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マインド: 心の哲学 単行本 – 2006/3/1
哲学・心理学・生物学・脳科学の最前線である「心の哲学」を舞台に、従来の見解を次々に論破しながら、独自の「生物学的自然主義」を提示。心の哲学への、もっとも包括的で、もっとも新しく、もっとも明快な、魅惑のイントロダクション。
「自分自身が心の哲学について学ぶ際、最初に手に取りたいと思えるような本を書こうと思う」——言語哲学から出発し、近年は心の哲学においても精力的な研究と発言を続けるアメリカの哲学者ジョン・R・サール。哲学者としての円熟味を増したサールが、はじめて一般読者への入門書を書き下ろしました。
昨今の脳ブームは「脳を解明しさえすれば人間の心も説明できる」という風潮すら感じられます。
しかし、心と脳の関係とは、果たして入力信号のオンとオフのように単純なものだったのでしょうか?
サールはこの問題——「心脳問題」がさまざまな誤解のもとにたてられた擬似問題であることを指摘します。
従来の心的/物質的という二元論を廃し、因果的な還元/存在論的な還元、一人称的な存在論/三人称的な存在論という区別を新たに導入した点は本書の肝と言えるでしょう。
これにより、ミステリアスなものとして扱われがちな心を、胃の消化と同様、自然現象のひとつと捉え直し、現代の科学的知見との整合性をはかる——それがサールの提唱する「生物学的自然主義」なのです。
- ISBN-104255003254
- ISBN-13978-4255003252
- 出版社朝日出版社
- 発売日2006/3/1
- 言語日本語
- 本の長さ410ページ
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商品の説明
著者について
ジョン・R・サール
1932年、米国コロラド州デンバー生まれ。1959年、カリフォルニア大学バークレー校に赴任、1967年より同教授として今日に至るまで教鞭をとる。
言語哲学と心の哲学を主軸に、現在も第一線で研究・発表をおこなう。
主著に、『言語行為——言語哲学への試論』(勁草書房)『表現と意味——言語行為論研究』(未邦訳)『志向性——心の哲学』(誠信書房)『心・脳・科学』(岩波書店)『心の再発見』(未邦訳)『意識の謎』(未邦訳)など。
2004年、「心の哲学」にかんする業績にたいし米国人文科学勲章を受賞。
■訳者紹介
山本貴光[やまもと・たかみつ]
1971年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。コーエーでのゲーム制作を経てフリーランス。「哲学の劇場」主宰。筆名・八雲出(やくも・いずる)。
関心領域は書物、映画、ゲーム、原節子など。著書に『心脳問題』(朝日出版社、吉川浩満との共著)がある。
「作品メモランダム」(ブログ)
吉川浩満[よしかわ・ひろみつ]
1972年生まれ。慶応義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、フリーランス。「哲学の劇場」主宰。筆名・吉田浩(よしだ・ひろし)。
関心領域は哲学、単車、ロック、映画、犬など。著書に『心脳問題』(朝日出版社、山本貴光との共著)がある。
「哲劇メモ」(ブログ)
「哲学の劇場」(山本貴光と吉川浩満による共同企画ウェブサイト)1997年開設。哲学・科学・芸術関連の書評、作家情報などを発信。
登録情報
- 出版社 : 朝日出版社 (2006/3/1)
- 発売日 : 2006/3/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 410ページ
- ISBN-10 : 4255003254
- ISBN-13 : 978-4255003252
- Amazon 売れ筋ランキング: - 571,550位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
文筆家、編集者、ユーチューバー。1972年3月、鳥取県米子市生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、現職。晶文社にて編集業にも従事。関心領域は哲学・科学・芸術、犬・猫・鳥、デジタルガジェット、映画、ロックなど。哲学愛好家。Tシャツ愛好家。ハーレーダビッドソン愛好家。卓球愛好家。
主な著書
『哲学の門前』(紀伊國屋書店)
『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』(ちくま文庫)
『理不尽な進化 増補新版──遺伝子と運のあいだ』(ちくま文庫)
『人文的、あまりに人文的──古代ローマからマルチバースまでブックガイド20講+α』(山本貴光との共著、本の雑誌社)
『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。──古代ローマの大賢人の教え』(山本との共著、筑摩書房)
『脳がわかれば心がわかるか──脳科学リテラシー養成講座』(山本との共著、太田出版)
『問題がモンダイなのだ』(山本との共著、ちくまプリマー新書)
主な訳書
『先史学者プラトン──紀元前一万年―五千年の神話と考古学』(山本との共訳、朝日出版社)
『MiND 心の哲学』(山本との共訳、ちくま学芸文庫)
プロフィール
http://clnmn.net/works
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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思考実験というのはある種の仮想的な状況から出発するわけで、懐疑的であるはずの哲学者がその自ら設定した前提が間違っているかも知れないと考えないのだから不思議です。
スペクトル反転の章でも、内的経験が異なっているとしたらという「仮定」から出発して、同じ赤を経験しているとする機能主義は間違っているしますが、それは結論の先取りでしょう。別に内的経験が異なっていないという仮説から出発してもいいはずです。この問題は、生物学的に回答されるべきで、同じ遺伝情報を共有する種のなかで、たとえば、色を経験するシステムが異なるさまざまな個体がいるというような無駄なことは生物学的常識からしてありえないでしょう。つまり、内的経験は異なっていない可能性の方が高いのです。さらに言えば、内的経験が異なっていようがいまいがどうでもよいとすらいえます。あるインプットに対してあるアウトプットが出るというなら、その中間に経験する感覚自体がどのようなものであれ、生物同志としては問題ありません。マイナーな曲を聴けば気持が感傷的になるし、メジャーな曲を聴けばうきうきするから、何十万枚もCDが売れるのでしょう。もちろんあなたの見ている赤と、私の赤が同じように見えている保証はどこまでいってもありませんから、哲学的議論としてはありえるのだといわれればそれまでですが。
また、ネーゲルのこうもりのたとえも、機能主義では「こうもりである感じ」が取りこぼされるというのでありますが、ある種の感覚センサーがなければ当たり前のことで、これこそが意識の本質であるというような大げさなものでしょうか。たとえば絶対音感を持つ人がわずかな音程の乱れに感じる「不快感」を、絶対音感を待たないものが客観的に説明することはそもそも不可能です。絶対音感を持たない人間は絶対音感を持つ人間の意識を取りこぼしていることになりますか?もちろんその感覚は取りこぼしているのですが、意識一般を取りこぼしているわけではありません。
先日交通事故で脳の障害を受けた中学生が、「悲しみ方がわからなくなった。どうしたら昔みたいに涙が流せるのか?」と訴えてきました。またある種の脳内レセプターに関連する脳炎では、ほんの数日のうちに心が完全に壊れて統合失調症状態になり、意識を長期間にわたって失いますが、多くの場合かなりよく回復します。日々、壊れかけた人間の心に向き会わざるを得ない立場からすれば、このような事実から出発して空中戦ではない議論がより進んでいくことを望みます。やはり、今のところ評者は機能主義者です。
どちらかというと、科学哲学的な内容です。
意識とはなにか。
自分はどのようにして意識をもって思考しているのか。
機械(人工知能)に自己を自覚する意識を与えることはできるのか。
こんなことを考えたことある人は結構いるのではないでしょうか。
私も物心ついたころから、何度となく、この手の疑問について考えてきました。
自分ひとりで考えていると、なんだかまとまりなく様々な考えや思いが浮かんでは消えるだけなのですが、本書を読むと、かつて自分が考えたこと、考えなかったこと、いろんなテーマが分類され、体系的に記述されており、読んでいて非常に知的好奇心をそそられる内容でした。
とりいそぎ、この本を出発点として、積年の疑問を再考してみようと思っています。
この本は何度も読み返す必要のある良書だと思います。
ハードウェア(コンピュータ)とソフトウェア(プログラム)との二分(区別)は、本質的でありません。
ソフトウェア(プログラム)を完全に、ハードウェア(コンピュータ)に組み入れることが可能です。
逆に、ハードウェア(コンピュータ)を最小化したものが、万能テューリング機械です。
脳 vs 心 = ハードウェア(コンピュータ) vs ソフトウェア(プログラム) という理解は、ナンセンスです。
この分野で有名な争いと言えば、「心身問題」(ご存知無い方は、本書を読めば非常にわかりやすく書かれていますのでご安心を)についての二元論からのアプローチと唯物論からのアプローチですが、著者のサールはこれをどちらも誤りだとし、解決策として独自の「生物学的自然主義」を打ち出しています。
これで本当に「心身問題」が解決できているかどうかは、読者が判断するべきなのでしょう。
本書の一番の特長は、あまり哲学に触れたことの無い読者でも理解できるように、哲学的な専門用語を使用するのをできるだけ抑えて書かれてあることでしょう(わかりやすさの限界に挑戦しているかのごとき平易な文章です)。
また、訳が良いので文章がとても読みやすく、注釈も豊富です。
流石に哲学の知識を全く持たない方が読むのはかなりキツい部分もあるかと思いますが、それでもわかりやすい丁寧な説明でなんとかついていけるレベルではないでしょうか。
「心の哲学」という言葉にほんの少しでも「心」を動かされる人にとっては間違いない一冊です。
「わからないものはわからない」
って。それをわかるような気がするとこが落とし穴なんだとか言ってるようなだけの気がする。
これ読んでも、意識が何かなんてさっぱりわからないと思うし、なんだか何も言ってないに等しいような本だったけど、僕がばかなんだろうな。
だけど、こんな本が「すげー」とか思われることがまずいんじゃないか?ってちょっと思ったりもしたけど。
もし興味があれば、他のサールのより詳しい本を手にすることをおすすめします。
やっぱり分かりにくいです。
おそらく哲学書というものは、このような話の展開をすることが「哲学」なんでしょうね。
私は哲学そのものが分かっていないのかもしれません。
文章は読みやすいと思います。しかし、長々と説得力のありそうな話が続いていきますが、
読んだ後、心について理解が深まったという気分にはなりませんでした。
本当の心の問題と全然違うところで、唯物論等と名づけられたもっともらしい理屈で議論を楽しんでいる、でも何か日常の問題の解決策が具体化される訳ではない、というのが正直な感想です。
そもそも私がこの本に求めたことがずれていたのかもしれませんが。。。