しい。彼女は、私の本能部分での憧れの女性である。・・・(ある土曜日の午後、近所で見かけた女性の服装、髪は)美しくなろうと力を入れれば入れるほど奇妙になっていくという、究極的なセンスの悪さのようなものが彼女にはあった。突然私は猛烈な不安に襲われた。彼女の体つきが、ふき子とよく似ていたのだ。・・・やはりふき子だった。ほほえんだらヒビ割れができそうなほどファンデーションを厚く塗りたくり、真っ赤な口紅をさした、私が見たことのないふき子だった。・・・私は大声を上げたくなった。あなたの素晴らしさを私は知っている。誰よりも、一番よく知っている。あなたには服をまとう必要なんてない。あなたは裸のままで十分だ。どうか。そんな自信のなさそうな顔はしないで。裸のあなたはあれほど自信に満ち溢れているのに。私は裸のあなたが好きだ。裸のあなたが、大好きだ」。
星野博美という書き手を好きになってしまいました。私はあなたの文章が好きだ。自由気ままな文集が、大好きだ。
2009年11月15日に日本でレビュー済み
2001年に出た単行本の文庫化。
39編のエッセイが収められている。内容はきわめて雑多で、銭湯、ファミレス、香港、船会社での仕事、歴史教育、横断、携帯電話、うどんなど。
しかし、いい文章を書く人だ。読みやすく、温かく、自分自身をネタにするユーモアも面白い。そしてなにより、現代日本への透徹した視線が印象的だ。上滑りの文明論でもなく、さかしげな若者批判でもなく、自分自身の目で見た「現代日本の抱える問題と、その原因」がクッキリと、心打つように描き出されているのだ。
読み終わって、どこか悲しい。
銭湯の本ではないので、ご注意。
39編のエッセイが収められている。内容はきわめて雑多で、銭湯、ファミレス、香港、船会社での仕事、歴史教育、横断、携帯電話、うどんなど。
しかし、いい文章を書く人だ。読みやすく、温かく、自分自身をネタにするユーモアも面白い。そしてなにより、現代日本への透徹した視線が印象的だ。上滑りの文明論でもなく、さかしげな若者批判でもなく、自分自身の目で見た「現代日本の抱える問題と、その原因」がクッキリと、心打つように描き出されているのだ。
読み終わって、どこか悲しい。
銭湯の本ではないので、ご注意。
2007年8月6日に日本でレビュー済み
東京生活を描いたエッセイ集。香港生活体験が話に厚みをくわえています。
爆笑ものエッセイありで楽しいです。なかなかいい「落ち」が最後の
一行にはいっていて、関西人もうなってしまううまさがあります。
一方、人と人との会話なしの、いわゆる都会文化に恐怖を感じるような深刻な話もあります。
いわゆる”おたかくとまった”ご見解(関西弁でいちびった)エッセイではなく
生活の現場そのものから”丁寧に練られた”エッセイで、読んでいて楽しく
著者のほかの作品も読みたくなります。挿絵の写真もすばらしいです(3枚だけ
ではものたりない。もっと見たいなあ。)
読んでいて誠実さと人間的スケールの大きさがつたわってきます。
私はすっかりファンになりました。
爆笑ものエッセイありで楽しいです。なかなかいい「落ち」が最後の
一行にはいっていて、関西人もうなってしまううまさがあります。
一方、人と人との会話なしの、いわゆる都会文化に恐怖を感じるような深刻な話もあります。
いわゆる”おたかくとまった”ご見解(関西弁でいちびった)エッセイではなく
生活の現場そのものから”丁寧に練られた”エッセイで、読んでいて楽しく
著者のほかの作品も読みたくなります。挿絵の写真もすばらしいです(3枚だけ
ではものたりない。もっと見たいなあ。)
読んでいて誠実さと人間的スケールの大きさがつたわってきます。
私はすっかりファンになりました。