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ラカンによるレヴィナス 他者と死者 (文春文庫 う 19-12) 文庫 – 2011/9/2
内田 樹
(著)
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ラカンの精神分析的知見を関与させてレヴィナスを読解する――。「難解×さらに難解」で複雑な結び目は解けるのか。思想の大冒険
- 本の長さ299ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2011/9/2
- 寸法10.6 x 1.2 x 15.2 cm
- ISBN-104167801493
- ISBN-13978-4167801496
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2011/9/2)
- 発売日 : 2011/9/2
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 299ページ
- ISBN-10 : 4167801493
- ISBN-13 : 978-4167801496
- 寸法 : 10.6 x 1.2 x 15.2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 199,517位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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著者について
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1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想。ブログ「内田樹の研究室」を拠点に武道(合気道六段)、ユダヤ、教育、アメリカ、中国、メディアなど幅広いテーマを縦横無尽に論じて多くの読者を得ている。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第六回小林秀雄賞受賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第三回新書大賞を受賞。二〇一〇年七月より大阪市特別顧問に就任。近著に『沈む日本を愛せますか?』(高橋源一郎との共著、ロッキング・オン)、『もういちど村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)、『武道的思考』(筑摩選書)、『街場のマンガ論』(小学館)、『おせっかい教育論』(鷲田清一他との共著、140B)、『街場のメディア論』(光文社新書)、『若者よ、マルクスを読もう』(石川康宏との共著、かもがわ出版)などがある。
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上位レビュー、対象国: 日本
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2022年12月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2014年2月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
恥ずかしながら著者、内田樹氏、無知な私は存じ上げなかった。そもそも現象学なる難解高尚なる学とは無縁な輩です。
レヴィナスについても同様、名前だけ知っていた。
ただ、倫理に絡んだ現象学、その変あたりどまりであるが、なんとなく気になっていた。
この著作、思考のおもむくまま自由に展開するエッセイのような体裁をとって読みやすく工夫されている。
またレヴィナスとラカンを並行して記述しているわけではない。
レヴィナスを読み込んでいく上でラカンの主張とどう重畳しているか、あるいは交錯する断面を概観すればどうみえるか、
といったお考えで記述なさったようである。
あくまでレヴィナスが主人公でありラカンに期待すると見事に肩すかしくをらいます。
私のように一読しただけのものにとって、その内容、レヴィナスの思考を網羅的に述べることは無理ではございます。
が、日頃興味を持って読み込んできた人々にとっては、おそらく当然とされる内容なのかもしれません。
冒頭から第2章まで、師と弟子の関係性が主題。
レヴィナスを論じるにあたってまずはユダヤ教経典タルムードから。
師と弟子との終わりない対話、タルムードなるもの、それには終わりはなく延々と続くことがお約束事なのだそうである。
また学徒一人ひとり別々の教義解釈が許容され、というか唯一の正解なんぞは存在しないとか。
師とは教義の解釈、内容を云々することがその使命ではない。
まさに禅の師、座禅、修行のやり方をのみ滔々厳密に指導するあのやり方と奇しくも似ている。
そして各々の物語を創りだす使徒弟子の関係性を支持、あるいは規定するのは他者である。この他者が何者なのでしょうか。
と、ここでラカンが登場する。分析家と分析主体との関係性、分析家は「既に知っているはずだ」という幻想の立場に立つ。
あくまでこの既知という立場から弟子、あるいは分析主体を魅惑魅了しなければならない、
弟子は知っているはずの師に欲望を向け続け、己の物語を紡ぎ出さねばならない。
といった内容と解した。しかし、ここでラカンの代表的な説明モデル、quatre discours、
分析家の言説が出てこないところがミソ。
読者は各々が、勝手にこれを想起するかしない。師と弟子のごとく。
次いで反復の問題が出てくる。1回と2回との決定的な差異である。
ここではラカンのEcritis「盗まれた手紙」が引用される。
ラカンならばフロイドの「科学的心理学草稿」「快感原則の彼岸」から始めるのではなかろうか。
つまり反復と外傷、そしてフロイドの孫、糸巻き坊やを通じてのシニフィアン、象徴的なものの介入、
想像的imaginaireなものから象徴的symboliqueなもの、いわば去勢、斜め斜線を引かれ主体へと繋がってくのであるが。
読者は各々の力で私のごとく妄想しなければならないし、著者の狙いもおそらくそこにあるのでは。
4章からの「死者の切迫」の冒頭でドイツ占領下におけるラカンの冒険譚、が述べられている。
彼の戦時下の状況は大変だったらしい。
病院勤務しつつ、ドイツ或いはレジスタンスに協力するわけでもなくひたすら身を潜めていた。
この時期、2番目の妻、シルヴィーがユダヤ系であることがドイツ軍政部の知るところとなった。
パリ、シャンゼリゼのホテル・ムーリス、ここにドイツ軍総司令部があった、に赴き書類をどのような手を用いたか不明であるが、
入手することに成功、破棄している。
なんだか件の「盗まれた手紙」を地で行くようなエピソードである。
一方レヴィナスである。彼はユダヤ系フランス人であったが、フランス軍兵士として大戦に参加、ドイツ軍の捕虜となり、
戦時下の捕虜として処遇保護された。
ただし、彼以外の家族親族は収容所で死亡したものが多かった。レヴィナスは生き残ってしまったのである。
この2人の戦時下の体験が大きな影響をもたらした。一つは意味を幾通りにも解せる微妙精緻な文体、
これは万一敵の手に渡っても言い逃れができる、そのような文体を身につけること。
それによりecritureのもつ本質的不可能性に気づいたこと、そして言い切ることの無分別、
或いは他の意味を排除する「暴力性」に気づいたことであろうか。
次に生き残ったものが沈殿する深い罪悪感である。家族友人は死んでしまった。
しかもそれは西欧の合理精神、道徳倫理が到達した彼岸、ナチズムという地獄であった。
この辺は私が初めて知った彼らの戦時下の生きざまでした。
レヴィナスは
「存在するとは別の存在」non pas etre autrement, mais autrement qu’etre
いわば存在する、存在しない、とは両者ともに単一では意味をなさない虚数の如きdiscoursであり、
片方が他方を補完し合うに過ぎない、という意味であろうか。
これと別の次元で il-y a という有名な「有る」という表現を強調する。
このil とは3人称単数だが、いわば意味のない無人称である。
つまり他者であるとともに生きてはいない、死者、死そのものである。
死とは、etre mort いわば「etre 存在」するものなのだそうである。
さらに、我々が生きるということ、vivire である。
「人はその生を生きる」on vit sa vie このvivreは他動詞である。
つまり生きるとは何かに常に関わりながら、つまり志向性を前提にして生きる。つまりviser であり、
さらにはvisage 顔である。視覚、顔に指向性の重きを置く。
というのがレヴィナスの存在論の中心をなすらしい。果てしなく難解。
無学な私が思うにvivreは他動詞よりも自動詞として使われることも多い、あるいはよく使われるのでは。
つまりは、我々の生活世界においては他動詞の直接目的語は抑圧されることが常なのかもしれない。
が、フランス語の解釈は奥が深いから謎です。
この先のユダヤ教の教義、旧約の世界、アブラハム、イサク、主との問題になると
私には狐につままれるが如くなじみにくいですなあ・・
最後に、我々が生きていくこと自体の罪悪、何々を犯したから有罪となる逆方向、
時系列から言えば未来から現在を罰する、という極めてマゾヒステックな記述。
しかし倫理という問題を考えるときに、事後的な有罪、つまり法に触れなければなんでもアリ、
或いは最大多数、最大幸福という功利的な倫理学は告発を受ける。
また「善」はそれ自体単独で「善」であるという記述、
カント実践理性批判における超先験的という表現と相通じるものがあり、まことに興味深い。
この先に「フロイドのトーテムとタブー」が引用されてしまう。原始の父親殺害ですか・・
著者自身もお気づきであるが、今日引用しづらい文書であり説得力としては弱い。
また神経症においては、外傷は想起できない、排除される、という記述があるが、
現抑圧とはことなりこれはフロイドの説としては異論のあるところだと思う。
またあとがき中の「グランドピアノ」「先駆的直観」なる大胆な記述、告白は、余程の覚悟、自信があってのことと思われる。
凡人には怖くて絶対に書けないことである。
夥しい答えのない疑問、問題を含有し、様々な思索、或いはこのecritureのごとく
私的妄想を延々とかきたててくれ記述へと導く点では大変優れたエッセイ、
そう読後感じた次第、まこと有難く感謝です。
レヴィナスについても同様、名前だけ知っていた。
ただ、倫理に絡んだ現象学、その変あたりどまりであるが、なんとなく気になっていた。
この著作、思考のおもむくまま自由に展開するエッセイのような体裁をとって読みやすく工夫されている。
またレヴィナスとラカンを並行して記述しているわけではない。
レヴィナスを読み込んでいく上でラカンの主張とどう重畳しているか、あるいは交錯する断面を概観すればどうみえるか、
といったお考えで記述なさったようである。
あくまでレヴィナスが主人公でありラカンに期待すると見事に肩すかしくをらいます。
私のように一読しただけのものにとって、その内容、レヴィナスの思考を網羅的に述べることは無理ではございます。
が、日頃興味を持って読み込んできた人々にとっては、おそらく当然とされる内容なのかもしれません。
冒頭から第2章まで、師と弟子の関係性が主題。
レヴィナスを論じるにあたってまずはユダヤ教経典タルムードから。
師と弟子との終わりない対話、タルムードなるもの、それには終わりはなく延々と続くことがお約束事なのだそうである。
また学徒一人ひとり別々の教義解釈が許容され、というか唯一の正解なんぞは存在しないとか。
師とは教義の解釈、内容を云々することがその使命ではない。
まさに禅の師、座禅、修行のやり方をのみ滔々厳密に指導するあのやり方と奇しくも似ている。
そして各々の物語を創りだす使徒弟子の関係性を支持、あるいは規定するのは他者である。この他者が何者なのでしょうか。
と、ここでラカンが登場する。分析家と分析主体との関係性、分析家は「既に知っているはずだ」という幻想の立場に立つ。
あくまでこの既知という立場から弟子、あるいは分析主体を魅惑魅了しなければならない、
弟子は知っているはずの師に欲望を向け続け、己の物語を紡ぎ出さねばならない。
といった内容と解した。しかし、ここでラカンの代表的な説明モデル、quatre discours、
分析家の言説が出てこないところがミソ。
読者は各々が、勝手にこれを想起するかしない。師と弟子のごとく。
次いで反復の問題が出てくる。1回と2回との決定的な差異である。
ここではラカンのEcritis「盗まれた手紙」が引用される。
ラカンならばフロイドの「科学的心理学草稿」「快感原則の彼岸」から始めるのではなかろうか。
つまり反復と外傷、そしてフロイドの孫、糸巻き坊やを通じてのシニフィアン、象徴的なものの介入、
想像的imaginaireなものから象徴的symboliqueなもの、いわば去勢、斜め斜線を引かれ主体へと繋がってくのであるが。
読者は各々の力で私のごとく妄想しなければならないし、著者の狙いもおそらくそこにあるのでは。
4章からの「死者の切迫」の冒頭でドイツ占領下におけるラカンの冒険譚、が述べられている。
彼の戦時下の状況は大変だったらしい。
病院勤務しつつ、ドイツ或いはレジスタンスに協力するわけでもなくひたすら身を潜めていた。
この時期、2番目の妻、シルヴィーがユダヤ系であることがドイツ軍政部の知るところとなった。
パリ、シャンゼリゼのホテル・ムーリス、ここにドイツ軍総司令部があった、に赴き書類をどのような手を用いたか不明であるが、
入手することに成功、破棄している。
なんだか件の「盗まれた手紙」を地で行くようなエピソードである。
一方レヴィナスである。彼はユダヤ系フランス人であったが、フランス軍兵士として大戦に参加、ドイツ軍の捕虜となり、
戦時下の捕虜として処遇保護された。
ただし、彼以外の家族親族は収容所で死亡したものが多かった。レヴィナスは生き残ってしまったのである。
この2人の戦時下の体験が大きな影響をもたらした。一つは意味を幾通りにも解せる微妙精緻な文体、
これは万一敵の手に渡っても言い逃れができる、そのような文体を身につけること。
それによりecritureのもつ本質的不可能性に気づいたこと、そして言い切ることの無分別、
或いは他の意味を排除する「暴力性」に気づいたことであろうか。
次に生き残ったものが沈殿する深い罪悪感である。家族友人は死んでしまった。
しかもそれは西欧の合理精神、道徳倫理が到達した彼岸、ナチズムという地獄であった。
この辺は私が初めて知った彼らの戦時下の生きざまでした。
レヴィナスは
「存在するとは別の存在」non pas etre autrement, mais autrement qu’etre
いわば存在する、存在しない、とは両者ともに単一では意味をなさない虚数の如きdiscoursであり、
片方が他方を補完し合うに過ぎない、という意味であろうか。
これと別の次元で il-y a という有名な「有る」という表現を強調する。
このil とは3人称単数だが、いわば意味のない無人称である。
つまり他者であるとともに生きてはいない、死者、死そのものである。
死とは、etre mort いわば「etre 存在」するものなのだそうである。
さらに、我々が生きるということ、vivire である。
「人はその生を生きる」on vit sa vie このvivreは他動詞である。
つまり生きるとは何かに常に関わりながら、つまり志向性を前提にして生きる。つまりviser であり、
さらにはvisage 顔である。視覚、顔に指向性の重きを置く。
というのがレヴィナスの存在論の中心をなすらしい。果てしなく難解。
無学な私が思うにvivreは他動詞よりも自動詞として使われることも多い、あるいはよく使われるのでは。
つまりは、我々の生活世界においては他動詞の直接目的語は抑圧されることが常なのかもしれない。
が、フランス語の解釈は奥が深いから謎です。
この先のユダヤ教の教義、旧約の世界、アブラハム、イサク、主との問題になると
私には狐につままれるが如くなじみにくいですなあ・・
最後に、我々が生きていくこと自体の罪悪、何々を犯したから有罪となる逆方向、
時系列から言えば未来から現在を罰する、という極めてマゾヒステックな記述。
しかし倫理という問題を考えるときに、事後的な有罪、つまり法に触れなければなんでもアリ、
或いは最大多数、最大幸福という功利的な倫理学は告発を受ける。
また「善」はそれ自体単独で「善」であるという記述、
カント実践理性批判における超先験的という表現と相通じるものがあり、まことに興味深い。
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著者自身もお気づきであるが、今日引用しづらい文書であり説得力としては弱い。
また神経症においては、外傷は想起できない、排除される、という記述があるが、
現抑圧とはことなりこれはフロイドの説としては異論のあるところだと思う。
またあとがき中の「グランドピアノ」「先駆的直観」なる大胆な記述、告白は、余程の覚悟、自信があってのことと思われる。
凡人には怖くて絶対に書けないことである。
夥しい答えのない疑問、問題を含有し、様々な思索、或いはこのecritureのごとく
私的妄想を延々とかきたててくれ記述へと導く点では大変優れたエッセイ、
そう読後感じた次第、まこと有難く感謝です。
2022年10月4日に日本でレビュー済み
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普遍的人間性とは何か。尊厳とは何か。倫理とはどのように基礎づけられるのか。
この本を読むとそういった問題の深いところまで考えることができる。
本書を読んだ後では「要するに人間っていうのはさぁ」とか「尊厳っていうのはつまりこういうことなんだよ」と訳知り顔で軽々しく結論めいたことを言えなくなる。
本書を読んでどういう答えを見つけるかは人それぞれ。本当に面白い本でした。何度も読んでいます。
この本を読むとそういった問題の深いところまで考えることができる。
本書を読んだ後では「要するに人間っていうのはさぁ」とか「尊厳っていうのはつまりこういうことなんだよ」と訳知り顔で軽々しく結論めいたことを言えなくなる。
本書を読んでどういう答えを見つけるかは人それぞれ。本当に面白い本でした。何度も読んでいます。
2007年12月6日に日本でレビュー済み
著者の本はいつも読んだ後に違和感が残る。
「同罪刑法的思考に基付かず、神の力をも借りずに、なお善を行いうるという事実、それが人間の人間性を真に基礎付けるのである(P.268)」という意見は理解出来るし、「私自身が私自身の善性の最終的な保証人でなければならない(P.265)」という意見も分かるのだが、「『私たちは行います、それから私たちは理解します』と言う者たちにとって、善へのこだわりは善悪の選択の結果ではない。善へのこだわりは善悪の選択に先んじている。善の無条件承認。(・・・)善か悪かの二者択一に先行する善との結びつきというものが存在するのである(P.159)」というレヴィナスの言葉は私に、地下鉄にサリンを撒いた人々を思い出させる。著者によれば彼らは倫理的には正しかったということになるのだろうか?
「同罪刑法的思考に基付かず、神の力をも借りずに、なお善を行いうるという事実、それが人間の人間性を真に基礎付けるのである(P.268)」という意見は理解出来るし、「私自身が私自身の善性の最終的な保証人でなければならない(P.265)」という意見も分かるのだが、「『私たちは行います、それから私たちは理解します』と言う者たちにとって、善へのこだわりは善悪の選択の結果ではない。善へのこだわりは善悪の選択に先んじている。善の無条件承認。(・・・)善か悪かの二者択一に先行する善との結びつきというものが存在するのである(P.159)」というレヴィナスの言葉は私に、地下鉄にサリンを撒いた人々を思い出させる。著者によれば彼らは倫理的には正しかったということになるのだろうか?
2021年5月19日に日本でレビュー済み
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■ 他者と死者 < ラカンによるレヴィナス > 内田 樹
❶ 予測不能の優れたミステリー、あるいは村上春樹の長編を読む・・・そういう趣がある。
「まえがき」で内田氏は、どんな「あとがき」を書くことになるか " 予示 " 出来ないと記している。
【 もし、「まえがき」を書きつつある私が、本書の「あとがき」を書くときと、学術的な準位において同一人物であるとしたら、おそらくこの本には書かれる意味がない。】
❷ 読中、ひたすら雑事から身を遠ざけて、3~4日毎にホテルを泊まり歩き一か月、この本を読むことに集中したい・・・そういう想いを抱き続けた。
「文庫本のためのあとがき」には『レヴィナスと愛の現象学』と本書の、このレヴィナス哲学についての二冊は「そのためだけにとっておいた特別な時間に書かれた」旨、書かれている。それ以外の本は「仕事と仕事の隙間の時間に書かれた」とも。そんなエネルギーの集中が読み手に多分乗り移るからこそ、ひたすら雑事を遠ざけて・・・ということになる。
レヴイナスは主人公であり、脇役であり、舞台装置であり使者、相棒であると同時に「囚われ人」かつ「支配者」「宝石・金鉱」である。そんな鉱脈(レヴィナス)にラカンという " つるはし " を手に内田 氏(フィリップ・マーロー)が挑むミステリー。内田 樹 全著作の頂点はこの「他者と死者」そして「レヴィナスと愛の現象学」。
あとはひたすら予告されている3部作の完成を待とう・・・村上春樹の新作長編のように。
❶ 予測不能の優れたミステリー、あるいは村上春樹の長編を読む・・・そういう趣がある。
「まえがき」で内田氏は、どんな「あとがき」を書くことになるか " 予示 " 出来ないと記している。
【 もし、「まえがき」を書きつつある私が、本書の「あとがき」を書くときと、学術的な準位において同一人物であるとしたら、おそらくこの本には書かれる意味がない。】
❷ 読中、ひたすら雑事から身を遠ざけて、3~4日毎にホテルを泊まり歩き一か月、この本を読むことに集中したい・・・そういう想いを抱き続けた。
「文庫本のためのあとがき」には『レヴィナスと愛の現象学』と本書の、このレヴィナス哲学についての二冊は「そのためだけにとっておいた特別な時間に書かれた」旨、書かれている。それ以外の本は「仕事と仕事の隙間の時間に書かれた」とも。そんなエネルギーの集中が読み手に多分乗り移るからこそ、ひたすら雑事を遠ざけて・・・ということになる。
レヴイナスは主人公であり、脇役であり、舞台装置であり使者、相棒であると同時に「囚われ人」かつ「支配者」「宝石・金鉱」である。そんな鉱脈(レヴィナス)にラカンという " つるはし " を手に内田 氏(フィリップ・マーロー)が挑むミステリー。内田 樹 全著作の頂点はこの「他者と死者」そして「レヴィナスと愛の現象学」。
あとはひたすら予告されている3部作の完成を待とう・・・村上春樹の新作長編のように。
2018年3月25日に日本でレビュー済み
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私が本書を初めて読んだのは、たしか2006年頃だと思うのだが、本書は少なからず私に影響を与えてくれた本である。
著者自ら、レヴィナスについての著作「3部作(現時点では3作目は未刊)」は「ライフワーク」だと公言しているように、
内田樹氏の思想すべてが駆使されて書かれれいる。
第1作となった『レヴィナスと愛の現象学』、そして「2作目」である本書『他者と死者:ラカンによるレヴィナス』とい
う著作に対する力の入れようと、完成度は極めて高いと思う。
レヴィナスについては生前は日本ではそれほどの言及は無かったが、彼が亡くなってから日本でもどんどん色々な人達に
よって書かれるものが増えてきた。
その中でも、内田樹氏のレヴィナス研究は、やはり大きく注目するべきだろうし、それだけの質の高さがある。
私はレヴィナスについては、ハイデガーを読んでいるうちに、その反論者として引き合いに出されるのを頻繁に目にする
ようになってから、やっと手を出したので、「レヴィナスとは・・・」と書くだけの水準には居合わせていないのだが、
それでもフッサール、ハイデガー、に師事して「現象学」を学んでいた経歴を持つレヴィナスは、二人の師匠を超えた領
域にまで歩を進めた、極めて重要な20世紀の「思想家」であると思う。
2014年に惜しまれるつつ他界された現象学者・木田元氏は特にハイデガーに興味を持ち、『存在と時間』をちゃんと読む
ために哲学の世界に入ったと言うほどに、現象学とハイデガーに魅了されていた。
しかしご存知のように、ハイデガーには「ナチ加担問題」というものがあり、それは現在進行形にお形で、「何故ゆえに
ナチだったのか?」という大問題は、世紀を跨いで現在も多くの研究者が思考を重ねている。
それに対して、現象学の創始者であるフッサールとレヴィナスは、「ナチ」の「犠牲者側」であるユダヤ人という実に奇
妙な関係がある。
フッサールとハイデガーは「ナチ以前」に『存在と時間』の執筆において、両者の考え方には大きな隔たりがあった。
もちろん洞門であるレヴィナスもハイデガーには手厳しい。
レヴィナスは自身の「第一哲学」を「倫理学」だと公言しているが、私の個人的な考えにおいてはハイデガーもおそらく
は「現象学」でも「存在論」でもなく、「倫理学」にかなり近いところをずっと進んできた人のように思えてならない。
しかしそれでもハイデガーとレヴィナスは実は相当に違う。
ハイデガーが人生を費やして思考していた「倫理」とは、「彼自身の救済」であったと思う。
それに対してレヴィナスの「倫理」は、「神(ユダヤ教)」すらその思想の礎にして、自らがこの世界において対峙し、
他者との間を絶え間なく横断しながら探求していった「倫理を創出する」という行為まで到達してように思えるのだ。
先に木田元氏のことを書いたけれども、木田氏は著作や対談などでこうおいうようなことを頻繁に語っていた。
「フッサールなら色々と書けたんです。しかしフッサールの本っていうのは読んでも、面白くもなんともないんです。」
手厳しい意見だが、私もじつは全く同感で、フッサールには関心はするけれども、彼の著作は全く面白くない。
それはフッサールのが一生懸命やっていたことは、物事の「意味の言い換え」に尽きるように思えるからだ。
本書にも注目すべき記述がある。
「フッサールの現象学がもたらした最も深い洞見は、〈対象という観念よりもむしろ意味という観念に優位性を与えた
こと〉とレヴィナスは言う。」(本書・203頁)
私が書いた表現とほぼ同じことを内田氏もレヴィナスの意見として注目していた。
私によって、さらに《意地悪く》言うならば、フッサールはテーブルの上のコップを同じテーブルの別の場所に移動した
だけ、というように私は考えてしまう。
つまり、「超越的」視点も「思考」もしないから、「つまらない」のである。
こうしたフッサールやハイデガーの「思想的行為」を「置換」と「自己完結」というキーワードであえて括るとすれば、
レヴィナスはその真逆のことを思考していたと言ってもいいように思えるのだ。
再度本書から引用する。
「レヴィナスが複雑なのは、彼が非現実的な思弁に耽っているからではなく、現実の複雑さに対して、他のどんな哲
学者よりも〈つきあいがいい〉からである。」(本書・245頁)
内田氏による極めてシンプルで、的確な指摘ではないだろうか。
つまり、内田氏もレヴィナスの「超越的視点」というものの「存在」を指摘しているのだと思う。
残念ながら本書において重要な「ラカン」と「フロイト」についての記述には触れられなかったが、それをちゃんと
書き出すには、レビューではなくて、「論文」の体裁と長さが必要になるのでやめておきます。
レヴィナスはナチスによって、家族を尽く失ってしまい、自分だけが生き残ってしまった。
そうした過酷な人生を生き、徹底して「何故」を追求していったという事実を忘れずに読むべきなのは当然ながら、
レヴィナス思想の理解にとって大きな収穫を与えてくれる本だと思う。
著者自ら、レヴィナスについての著作「3部作(現時点では3作目は未刊)」は「ライフワーク」だと公言しているように、
内田樹氏の思想すべてが駆使されて書かれれいる。
第1作となった『レヴィナスと愛の現象学』、そして「2作目」である本書『他者と死者:ラカンによるレヴィナス』とい
う著作に対する力の入れようと、完成度は極めて高いと思う。
レヴィナスについては生前は日本ではそれほどの言及は無かったが、彼が亡くなってから日本でもどんどん色々な人達に
よって書かれるものが増えてきた。
その中でも、内田樹氏のレヴィナス研究は、やはり大きく注目するべきだろうし、それだけの質の高さがある。
私はレヴィナスについては、ハイデガーを読んでいるうちに、その反論者として引き合いに出されるのを頻繁に目にする
ようになってから、やっと手を出したので、「レヴィナスとは・・・」と書くだけの水準には居合わせていないのだが、
それでもフッサール、ハイデガー、に師事して「現象学」を学んでいた経歴を持つレヴィナスは、二人の師匠を超えた領
域にまで歩を進めた、極めて重要な20世紀の「思想家」であると思う。
2014年に惜しまれるつつ他界された現象学者・木田元氏は特にハイデガーに興味を持ち、『存在と時間』をちゃんと読む
ために哲学の世界に入ったと言うほどに、現象学とハイデガーに魅了されていた。
しかしご存知のように、ハイデガーには「ナチ加担問題」というものがあり、それは現在進行形にお形で、「何故ゆえに
ナチだったのか?」という大問題は、世紀を跨いで現在も多くの研究者が思考を重ねている。
それに対して、現象学の創始者であるフッサールとレヴィナスは、「ナチ」の「犠牲者側」であるユダヤ人という実に奇
妙な関係がある。
フッサールとハイデガーは「ナチ以前」に『存在と時間』の執筆において、両者の考え方には大きな隔たりがあった。
もちろん洞門であるレヴィナスもハイデガーには手厳しい。
レヴィナスは自身の「第一哲学」を「倫理学」だと公言しているが、私の個人的な考えにおいてはハイデガーもおそらく
は「現象学」でも「存在論」でもなく、「倫理学」にかなり近いところをずっと進んできた人のように思えてならない。
しかしそれでもハイデガーとレヴィナスは実は相当に違う。
ハイデガーが人生を費やして思考していた「倫理」とは、「彼自身の救済」であったと思う。
それに対してレヴィナスの「倫理」は、「神(ユダヤ教)」すらその思想の礎にして、自らがこの世界において対峙し、
他者との間を絶え間なく横断しながら探求していった「倫理を創出する」という行為まで到達してように思えるのだ。
先に木田元氏のことを書いたけれども、木田氏は著作や対談などでこうおいうようなことを頻繁に語っていた。
「フッサールなら色々と書けたんです。しかしフッサールの本っていうのは読んでも、面白くもなんともないんです。」
手厳しい意見だが、私もじつは全く同感で、フッサールには関心はするけれども、彼の著作は全く面白くない。
それはフッサールのが一生懸命やっていたことは、物事の「意味の言い換え」に尽きるように思えるからだ。
本書にも注目すべき記述がある。
「フッサールの現象学がもたらした最も深い洞見は、〈対象という観念よりもむしろ意味という観念に優位性を与えた
こと〉とレヴィナスは言う。」(本書・203頁)
私が書いた表現とほぼ同じことを内田氏もレヴィナスの意見として注目していた。
私によって、さらに《意地悪く》言うならば、フッサールはテーブルの上のコップを同じテーブルの別の場所に移動した
だけ、というように私は考えてしまう。
つまり、「超越的」視点も「思考」もしないから、「つまらない」のである。
こうしたフッサールやハイデガーの「思想的行為」を「置換」と「自己完結」というキーワードであえて括るとすれば、
レヴィナスはその真逆のことを思考していたと言ってもいいように思えるのだ。
再度本書から引用する。
「レヴィナスが複雑なのは、彼が非現実的な思弁に耽っているからではなく、現実の複雑さに対して、他のどんな哲
学者よりも〈つきあいがいい〉からである。」(本書・245頁)
内田氏による極めてシンプルで、的確な指摘ではないだろうか。
つまり、内田氏もレヴィナスの「超越的視点」というものの「存在」を指摘しているのだと思う。
残念ながら本書において重要な「ラカン」と「フロイト」についての記述には触れられなかったが、それをちゃんと
書き出すには、レビューではなくて、「論文」の体裁と長さが必要になるのでやめておきます。
レヴィナスはナチスによって、家族を尽く失ってしまい、自分だけが生き残ってしまった。
そうした過酷な人生を生き、徹底して「何故」を追求していったという事実を忘れずに読むべきなのは当然ながら、
レヴィナス思想の理解にとって大きな収穫を与えてくれる本だと思う。
2020年3月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ラカンとレヴィナスという哲学史上最も難解だとされている二人を組み合わせることで起こる思想の化学反応とでも言えばいいのでしょうか?
僕はまだ一回しか読んでないので完全に理解出来たとは思っていませんが、こう言う評論本は大好きなので、繰り返し繰り返し読んで理解したいと思いました。まぁ、そう言う人間は少数派かもしれないし、理解するのもかなり手間のかかる作業なので星4つにしました。
僕はまだ一回しか読んでないので完全に理解出来たとは思っていませんが、こう言う評論本は大好きなので、繰り返し繰り返し読んで理解したいと思いました。まぁ、そう言う人間は少数派かもしれないし、理解するのもかなり手間のかかる作業なので星4つにしました。