本書は、資料的な西洋的歴史記述を超える(批判せず相対化する)目的のために、論文という西洋の枠組みで行わざるを得なかった著者の、圧倒的な文体の発明と、その矛盾と向き合う浪漫譚である。
まず読者は、学者の枠を超えたその「文体」に魅了されてしまうだろう。本書の成立上、文語、口語、が各章ごとにことなる形式が、そもそも口頭で描かれる歴史というものをよく表している。またアボリジニーとの会話(の翻訳)が入ることで、文体が鮮やかになり、論文を超えたものとなっている。これは、著者を象徴する「歴史する」という言葉を体現している文体である。どんなにことばの上で「いま・ここ」で歴史が作られているといっても、それを説明している文体が生きていなければ、成立しない。本書は、読者へのメッセージであり、講演会でのレクチャー記録であり、学術論文である、このような多様な形式を持つことでまさに歴史することが達成されていると感じた。
内容に関しては、抽象概念と実地体験がアボリジニーの中で分離されていないという点がとても興味深い。確かにここにフォーカスすると、実際の西洋手法の歴史記述と、土着的な歴史伝達、というものを分離しないで記述せざるを得ない理由がわかる。また、ノマドという言葉が10年周期で定期的に流行る日本において、どの本よりもこの言葉を適切に理解できる。要は、アボリジニー社会におけるノマド的文化の本質は、旅人や、根無草、セレブのホテル住まい、といった意味とは全く逆で、「ただこの大地を一つの家と捉えて、寝る場所を変えている」くらいの意味合いであることであり、それはとても勉強になった。
西洋的な歴史は資料的であるために「書かれた」歴史である。オーラルヒストリーは言葉で伝えているので誰かが「言った」歴史である。西洋では口頭よりも資料の方が証拠になるために、正当性というヒエラルキーが存在してしまう構造がある。一方で歴史の「受け手」の立場で考えると、資料的な歴史か口頭的な歴史かの違いは、それを「見ること」と「聞くこと」の違いである。目で追う歴史ではなく、ただ耳に入る歴史、この「受け手の捉え方のシフト」が本書の根幹になっているのではないだろうか。そしてラディカル=根本的なものとは、おそらく現在進行形であることを強調する。著者のいう歴史するラディカルなオーラルヒストリーとは「見る歴史」を相対化し「聞く歴史」を定義した上で、「聞いている歴史」を考えるものなのだろう。オーストラリアの力強い大地の風を聞き、そこで生きる動物たちの鳴き声を聞き、同じように等価に住まう人間の声を聞いた著者の、そのやさしき耳に触れるための圧倒的な良書。
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ラディカル・オーラル・ヒストリー: オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践 単行本 – 2004/9/1
保苅 実
(著)
この本は、「歴史学研究再考」の本、といえるかもしれません。著者は、博士論文執筆のために先住民族アボリジニの村に滞在します。そしてそこで出会った、村の長老ジミー・マンガヤリ氏に受けた教え――歴史実践――に大きな刺激を受け、歴史とは何か、歴史家とは誰を指すのか、〈歴史への真摯さ〉とは何かを、深く考えるようになります。著者は、書き綴られることのないそして一見「神話」と思えるようなかれらの歴史物語りに接して、それを史実の確証のない「危険な歴史」として排除する現代歴史学の「権力性」を振り返ります。また、異文化の歴史を聴く事の難しさと、その上での「ギャップ越しのコミュニケーション」の大切さ・重要性に思い至るようになります。 こういった考察をへて制作された博士論文(英文)をもとに、日本語圏の読者に向けて、また日本の歴史学の現場にいるひとびとに向けて、再構成されたものが本書です。歴史学・人類学・ポストコロニアル理論に裏打ちされた明快な論旨、読者へのサービス精神にあふれた軽快な文章と工夫された構成は、もしかしたら日本の読者には「遠い他者」かもしれない、しかしともに現代を生きる豪州先住民族のひとびとの持つ歴史を知るにあたり、決してあきさせずに、読み進めさせてくれるでしょう。 題名の通り、これはまた、「オーラル・ヒストリー」という研究手法に関しての、挑戦的、かつ根源的な問いかけの書でもあります。参与観察・「インタビュー」ではなく、ともに歴史実践をしていく――「歴史する(Doing History)」――、「フィールドワーク形式」のオーラル・ヒストリーの提言です。 現代を生きる先住民族の歴史を聴くということは、そのまま植民地化の歴史といまにいたるその影響を学ぶということでもあります。豪州の「ポスト植民地主義」の歴史を、そしていまを、この本から知ることができます。「かれら」がイギリス人の植民地化をどう見ていたか、そのような「不道徳なこと」を行なう白人を、どう解釈してきたか、「かれらの植民地主義経験」が紹介されるのです。 そして、日本という地から研究者として村を訪れる著者は、自分が研究者とインフォーマントという権力構造のなかにいることに気づいています。英語や滞在先の村のクレオール語で聞き取った情報をもとに執筆された文章を、さらに著者が日本語に翻訳して構成するというときに発生する(かもしれない)「翻訳という問題」と、「かれらの歴史」を研究者である著者が書き綴ることの「解釈」「代理表象」の問題についても、注意深くあることを自分に、そして読者にも促します。 声の複数性、真理の不安定性などについて議論することをやめ、むしろそれを実際に実践に、本当に知を内破することをに挑戦したのが本書である(あとがき)。 本書を読み、多元的な声、多元的な歴史に出会うなかで、異文化の歴史を理解すること、それに真摯に聴き入ることの重要性を、著者とともに考え・実践していってほしいと願います。
- 本の長さ336ページ
- 言語日本語
- 出版社御茶の水書房
- 発売日2004/9/1
- ISBN-104275003349
- ISBN-13978-4275003348
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商品の説明
出版社からのコメント
本書は、「内容説明」にもあるように、著者保苅実氏の博士論文から、日本語読者向けに構成されたものです。著者が長年にわたって練ってきた、読者を惹きつけるであろう、数々の「しかけ」に彩られたものとして完成しました。著者は、本書制作のほかにも、数々の出版活動の企画を抱えながら、惜しくも今年2004年5月、病気のため亡くなられました。病床で(恐らくは)自身も楽しみながら推敲を重ねられたであろう本書には、歴史学への大きな挑戦の意志とともに、歴史を愛する、そしてなにより「歴史を楽しむ」ことを読者に伝えたいというメッセージにあふれています。 「僕は、読者が、本書を真摯に、しかし同時に楽しみながら読んでくれることを望んでいる。」(あとがきより) 本書を通じて、是非、異文化の歴史を聴きにいく旅に赴いてください。「困惑」「共感」「感激」に満ちたその旅は、著者がそうであったように、読者にとって歴史の楽しさ、そして大切さに再会する旅となるに違いありません。 本書で登場する先住民族の長老たちは、村にやってきた「ホカリミノル」が本書を通じて、自分たちの歴史を日本のひとびとに伝えてくれる事を知っています。著者の旅の同行者として、読者の皆さんはかれらの歴史を遠く日本でも知ることができるのです。
抜粋
ども、はじめまして、ほかりみのると申します。この本を手にとってくださって、ありがとうございます。買ってくれた人には、さらに、ありがとうです。本書は、(翻訳書を除けば)僕が執筆するはじめての本です。というわけで、けっこう緊張もしているわけですが、ともかく本書がみなさんの目にとまったこと、まずはとてもうれしく感じています。どうぞ、よろしくおつきあいください。 僕は、オーストラリアの大学で歴史学の博士号を取ってきたんですけれども、研究課題は、オーストラリアの先住民族アボリジニの歴史にオーラル・ヒストリーの手法で接近する、というものでした。ポール・トンプソンの『記憶から歴史』へが邦訳されたりして、イギリスや米国のオーラル・ヒストリーの研究状況が日本に紹介されるようになりましたけど、オーストラリアの場合、特にアボリジニの人々は文書を残してきませんでしたので、必然的に、オーラル・ヒストリー研究は全然違和感なく定着しています。とはいえ、その方法について言えば、僕はオーストラリアの(たぶん、それ以外の地域でも)研究状況に決して満足していないところがあって、まずはその辺の話をしたいと思います。ただその前に、これ後で重要になってくるんで、一言言っておきたいんですけれども、僕は歴史学者です。「お前は人類学者だ」とよく言われるし、僕の研究手法はたしかに人類学から多大な影響を受けてきました。とはいえ、僕自身は歴史学にこだわりをもって研究をしています。「ときどき半ば冗談半ば本気で、自分のことを「戦略的歴史学者 a strategic historian」と呼んでいます。その意図するところは追々あきらかになっていくと思いますが。 アボリジニのオーラル・ヒストリーに耳を傾けることをきっかけにして、「歴史」を生産・維持しているのは、なにも歴史学者だけではないということ、むしろ僕たち誰もが、ふだんから行っているはずの歴史実践(historical practice)に注目し、それを大事にしていこう、というのが本書の大雑把な目標です。ここでは、僕自身が、博士課程での研究をつうじてオーラル・ヒストリーの方法について考えて来た事を簡単にまとめることで、本書全体の見通しを示したいと思います。……
著者について
保苅実(ほかり みのる)71年新潟生まれ。一橋大学・大学院卒業後、オーストラリアの先住民の歴史を学びに渡豪。ニュー・サウス・ウェールズ大学ののちに、オーストラリア国立大学(ANU)博士課程に進学。1997年より豪州北部の先住民族の村、ダクラグに滞在し、村の長老より歴史を学ぶ。2001年、査読官たちの絶賛と村の長老たちからの承認を受けた論文「クロス・カルチュラライジング・ヒストリー――グリンジの歴史実践への旅」で博士号取得。また、99年より2003年までANUの太平洋・アジア研究所と人文学研究所で客員研究員と所属しつつ、2002年からは日本学術振興会特別研究員として、慶應義塾大学にも所属。日豪のさまざまな大学で、歴史学・ポストコロニアル理論、先住民族研究についての講義やシンポジウムに参加。日本の学会誌『オーストラリア研究』第15号の特集「ジャパニーズ・イン・オーストラリア――「記憶」〈過去と現在の交錯点〉――」を共編著。オーストラリアの優れた著作の翻訳にも努め、先住民族研究のエッセンスであるD・ローズ『生命の大地――アボリジニ文化とエコロジー』(原著1〓996年、平凡社2003年)と、豪州多文化主義の現在を批判的に考察した名著、G・ハージ『ホワイト・ネイション――ネオ・ナショナリズム批判』(2003年、平凡社、共訳)、オーストラリアの日本思想史研究家のT・モーリス=スズキ氏の数々の論考の翻訳ほか、がある。
登録情報
- 出版社 : 御茶の水書房 (2004/9/1)
- 発売日 : 2004/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 336ページ
- ISBN-10 : 4275003349
- ISBN-13 : 978-4275003348
- Amazon 売れ筋ランキング: - 124,459位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 28位海外の民俗
- - 275位文化人類学一般関連書籍
- - 7,332位歴史・地理 (本)
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著者について
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2021年12月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2007年5月17日に日本でレビュー済み
これまでの歴史学の真っ向から挑んだ力作。
歴史に必要なのは、ただ誠実に語ること、そしてそれを信じること、それだけ。
しかしやはり文化相対主義の悪魔は脳の中に巣食っており、私はそこから容易に抜け出れなさそうなので、細かい内容は控えておく。
全体として、すいすい読める良書である。
歴史学を志す人は、是非読んでいただきたい。
歴史に必要なのは、ただ誠実に語ること、そしてそれを信じること、それだけ。
しかしやはり文化相対主義の悪魔は脳の中に巣食っており、私はそこから容易に抜け出れなさそうなので、細かい内容は控えておく。
全体として、すいすい読める良書である。
歴史学を志す人は、是非読んでいただきたい。
2018年5月20日に日本でレビュー済み
きっかけは何年も前のことで、とある文筆家のSNSでの発言でした。
「保苅実氏のサイトを久しぶりに見た」という何気ない一言だったと思います。
僕はそれを見て、何の気はなしに保苅実氏のサイトにアクセスをしました。
まずプロフィールから氏が既に他界されていることを知り、それからサイトに掲載された氏の文章を順繰りに読み進めながら、次第にこれほど魅力的な文章を書く人物が既に亡くなられていることが残念でならないという気持ちを抱きました。
僕は歴史学を学んだことがありません。
専門的な知識もなく、この本の中で語られる内容を正しく受容する知性を備えている自信もありません。
それなのに、なぜこの本を手に取ったのか、いや、それどころか実はこの文庫本の出版を待ってすらいたのですが、それはなぜなのか、全ては氏の書いたものがもっと読みたいという思いからでした。
「ども、はじめまして」という砕けた挨拶から始まる本書は、歴史学におけるオーラル・ヒストリーという手法のなかでも独創的なアプローチを試みる氏の研究論文でありながら、僕のように前提知識を持たない人間にも非常に受け入れやすく、楽しみながら読むことのできる内容になっていると思います。
史実を集め文献として歴史を残す我々と独自の歴史分析によって歴史を語り継いでいくアボリジニ、断絶しているようにしか見えない相互の歴史観について、氏はその等価性を見出そうと試みて行くのですが、論理的な知性とユーモアを誠実さが支える氏の文章は本人の好奇心が溢れ出るようで本当に魅力的なものです。
読み方としてあまり褒められたものではないと思うのですが、本書の終盤、氏のあとがきから本書出版(2004年)に関わった方々が寄せた文章を読みながら二度ほど泣いてしまいました。
世界には素晴らしい人物が大勢いるけれど、多くの場合、僕はその人々のことを全く知らないまま生きていくのでしょう。
保苅実を知ることができ、本書を読むことができて良かったと思います。
「保苅実氏のサイトを久しぶりに見た」という何気ない一言だったと思います。
僕はそれを見て、何の気はなしに保苅実氏のサイトにアクセスをしました。
まずプロフィールから氏が既に他界されていることを知り、それからサイトに掲載された氏の文章を順繰りに読み進めながら、次第にこれほど魅力的な文章を書く人物が既に亡くなられていることが残念でならないという気持ちを抱きました。
僕は歴史学を学んだことがありません。
専門的な知識もなく、この本の中で語られる内容を正しく受容する知性を備えている自信もありません。
それなのに、なぜこの本を手に取ったのか、いや、それどころか実はこの文庫本の出版を待ってすらいたのですが、それはなぜなのか、全ては氏の書いたものがもっと読みたいという思いからでした。
「ども、はじめまして」という砕けた挨拶から始まる本書は、歴史学におけるオーラル・ヒストリーという手法のなかでも独創的なアプローチを試みる氏の研究論文でありながら、僕のように前提知識を持たない人間にも非常に受け入れやすく、楽しみながら読むことのできる内容になっていると思います。
史実を集め文献として歴史を残す我々と独自の歴史分析によって歴史を語り継いでいくアボリジニ、断絶しているようにしか見えない相互の歴史観について、氏はその等価性を見出そうと試みて行くのですが、論理的な知性とユーモアを誠実さが支える氏の文章は本人の好奇心が溢れ出るようで本当に魅力的なものです。
読み方としてあまり褒められたものではないと思うのですが、本書の終盤、氏のあとがきから本書出版(2004年)に関わった方々が寄せた文章を読みながら二度ほど泣いてしまいました。
世界には素晴らしい人物が大勢いるけれど、多くの場合、僕はその人々のことを全く知らないまま生きていくのでしょう。
保苅実を知ることができ、本書を読むことができて良かったと思います。
2009年11月28日に日本でレビュー済み
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普通我々が想定するようなインタビュー形式のオーラルヒストリーは、歴史学者にとって「便利な」オーラルヒストリーの収集にすぎないのではないかと批判する著者は、オーストラリアのアボリジニ社会に溶け込み、人々の「歴史実践」を共に体験する。現地の人々が日常生活の中で営む「歴史実践」が語る「歴史」は、確かに荒唐無稽なものである。普通歴史家は史料批判を通してそれを「間違った歴史」であり、「神話」や「記憶」であると分類する。そして、彼ら彼女らの文化としての「神話」や「記憶」をすくいあげるのは人類学の仕事とされる。彼らはそう信じている、それが彼らの文化なんだ、そういう文化もあるんだ、ということで文化相対主義に回収してしまう。アボリジニ社会で語られる「歴史」は歴史ではないと否定され、「神話」や「記憶」として「アカデミックな」(つまり西洋的な)歴史に適合する形で包摂されていく。
だが、著者は問う。そもそも「歴史」とはなんだろうか?アボリジニ社会で語られる「歴史」は「アカデミック」とされる「歴史時空」には所属していないかもしれない。だからといってそれを「間違った歴史」としていいのだろうか?なぜ歴史学は「精霊」や「神話」の存在をそのまま受け止めることができないのか?彼ら彼女らの物語を、「アカデミックな」歴史に都合よく適合させ、組み込んでいく時、我々の歴史(アカデミックな歴史)の方は揺らぐことはない。文化相対主義という一見リベラルな知的作法にも植民地主義的な暴力が潜んでいるのではないか?
既存の歴史学の作法では認められないような歴史のあり方を認め、それと対話する必要があるという主張はまさにラディカルだ。一体歴史とは何だろうか?著者の問いかけの前にはただただ立ちすくむばかり。著者の言う文化相対主義の罠に自分も深く囚われていることに気づかされる。
だが、著者は問う。そもそも「歴史」とはなんだろうか?アボリジニ社会で語られる「歴史」は「アカデミック」とされる「歴史時空」には所属していないかもしれない。だからといってそれを「間違った歴史」としていいのだろうか?なぜ歴史学は「精霊」や「神話」の存在をそのまま受け止めることができないのか?彼ら彼女らの物語を、「アカデミックな」歴史に都合よく適合させ、組み込んでいく時、我々の歴史(アカデミックな歴史)の方は揺らぐことはない。文化相対主義という一見リベラルな知的作法にも植民地主義的な暴力が潜んでいるのではないか?
既存の歴史学の作法では認められないような歴史のあり方を認め、それと対話する必要があるという主張はまさにラディカルだ。一体歴史とは何だろうか?著者の問いかけの前にはただただ立ちすくむばかり。著者の言う文化相対主義の罠に自分も深く囚われていることに気づかされる。
2019年8月10日に日本でレビュー済み
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アボリジニの人々の歴史は、西洋で語られている歴史から見ると伝説とか民話とかの民俗学的な対象だが、彼らにとっては真実の歴史となっている。ケネディがオーストラリアでアボリジニと約束を交わしたり、キャプテンクックが大陸の北まで殺戮をしながらやってきたりしたことが彼らにとっては事実として語り継がれている。民俗学と歴史学のはざまにあるオーラルヒストリー。何を真実とするのかを考えさせられてしまう。一般的な歴史はあくまでも支配者の歴史であり断片でしかないということに気づかされ、考えさせられた。筆者の早世が残念だ。
2011年10月28日に日本でレビュー済み
言葉にするのが非常に難しいのだけれど、非常に誠実に聞くことを通して、
これまでのいわゆる歴史学や社会学といった学問が、
何をどのように聞き逃してきたのか、そして、どうすれば聞くことが可能なのかを、
真摯に聞くことを通して考えた一冊なのだろうな、と私は感じた。
アカデミシャンであるかどうかを問わず、
ただ読むだけでも非常に興味深い本であると思います。
是非、読むことを通して、著者保苅さんと繋がってみてはいかがでしょうか。
これまでのいわゆる歴史学や社会学といった学問が、
何をどのように聞き逃してきたのか、そして、どうすれば聞くことが可能なのかを、
真摯に聞くことを通して考えた一冊なのだろうな、と私は感じた。
アカデミシャンであるかどうかを問わず、
ただ読むだけでも非常に興味深い本であると思います。
是非、読むことを通して、著者保苅さんと繋がってみてはいかがでしょうか。
2008年1月26日に日本でレビュー済み
精霊や神が跋扈する世界を、我々は神話と解釈する。
確かに大きな歴史というテーマに疑問符が付けられて久しい昨今だが、
アカデミックな歴史学では未だに神話は歴史であるとは認められない。
本書はそのような歴史学のあり方に大きな価値転換を促す。
アボリジニの人たちが生きている「歴史」。
それはドリーミングが世界を作り、蛇が洪水をおこす。
しかも、一つの歴史ではなく矛盾した歴史が共存している。
彼らの歴史をお馴染みの相対主義的な見地から語るのでもなく、
神話に回収させるのでもない、新しい歴史学。
その可能性について本書は模索している。
筆者の早すぎる逝去が残念でならない。
確かに大きな歴史というテーマに疑問符が付けられて久しい昨今だが、
アカデミックな歴史学では未だに神話は歴史であるとは認められない。
本書はそのような歴史学のあり方に大きな価値転換を促す。
アボリジニの人たちが生きている「歴史」。
それはドリーミングが世界を作り、蛇が洪水をおこす。
しかも、一つの歴史ではなく矛盾した歴史が共存している。
彼らの歴史をお馴染みの相対主義的な見地から語るのでもなく、
神話に回収させるのでもない、新しい歴史学。
その可能性について本書は模索している。
筆者の早すぎる逝去が残念でならない。