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中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) 単行本 – 2017/3/27

4.4 5つ星のうち4.4 193個の評価

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自傷患者は言った「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」。依存症当事者はため息をついた「世間の人とは喋っている言葉が違うのよね」
――当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか? それ以前に、私たちの思考を条件付けている「文法」の問題なのか?
若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。

【本書「あとがき」より】

中動態の存在を知ったのは、たしか大学生の頃であったと思う。本文にも少し書いたけれども、能動態と受動態しか知らなかった私にとって、中動態の存在は衝撃であった。衝撃と同時に、「これは自分が考えたいことととても深いところでつながっている」という感覚を得たことも記憶している。

だが、それは当時の自分にはとうてい手に負えないテーマであった。単なる一文法事項をいったいどのように論ずればよいというのか。その後、大学院に進んでスピノザ哲学を専門的に勉強するようになってからも事態は変わらなかった。

ただ、論文を書きながらスピノザのことを想っていると、いつも中動態について自分の抱いていたイメージが彼の哲学と重なってくるのだった。中動態についてもう少し確かなことが分かればスピノザ哲学はもっと明快になるのに……そういうもどかしさがずっとあった。

スピノザだけではなかった。数多くの哲学、数多くの問題が、何度も私に中動態との縁故のことを告げてきた。その縁故が隠されているために、何かが見えなくなっている。しかし中動態そのものの消息を明らかにできなければ、見えなくなっているのが何なのかも分からない。

私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想い続けていた。
(中略)
熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分のなかで次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきたにもかかわらず手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。

その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。

次第に私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。──そのような気持ちが私を捉えた。
(以下略)
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ろご

「科学性」「専門性」「主体性」といったことばだけでは語りきれない地点から≪ケア≫の世界を探ります

居る 在宅 異なり どもる 中動態
居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 在宅無限大: 訪問看護師がみた生と死 異なり記念日 どもる体 中動態の世界 意志と責任の考古学
カスタマーレビュー
5つ星のうち4.5
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5つ星のうち4.1
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著者 東畑 開人 村上 靖彦 齋藤 陽道 伊藤 亜紗 國分 功一郎
内容紹介 「ただ居るだけ」と「それでいいのか?」をめぐる 感動のスペクタクル学術書! 京大出の心理学ハカセは悪戦苦闘の職探しの末、ようやく沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。 しかし、「セラピーをするんだ!」と勇躍飛び込んだそこは、あらゆる価値が反転するふしぎの国だった――。 ケアとセラピーの価値について究極まで考え抜かれた本書は、同時に、人生の一時期を共に生きたメンバーさんやスタッフたちとの熱き友情物語でもあります。 一言でいえば、涙あり笑いあり出血(!)ありの、大感動スペクタクル学術書! 「普通に死ぬ」を再発明する。 病院によって大きく変えられた「死」は、いま再びその姿を変えている。 現在の在宅死は、かつてあった看取りの文化を復活させたものではない。 先端医療が組み込まれた「家」という未曾有の環境のなかで、訪問看護師たちが地道に「再発明」したものである。 著者は並外れた知的肺活量で、訪問看護師の語りを生け捕りにし、看護が本来持っているポテンシャルを言語化する。 「看護がここにある」と確かに思える一冊。 著者の齋藤陽道さんもパートナーの麻奈美さんも、耳の聞こえない写真家です。 陽道さんの第一言語は日本語。麻奈美さんは日本手話。言葉が違えば見ている世界も違います。 ふたりの間に生まれた樹(いつき)さんは、どうやら聞こえるらしい。聴者です。からだが違えば見ている世界も違います。 そんな「異なる」3人が、毎日をどんな風に過ごしているのか。本書は、ケアが発生する現場からの感動的な実況報告です。 しゃべれるほうが、変。 何かしゃべろうとすると最初の言葉を繰り返してしまう(=「連発」という名のバグ)。 それを避けようとすると言葉自体が出なくなる(=「難発」という名のフリーズ)。 吃音とは、言葉が肉体に拒否されている状態です。 しかし、なぜ歌っているときにはどもらないのか? なぜ独り言だとどもらないのか? 本書は、従来の医学的・心理的アプローチとはまったく違う視点から、 吃音という「謎」に迫った画期的身体論です! 自傷患者は言った「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」。依存症当事者はため息をついた「世間の人とは喋っている言葉が違うのよね」 ――当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか? それ以前に、私たちの思考を条件付けている「文法」の問題なのか? 若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。

商品の説明

メディア掲載レビューほか

能動態でも受動態でもない「中動態」を知ると少し生きやすくなる

『暇と退屈の倫理学』で“暇人"の効用を説き、世に衝撃を与えた哲学者の國分功一郎さん。新刊『中動態の世界』は、雑誌「精神看護」での連載が元になっている。英文法で教えられるのが「能動態(~する)」と「受動態(~される)」の区別だが、本書のタイトル「中動態」はそれら二つの起源にある、古典ギリシア語など嘗てのインド=ヨーロッパ語に広く存在した動詞の態を指す。

「大学生の頃その存在を知り、自分の専門であるスピノザ哲学と深いところでつながっている、という感覚はずっとありました」

『暇と退屈の倫理学』で人間には“ぼんやりとした退屈に浸っている"状態が大切だ、と主張した点が、アルコールや薬物などへの依存症の回復に有効なアプローチたり得る、と専門家や当事者から指摘され続け、とうとう本格的「中動態」研究に乗り出す。

「哲学研究の世界ではここ100年ほど、自発性、主体性、言い換えれば“意志"の存在が疑われています。僕は実際に“近代的意志"の存在を前提とした“常識"が人間に明確な害を及ぼしている現場に遭遇した。依存症の方々は、意志が弱い、と周囲から思われ、自分を責め続けています」

國分さんの著作はしばしば「ミステリー的」と評される。ギリシア語最古の文法書『テクネー』の解読から「中動態」探しの旅は始まり、20世紀フランスの言語学者バンヴェニストの「能動態」再定義に力を得、捜索過程でハイデッガーの弟子ハンナ・アレントに「つきまとわれ」、哲学的言語探究は核心へと向かう。

「力に怯え心ならずも従う――カツアゲや性暴力、各種ハラスメントで顕著ですが、非自発的同意という事態が日常にはゴロゴロある。能動性、受動性という概念にうまく当てはまらない状況なんです」

そこに“こうなったから、どうしていこうかな"という中動態的カテゴリーを持ってくると、少し生き易くなる。第8章「中動態と自由の哲学 スピノザ」で本書は山場を迎える。

「『エチカ』を今回、ラテン語で暗誦するほど読み込み、分かってきた部分がある。過去や現実の制約から完全に解き放たれた絶対的自由など存在しない。逃れようのない状況に自分らしく対処していくこと、それが中動態的に生きることであり、スピノザの言う“自由"に近付くこと。僕はこの本で自由という言葉を強調したかった」

評者:「週刊文春」編集部

(週刊文春 2017.05.18号掲載)

出版社からのコメント

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第16回(2017年)小林秀雄賞受賞!
受賞理由――《中動態という、日本人に馴染みがない概念を浮かび上がらせようとして、難解な迷路をくぐり抜ける、著者の一途な姿と稀有な批評的営みが美しい。》
http://www.shinchosha.co.jp/prizes/kobayashisho/
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

‥…‥…‥… 中動態とは何なのか? その名称からは、まるで能動態と受動態の中間であるかのような印象を受ける。その印象は正しいのか?

また現在、中動態は少なくとも言語の表舞台からは消えてしまったように思われる。本当にそうだとすれば、それはなぜ消滅してしまったのだろうか?

いや、もしかしてそれはまだ姿を変えて残り続けているのだろうか?

それにしてもなぜわれわれは中動態について教わることがないのか?

若き哲学者は、バンヴェニスト、アレントに学び、デリダ、ハイデッガー、ドゥルーズを訪ね直し、細江逸記を発見し、アガンベンに教えられ、そして新たなスピノザと出会う。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 医学書院 (2017/3/27)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2017/3/27
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 330ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4260031570
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4260031578
  • 寸法 ‏ : ‎ 15 x 2.3 x 21 cm
  • カスタマーレビュー:
    4.4 5つ星のうち4.4 193個の評価

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國分 功一郎
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上位レビュー、対象国: 日本

2024年5月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本で初めて中動態という考えに出会いました。勉強になります。障害者の人に対して対面する機会があり、どういう関係を模索してこの本に出会いました。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2024年3月14日に日本でレビュー済み
2017年3月刊。これは先日読んだ「<悪の凡庸さ>を問い直す」など複数の著作の中でこの「中動態」という概念とこの著作のことが出てきたので、「これは読んでみなければ」と私も読んでみたもの。非常に面白く示唆に富んだ優れた論考だった。著者は哲学者で現在東京大学大学院教授だが、この著作は医学書院の「シリーズ ケアをひらく」の一環として出版されている。あとがきによると、そもそもこの著作執筆のきっかけが著者の前作「暇と退屈の倫理学」を巡る講演会などでの医学研究者やアルコール・薬物依存症患者サポートに取り組む人たちとの出会い・交流からだという。そこで向き合う「近代的主体」の諸問題・・・
まず最初に、最近の脳神経科学に基づくと、人が手足を動かすなど何か『行動』する時には「意志という主観が現れる前に先に脳内で運動プログラムが作られている」という。「意志は後からやってくる」のだ。そして、こういう「行為における意志の問題」は精神医学・脳科学的側面だけでなく哲学の世界でも様々に論じられてきた。著者の専門であるスピノザの「自由意志の否定」~そこから議論は文法・言語学の世界に発展していく。現代の我々は多くの言語で「能動態・受動態」の二つの「態」があることを知っており、「動詞」つまり行為を表す言葉は「する」か「される」かの対立概念として理解しているが、実は古典ギリシア語以前の言語世界では「中動態」という「受動態」とは別の「態」が存在していて、その言語表現では能動・受動の「するかされるか」ではなく、その行為が「主体の外に及ぶか内に及ぶか」によって能動・中動の区別がなされていた。現在の「受動態」はかつての「中動態」が消滅する過程で分岐したものだという。私が大学時代に学んだフランス語(ラテン語由来)にも「代名動詞(再帰動詞)」という語法があるが(いわば他動詞の自動詞化現象)、学生時代には「えらいもって回った言い方するな」としか思わなかったが、これなどまさに「中動態」の名残りである。そしてこうした「中動態」的言語世界は日本語の古語にも見られるという(「ゆ」の活用など)。
さて、なんでこの「中動態」に著者はそこまで注目するのか?ここで重要なのが「意志」の問題との関連である。曰くアリストテレスなどギリシア哲学にはそもそも「意志」の概念はなかった。そしてこの中ではハイデッガーやドゥルーズなど様々な哲学者の論考が引き合いに出されるが、特に重要なのがハンナ・アーレントである。何かを「選択」することは「過去からの帰結」であってそれは「意志」ではない。そもそも「原初的意志・根源的意志」なるものは「神」以外には持ちえない。なぜなら我々が持つ「意志」はその前提に何かの事案に相対しているから出てくるもので、それ自体がある種の「反応・選択」に過ぎない。その意味では我々が「意志」と呼んでいる精神作用も「受動の一種」なのだ。こうした解釈は、我々の社会が「能動か受動か」「肯定か否定か」という「百かゼロか」的二律背反では決められないグレーな事案に溢れていることを「うまく理解する」のに非常に有効な観点となる。だから、今や言語の世界では廃れてしまった「中動態」的なモノの観方が大切~ということがこの著作の最大の論点である。
私はこれを読みながら、現在のフェミニズム界隈でよく言われる「ネガティヴ・ケイパビリティ(反転的受容力とでも言おうか)」とどこか通底するものがあると思ったし、あらゆる行為主体性と責任の追及が厳しすぎると、人間はどこか「もたなく」なることもあるのかな?~とも感じる。「近代的自我・意志」を追い求めるのはほどほどが肝要なんだろう。
尤もここで展開されている議論は、政治家や国家の犯罪行為・戦争責任・植民地支配責任における「意志と責任」に免罪符を与えるようなものではない。そこは重々注意が必要である。
しかし國分功一郎さんの論考はええな!前にみた「エアレボリューション」も面白かったが、「この界隈(どの界隈や?)」の人たちには学ぶことが実に多い~(*^^*)
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2021年12月25日に日本でレビュー済み
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状態描写するのに何も人称にとらわれる必要がないという非常に両翼巾の広い考え方で、状態をあるがままとして眺めるのにたいへん役立つ。
8人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2023年8月2日に日本でレビュー済み
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小口汚れとありましたが、気にならない程度でした。帯つきの美品でした。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2023年3月1日に日本でレビュー済み
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求めていた内容とは少し違ったが、文法的に中動態を考える切っ掛けをつかんだ。再読をし、もう少し深く読み込みたい!
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2023年11月1日に日本でレビュー済み
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この本の対象者がよくわからなかった。正直なところこの中動態という概念を持ってきて何を主張したいのかということがあまり見えなかった。具体的な例文の文法や構造を分析することで中動態に関する説明を試みているようだが、難解に思えて理解をしようという気持ちがなくなった。
暇と退屈の倫理学でも少し気になったが、恣意的に批判できそうな箇所を引用したりすることは少し気になっている。
もう少し勉強してから再読する可能性があるが、今の所、すぐに読むべきものでもないしおすすめできる本でもない。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2022年10月23日に日本でレビュー済み
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ギリシャ・ローマの時代に生じた哲学的な課題が克服できそうですけど、誰か挑戦してみてください。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2018年1月1日に日本でレビュー済み
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人間に自由意志があるなら「意志の弱さ」なんて現象はありえないのでは?、という哲学パズルのような問いが昔からある。「意志の弱さ」は、ときにあってはならないことのように責められる。薬物依存症患者は「意志の弱さ」で薬物がやめられないので「自己責任」と世間から責められがちだ。患者たちからすれば、わかっちゃいるけど、やめたいのにやめられない。しかし自由意志での自己決定でスイッチを切り替えるようにスパッと依存がやめられない現実が、世間ではまるであってはならないことのように言われてしまう。まるで世間とは言葉が通じないと感じられる。言葉が通じないだけでなく、見えている風景もきっと違うのだ。
國分は、行為者の意志や責任を明示することにこだわる能動態/受動態中心の言語形式から中動態中心の言語形式へと、具体的な言語学的事例を挙げながら、驚くべき平易かつ明晰な議論で読者をしっかりとレールに乗せて違う風景へと連れていく。読書のはじめと終わりでは世界の見え方ががらりと変わる、哲学的な「転回」の体験に読者は連れ出される。
國分が主に依拠するのは、第一に、「自由意志」という概念に無縁であった古代ギリシア、アリストテレスのカテゴリー論から中動態に対応するカテゴリーを見い出したバンヴェニストによる見事な能動態/中動態の定義である。第二に、「自由意志」を虚妄として否定するスピノザが描写する世界が、まさに中動態によって表現される風景であることを指摘したアガンベンである。
そのうえで國分が独自に提示するのが、スピノザの「変状」概念の中動態改釈である。
***************
スピノザは「自由意志」を否定し世界(神すなわち自然にほかならない)を内在原因が必然的に変状する様態の過程とみるが、その基本概念「変状するafficitur」は、ラテン語としていっけん受動態にみえるが、意味としては中動態としてとらえなおされるべき「中動態的受動態」の文法形式にあてはまるのである(!)。
ちなみに通説では、スピノザは世界を描くときに、二つの原因概念を立てたと言われる。個別者間の機械論的な因果関係(いわば水平的因果関係)と、世界そのものである神(すなわち自然)という内在因の自己展開としてのいわば垂直的因果関係である。機械論的因果関係には自由の入る余地はなく決定論となる一方、必然的な法則にしたがって、神の自己展開の一部として自らを認識しつつ行為するのがスピノザ的な自由概念とされる。
個別者間の水平的因果関係の中に自由意志や責任の概念を挟み込ませようとする誤りを、國分はスピノザと同じ論法で指摘する一方、スピノザの言う内在因としての神(すなわち自然)の変状する世界を、中動態という文法形式の示唆する存在構造・因果形式のもとに捉えなおす。
本書の中で我々が経験する「転回」は、水平的因果関係の機械論的世界から、力動的な内在因の躍動する垂直的因果関係の世界への風景の展開である。それと同時に個人の自由意志・個人の責任という虚像に悩まされる世界から、新たな自由、能動性概念が可能となるはずの世界である。
「たしかにわれわれは外部の原因から刺激を受ける。しかし、この外部の原因がそれだけで我々を決定するのではない。この外部の原因はわれわれのなかで、afficiturという中動態の意味をもった動詞表現によって指し示される自閉的・内向的な変状の過程を開始するのである」(251頁)。そして、内在的な力動的な努力(conatus)が変状の過程を突き動かしていくとされる。
中動態の世界の存在構造を、ここでは<<外因/内因(努力conatus)-変状(afficitur)>>の存在構造と図式化しておこう。
自然の諸部分は、内部メカニズムが半ばブラックボックス的で予測しきれない、ダイナミックな内的過程であるととらえられる。原因/結果の機械論的因果論ではなく、非機械論的・非決定論的因果論のもとにある中動態の世界の存在構造が我々の眼前に展開するのである。
******************
さて、「中動態の世界」での自由の概念は、どうなるのか?
「自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう」(262頁)と、スピノザの「自由/強制」の定義を國分は引き継ぐかのようなそぶりをする。
しかし、「法則の認識」というスピノザの示した方向性を追求することなく、國分はここでコッソリ退却する。262~263頁での國分の論法はこうである。
必然的な法則に基づいて、本質(conatus)を表現しつつ行為するのが自由である。→「必然的な法則」はわれわれ一人一人の中のconatus(=本質)の作用にかかわる。→conatusは一人一人異なる具体的なものである。→だから自由になるための道筋も、一人一人で異なる具体的なものである。
そう論じて、國分は「法則の認識」を語るのをやめてしまう。國分の頭の中では、具体性において自由を追求することと、法則の認識にもとづく実践は、対立しているかのようである。國分は、「法則」という概念を機械論的、決定論的に捉えているのではなかろうか?
中動態の世界において、自由の概念は、それ以上考究されず、自由が未定義な状態にわれわれは放置される。だって國分に言わせれば、「自由になるための道筋も、一人一人で異なる具体的なものである」以上のことが言えないのだから。
「世界が中動態のもとに動いていることを認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の世界は自由を志向するのだ」(263頁)。
自由を志向する、と言って國分はどこに向かおうとしているのか?「法則の認識」を目指せ、という標識から國分は目を背け、腕組みをして立ちすくんだままである。本書『中動態の世界』の到達地点は、どこにどう踏み出していいものか不明な宙ぶらりんの宙動態である。本書の読者は、読書過程での哲学的「転回」のジェットコースターに乗ったものの、しかるべき着地点に到達できず、宙に浮いた浮動性めまいの状態で放置される。
最終章で國分は唐突に「ビリーバッド」というフィクションの解釈に取り掛かる。その登場人物たちに自由はあったか?國分の答えは、誰もが選択肢のない状況で「自由ではいられない、行為を強制される」、ただしだからといって「彼らが何かに完全に操られていたということでもない」。「ならば次のように言えるのではなかろうか。ビリーもクラッガートもヴィアも、それぞれがわれわれなのだ、と」(291頁~292頁)。おいおい、その陳腐な結論は國分自身の自由の定義を示せてないからだろ。選択肢のない状況、てのは大前提なんだから。
「われわれは中動態の世界に生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく」。「少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる」(293-294頁)。そう言いつつ、具体的にはどうすれば自由に近づいたと言えるのか?。國分はその基準を示していない。
本書とは別のところだが、國分と熊谷晋一郎との対談で、熊谷は自分の身体や経験のなかに法則を見出す当事者研究とか、機械論的なデカルト的科学に代わる「スピノザ的科学」とか、しきりに水を向けるのだが、國分の反応は鈍いままである。法則や科学を、ビッグサイエンス的にではなくもっとカジュアルに捉えれば國分は議論をもっと先に進められるだろうに。
***********************
いずれにしろ、「変状」の中動態改釈と、<<外因/内因(努力conatus)-変状(afficitur)>>存在構造の提示により、本書は刮目すべき研究であり、スピノザ以降の科学思想研究に役立つ補助線を与えてくれるだろう。
簡単に3例挙げてみる。
1例目。F.ナイチンゲール。『看護覚書』冒頭で掲げる一般原理は、<<外因/内因(努力)-変状>>存在構造そのものである。
「およそ病気とは、多かれ少なかれ回復の過程(process)であり、毒されたり衰えたりする過程を癒そうとする自然の努力(an effort of nature)である。その病気がいつ終わるかは、それに先立つ過程が進行しているうちにすでに決まっている」。
「我々が病気と呼ぶ自然が行う回復過程は、これら(清浄な空気、水etc.)の一つ、またはすべてに関する知識や注意が足りないために妨げられ、痛みや苦痛、またその治癒過程全体の中断が生じるのだ」。
「内科的治療も外科的治療も障害物を除去すること以外には何もできない。どちらも癒すことはできない。癒すのは自然のみである」。
だから看護は、健康の法則に反する外因を取り除き(身体的衛生から病院建築、都市計画も含めて)、患者自身の内因(自然の治癒過程)の努力を正常に発揮させて変状を促すものである。
ナイチンゲールは看護の実際的場面での細々とした経験と観察で得られる法則から、大規模な母数の統計分析から得られる法則(衛生改善による院内死亡率の顕著な改善)まで、健康の法則を見つけて実践するという近代看護を世界にもたらした。彼女の科学・倫理・神学思想において、スピノザ『エチカ』の受容はおそらく枢要的位置を占めているのではないだろうか。
2例目。ナイチンゲールの統計学や看護研究にも絡むが、臨床研究という科学的方法。たとえば、喫煙に暴露した暴露群は対照群に比較し肺がんになるハザード比が有意に高い。<<喫煙因子/群(何らかの未解明な病態メカニズム)-肺がん>>が<<外因/内因(努力)-変状>>に相当する。喫煙と肺がんとの因果関係を確立するのは、病態メカニズムの研究によってではなく、メカニズムはブラックボックスのままカッコに入れた統計学的な臨床研究による。薬剤とその有効性の因果関係も、臨床研究で確立されるのであって、もっともらしいメカニズムの能書きによるのではない(津田敏秀『医学と仮説』参照)。
3例目。毛沢東。「自然界の変化は、主として自然界の内部矛盾の発展によるものである。...(中略)...唯物弁証法は、外因を変化の条件、内因を変化の根拠とし、外因は内因をつうじて作用するものと考える。」(『矛盾論』)。ギリシャ哲学-スピノザ-ヘーゲル-フォイエルバッハ-マルクス・エンゲルスと辿ってみれば、唯物弁証法に「中動態の世界」を見つけても何ら驚くことではないではないか。
臨床科学は、つねに具体性のなかに法則性を見出し、臨床において法則の認識にもとづく実践を行ってきた。ひとりひとり具体性があることと、法則性の認識は何ら矛盾するものではない。
國分の言葉をこう書き換えてみよう。「世界が具体性を貫く法則性のもとに動いていることを認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の世界は法則の認識にもとづく実践を志向するのだ」と。
本書が哲学的「転回」のジェットコースターの浮遊感を楽しむアトラクションで終わってはいけない。読者は、それぞれに本書からの着地点を探らねばならない。読者に思考を喚起する点で本書はやはり稀にみる書である。
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