ふと立ち寄った妙な喫茶店「並木」。どう見ても普通の民家であり、主人公の男は二階の六畳間に案内される。最初にコーヒーと砂糖壺が運ばれて来たきり後はおかまいなしで、何をするでもなく煙草を吸ってひとり小一時間を潰す。男はそれから10年、気が向くと「並木」に足を運ぶようになる。男にとって「並木」は“ゆるやかな記憶の甦りに身を委ねる場所”だった......
主人公と「並木」の女主人、従業員の関係も良い。顔を出すと“口許に旧知の人を認めたときの笑みが浮かぶように”なるが“べつだん何か親しい言葉を交わすような間柄になったわけ”ではない。そんな関係について主人公はこう語る。“行きつけの店ができても主人や店員と顔馴染みになって個人的なお喋りに興じたり、ちょっとしたわがままを言って特別扱いしてもらったりするような関係になるのは、煩わしく田舎臭いことのように思われた。今日はといらっしゃいませとで済んでゆくのがいちばん面倒がなくてよい”。
松浦寿輝の小説はまさに「喫茶・並木」のような味わいである。“ふと人の気配の途絶えた他人の家にするりと入りこみ、束の間の居候のようにして仮の時間を過ごすといった奇妙な快楽”。
紹介した「並木」のほかにも、“無関係”の関係の居心地のよさ、仮の時間を過ごす快楽を、束の間味わえる魅惑的な短編が詰まっている。夢と現にことさら境界線を引きたがるような人にはまったく向いていない小説ではあるけれど。
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もののたはむれ (文春文庫) 文庫 – 2005/6/10
松浦 寿輝
(著)
- 本の長さ207ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2005/6/10
- ISBN-104167703017
- ISBN-13978-4167703011
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2005/6/10)
- 発売日 : 2005/6/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 207ページ
- ISBN-10 : 4167703017
- ISBN-13 : 978-4167703011
- Amazon 売れ筋ランキング: - 362,974位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2016年11月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
予想以上の面白さでした。
著者の作品は河の光で初めて知ったのですが、
文章の何とも言えないリズムのような感覚がとても好きでした。この、もののたはむれ はその特徴が際立った作品のように思います。ゾッとする美しさ、とでもいうのでしょうか。昭和の始めの頃が頭の中に映像化されていきます。
著者の作品は河の光で初めて知ったのですが、
文章の何とも言えないリズムのような感覚がとても好きでした。この、もののたはむれ はその特徴が際立った作品のように思います。ゾッとする美しさ、とでもいうのでしょうか。昭和の始めの頃が頭の中に映像化されていきます。
2005年6月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
松浦寿輝の処女小説。評論『エッフェル塔試論』を除くと、小説では初の文庫化。松浦氏の文体はある種のトランス状態をもたらすが、本書では、近作にみられるようなねっとりとまとわりついてくるような文体はまだ新芽の段階にあり、短編集であることも読みやすさを助長している。それでいて、氏のその後の方向性を伺わせるには十分であり、松浦小説の入門書として最適といえる。
氏の道程は、生きることの困難なご時世にあって、なんとかして自分が落ち着ける場所を探し求め、自らを定位しようとする不断の試みであるといえる。ところが、氏においては、ようやく自らを定位したかと思うと、その空間はただちに失われてしまうのである。となると、氏の目的は、「ある一瞬を空間化する試み」であるといえるのではないか。解説において、三浦雅士氏が解説において松浦小説を「空間芸術」であるとしたのも、そうしたことの謂いではないだろうか。
氏の道程は、生きることの困難なご時世にあって、なんとかして自分が落ち着ける場所を探し求め、自らを定位しようとする不断の試みであるといえる。ところが、氏においては、ようやく自らを定位したかと思うと、その空間はただちに失われてしまうのである。となると、氏の目的は、「ある一瞬を空間化する試み」であるといえるのではないか。解説において、三浦雅士氏が解説において松浦小説を「空間芸術」であるとしたのも、そうしたことの謂いではないだろうか。
2011年3月22日に日本でレビュー済み
なにをもって文学というか、は私には分かりませんが、
本作を読んだときに背中に走った電流を文学的体験と
言うなら、まさにそれだ。
私にとって、この作品集の価値は、文学的位置付け
などをすっ飛ばしたところに存在する。
一文、一文にこめられた意味と無意味。
読んでいて苦にもならず、頭を重たくすることもなく、
ただただ、読者の胃腸にずんずん入り込んでくるような
文体。
正直、これほどの美文家は、夏目漱石以来だと思っている。
(あまり賛同者は多くはないだろうが)
活字だけを追って、読んでいる自分自身の精神がうねり、
動き出す作品は、そうそう多くない。
本作を読んだときに背中に走った電流を文学的体験と
言うなら、まさにそれだ。
私にとって、この作品集の価値は、文学的位置付け
などをすっ飛ばしたところに存在する。
一文、一文にこめられた意味と無意味。
読んでいて苦にもならず、頭を重たくすることもなく、
ただただ、読者の胃腸にずんずん入り込んでくるような
文体。
正直、これほどの美文家は、夏目漱石以来だと思っている。
(あまり賛同者は多くはないだろうが)
活字だけを追って、読んでいる自分自身の精神がうねり、
動き出す作品は、そうそう多くない。
2006年7月10日に日本でレビュー済み
私小説と幻想小説の両義性をはらみながら、どちらともいいえない、きわどい淵をあるいていく。日常なのか、非日常なのか、きようかいの淵をさまようように、歩いていく。 田中宏和