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死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく) 単行本 – 2004/9/1
購入オプションとあわせ買い
「どうして『死と身体』がコミュニケーション論になるの?」と疑問をもった瞬間、あなたは既にコミュニケーションの中にいる、っていう話です。
人がケータイを手放さずネットショッピングにはまるのは、それが5万年ぶりの沈黙交易だからだと喝破し(p.223)、なぜ「英霊を賛美」してはいけないかをレヴィナス、ラカンを引いて論を立て(p.228)――と絶好調。
「着眼点のとんがり具合は、ここ数ヶ月でいちばん」(04.6.24.Web日記)と自負する、著者新境地の一冊です。
- 本の長さ242ページ
- 言語日本語
- 出版社医学書院
- 発売日2004/9/1
- ISBN-104260333666
- ISBN-13978-4260333665
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商品の説明
抜粋
科学者というのはいつも世界が単純にできていると思いたがる。 そして、その期待は決まって裏切られる。 ――Gregory Bateson, Steps to an Ecology of Mind
1 あべこべことば
「適当」というのは正確にはどういう意味であるのか明らかにせよと、以前スイスから来ていたエリザベス君に問いつめられたことがある。
「適当な答えを選べ」という場合の「適当」は、「的確な」とか「正しい」という意味だけれど、「適当にやっといてね」とか「適当なこと言うな」とかいう場合の「適当」は、「あまり的確でない」とか「あまり正しくない」という意味である。いったい日本人諸君は何ゆえに、このように同一語をして相反する意味に用いるのであるのか、そのあたりの理路を整然と論ずべし、と畳みかけられて困(こう)じ果ててしまった。
言われてみれば、ご指摘のとおりである。こちらもうっかり気づかずに使っていたが、たしかに「適当」というのは、ずいぶん「適当な」使われ方をしている。まことにいい加減なものですね、と言うときのこの「いい加減」も、「適正な程度」という意味ではなく、おもに「適正でない程度」という意味で用いられている。というわけで、エリザベス君には、けっきょく得心のいくようなご説明をすることができずに終わってしまった。
その後も、ずっとこの問いがひっかかっている。
どうして、同一語が反対の意味をもつ必要があるのだろう? いったい誰がそのことからどのような利益を得ているというのだろう? そのことが、それほどに非合理的なことであるとしたら、どうしてその陋習(ろうしゅう)を改善しようと朝日新聞なりNHKなり文科省なりが提言してこないのか?
どうも不思議である。
しかし、そう思ってあたりを見回してみると、わたしたちが日常使っている表現のうちには、反対の意味を同時に含意している語が思いのほかに多いことに気がついた。
たとえば、人称代名詞。
わたしが東京から関西に来て驚いたのは、大阪の人たちが「自分」を「あなた」という意味で用いることであった。「ジブン、騙されてんとちゃう」というのは、「あなたは騙されているのではないか」という意味である。
『仁義なき戦い』で菅原文太が小林旭に向かって、「のうアキラ、こんなんが村岡の跡目継いだらいいじゃないの」というときの「こんなん」というのは、「こちら」というのが原義であろうが、文脈を勘案するに「あなた」の意らしく思われる。どうして「こちら」が「あなた」になるのかよくわからない。
「手前」というのもそうだ。「てまえ」と読めば一人称、「てめえ」と読むと二人称になる。リバーシブルだ。
「あなた」にしても、本来は「彼方」の意であるはずだから、目の前にいる人の呼称としてそれほど適切とも思われない。
考えるとどれも納得のいかない話である。だが、べつにこれはわたしだけがひとりこだわっていることではなく、日常生活における「変なこと」にたいへんこだわりのあったフロイト博士[☆]も、この点に着目されて、例のごとき洞見を語られている。
多くの言語学者たちは、最も古い言葉では強い-弱い、明るい-暗い、大きい-小さいというような対立は、同じ語根によって表現されていたと主張しています(『原始言語の反対の意味』)。たとえば、エジプト語のkenは、もともと「強い」と「弱い」という二つの意味をもっていました。対話の際、このように相反する二つの意味を合わせもつ言葉を用いる時には、誤解を防ぐために、言葉の調子と身振りを加えました。また文書では、いわゆる限定詞といって、それ自体は発音しないことになっている絵を書きそえたのです。すなわち、「強い」という意味のkenの時は、文字のあとに直立している男の絵を、「弱い」という意味のkenの時は力なくかがみこんでいる男の絵を書きそえたのです。同音の原始語をわずかに変化させて、その語に含まれた相反する二つの意味をそれぞれにあらわす表記ができたのは、後代になってからのことです。★01
古代エジプト人はkenという発音を微妙にピッチや身振りを変えることで、「強い」という意味と「弱い」という意味に使い分けていたわけである。ずいぶんと七面倒なことをしたものだが、これはべつに古代エジプトだけに限った話ではなく、同じ現象は、じつは古今東西、言語のあるところではどこでも観察されるのである。
フロイトは同種の事例をいくつか列挙している。ラテン語のaltusは「高い」と「低い」の二つの意味があり、sacerには「神聖な」と「呪われた」の二つの意味がある。英語のwithは「それとともに」と「それなしに」の両方の意味をもっていたが、今日では前の意味でのみ用いられている(withdraw「取り去る」やwithhold「与えない」という動詞には「それなしに」という古義の名残りがとどまっている)。
もちろん日本語にも同じ現象は存在する。
だいぶ前に見たテレビドラマで、主人公の少年(前田耕陽)が好きな少女(中山美穂)に向かって「オレのこと好き?」と訊ねる場面があった。中山美穂が「うん、好きよ」と答えると、前田くんはその答えに納得せず、こう言った。「その『好き』じゃなくて!」
なるほど、とわたしは深く得心した(エリザベス君のご指摘以来、わたしはこういう事例にたいへんこだわる人間となったのである)。
「好き」というような、誤解の余地のありそうもないことばでさえ、言い方ひとつで、「異性として好き」という意味と、「異性として好きなわけではない」というまったく反対の意味をとることができる。しかるに、今のケースでは、少女の答えた「好き」が「人間としては好きだけど、異性としては興味がない」という意味であることを、少年はどうやって瞬時のうちに識別したのであろうか?
これはみなさんご自身の経験に照らして考えればすぐわかるはずである。
前田くんが中山さんの「好き」を「異性として興味がない」という意味であると一瞬のうちに判別できたのは、「好き?」という問いかけと「うん、好き」という答えのあいだの「間」が有意に短かったからである。
「オレのこと好き?」という問いに対して、「友達としては好きだけど、男として見たことないから」という場合には「うん、好きよ」。「異性として好き」という場合には「……うん、好きよ」と、こちらの場合は、「……」というわずかコンマ何秒の「ためらい」が入る。つまり、わたしたちは、問いかけに対する回答のわずかな遅速の差によって、それがエロティックな言明か非エロス的な言明であるかを識別しているのである。
ずいぶん面倒なことをするものである。
どうして、人間は「異性として好き」(「好き1」)と、「人間としては好きだが、異性としては興味がない」(「好き2」)に別の動詞を割り振ることをせずに、対立する意味を同一語のうちにとどめるに任せたのであろう? 新語があふれるほどに発明されているのに、どうして「好き」のような、語義解釈の間違いがときに死活的に深刻な帰結をもたらす語についてだけは新語の創造をどなたも提言されないのか?
ここにはどうやら人間存在の根本にかかわる重要な問いがひそんでいるように思われる。わたしはこの問いを次のように定式化してみたいと思う。
人間はどうして、わざわざ話を複雑にするのか?
著者について
今後の抱負…ライフワークであるレヴィナス3部作の第3部「時間・身体・記憶」を書き上げたら、すばやくリタイア。その後は六甲山中に草案をんで、合気道と能楽を愉しむ悠々自適の隠居生活。
主な著書…『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『おじさん的思想』『寝ながら学べる構造主義』『街場の現代思想』ほか。
登録情報
- 出版社 : 医学書院 (2004/9/1)
- 発売日 : 2004/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 242ページ
- ISBN-10 : 4260333666
- ISBN-13 : 978-4260333665
- Amazon 売れ筋ランキング: - 308,652位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 250位論理学・現象学
- - 1,534位臨床心理学・精神分析
- - 5,858位日本のエッセー・随筆
- カスタマーレビュー:
著者について
1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想。ブログ「内田樹の研究室」を拠点に武道(合気道六段)、ユダヤ、教育、アメリカ、中国、メディアなど幅広いテーマを縦横無尽に論じて多くの読者を得ている。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第六回小林秀雄賞受賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第三回新書大賞を受賞。二〇一〇年七月より大阪市特別顧問に就任。近著に『沈む日本を愛せますか?』(高橋源一郎との共著、ロッキング・オン)、『もういちど村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)、『武道的思考』(筑摩選書)、『街場のマンガ論』(小学館)、『おせっかい教育論』(鷲田清一他との共著、140B)、『街場のメディア論』(光文社新書)、『若者よ、マルクスを読もう』(石川康宏との共著、かもがわ出版)などがある。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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それにしても,他人と言葉を交わしながら,その都度人間であることを寿ぎ,祝福しているという観点には,目からうろこです。現代の日本語状況をみていると,人を攻撃したり,人の欠点をあげつらったりして,人を蔑むことに多くの言語的資源が費やされているように見えます。そうしておきながら,自ら孤立しているのに,それを他責的にしか語れない不幸から抜け出すために,もっとこの本が読まれてもいいように思いました。言葉の使い方一つで,我々はもっと幸せに,平和に生き,死ぬことができると,歳をとったせいか実感してしまいました。
本来の日本語の特性からして,外国語がたくさん入ってくるような現代であればあるほど,もっと表現力が豊かになってしかるべき言語状況のはずなのに,著者がこの本で語っているように,子供たちの表現範囲が狭隘で,表現力がますます狭隘で貧困になっているのは,ひとえに「言葉の寿ぐ力」「言葉が祝福する力」を使っていないからではないかと思いました。
大げさなこと言わなくても,ちょっと身近な人たちに感謝し,ありがとうという気持ちの言葉を発する輪を広げていきたいと痛感しました。この本を読んで。
著者あとがきを信じるなら、本書は版元編集者がでっち上げてしまったものらしい。著者が仕事を断った(つもりだった)のに、カルチャーセンターでの著者の「身体論」講演に編集者が通ってきて録音機を回し、著者が「いったい何をしているのかと訝しんで」いるうちに「さあ、原稿が揃いました」と宣告されてしまったそうで、「いったいいつのまに私は一冊本を書いてしまったのであろう」などと狐につままれたような気分でいたらしい(p242)。
『死者と他者』の稠密な文体からは、著者が執筆に精魂を傾けた様子が伝わってきたし、縫い目の見えぬほどに滑らかで美しい物語を紡いでいるとも思うのだが、同時にナルシス的な閉鎖性をも感じてしまう。対して、本書はまさに他者が作り上げた書物であり、著者を不意打ちしている感触がある。著者の主張からしても、本書のほうがコミュニケーションのあるべき姿ということになるのではないか。無防備な言葉を拾い上げた結果、かなり独りよがりで杜撰な(と私には思える)論も散見されるけれど、それはそれでいいのではないか。
個人的には、まえがきp32辺りの「夢の文法」に絡めた議論が興味深かった。すなわち、私たちは「まだ人間でない状態」と「人間になった状態」との間で日々往還を繰り返しており、「人間はそのつど人間として再生する」という仮説。
ただし私は基本的にはこの著者を「おじさん的ロマン主義者」と位置づけており、読みはするし面白く感じつつも、距離は保ちたい。
こんな私がお勧めします。つまり、
コミュニケーションを意識せずにはいられない状況にあり、現代思想にコンプレックスがあり、内田樹の大ファンであるそんな貴方に!
医学書院の『ケアをひらく』シリーズは、はずれがありません。また、間違いを恐れずに言えば、同じような(?)内容でも『他者と死者』より、数段、楽に読めます。
しかし、やはりそれを継続させ、発展させるのは言葉の意味のやり取りであり、経済的利益のやり取りだ。
著者は、「理解してくれる人はごくわずかだが、自分はこう思う」的な記述を多く使うが、単に説得力がなく、説得する意志もないだけのように感じる。
それは、「意味のやり取り以前のコミュニケーション」あるいは「身体」に依拠しすぎなのだ。「身体」と言えば聞こえがいいが、それは単なる言語的コミュニケーションからの逃避にすぎず、「身体」そのものがこの著者の脳が創りだした妄想にすぎないと思う。。
いくら意味のやり取り以前に、コミュニケーションをしたいという意志があるのだとしても、言語による説明なしに、言論は他者には理解されないのだ
でも頭で考えたことって、計算が入ってたり、人真似であったりして、自分のオリジナルな感じ方ではないんだよね。それでもいいけれど、これって、危険なことじゃないかと思う。
身体の声を聞くというのが、如何に大切か。
自分の感じ方や考え方を大切にしたいものだ。
この本のなかに、村上春樹さんの引用がでてくる。
「よい文章って、身体を使って書いている。」って。
人と話してるとき、言葉の身体性って凄く伝わってくるけれど、きっと、書いているときも身体を使って書いているときって、読み手にそれが凄く伝わる。
そういう文章を書いているときって、何回も書き直したくなると思うのね。これは、自分が感じていることにピタッと来ないなとか、敏感に感じ取れる。それで、文章が精緻化されていく。
もともと”シャイ”な人は”クリアカット”に、”クリアカット”な人は、”シャイ”に書いてみるっていうのも、確か出てきたような気がするけれど、なるほどなと思った。バランスが取れそうだ。
それから、「死者」の話。
死者の声は、わからない。
聞こえたとしても、何を言わんとしているのか?
存在するのとは別の仕方で、そこにあるけれどないものとして、その声に耳を傾ける。
謎を謎として、大事に残しておくこと。
わからないものだからこそ、わたしたちに考えさせてくれる。そして、死者から送られてくるメッセージは、わたしたちが聞きたがっていることを、自分宛てに送り返されたメッセージであって、それが出来るからこそわたしたちは人間なのだ、、、ということが書かれていて、とても考えさせられる本だった。
コミュニケーションを通しての職責が強い分、道しるべになる一冊です。
しかしながら、近年の内田おじさんの発言はだいぶパターン化されてきた。本書も例に違わず、従来のおじさんの主張の繰り返し、または主張の延長上で容易に導き出せる話が大半なのだ。というわけで、彼の以前からの読者にとっては、それほど目新しい内容というわけではない。
しかし、わかっていても、「何か面白いことを言ってくれるだろう」と手に取ってしまうのがファンというものである。同じ内容といっても表現が少しずつ違っていたりするのでそれなりに楽しめる。むしろ、今のところはじめておじさんの本を手に取る読者の方にはよいのではないか。
哲学者・思想家たちの読み方も、ふるっています。たとえば、レヴィナスの文章がわかりにくいのは、あれは「身体の水準で生起していることば」でものを言おうとしているからだ、といい、ラカンの講義が難解すぎるのは、実は「幽霊」について遠まわしに語っているからだ、などと、真面目に説明します。この延長上に、「現象学」はすべからく「幽霊」研究だ、という素敵な結論が導かれるのですが、他の専門家の方の意見を聞きたいなあ、と思うところです。
あと、最後の方で、「アマゾン」は本屋版の「沈黙交易」だ、というシャレた妄想が語られています。これまた、自分の世界に対する接し方を少し変えてくれる、楽しいお話でした。