今になって自分の本棚を調べてみると、以前Amazonで購入した高銀の華厳経が無造作に突っ込まれていた。
これは、かつて私が読んだ小説の中でベスト3に位置する作品である。
果てしなく真理探究を求めて旅をする善財童子の物語であった。
彼はみずからをせせら笑ってこの世のすべては、幻想に決まってるさ。
と思いながらも、この上無き正しい悟りを求めて旅を続ける物語である。
今さらながら読み直してみると、なかなか結構面白いのである。
華厳経の小説をお求めの方にお勧めである。
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華厳経 単行本 – 1995/9/1
- 本の長さ588ページ
- 言語日本語
- 出版社御茶の水書房
- 発売日1995/9/1
- ISBN-104275015967
- ISBN-13978-4275015969
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
華厳経「入法界品」の南巡童子善財が真理を求め歩く長い求道の遍歴の一代記。菩薩の行を具足するために南インド旅行に出かけ53人の師匠を訪ね歩き、ついに大団円を成し究極の境地に至る。
登録情報
- 出版社 : 御茶の水書房 (1995/9/1)
- 発売日 : 1995/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 588ページ
- ISBN-10 : 4275015967
- ISBN-13 : 978-4275015969
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,548,877位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,045位中国文学研究
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2012年3月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
訳者は、解説(p.579)で<「般若経」の世界に惹かれる人は「ネクラで否定的な性格」になりがちであり、「華厳経」の世界に惹かれる人は「ネアカで肯定的な性格」に傾くのかも知れない。>と述べているが、これは初期大乗経典がブッダ釈尊の根本教法の一つである「四聖諦」のどこに焦点を当てているのかを理解すれば納得できる。
宮元啓一氏によれば、<釈尊は、釈尊以前に知られていた「輪廻と解脱のメカニズム」の根本に「根本的生存欲」があることを突き止めた>と指摘する。この指摘は釈尊の教法を深く理解するための慧眼である。これを「四聖諦」と比較すると、「輪廻のメカニズム」は「苦諦」であり、「解脱のメカニズム」は「滅諦」であることが分かる。これらの「苦諦」・「滅諦」は「基本原理(法則)」なので、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る推論(=演繹法)を用いることが可能である。
ところが、「集諦」と「道諦」は「基本原理(法則)」ではない。なぜなら「集諦」と「道諦」は個人ごとに異なるからである。従って、「集諦」は個々の事象から事象間の本質的な結合関係(因果関係=縁起)を推論し、結論として一般的原理である「苦諦」を導く帰納法のプロセスでなければならない。同様に、「道諦」も個々の事象から事象間の本質的な結合関係(因果関係=縁起)を推論し、結論として一般的原理である「滅諦」を導く帰納法のプロセスでなければならない。「道諦」が「三十七菩提分法」で示されることがその証拠である。
このように整理をすれば、初期大乗仏典を次のように「四聖諦」と対比することが可能になる。すなわち、部派仏教(上座部)アビダルマの「五位七十五法」は、「集諦」を「基本原理(法則)」として理解しようとするものであり、「般若経」「維摩経」「涅槃経」などは「滅諦」に焦点を当てた創作小説的な経典であり、「華厳経」「法華経」「浄土経」などは「道諦」に焦点を当てた創作小説的な経典である。
釈尊がブッダである所以は、自分には無理と感じさせる「基本原理(法則)」の「滅諦」で終わらずに、「変身の選択肢」である「道諦」を示すことで希望や勇気を与えてくれたことであある。
さて、本書について言えば、『さとりへの遍歴』(梶山雄一監修)上巻の「善財童子が歴訪する善知識たち」の解説と対照すれば、誰が善知識なのかが良く分かるし、小説の良さも理解できる。53人の善知識とは、大乗の修行体系を示す「十信・十住・十行・十廻向・十地」と仏の境涯を示す「等覚・妙覚」を演じる諸先達および普賢菩薩という役者である。善知識の体得した法門とは六神通の様々な比喩であり、中には、普門陀羅尼(般若心経の真言など)や文殊菩薩三九算法(二十七星宿)および四十二字門(梵字とその字義)といった専門知識や、四沙門果の斯陀含を思わせる斯多含という人物など、盛り沢山である。『華厳経』「入法界品」は『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』等の叙事詩と同じであり、上記した仏教の本質を理解しなければ、凡夫が仏道修行に挑戦するためには役立たない。『法華経』が創作された理由がここにあると思われる。
宮元啓一氏によれば、<釈尊は、釈尊以前に知られていた「輪廻と解脱のメカニズム」の根本に「根本的生存欲」があることを突き止めた>と指摘する。この指摘は釈尊の教法を深く理解するための慧眼である。これを「四聖諦」と比較すると、「輪廻のメカニズム」は「苦諦」であり、「解脱のメカニズム」は「滅諦」であることが分かる。これらの「苦諦」・「滅諦」は「基本原理(法則)」なので、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る推論(=演繹法)を用いることが可能である。
ところが、「集諦」と「道諦」は「基本原理(法則)」ではない。なぜなら「集諦」と「道諦」は個人ごとに異なるからである。従って、「集諦」は個々の事象から事象間の本質的な結合関係(因果関係=縁起)を推論し、結論として一般的原理である「苦諦」を導く帰納法のプロセスでなければならない。同様に、「道諦」も個々の事象から事象間の本質的な結合関係(因果関係=縁起)を推論し、結論として一般的原理である「滅諦」を導く帰納法のプロセスでなければならない。「道諦」が「三十七菩提分法」で示されることがその証拠である。
このように整理をすれば、初期大乗仏典を次のように「四聖諦」と対比することが可能になる。すなわち、部派仏教(上座部)アビダルマの「五位七十五法」は、「集諦」を「基本原理(法則)」として理解しようとするものであり、「般若経」「維摩経」「涅槃経」などは「滅諦」に焦点を当てた創作小説的な経典であり、「華厳経」「法華経」「浄土経」などは「道諦」に焦点を当てた創作小説的な経典である。
釈尊がブッダである所以は、自分には無理と感じさせる「基本原理(法則)」の「滅諦」で終わらずに、「変身の選択肢」である「道諦」を示すことで希望や勇気を与えてくれたことであある。
さて、本書について言えば、『さとりへの遍歴』(梶山雄一監修)上巻の「善財童子が歴訪する善知識たち」の解説と対照すれば、誰が善知識なのかが良く分かるし、小説の良さも理解できる。53人の善知識とは、大乗の修行体系を示す「十信・十住・十行・十廻向・十地」と仏の境涯を示す「等覚・妙覚」を演じる諸先達および普賢菩薩という役者である。善知識の体得した法門とは六神通の様々な比喩であり、中には、普門陀羅尼(般若心経の真言など)や文殊菩薩三九算法(二十七星宿)および四十二字門(梵字とその字義)といった専門知識や、四沙門果の斯陀含を思わせる斯多含という人物など、盛り沢山である。『華厳経』「入法界品」は『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』等の叙事詩と同じであり、上記した仏教の本質を理解しなければ、凡夫が仏道修行に挑戦するためには役立たない。『法華経』が創作された理由がここにあると思われる。
2021年11月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
善財と尼蓮の別れのシーンが、とてもせつなく思えました。
私なら、尼蓮お嬢さんと幸せな家庭を築く道を選んだであろう。
しかし、善財はそんなにも、ささやかな幸せさえ捨てて、ひたすら旅人たることを選んだ。
なぜなら、善財は道であり、道なくして善財は善財足り得ないからだろう。
乞食とは芸術であり、泥棒は政治だ。
と高銀氏は作中で語る。
善財は、果てしない道のりを乞食僧として永遠に歩み続ける。
とにかく、奥が深い小説だ。
私なら、尼蓮お嬢さんと幸せな家庭を築く道を選んだであろう。
しかし、善財はそんなにも、ささやかな幸せさえ捨てて、ひたすら旅人たることを選んだ。
なぜなら、善財は道であり、道なくして善財は善財足り得ないからだろう。
乞食とは芸術であり、泥棒は政治だ。
と高銀氏は作中で語る。
善財は、果てしない道のりを乞食僧として永遠に歩み続ける。
とにかく、奥が深い小説だ。