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中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) 単行本 – 2017/3/27
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――当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか? それ以前に、私たちの思考を条件付けている「文法」の問題なのか?
若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。
【本書「あとがき」より】
中動態の存在を知ったのは、たしか大学生の頃であったと思う。本文にも少し書いたけれども、能動態と受動態しか知らなかった私にとって、中動態の存在は衝撃であった。衝撃と同時に、「これは自分が考えたいことととても深いところでつながっている」という感覚を得たことも記憶している。
だが、それは当時の自分にはとうてい手に負えないテーマであった。単なる一文法事項をいったいどのように論ずればよいというのか。その後、大学院に進んでスピノザ哲学を専門的に勉強するようになってからも事態は変わらなかった。
ただ、論文を書きながらスピノザのことを想っていると、いつも中動態について自分の抱いていたイメージが彼の哲学と重なってくるのだった。中動態についてもう少し確かなことが分かればスピノザ哲学はもっと明快になるのに……そういうもどかしさがずっとあった。
スピノザだけではなかった。数多くの哲学、数多くの問題が、何度も私に中動態との縁故のことを告げてきた。その縁故が隠されているために、何かが見えなくなっている。しかし中動態そのものの消息を明らかにできなければ、見えなくなっているのが何なのかも分からない。
私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想い続けていた。
(中略)
熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分のなかで次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきたにもかかわらず手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。
その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。
次第に私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。──そのような気持ちが私を捉えた。
(以下略)
- 本の長さ330ページ
- 言語日本語
- 出版社医学書院
- 発売日2017/3/27
- 寸法15 x 2.3 x 21 cm
- ISBN-104260031570
- ISBN-13978-4260031578
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「科学性」「専門性」「主体性」といったことばだけでは語りきれない地点から≪ケア≫の世界を探ります
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居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 | 在宅無限大: 訪問看護師がみた生と死 | 異なり記念日 | どもる体 | 中動態の世界 意志と責任の考古学 | |
カスタマーレビュー |
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価格 | ¥2,200¥2,200 | ¥2,200¥2,200 | ¥2,200¥2,200 | — | ¥2,200¥2,200 |
著者 | 東畑 開人 | 村上 靖彦 | 齋藤 陽道 | 伊藤 亜紗 | 國分 功一郎 |
内容紹介 | 「ただ居るだけ」と「それでいいのか?」をめぐる 感動のスペクタクル学術書! 京大出の心理学ハカセは悪戦苦闘の職探しの末、ようやく沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。 しかし、「セラピーをするんだ!」と勇躍飛び込んだそこは、あらゆる価値が反転するふしぎの国だった――。 ケアとセラピーの価値について究極まで考え抜かれた本書は、同時に、人生の一時期を共に生きたメンバーさんやスタッフたちとの熱き友情物語でもあります。 一言でいえば、涙あり笑いあり出血(!)ありの、大感動スペクタクル学術書! | 「普通に死ぬ」を再発明する。 病院によって大きく変えられた「死」は、いま再びその姿を変えている。 現在の在宅死は、かつてあった看取りの文化を復活させたものではない。 先端医療が組み込まれた「家」という未曾有の環境のなかで、訪問看護師たちが地道に「再発明」したものである。 著者は並外れた知的肺活量で、訪問看護師の語りを生け捕りにし、看護が本来持っているポテンシャルを言語化する。 「看護がここにある」と確かに思える一冊。 | 著者の齋藤陽道さんもパートナーの麻奈美さんも、耳の聞こえない写真家です。 陽道さんの第一言語は日本語。麻奈美さんは日本手話。言葉が違えば見ている世界も違います。 ふたりの間に生まれた樹(いつき)さんは、どうやら聞こえるらしい。聴者です。からだが違えば見ている世界も違います。 そんな「異なる」3人が、毎日をどんな風に過ごしているのか。本書は、ケアが発生する現場からの感動的な実況報告です。 | しゃべれるほうが、変。 何かしゃべろうとすると最初の言葉を繰り返してしまう(=「連発」という名のバグ)。 それを避けようとすると言葉自体が出なくなる(=「難発」という名のフリーズ)。 吃音とは、言葉が肉体に拒否されている状態です。 しかし、なぜ歌っているときにはどもらないのか? なぜ独り言だとどもらないのか? 本書は、従来の医学的・心理的アプローチとはまったく違う視点から、 吃音という「謎」に迫った画期的身体論です! | 自傷患者は言った「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」。依存症当事者はため息をついた「世間の人とは喋っている言葉が違うのよね」 ――当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか? それ以前に、私たちの思考を条件付けている「文法」の問題なのか? 若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。 |
商品の説明
メディア掲載レビューほか
能動態でも受動態でもない「中動態」を知ると少し生きやすくなる
『暇と退屈の倫理学』で“暇人"の効用を説き、世に衝撃を与えた哲学者の國分功一郎さん。新刊『中動態の世界』は、雑誌「精神看護」での連載が元になっている。英文法で教えられるのが「能動態(~する)」と「受動態(~される)」の区別だが、本書のタイトル「中動態」はそれら二つの起源にある、古典ギリシア語など嘗てのインド=ヨーロッパ語に広く存在した動詞の態を指す。
「大学生の頃その存在を知り、自分の専門であるスピノザ哲学と深いところでつながっている、という感覚はずっとありました」
『暇と退屈の倫理学』で人間には“ぼんやりとした退屈に浸っている"状態が大切だ、と主張した点が、アルコールや薬物などへの依存症の回復に有効なアプローチたり得る、と専門家や当事者から指摘され続け、とうとう本格的「中動態」研究に乗り出す。
「哲学研究の世界ではここ100年ほど、自発性、主体性、言い換えれば“意志"の存在が疑われています。僕は実際に“近代的意志"の存在を前提とした“常識"が人間に明確な害を及ぼしている現場に遭遇した。依存症の方々は、意志が弱い、と周囲から思われ、自分を責め続けています」
國分さんの著作はしばしば「ミステリー的」と評される。ギリシア語最古の文法書『テクネー』の解読から「中動態」探しの旅は始まり、20世紀フランスの言語学者バンヴェニストの「能動態」再定義に力を得、捜索過程でハイデッガーの弟子ハンナ・アレントに「つきまとわれ」、哲学的言語探究は核心へと向かう。
「力に怯え心ならずも従う――カツアゲや性暴力、各種ハラスメントで顕著ですが、非自発的同意という事態が日常にはゴロゴロある。能動性、受動性という概念にうまく当てはまらない状況なんです」
そこに“こうなったから、どうしていこうかな"という中動態的カテゴリーを持ってくると、少し生き易くなる。第8章「中動態と自由の哲学 スピノザ」で本書は山場を迎える。
「『エチカ』を今回、ラテン語で暗誦するほど読み込み、分かってきた部分がある。過去や現実の制約から完全に解き放たれた絶対的自由など存在しない。逃れようのない状況に自分らしく対処していくこと、それが中動態的に生きることであり、スピノザの言う“自由"に近付くこと。僕はこの本で自由という言葉を強調したかった」
評者:「週刊文春」編集部
(週刊文春 2017.05.18号掲載)出版社からのコメント
第16回(2017年)小林秀雄賞受賞!
受賞理由――《中動態という、日本人に馴染みがない概念を浮かび上がらせようとして、難解な迷路をくぐり抜ける、著者の一途な姿と稀有な批評的営みが美しい。》
http://www.shinchosha.co.jp/prizes/kobayashisho/
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‥…‥…‥… 中動態とは何なのか? その名称からは、まるで能動態と受動態の中間であるかのような印象を受ける。その印象は正しいのか?
また現在、中動態は少なくとも言語の表舞台からは消えてしまったように思われる。本当にそうだとすれば、それはなぜ消滅してしまったのだろうか?
いや、もしかしてそれはまだ姿を変えて残り続けているのだろうか?
それにしてもなぜわれわれは中動態について教わることがないのか?
若き哲学者は、バンヴェニスト、アレントに学び、デリダ、ハイデッガー、ドゥルーズを訪ね直し、細江逸記を発見し、アガンベンに教えられ、そして新たなスピノザと出会う。
著者について
1974 年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学准教授。専攻は哲学。
主な著書に、『スピノザの方法』みすず書房、『暇と退屈の倫理学 増補版』太田出版、『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書、『来るべき民主主義』幻冬舎新書、『近代政治哲学』ちくま新書、『民主主義を直感するために』晶文社など。訳書にドゥルーズ『カントの批判哲学』ちくま学芸文庫、ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(共訳)みすず書房、などがある。最近ハマっているのは空手。
登録情報
- 出版社 : 医学書院 (2017/3/27)
- 発売日 : 2017/3/27
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 330ページ
- ISBN-10 : 4260031570
- ISBN-13 : 978-4260031578
- 寸法 : 15 x 2.3 x 21 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 6,007位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 8位近代西洋哲学
- - 14位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 122位哲学 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について

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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
まず最初に、最近の脳神経科学に基づくと、人が手足を動かすなど何か『行動』する時には「意志という主観が現れる前に先に脳内で運動プログラムが作られている」という。「意志は後からやってくる」のだ。そして、こういう「行為における意志の問題」は精神医学・脳科学的側面だけでなく哲学の世界でも様々に論じられてきた。著者の専門であるスピノザの「自由意志の否定」~そこから議論は文法・言語学の世界に発展していく。現代の我々は多くの言語で「能動態・受動態」の二つの「態」があることを知っており、「動詞」つまり行為を表す言葉は「する」か「される」かの対立概念として理解しているが、実は古典ギリシア語以前の言語世界では「中動態」という「受動態」とは別の「態」が存在していて、その言語表現では能動・受動の「するかされるか」ではなく、その行為が「主体の外に及ぶか内に及ぶか」によって能動・中動の区別がなされていた。現在の「受動態」はかつての「中動態」が消滅する過程で分岐したものだという。私が大学時代に学んだフランス語(ラテン語由来)にも「代名動詞(再帰動詞)」という語法があるが(いわば他動詞の自動詞化現象)、学生時代には「えらいもって回った言い方するな」としか思わなかったが、これなどまさに「中動態」の名残りである。そしてこうした「中動態」的言語世界は日本語の古語にも見られるという(「ゆ」の活用など)。
さて、なんでこの「中動態」に著者はそこまで注目するのか?ここで重要なのが「意志」の問題との関連である。曰くアリストテレスなどギリシア哲学にはそもそも「意志」の概念はなかった。そしてこの中ではハイデッガーやドゥルーズなど様々な哲学者の論考が引き合いに出されるが、特に重要なのがハンナ・アーレントである。何かを「選択」することは「過去からの帰結」であってそれは「意志」ではない。そもそも「原初的意志・根源的意志」なるものは「神」以外には持ちえない。なぜなら我々が持つ「意志」はその前提に何かの事案に相対しているから出てくるもので、それ自体がある種の「反応・選択」に過ぎない。その意味では我々が「意志」と呼んでいる精神作用も「受動の一種」なのだ。こうした解釈は、我々の社会が「能動か受動か」「肯定か否定か」という「百かゼロか」的二律背反では決められないグレーな事案に溢れていることを「うまく理解する」のに非常に有効な観点となる。だから、今や言語の世界では廃れてしまった「中動態」的なモノの観方が大切~ということがこの著作の最大の論点である。
私はこれを読みながら、現在のフェミニズム界隈でよく言われる「ネガティヴ・ケイパビリティ(反転的受容力とでも言おうか)」とどこか通底するものがあると思ったし、あらゆる行為主体性と責任の追及が厳しすぎると、人間はどこか「もたなく」なることもあるのかな?~とも感じる。「近代的自我・意志」を追い求めるのはほどほどが肝要なんだろう。
尤もここで展開されている議論は、政治家や国家の犯罪行為・戦争責任・植民地支配責任における「意志と責任」に免罪符を与えるようなものではない。そこは重々注意が必要である。
しかし國分功一郎さんの論考はええな!前にみた「エアレボリューション」も面白かったが、「この界隈(どの界隈や?)」の人たちには学ぶことが実に多い~(*^^*)
暇と退屈の倫理学でも少し気になったが、恣意的に批判できそうな箇所を引用したりすることは少し気になっている。
もう少し勉強してから再読する可能性があるが、今の所、すぐに読むべきものでもないしおすすめできる本でもない。
これは読むしかない。アマゾンで購入すると、帯には「第14回小林秀雄賞 受賞作」とある。
第1章 能動と受動をめぐる諸問題
「私が歩く」(能動)と「私のもとで歩行が実現されている」(意志の介在しない中動)の違い
第2章 中動態という古名
古代(8000年以上前)のインド・ヨーロッパ語には、能動態と中動態の対立が存在していた
第3章 中動態の意味論
主語が過程の外にある=能動 ⇔ 主語が過程の内にある=中動 ・・・「意志」が前景化しない
する=能動 ⇔ される=受動 ・・・「意志」が前景化する
第4章 言語と思考
言語は思考の可能性の条件(展開される場)
第5章 意志と選択
権力を行使する者(過程の外=能動)⇔ 権力によって行為させられる者(過程の内=中動)
・・・カツアゲ(恐喝)、便所掃除
第6章 言語の歴史
名詞 → 動詞・・・「動詞」の起源としての非人称構文が ”It rains“
出来事を描写する言語(能動・中動)から → 行為者を確定する言語(能動・受動)へ
This book reads easily.
見る→見ゆ→見ゆる(在らゆる・言わゆる)
第7章 中動態、放下、出来事 ―ハイデッガー、ドゥルーズ
動詞の原始的な形態は「起こること=出来事」を表現するもの(「する」「される」ではなく)
「思惟することは回想することであり、意志することは、回想の放棄であることによって思考の放棄である」(ハイデッガー)
第8章 中動態と自由の哲学 ―スピノザ
個物はたえず他の個物から刺激や影響を受けながら存在している
「競馬における競走馬は、鞭打たれながらも自由である」・・・キタサンブラックと武豊?
中動態の哲学は自由を志向する・・・私は鞭打たれる競走馬である?
第9章 ビリーたちの物語
メルビルの小説『ビリー・バッド』を、<中動態の哲学>を軸に読み解いている。
「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメールの18日』)
著者は、誰もが関心を懐かず迷宮入りとなりかけていた遠い過去の事件を執拗に追跡する刑事あるいは探偵さながら。ギリシア語、ラテン語も学びながら、20年以上追いかける姿は美しく、展開もスリリング。飽くなき追跡の結果生まれた<哲学を考古学的に探求するミステリー>はわくわくして読める。